カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-1360 『恐怖の青い閃光 急性放射性症候群』

2015年02月07日 | 日記








 『作業員の位置を示した図』  2015年2月7日








いつも覗いたらオレの馬鹿話で大笑いする業者さんが二人やってきた。仕事の報告頂いて認めの印を押したら、ニコニコして待っている。

そんなに、毎度、馬鹿話が続かないよって思ってたら、向こうから話しをふってくる。「後藤さん、殺されましたね」 

ああ、そうだね、イスラムの領域では、こちらの神さんの神通力は通じなかったみたいだね。







ヨルダンのパイロットも酷い殺され方だったね。空爆で女子供も見境なしに殺されたように同じ苦しみで殺したって云ってるよ。

云い方は悪いけど、一人、二人の死程度のものも、その扱いに寄っては世界に波を起こすほどの影響力をもたらすね。

日本は、平和、平和って念仏みたいに唱えてるけど、遠く中東の波紋が押し寄せて来た。日本人見っけたら皆殺しなんて云ってるよ。







日本国民も平和念仏唱えるだけじゃ効果は無いってことに気付いたんじゃないの? 同胞が無慈悲に首ちょん切られて目覚めたんじゃないんかね? 

自分の国って意識の希薄な奴らも名指しで脅迫されたら、俺も日本人って認識新たにしてんじゃないの? 少しは愛国心を持てよ。大笑いしてるよ。

「今日、地震があったの気付かれましたあ?」 いや、気がつかなかったね。「徳島で震度5だったかなあ?」 へえ、近いね。






















地震の話から福島の原発に飛んで、汚染水を溜めるだけ溜めて、どないすんねん? 「もう、タンク並べる土地が無いらしいですね」

今は、放射能を計る単位があるけど、昔は、そんなの無かった。

当時、ビキニ環礁で原水爆実験でボンボン破裂させた、後、中国でも派手に破裂させて放射能が日本に黒いとは云わんでも灰色の雨が降ってるよ。







雨に当たらぬようになんて云ってたね。オレなんか、雨ん中、走りまくってたよ。年配の人たちの病気の死因に癌が多いのは、そのせいだよ。

オレも、そのうちやで。嬉しそうに笑ってるよ。人の不幸は蜜の味やからね。

福島の海で獲れた魚や海苔や貝を美味しいなんて食べてるおばはんはアホやで。忘れた頃に祟りが来るわ。大笑い。後悔先に立たずやね。







此の前、何気に行き当たったサイトで、茨城県那珂郡東海村のJCO臨界事故の記事を目にして逆毛が立ったよ。

そう遠い昔じゃないよ。1999年9月、東海村の住友金属鉱山の子会社 核燃料加工施設、株式会社JCOが起こした原子力事故(臨界事故)の

模様が詳しく記されてんだね。この事故で被曝による死亡者を出したんだね。これ見たら被曝はしたくないって思うで。























『お断り』  これから先は、酷い内容と写真が貼られてます。オレのように気の弱い方は、今日は、ここまでにされてください。














『茨城県那珂郡東海村 核燃料加工施設、株式会社JCO』











『茨城県那珂郡東海村 核燃料加工施設、株式会社JCO』








今から16年前になるね。1999年9月30日、午前10時35分頃に、それは起こった。

茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山子会社の核燃料加工施設、株式会社JCOの東海事業所の転換試験棟で、3人の作業員が硝酸ウラニルを製造中、

突然の青い閃光と共にガンマ線エリアモニターが発報し臨界事故が発生したんだね。3人の作業員が多量の中性子線などで被曝した。







この事故で核分裂を起こしたウラン燃料は全部で1 ミリグラムだったらしい。ほんのちょっとだね。







核燃料を加工中にウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生して、この状態が約20時間持続したらしい。

これにより、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となった他667名の被曝者を出した。

そのもの自体の怖さを充分認識した専門作業員だったろうに、日頃、扱いに慣れた油断だろうかね、とんでもないことが起こったんだね。







当日10時35分、転換試験棟で警報が発報。11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁に入る。

そして11時52分に被曝した作業員3名を搬送するため救急車が出動した。

東海村から住民に対する屋内退避の呼びかけの広報は、12時30分。東海村の村上村長(当時)が、国・県の対応を待たず独断で広報した。







この救急車の隊員らも気の毒だね、かなりの放射線(中性子線量)を被ったらしい。見えない感じない恐怖だね。






















12時40分頃、内閣総理大臣・小渕恵三(当時)に事故の第一報が報告される。

現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、

10Km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避、及び、換気装置停止の呼びかけの処置がとられた。







