『連合艦隊』 2016年3月31日
1981年(昭和56年)に東宝映画 『連合艦隊』が公開された。松竹の俳優佐田啓二の息子中井貴一のデビュー作とは知らなかったよ。
小林桂樹 丹波哲郎 高橋幸治 古手川祐子 佐藤慶 奈良岡朋子 永島敏行 金子信雄 神山繁 財津一郎 佐藤允 長門裕之 藤岡琢也 中谷一郎
中井貴一 小沢栄太郎 鶴田浩二 森繁久彌とオールキャスト(主役級総動員)の大作で 当時、爆発的ヒットし興行成績の一位になったらしい。
古き良き時代の匂いが、まだ残っていて、何処の国の戦争かと観るものを惑わさない一途さが漂っていたね。「どういうことや?」
新解釈、今流なんて馬鹿らしさがなかったってこと。其の時代を知らない奴らが今流の解釈で作った戦争映画なんて観てられないよ。
インディアンの獰猛、野蛮扱いは偏見だとか、白人主体が間違ってるとか云って物解りのいい奴ばかりが出張って来て西部劇を粉微塵に破壊しただろ。
そのほうが事実の歪曲だよ。今の知識人はロボットだよ。「そんなの云って怒って出てきたらどないすんねん」 そんな暇な奴は居ないよ。
あいつ等は、アホを相手にしないよ。 「良かったね」 だから事実を知らないんだよ。アホの恐ろしさってのが理解できないんだろうね。
人間は、教育で知性に磨きをかけて見えぬ向こうも見えるようになる。知識、教養を育み人となって成長する。
『戦艦大和』 実写 数少ない大和の雄姿を捉えた写真
昔は、真っ当な教育なんて受けてない奴ばかりだよ。その人間性に正義は託されていたんだよ。「お前も、その時代の人間か?」 似てるね。
損得が最優先の人間どもの世界と云っても差し支えないよ。文明の欠片の影響で身に着けた教養、知識、知恵、道徳、倫理観、正義感なんてのが頼りだよ。
そして、なによりも勇気だよ。生きるための覚悟だよ。彼らは、まず、国を意識していた。国を棄てて夢に懸ける覚悟を知っていたよ。
原っぱや砂漠で獣と暮らして太鼓叩いてタキ火の周りをフンドシ姿で踊ってる奴等とは環境の影響のなせるわざで考え方の隔たりはできる。
そんな奴らに新大陸アメリカを任せてはおけない。邪魔立てする奴は敵、互いが排除するんだね。殺したり殺されたり終わらない。
正義とは、悪の上に冠するものなんだよ。だから、時代の愚かが先行して正義を創りだして往くんだろうね。
正義と悪なんて、絶対定義はないんじゃないかね? 人間の感性に倣って決めてる節を感じるね。「それはなんだ?」
恰好じゃないの? 「馬鹿っ」 怒るな、人は恰好良さなど取るに足らぬと云うけれど、意外と大きな影響を受けてるのも事実だよ。
しかし、なんでこんな話になったのかね? 今日は、我が国、日本の「戦艦大和」を語ろうと思ってたんだよ。「寄り道せんと本題へ行け」
『戦艦大和』 実写 数少ない大和の雄姿を捉えた写真
戦艦大和は、大日本帝国海軍が建造した史上最大の戦艦で大和型戦艦の一番艦。正式な呼称は「軍艦 大和」奈良県の旧国名、大和国に由来する。
大和の存在は最高軍事機密であった上、開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に完成就役したため其の姿を捉えた写真は非常に少ない。
翌年2月12日に連合艦隊旗艦となった。1944年のレイテ海海戦に参戦するが旗艦ということもあり取り立てて戦火を交えていない。
全長263m、幅38.9m、最大速力27.46ノット(時速約51km) 航続距離16ノットで7.200海里(13.334km)
兵装は、装備を重ねて、45口径46cm3連装砲塔3基 60口径15.5cm3連装砲塔2基 40口径12.7cm連装高角砲12基
25mm3連装機銃52基 25mm単装機銃6基 13mm連装機銃2基。45口径46cm3連装砲塔3基と排水量(艦船の重量を示す数値)は世界一だった。
『呉海軍工廠で最終艤装(ぎそう=艦船に装置、設備を施し航海や戦闘ができるための工事)中の大和 1941年(昭和16年)9月20日』 実写
映画『連合艦隊』では、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)の日米開戦に至る経緯から始まり、
真珠湾攻撃で宣戦布告、常勝日本の破竹の勢いから敗戦色濃い沖縄戦までを背景に描かれてるね。
船大工上がりの財津一郎は、18年間の海軍勤務でも准士官止まり、息子の中井貴一が海軍士官学校に合格したことを大層喜ぶ。
『財津一郎 中井貴一 小田切家親子』
『財津一郎 中井貴一 小田切家親子』 息子に敬礼で応える日々を愉しみにしていた父
二つの家族が主軸で、財津一郎の息子二人、森繁久彌の息子二人がそれぞれ戦地に向かうんだけど、オレが心打たれて泣いたのは
財津一郎と息子の中井貴一の別れのシーンだったね。海軍士官学校に合格した息子の昇進を夢見て喜ぶんだけど、折しも戦争勃発。
戦勝気分は長くは続かず、時は流れて、ミッドウェイ海戦に敗れたのを機に形勢は逆転、日本は各地で敗退を重ね本土決戦の土壇場に追い込まれる。
『奈良岡朋子 古手川祐子 金田賢一 永島敏行 森繁久彌ら本郷家の一家団欒』
国家の危急に卒業を目前に中井貴一は、神風特攻隊に志願するんだね。財津一郎は、息子を早死にさせるために士官学校に入れたことを悔やんで泣く。
この財津一郎がいいねえ、「試してえ~チョウダイッ」なんて云ってる男じゃないね。立派な職業軍人然として戦艦大和の乗員となる。
