明日(9/24)の分です。
1985年(昭和60年)8月12日 月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行き
日本航空定期123便ボーイング747SR-46(ジャンボジェット、機体記号JA8119)が、
群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)の尾根(御巣鷹(おすたか)の尾根)に墜落した。
「写真中央の田畑や民家らしき平地が山間(やまあい)に延びているね、その最奥の向かって左斜め上の尾根が墜落現場 八ヶ岳から望む。」
オレが、結婚して2年目頃だったかね、お盆休暇で家に居たよ。奥さんは、実家に遊びに帰って一人のんびりしてたね。
もう、外は暗かった。照明を点けてたからね。
あんときは何してたかなあ? 部屋から出てきて居間にあるテレビを何気に点けたら、此のニュースが飛び込んで来た。
吃驚したよ。五百何十人乗りのジャンボが墜落したって報道してる。「ホンマかよ?」って、一瞬、信じられなかったよ。
奥さんから電話があって「あなた、テレビ観てるか?」って伝えてきてる。受話器の向こうで騒いでる声が聞こえてる。
坂本九も乗ってたらしいね。「そうや、大変なことやでっ」 たしかに衝撃だね。
大きな事故ってのは、忘れた頃に起きるもんだね。別段、大阪の空の下、なんの影響もないんだけど何故か慌ててる自分が居る。
ずうっとテレビを点けっ放しにして新しい情報が入るたびに見入ってたよ。
お盆休暇で帰省や旅行の客でほぼ満席だったんだね。遭遇した人にとっては、日常から、突然の真っ逆さまの地獄だったろうね。
「写真、右上上空から、この尾根に激突、機体はお尻を跳ね上げて回転し逆さまになったとあるね。左下側からじゃなかたんだね」
群馬県の三国山脈並びに秩父山地の茂来(もらい)山、御座(おぐら)山、甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)、
金峰(きんぷ)山と2000メートル級の山々が並ぶ高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落して写真のような生々しい痕跡を残した。
当時の墜落現場は凄惨を極めた状態だったらしい。墜落の衝撃で機体も人も引き千切られて辺り一面に散乱したんだね。
猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。
週刊誌では、其の遺体の写真を諸に報道したんだね。ネットでも、それら当時の写真が沢山貼られている。酷いことだね。
木にぶら下がった肉片のような身体から手がぶら下がっている。燃えて膨らんだような遺体、飛ばされて肘から下の腕、
肉塊が団子のように貼り付いた木、まともじゃ見られない遺体が報道されたらしい。
「事故機の JA8119 事故の前年、1984年春 大阪国際空港にて撮影されている」
此のJA8119を事故前日、阪神タイガースの選手たちが利用していたらしいね。掛布や岡田、バースに真弓等だったんだろうね。
当時の大物政治家も利用していたらしい。運命なんだろうね。
金属疲労が事故の原因と云われているけど定かじゃない噂が絶えないんだね。
乗客509人・乗員15人を乗せた東京(羽田)発、大阪(伊丹)行同社定期123便JA8119は18時12分に離陸した。
お盆の帰省ラッシュのこの日は、子供や若い女性の姿が目立っていたという。18時24分、離陸から12分後に緊急事態が発生した。
突然、ドーンッという衝撃音が鳴り響いたらしい。すぐさまの大きな異常の連続はなく機内はざわめく程度だったらしい。
しかし、垂直尾翼が垂直安定板の下半分のみを残して破壊されて、此の時点で123便は、操舵不可能な状態に陥っていたんだね。
其のときの様子を東京奥多摩付近で写真が捉えている。墜落の7分前(18時49分頃)とある。後部の垂直尾翼がない。
やがて、機体は上昇、下降を繰り返し安定を保てなくなっていく。機内は、パニックになり、あちこちから悲鳴が挙がる。
全員が、酸素マスクを着け緊急着陸態勢をとるが、慌てた男性客数人が救命胴衣を膨らませたりして混乱した。
しかし、生存者の証言によれば、大きな混乱には陥らず乗客は指示に従い安全姿勢をとり衝撃に備えるなか、
最期を覚悟し不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いたという。凄いことだね。
突然、死に直面して、残す者に思いを伝える行動をとれるなんてのは、余程の愛情深さと腹の据わった人でなければ出来ないことだよ。