現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子・常陸太田間の運転見合わせ、

陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置が立て続けにとられる。緊迫した事態だったろうね。しかし、日本って放射能には縁濃いねえ。「要らんわ」

JCO職員は事故当初、連鎖反応を誰も止める作業をしなかった。有ってはならない事態に誰もが茫然自失だったんだろうね。







「あなた達でやらなければ強制作業命令を出した後に、結果的にする事になるっ」と国からの代理人が檄を飛ばすが如く促した結果、

「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない」と同社社員らが18人を2人1組で1分を限度に現場に向かい、

きわめて過剰な放射線を浴びながら写真撮影班2名と16人が、アルゴンガスを注入して冷却水を抜きホウ酸を投入するなど決死の作業をした結果、







連鎖反応(核反応)を止めることに成功して臨界に関しては危険性を排除、午前6時15分頃、事故は終息したんだね。




















中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った翌10月1日の6時30分頃だったらしい。

今回の事故では、わずか1mgのウランの核分裂が大きな被害をもたらした。

そこで、ちなみに100万kw級の原子力発電所では、これが、1 日当たり2.3kgのウランを核分裂させてるらしいんだね。改めて怖くなるよ。







臨界による放射線の放出で、東海事業所内の人々は、勿論、付近の多くの住民までが被曝した。

放射線の種類は、中性子線及びガンマ線、そして気体の放射性物質らしい。今回の被曝の主な原因は中性子線だったらしいね。

中性子線は透過力が極めて強く厚いコンクリートも通り抜ける。其の中性子線を止めるのは水素を多く含むものが適してるんだけど、
 






人の身体は多くの水でできていることから中性子線は人体によく吸収されるんだね。困ったね。実に困った話だよ。

この事故の直接原因となった作業に従事した3名は、大内久さん、推定16ー20シーベルト以上の被曝、篠原理人さん、推定6ー10シーベルの被曝。

横川豊さん、推定1ー4.5シーベルトの被曝。シーベルトは被曝線量の単位で致死量は6ー7シーベルトといわれている。







救急隊員3名は 事故の内容を知らされずに出動し13ミリシーベルト被曝した。

臨界終息のための作業をした人たちや東海事業所の従業員・政府関係機関の職員などは最大で120ミリシーベルトの中性子線を浴びたんだね。

放射線を扱う作業に従事する人は、年間50ミリシーベルトを限度にしている。この数字は胸につけた線量計によるものらしい。




















急性被曝による致死量の想定数値ってのがあって、特に作業員大内久さんに対しては、当初から回復は絶望視されていたんだね。

当時は、国内では、このような大量の放射線被曝をした患者の治療自体が初めてだった。

治療に当たった医師団も日ごと発生する新しい症状に試行錯誤の治療だった。医学的には、近代医学による被曝者治療の貴重な臨床例となった。



















大内久さん、篠原理人さん二人の闘病生活は、目を覆いたくなるような怖ろしく過酷の一語に尽きるものだったという。

強い放射線を浴びても細胞はほとんど死なないんだけど、細胞分裂ができなくなって再生機能が停止する。

だから一定期間後、今ある細胞が寿命を迎えて死んだ時に症状が表れ始めるんだね。皮膚が垢のゴミのように剥け落ちて再生が利かないんだね。



















つまり、新しい皮膚が生成されないということだね。人の身体は、骨、肉の上に皮膚があり、それが個人を形成してんだね。

具体的に書かれてるね。体内では、腸の粘膜細胞が全部剥がれるので、栄養吸収できなくなってとんでもない下痢になる。

皮膚が全部垢になって剥がれおちて、下の生肉がむき出しになる(大火傷と同じ症状)血球を作る骨髄細胞が消滅して免疫がなくなる(エイズと同じ症状)。







しかし、脳みそや神経の細胞はずっと生き続けるため、意識、感覚はそのままなのが、なお悲しく酷いね。死ぬまで生き地獄が続くらしいんだね。

治療、看護に当った医者や看護師たちは、治る見込みの無い二人を治す為に必死になられたけど、

それが、果たして当人の為になったのかと自責の念にかられるんだね。意識がはっきりあることが、尚更、悲劇を増しただろうね。



















転換試験棟は、JCOの本来の業務とは別に、核燃料サイクル開発機構から委託された、高速増殖実験炉「常陽」の燃料を加工する試験的な施設。

この時は、18.8%という高い濃縮度のウランの硝酸溶液をバケツを用いて沈殿槽に移送していたらしい。

装置の上に梯子で登りバケツで流し込む作業を繰り返す手作業だったんだね。



















30日当日も手作業でバケツで七杯目の最後のウラン溶液を同僚の篠原さんが流し始めたとき、大内さんはバシッという音とともに青い光を見た。