此のころ、沖縄は米機動部隊の総攻撃を受け、本土からの応援に一縷の望みを訳し特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦状態にあった。
風雲急を告げる中、大本営は、第二艦隊大和以下、第二水雷戦隊(司令官:古村啓蔵少将、旗艦軽巡洋艦矢矧、第四十一駆逐隊(防空駆逐艦の冬月、涼月)、
第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)、第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)を編成して、沖縄救援部隊を向かわせる作戦を決定した。
昭和20年4月5日、大本営から説得の要請を受けた草鹿参謀長は、大和の第二艦隊司令部を訪れ、長官の伊藤整一中将に作戦命令の伝達と説得を行った。
『大和の第二艦隊司令長官の伊藤整一中将(鶴田浩二)』
なかなか納得しない伊藤中将に 「一億総特攻の魁(さきがけ)となって頂きたい」と言うと、伊藤中将は「そうか、それなら解った」と即座に納得した。
そして、同日15時、乗組員が甲板に集められ、「本作戦は特攻作戦である」と初めて伝えられた
作戦内容は、「沖縄本島に揚陸(ようりく)可能の兵器、弾薬、人員を揚陸して陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とする」
この特攻隊は、連合艦隊長官 豊田副武大将によって「海上特攻隊」と命名された、作戦名は、天号(てんごう)作戦(菊水作戦)と云う。
通常、艦隊には戦闘機隊が上空護衛で随行するが、もう、此の頃は、戦闘機は特攻のために数足らず見送る程度の随行で帰還する。
天号(てんごう)作戦は、半ば成功を諦めた作戦だったらしね。兵器、弾薬、人員を揚陸して後、艦船を座礁させて砲台代わりに使用するには、
座礁時の船位がほぼ水平であること、主砲を発射するためには、機関および水圧系と電路が生きており、射撃管制機能が全滅していないことが条件となる。
現実には、アメリカ軍の制海権、制空権下を突破して沖縄に到達するのは不可能に近く、
作戦の主意は、攻撃の主役である航空特攻を支援するための陽動作戦、菊水作戦であったんだね。作戦名が二つなのは、このためなんだね。
つまり、捨て石なんだね。しかし、ことここに至れば往かねばならない。映画では、上空援護の戦闘機に搭乗する息子の中井貴一が、
『小田切武市 海軍兵曹長、大和工作科分隊班長(財津一郎)』
見上げているであろう父の財津一郎に主翼を振って自分の存在を知らせるんだね。帽子を振って別れを惜しむ艦隊乗り組員の中に財津一郎が居る。
「もう、いい、もう、いい、行け」って、叫ぶんだね。別れを惜しみつつ援護隊の戦闘機が本土に帰還する。
4月7日、援護隊の戦闘機が去り往くと、入れ替わりに米戦闘機が現れる。「総員戦闘配置に就け」号令が飛ぶ。
戦艦大和を主力とする海上特攻隊は、此の時、鹿児島県坊ノ岬沖90海里=約167km(1海里は1.852m)の地点に在った。
『戦艦大和 右』 実写
50キロ遠方に米海軍艦上機を認め一斉に射撃を開始。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうち
ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下、大和に向けて中型500キロ爆弾8発が投下された。右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃。
一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返されて他所で炸裂したという。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。
さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫の温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。
建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。
25mm3連装機銃52基 25mm単装機銃6基 13mm連装機銃2基の機銃は、薬莢を跳ね飛ばして狂ったように連射する。
さぞかし凄まじい光景であろうね。戦艦の威容を誇る時代は終わっているんだね。群がり散らばり上空を飛び狂う戦闘機の敏捷性と行動範囲の自由さは
巨体を這うように移動するものにとっては、なんとも煩わしい敵となる。もう、撃って撃って空に弾幕を張るしか術がない。
米軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされる。
海面に尾を引く幾筋もの魚雷を回避仕切るには、全速で旋回、移動が必要となる。巨艦であることが恨めしく思えるだろうね。
幾筋かを避けても除け切れぬ魚雷が命中の水柱が上げる。12時45分、左舷前部に1本命中。
ベニントン隊に続きホーネットの第17爆撃機中隊が大和を攻撃、艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を見舞う。
『旋回行動で直撃を避ける大和』 実写 船首右舷傍らに至近弾炸裂
米軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフな戦艦だった」と述べている。
大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。
これにより左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。13時、第二波攻撃が始まった。米軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった。
『旋回、蛇行を繰り返し爆撃、魚雷の攻撃をかわす戦艦大和』
『左舷至近弾炸裂』 実写
エセックスの攻撃隊が大和の艦尾から急降下し爆弾命中によりマストを倒す。さらに直撃弾と火災により、大和から米軍機を確認することが困難となる。
米軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊が大和の左右から同時雷撃を行い9本の魚雷を命中。バターンの雷撃隊9機は4本を命中。
バンカーヒルの雷撃隊は、13本を発射し9本命中。キャボットの雷撃隊は、大和の左舷を攻撃、魚雷4本を命中。
これで第一波、第二派攻撃が大和に命中させた魚雷は29本となったが雷撃隊が同時攻撃をかけたため戦果の誤認も含まれる。
『船首甲板に直撃弾命中』 実写 先の呉軍港の写真と同じくカラーに仕上げてあるね
この情報を3分の1に縮小しても10本もの魚雷が大和の脇腹に命中していることになる。輸送船の大型でも一発で沈む。大和、恐ろしや。
大和の速力は18ノットに落ち左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し右舷への注水で辛うじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。
左舷高角砲発令所が全滅し、甲板の対空火器が減殺されて沈黙した。
13時30分、空母のイントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した。もう、大和は瀕死の状態にあった。
13時42分、空母ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中、2発至近弾。
第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発を命中。
このように14時17分まで、大和は米軍の航空隊386機による波状攻撃を受けた。今は、もう、大和の対空火力は尽く破壊された。
大和乗組員の多くは爆弾、魚雷の炸裂で砕け散った。甲板の対空砲周辺は一面砕けた鉄片や血肉が散乱、壮絶な状況となった。
大和は、最後の力で左旋回を繰り返すばかり。浸水する艦内では 戦士者の死体が累々と浮き沈みするばかりなり。
『上官の本郷眞二 海軍少尉(金田賢一)に駆け寄り、指示に従う小田切武市 海軍兵曹長(財津一郎)』
火薬庫の温度上昇の赤ランプが点灯する中、鉄の破片の下敷きになりながら上官が、息も絶え絶えの声を振り絞り「だ、第3砲塔っかか火薬庫注水っ」
そこへ財津一郎が駆け寄り 「第3砲塔ー火薬庫注水っ」 復唱して注水バルブに向かう。バルブが炎に焼かれたか
赤く焦げている。財津一郎が、それを睨みつけて帽子を片手にとるなり、絶叫挙げて握り締め手のひら焼けただれつつ回すんだね。
『赤く焼けたバルブを握りしめ開栓する小田切武市 海軍兵曹長(財津一郎)』
しかし、もはや全ては終わった。14時、注排水指揮所との連絡が途絶し舵操舵室が浸水で全滅した。
一方、坊ノ岬沖海戦において、戦艦大和と運命をともにした軽巡洋艦 矢矧 (やはぎ)は、
海上特攻隊の艦船の中では、戦艦大和に次ぐ大型艦で在ったため米軍戦闘機から集中して狙われることになった。
『洋艦軽巡 矢矧 (やはぎ)』 実写
戦闘開始早々の12時46分、アメリカ軍の雷撃機アベンジャーが投下した魚雷1本が艦尾に命中した。
このため航行不能となり護衛すべき大和から離れてしまった。矢矧からは10~20キロ遠方に左舷へ傾斜した大和が見えたという。
標的状態となった矢矧は多数の魚雷や爆弾直撃、至近弾で損傷が拡大した。積載する攻撃用魚雷を海中へ投機、火災の誘爆をいち早く避けたため
『集中爆撃を受ける軽巡洋艦 矢矧』 実写
長い時間、戦闘を継続している。「もう早く沈んでくれと思うくらい沈まなかった」と生存者の回想が残っている。
駆逐艦磯風が何度も矢矧に横付けして乗組員の避難移乗を図ったが、其処を米戦闘機に狙われて叶わなかった。
矢矧は最終的に合計魚雷6~7本、爆弾十数発を被弾し、大和よりも早く14時05分に沈没した。
『直撃爆弾、魚雷を多数身に受けて満身創痍の戦艦大和』
大和の有賀艦長は最後を悟り、艦を祖国を望む北に向けようとしたが大和は既に操艦不能状態だった。大和は、艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。
14時15分、警報ブザーが鳴り全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプが点いたが、もはや対処する人員も時間もなかった。
大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった。
