カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1223 『根っこの部分』

2014年09月05日 | 日記






      9月4日







映画の話でお茶を濁して穴を埋めるのはいいんだけども、なんかコバンザメ商法みたいな趣(おもむき)が好きじゃないんだけどね。

映画は、釣りと同じくらいに好きだから画像を貼って自分なりに愉しんでるから続けてるけどね。

同じやるならオレ流の映画紹介もどきでないと、評論家が書いてるようなのを真似ても面白くない。そんなのはごまんとあるし、第一、難しくて書けないよ。





で、オレ流で仕上げたらハチャメチャだね。子供の発想に近いんじゃないの? 「幼稚なんだよ」 その無邪気さを大事にしたい。「どっちやねん?」

創った奴が、へええ~って感心するような、奥底覗いたような捉え方で映画を紹介されてる人も居るね。

創った奴が、そういう捉えかたもあるんだねえ~なんて教えて貰ってる場合もあるんじゃないかね? 作者の想いと解説は、果たして一致してんかね?





人の思いなんて、そうそう読み解けるもんじゃないと思うけどね。捉え方なんて、人それぞれだからね、

創った奴より理詰めで解説してるのを読むと評論家受けする作風なんてのがあるのかも知れないね。

意味不明な映画をえらく持ち上げて感嘆してるのを見ると、この解説してる人自体が意味不明な感性を宿してるのかも知れないと思ったりする。





今日は、ちょっと、映画紹介もどきは休憩して独り善がりな臭い話しに戻りましょ。「臭いって解ってんの?」 解ってるよ、ちゃんと自分を知ってるよ。

















今年の夏は、総体的に日照時間が少なかったね。なんかはっきりせん空模様の日が続いて8月は終わった。暦の上では、もう、秋だね。

なにかの切り替わりの折には、決まって、よしっなんて気合を入れるんだけど何も変わらんね。「おまえが変わらねば、何も変わらんよ」 

そう簡単に変わるほど軽くは出来ておらんわ。でも、中身は、甚だ軽くて頼りないけどね。「見せかけか?」 そんなところだね。「じゃあ、変えちまえ」





何を、どう変わるんだよ? 「そうだね、ハッタリ捨てて気弱で臆病で子供のままのおまえだよ」 半ズボンでも履くか。

「こう在らねばならんって云う枷(かせ)を外せってことだよ」 人は、皆、多かれ少なかれ、そうして生きてるんだろ? 「もう、生きて来たじゃないか」

「おまえの、一番の望みは自由だろ? もう、自由に思うままに生きろ、映画は終わったよ」 演技をしなくていいと云うことか? 





そういえばそうだね。死ぬまで演技で生きたら、ホントのオレは生きることなく終わるということか。

オレは、若い時は、50まで働きまくったら仕事卒業して好きなことに没頭して生きるなんて本気で思ってたもんね。

でも、実際は、今でも働かざるを得ないから働いてる。糞(くそ)食い続けてくたばる人生とは思わなかったね。「仕事が、なんで糞なんだよ」 やっかましいっ。

















オレの生きるという価値観の問題だよ。果たさねばならぬなら糞でも泥でも食いまくる。うだうだと逃げない。人は根性だよ、だから笑いのなかで仕事ができた。

オレの問題だから、人には、一切、何も云わない。うだうだ逃げる奴は逃げる奴の人生だよ。介入はしない。だから、されど仲良くだよ。

オレは、学校連続物語で生きて来た男じゃないんでね、人との繋がりは、それぞれに自分の人生観に倣って生きているって思ってる。





善いことも悪いことも、その人の納得の上だよ。傍がとやかく云うことじゃない。サボる奴はサボるだけの計算働かせて、何かを犠牲にして生きているんだよ。

其れが生命(いのち)だよ。ゴマ粒ひとつの生命を生きているんだよ。オレも、ゴマ粒ひとつの生命を生きてる。先輩も後輩も糞もあるか。

生きるってことは、そういうことなんだと思ってる。力が余れば逃げる奴でも助ける。サボる奴が青くなってたら力を貸す。そしたら赤くなってるよ。





上下関係押し付けの礼儀など嘘を前提の習いじゃないか。生きているってことが全てだよ。生きている価値をそれぞれに活かすってのが基本だよ。

でも、拙くとも礼儀は尽くす、云われて頭を下げる無礼はしない、一生懸命に生きている人への礼儀だよ。回り巡る恩恵に預かる礼儀だよ。

生きてる価値を活かして世に貢献される人は尊敬する。自分の時間を捨ててまで人のために汗する人々には頭が下がる。





胸一杯に呼吸ができて、溢れる水に喉を潤わす有り難味を感じる心があれば、それは、習わずとも、おのずと解ることだ。人は独りで生きて今が在る訳じゃない。

















人の生きざまを、どうのこうのと論(あげつら)う輩がいる。生きた人の心の奥底まで解ろうはずもないのに解ったような講釈で色分けする。

失礼千万な奴だね。人は、究極、当人しか解らない部分がある。逆算して突き詰めれば、その近いところまではいくかも知れない。

しかし、不明なものは不明なんだね。解って堪るかって部分だろうね。ゴマ粒ひとつの生命の主張だよ。





解るのは、其処から芽を吹く茎が、真っ直ぐ伸びるか、ねじれて腐るかの発露になるってことだろうね。





映画は、人が創る。寄り合い集って、それぞれの味が加味されて作品が出来上がる。主軸になる想いが根にある。見えぬ想いの部分だね。

人も映画も創りあげていくのは同じだね。だから、心に通じて胸を打つ。熱い思いがこみ上げて目頭潤んで頬を濡らすときがある。

自分自身が語れない思いの部分を映画は代弁してくれるときがあるね。そんな場面に出くわすと我が意を得たりと小躍りする。





そんな、映画にめぐり合いたいと思うんだけど、最近の映画は、オレの映画紹介もどきと似てハッチャカメッチャカなのばかりだね。














『1940年代頃の、映画配給会社 MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)のトレードマーク』
























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