それは、臨海に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。

その瞬間、放射線の中で最もエネルギーの大きい中性子線が大内さんたちの体を突き抜け諸に被爆したんだね。


















臨界とは、核分裂反応が原子炉内のように連鎖的に起こって継続されていく状態をいう。

この事故では、原子炉施設でもない核燃料工場の一角に突如、裸の原子炉が出現したも同然の状況となったんだね。

当時は、こういう非常事態の収束方法は、まだ未熟なままで、起こり得ないという姿勢で軽水炉用原発に使う燃料を製造していた。







それは、JCO社けでなく、この業務を認可する国自体が知識軟弱で想定外の出来事に対し即座の反応、対応が遅れて後手に回ったんだね。

国の対策本部が、事実上、現場状態の危急を把握したのは事故から12時間程後だった。

対策会議で現場状況説明の通りならば臨界が継続されて非常に危険だと意見を述べたのは、原子力安全委員会の住田健二ひとりだった。







一度の臨界で終息するというのが一般的な知識で、それが継続して取り返しのつかない状態になるとは考えなかったらしいんだね。

放射線量は、この間、野放し状態で工場に隣接する地域を放散し続けた。東海村の村上村長の独断避難勧告が唯一の救いとなった。

もう一つの救いは、怖ろしいことは怖ろしいんだけど放射線量以外の放射性物質の拡散が無かったことだね。












『冷却水の注排水設備が建物の外に繋がっていたのが幸いした』








翌、深夜になってことの重大性を把握した国は、遅まきながらJCO社に、陣頭指揮を依頼した原子力安全委員会の住田健二を派遣した。

住田は、JCO社幹部に「設置者の責任」を説き、収束活動の覚悟を要請した。JCO社員から名乗りが挙がり決死隊が編成された。

最初は3分間の活動で現場写真を採取、戻った者は尋常ではない被曝を浴びていたため活動時間を1分と短縮。







2名編成で、深夜、12隊が行程を分断しつつ作業に当り、中性子が冷却水に寄って拡散しないために起こる臨界を断つため冷却水をパイプから

放水するに成功、ポンプにてホウ酸を注入して終息するに至り大事を免れたんだね。

当時の防護服は、放射線を遮断する効果はなかったらしい。つまり無防備状態の身支度で文字通り決死隊だったんだね。







多くの人が被曝してるのにも関わらず。その後の彼らの健康状態がどうなったのかは解らない。不思議だねえ? なんでかねえ? コワイねえ。

雨の中を下校した子ども達、何の防護もなく、現場に向かわされたマスコミ、屋内退避を命ぜられた半径10キロの住民、約13万人。

20時間もの間、近くにいた人々は中性子線に曝されていたことになるんだね。







畑のピーマンの表面が黒く変化していたらしい。知らずに農作業をしていた人の肌もうっすらと黒くなったという。

JCO周辺の民家から5円玉を集めてまわり分析したところ、亜鉛が放射化していて、100m地点で家の中にいた場合、

220ミリシーベルトの被爆という結論が出た。これは、年間自然放射線量の220年分に当るそうな。ピンと来ないのが、また、怖いし解らない???







地球誕生の頃は、プラトニウムも露出して空恐ろしい星だったけれど長~い年月を経て生物が住める環境になったというのに、

人類は、2万4千年という長生きで猛毒のプルトニウムをまた作り出してしまったんだね。どないすんねん? だから、賢い奴は要らんねん。

こいつ等の考え出すことは、一歩間違ったら超大量殺戮に繋がって、10人20人殺した奴なんかカワユイもんやでとなるで。「アホは要らんって云うとるわ」





















大内久さんは、地獄の苦しみと戦いながら、最終的に治療手段が無くなり、事故から82日後の12月21日、多臓器不全により死亡した。35歳だった。

篠原理人さんは、大内さんの死を知らされ「俺もそうなるのか」って泣いたという。

被爆から211日目の2000年4月27日、多臓器不全により死亡した。40歳だった。







もう一人の現場作業員の方(当時54歳)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄移植を受け回復、12月20日に放医研を退院した。

救急隊員ら3名を含む667名の被爆者の方々が、今現在、健康で居られることを祈らずにはおれんね。







業者さんとの笑い話から、笑い話にする内容ではない話が飛び出て、今日のブログです。興味本位な写真は貼りたくなかったけど此れが事実だからね。



























最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2019-07-23 02:53:24
wiki書き写しただけやん
返信する
Unknown (Unknown)
2021-12-17 16:52:32
コワイね。
他人事じゃないよね。
日本にはスキがないくらいの原発があるからね。
私の地元にもあるよね。
勉強になりましたよね。
返信する

コメントを投稿