状況に慌て恐怖に慄(おのの)き、今、まさに起こらんとすることに集中するのが一様だろうね。
「おまえは?」 恐怖で泡吹いて気が狂ってるよ。ウンコもオシッコも漏らして臭いよ。「こんな恥知らず知らんわ」
おまえね、みんな元気なんだよ。飛行機に乗るなんてのは、生活も安定してんだよ。明るい明日があることが濃い人たちだよ。
「じゃ、なんでおまえが乗ってるんだよ?」 おまえが、急に乗せるからウンコを漏らしたんだよ。馬鹿か、こいつ。
「日本航空定期123便ボーイング747SR-46ジャンボジェット 機体記号JA8119の当日の搭乗員の方々」
18時27分、東京航空交通管制部が123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。
18時28分、東京航空交通管制部は123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。
管制部はこの時初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。
18時31分、東京航空交通管制部は羽田より近い名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田行きを希望する。
此の時点で、連絡は通常、英語で為されるが、パイロットの負担を軽減するため日本語に切り替えたんだね。
18時47分、「操縦可能か」と質問すると、123便から「アンコントローラブル(操縦不能)」と返答がきた。
18時48分、 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
「機内の様子が写されて残っている」
一方、123便機内コックピットでは、操縦不能の機を相手に、機長、副操縦士、航空機関士の3名が必死に戦っていたんだね。
18時46分、高濱機長の「これは駄目かも分からんね」 123便は、この頃から山岳地帯上空へと迷走していってる。
18時47分頃から、彼らの中でも会話が頻繁になり焦りが見え始めていた。
機長が、操縦している佐々木副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されているという。
18時48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。
18時49分頃、機首が39度に上がり、速度が落ちて失速警報装置が作動する。
18時50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。映画と同じような雰囲気だね。
機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今、舵いっぱいです」と叫んでいる。
18時55分12秒、フラップを下げたとたん、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下を始める。
18時55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。
18時55分45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との言葉に
混じって副操縦士が「フラップアップ、ラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。
この頃、高度は、10000ft (3000m) を切っていた。秩父の山々は、もう、目の先スレスレだったんだね。
18時56分、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。
18時56分07秒には、機首は36度も下がり、機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫んだ。
18時56分23秒、衝撃音、機長「もう駄目だっ」 ボイスレコーダーには、18時56分26秒に激突音が残されていた。
御巣鷹の尾根に激突した123便は後部機体が捻じ切れて急勾配を滑落、火災から免れた。後部座席に居た乗客4名が奇跡的に助かる。
また、救助隊が到着するまで生息していた者が、ほかに複数名いたらしいが重傷のために持ち堪えられず息絶えたとある。
搭乗すれば一蓮托生だね。パイロットの技術と機体の命運に全てを賭けた521名の人々は、どんな思いだったろうかね。