『有賀艦長(中谷一郎)』
5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという。
最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。
伊藤長官は、森下参謀長と握手すると全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、
駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った。
有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず
艦内に閉じ込められて戦死した者が多くいた。有賀艦長は羅針儀を掴んだまま海中に没した。
第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を縛り艦とともに沈んだ。14時20分、大和はゆっくりと横転していった。
『昭和20年4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分 戦艦大和の大爆発のキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという』 実写
そして、14時23分、大和は、お椀をひっくりかえすように横転した直後に大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ。
「群 青」? 神風特攻隊 Kamikaze corps in Japan
『小田切正人 海軍中尉(中井貴一)』
時を同じくして北の空から飛来した日本の神風特別攻撃隊の数機が天を焦がす猛煙を囲むようにして旋回する。
沖縄の米機動部隊に特攻に向かう息子の中井貴一が搭乗している。空の上から沈みゆく大和と父の躯(むくろ)に敬礼して見送るんだね。
そして、「お父さん 親よりもほんの少しだけ長く生きていることがせめてもの親孝行です」 「さよなら、妹たちよ、お姉さん、さようなら」
別れの言葉が突き刺さる、このラストのシーンは泣かせるね。何故、哀しいのに美しいんだろうかねえ?
『小田切正人 海軍中尉(中井貴一)』
「群青」 作詞/作曲:谷村新司
空を染めてゆく この雪が静かに
海に積りて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせ 貴方を眠らせる
手折れば散る 薄紫の
野辺に咲きたる 一輪の
花に似て儚なきは人の命か
せめて海に散れ 想いが届かば
せめて海に咲け 心の冬薔薇
老いた足どりで 想いを巡らせ
海に向いて 一人立たずめば
我より先に逝く 不幸は許せど
残りて哀しみを 抱く身のつらさよ
君を背おい 歩いた日の
ぬくもり背中に 消えかけて
泣けと如く群青の海に降る雪
砂に腹這いて 海の声を聞く
待っていておくれ もうすぐ還るよ
空を染めてゆく この雪が静かに
海に積りて 波を凍らせる
空を染めてゆく この雪が静かに
海を眠らせて 貴方を眠らせる
冬月、第四一駆逐隊の先任指揮官吉田正義大佐は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。
軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた。
残存駆逐艦による救助作業は19時30分まで継続されたが、まだ重油にまみれた海面には生存者が残っていたが、そこで打ち切られた。
戦艦大和では、伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀艦長以下2.740名が戦死、生存者269名または276名。
護衛していた軽巡の矢矧が446名(沈没)、駆逐艦の磯風が20名(自沈)、浜風が100名(轟沈)、冬月が12名、涼月が57名(大破)
雪風が3名、霞が17名(自沈)、朝霜が326名(轟沈)、第二艦隊将兵計3.721名が戦死した。初霜は負傷者2名だったとある。
海ゆかば水漬(みづ)く屍(しかばね)
山ゆかば草むす屍(しかばね)
大君の邊(へ)にこそ死なめ
かえりみはせじ
「海ゆかば」は、本来は、国民の戦闘意欲を昂揚させるために作られた曲で出征兵士を送る際に歌われた。
太平洋戦争末期の大本営による戦地玉砕のラジオ発表の際に、テーマ音楽として用いられたことで国民に強く印象付けられたようだね。
詞は万葉集にある大伴家持(おおとものやかもち)の歌から採られているとある。
海の戦いに往くなら、水に漬かる屍ともなろう。
山野を戦いに往くなら、草の生える屍ともなろう。
天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない、という意。
正直、天皇の在られる意味もいまいち解らないから、「天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない」の思いもピンとこない。
日本人として生まれ、日本の悠久の歴史の中の微々たる期間を、其の恩恵にあずかり生きて死ぬ。
だから、其の在り様をどうたらこうたら文句を云う気はない。銃後に残す愛する者たちのためならば、「恐い」に蓋(ふた)してオレも往く。
『在りし日の戦艦大和』 カラーに蘇(よみがえ)って素晴らしい実写