ただ、座席に頭を埋め込みつつ待った32分間は、彼らにとって長かったのか短かったのか、覚悟を要する時間には短か過ぎただろうね。
無念の思いは、御巣鷹の尾根の至るところに散っただろう。
搭乗して44分、異常が発生して32分後に宣告された突然の死を受け入れられぬ。納得し難い思いに打ち震える魂も在るだろうね。
1985年(昭和60年)8月12日 月曜日18時56分26秒、520人大方の人生は、一瞬にして問答無用で閉じられた。
東京から大阪への帰郷の人も多かっただろうね。日本航空定期便のジャンボジェットJA8119は、当時、大阪空港の常連機だったんだね。
オレも知らぬ間に、大阪の空を飛ぶこの飛行機を目撃していたかも知れないね。
大阪(伊丹)空港を目前に着陸態勢で飛ぶジャンボ機を数え切れぬほど、淀川の河原で何気に見ていたものね。
この事故の原因は不透明なままにあるように未だに云われているね。
事故機には多量の医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が貨物として積載されていた上、
機体には振動防止用の重りに劣化ウラン部品も使用されていた。
これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。
このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐに現場には入らず別命あるまで待機するよう命令されたという。
当時123便を捜索したロッキードC-130輸送機に搭乗していた元在日アメリカ軍中尉が、事故直後に厚木基地のアメリカ海兵隊の救難ヘリを
現場へ誘導したが、救助開始寸前に中止を命じられ、またその事実も他言しないよう上官から命令されたと証言した。
また、いち早く救助活動開始していた米軍のヘリが、事件現場の近くに来たにも関わらず中曽根総理から中止要請が出され引き上げた。
これらのヘリコプターが、頭上まで来て、引き上げて行くのを生存者等が確認している。
其の時には、まだ、生き残った4名の他に、多くの重傷生存者が、助けを求めて居たらしいんだね。見殺しだね。
マスコミ各社は「日本側がアメリカ軍の救助協力を断った」などと報道し、救難体制の不備や関係当局の姿勢に対する批判が高まったとある。
『護衛艦 まつゆき』
同日、相模湾で当時の最新の高度ミサイル防空システムを備えた新型護衛艦「まつゆき」が試運航中で、同艦は
来襲するミサイルや戦闘機という標的を正確に攻撃して防空するのが目的。ミサイルの発射訓練があってもおかしくないんだね。
弾頭を取り外したミサイル、もしくは、無人標的機が、123便に衝突したことも疑われているんだね。
翌日の18時55分(墜落から、ちょうど丸一日目)に この 「まつゆき」が尾翼の破片を回収している。偶然かねえ?
墜落現場の御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯に在ることから、隠蔽工作を想定の上、123便を御巣鷹山に導いて
証拠隠滅を図ったなんて憶測もあるらしい。まだ、あるんだね。自衛隊は一晩中でたらめな現場情報を流し続けたとか、
当時のボイスレコーダーは最近まで公開されなかったとか、待機命令を無視して救助に向かおうとした隊員が射殺されたとか。
翌朝、救助隊が現着したら既に自衛隊が人命救助そっちのけで何かしらの物体をヘリコプターに吊り上げていたとか、
現場に漂う悲しみの異臭に混ざって、隠そう隠そうと必死な汗臭さも漂っていたらしいんだね。
もし、そうなら、死んだ彼らは死に切れないだろうね。恨みは深し御巣鷹の尾根となるね。
「頭の写真では、解り辛いので追加しときましょ」 「撮影側は八ヶ岳を背に南東側(東京方面)を望んで撮影してるね」
高天原山(たかまがはらやま)は群馬県と長野県の県境にある標高1978mの山である。別名、蟻ヶ峰・ショナミの頭。
群馬県と長野県の県境に位置し、群馬県側では南部の多野郡上野村大字楢原、長野県側では中東部の南佐久郡川上村大字梓山と南相木村の各一部である。
山頂には「蟻ケ峠」という名称の二等三角点が設置されている。
当山の群馬県側の尾根には、墜落現場(北緯36度0分5.42秒東経138度41分37.7秒、標高1565m付近)がある。
多くの報道では「御巣鷹山に墜落」と伝えられていたが、正確にはこの「高天原山に属する尾根」である。
しかしその後、墜落地点である高天原山の尾根は当時の上野村村長により「御巣鷹の尾根」と命名されたとある。
「123便が羽田空港を離陸して墜落するまでの44分間の航路」
大まかではあるけど、収容された遺体のうち「完全遺体」は、3割ほどで、あとは原型を留めない遺体が、身元判明を遅らせ
収容先の現地、高校の体育館は異臭に包まれ大量の線香の煙で、それらを和らげるのが精一杯だったらしい。
身元が解らぬままの遺体は荼毘(だび)に付され、現地に「慰霊の園」を建立、其処に納骨されているんだね。
自分が破壊されて死んだことを誰も知らない。見知らぬ山の頂き近くに葬られた人たちは、声を涸らして訴えたい思いがあるだろうね。
「Googleマップ、右手上の緑矢印が、御巣鷹山」
ガタガタと安定を失った機内で、緊急着陸に備えて安全態勢にあった乗客たちのほとんどは死を覚悟したんだろうね。
其の中で、残し往く人たちに必死の思いで遺書を書かれた人たちが居る。
また、最後まで、職務遂行に全力を絞った女性乗務員もいた。
河口博次 さん(52)
兵庫県芦屋市。大阪商船三井船舶神戸支店長。遺体の上着の胸ポケットに入っていた手帳に7ページにわたって、219字。
マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい
原因は分らない 今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは 最后とは
何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は 幸せな人生だった と感謝している
谷口正勝 さん(40)
大阪府箕面市。チッソ株式会社ポリプロ繊維部主任。機内に用意されている紙袋にシャープペンで、20字。
袋に自分の運転免許証が入っていた。
まち子 子供よろしく 大阪みのお 谷口正勝 6 30
松本圭市 さん(29)
埼玉県狭山市。阪急電鉄社員。愛用の中型ノートにボールペンで、60字。
PM6・・・30 知子 哲也(両親を)をたのむ 圭市 突然 ドカンといってマスクがおりた ドカンといて降下はじめる
しっかり生きろ 哲也 立派になれ
村上良平さん(43)
千葉県柏市。富士電機サービス課。社名入り封筒に。
機体が大きく左右にゆれている 18・30 急に降下中 水平ヒコーしている 日本航空18・00大阪行事故 死ぬかもしれない 村上良平
みんな元気でくらして下さい。さようなら 須美子 みき 恭子 賢太郎
18・45 機体は水平で安定して 酸素が少ない気分が悪るい 機内よりがんばろうの声がする 機体がどうなったかのかわからない
18・46 着陸が心配だ スチュワーデスは冷せいだ
吉村一男 さん(43)
横浜市金沢区。日建設計社員。横浜市金沢区の会社員、
「しっかり生きてくれ。(二人の子供を)よろしく頼む」という短文を残していた。
吉村さんの遺体は16日早朝、自宅に帰ったが、遺族が同日、遺品の整理をしていて、遺書が見つかった。社用の便せんらしい紙
にボールペンで走り書きされており、勤務する会社の茶封筒の中に入っていた。
白井まり子 さん(26)
大阪府豊中市。日本航空大阪支店。フライト時刻表の余白に、24字。
恐い 恐い 恐い 助けて 気もちが悪い 死にたくない まり子
対馬祐三子 さん(29)
東京都目黒区。アシスタントパーサーの一人。不時着を想定して書いた緊急アナウンス用のメモ。ところどころ英文をまじえて、書いてあった。
おちついて下さい ベルトをはずし身のまわりを用意して下さい 荷物は持たない 指示に従って下さい
PAX(乗客)への第一声 各DOORの使用可否 機外の火災CK(チェック) CREW(乗員)間CK
ベルトを外して ハイヒール 荷物は持たないで
前の人2列 ジャンプして機体から離れて下さい ハイヒールを脱いで下さい 荷物を持たないで下さい
年寄りや体の不自由な人に手を貸 火災 姿勢を低くしてタオルで口と鼻を覆って下さい 前の人に続いてあっちへ移動して下さい
此の年、1985年(昭和60年)には、阪神タイガースが21年ぶりにセ・リーグ優勝し、日本シリーズで、西武ライオンズを4勝2敗で破り日本一に。
コロンビアのネバドデルルイス火山が噴火、2万人超の死者が出る大惨事も11月に起きてるよ。
エジプト航空648便ハイジャック事件が発生、乗員乗客98名のうち60名死亡なんて、事件もあったね。
芸能界では、女優の夏目雅子が急性骨髄性白血病により死去(27歳没)
スポーツ界では、第67回全国高校野球選手権大会で大阪・PL学園高校が3度目の優勝。
決勝戦(対山口・宇部商業高校戦)で清原和博が1大会新記録となる5本塁打を放つなど、桑田真澄とラスト甲子園を有終の美で飾る。
ゲーム界では、スーパーマリオブラザーズ 発売(9月13日)が大ヒット。社会現象に発展した年だったよ。