『丑三つの村』 2016年9月28日
大きなカーブを切って列島縦断かと思わせた台風16号が日増しに太平洋側にこけて列島を舐めて上がって来てたね。
この前の20日の午後から強風が吹き始め、雨もそこそこ降り出して1時半頃から暴風らしき風が吹いて3時半に静かになった。
「それだけかよ?」 それだけだったよ。せいのないことだよ。だから、大阪は、怖さ知らずの口だけ達者な奴ばかりなんじゃないの?
オレだけだよ、うわあ~凄いねえ、凄いわあ~って騒いでたのは。傘さして「行ってきます」って近所の奥さん、綺麗ななりしてすまし顔。
「なんかアンバランスな具合だね」 なんか調子狂うんだね。「おまえは、ただ、喜んどるんだろ?」 恐喜びだよ。でも、自転車もこけてなかったよ。
「そんなのは台風とは云わないんだよっ、単なる強風に過ぎん」 期待して裏切られる鳴り物入りの大スペクタクル映画と一緒だね。
この前の外国ゴジラの映画がそうだよ。オレの駄文と肩並べる駄作だよ、なんなんだよ、「では、シン・ゴジラはどうだ?」
その「シン」ってのは「新」のことか? もしかして中国籍のゴジラか? 「俺も解らん」
なんか面相が変わったんじゃないの? イボイボだらけの顔になってるよ。外国ゴジラに感化されたのかね?
外国ゴジラはジェラシック・パークだからゴジラ自体はリアルなんだね。で、日本で、また縫い包みに戻るのか? 余計な対比が出来たね。
見ないでおこう。フイリッピンの方に行く超大型台風と一緒だよ。北上せずに他所向いて、こっちへ来なけりゃ忘れてしまう。
毎度のように避けられない地方の方には申し訳ないけど、今回も何もなく済んで結構なことだと感謝だね。
『都井睦雄』
大日本帝国は、1937年(昭和12年)から1945年まで中華民国との間で行われた戦争を日中戦争といい、
勃発当時は支那事変としたが1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い、それらを総じて大東亜戦争と称した。
日本は、敗戦を見る1945年(昭和20年)までの8年間、戦争にまみれて彷徨ったんだね。
1937年(昭和12年)、時代は盧溝橋(ろこうきょう)事件により日中戦争が勃発、国家総動員法が政府によって制定された。
世の中は急速に戦時体制へと移行していたんだね。それを今で云えば暗黒時代と悔やむけれど、当時は、中国、満州、朝鮮等で日本優位の座に
在って、国民は少なからず神国の民、大国の民としての立場に酔い当時の日本政府を支持しておったんだと思うよ。
「天皇陛下」と口にすれば身を正し、軍に身を置く者であれば直立不動の姿勢で拝み至る時代だった。その時を生きて解る背景がある。
男子たる者はお国のために銃をとり奨んで奉公すべきが国民の義務であり、此れ男子の誇りと本懐なり。
そんな時代の1938年(昭和13年)5月21日未明、日本犯罪史上最大の悲惨な事件(実際の事件)が起こったんだね。
『此の1938年、大阪では難波高島屋が全館完成してオープンした』
隣接する鳥取県との県境に近い岡山県苫田郡(とまたぐん)西加茂村大字行重(現、津山市加茂町行重)の山間部、
今も現存する、貝尾、坂元両集落が、其の舞台となった。裏山に上り村が一望できる場所に27の墓石が並べられているらしい。
墓に掘られた没年は、全て、昭和13年5月21日となっている。世にいう 「津山30人殺し」の犠牲者の墓なんだね。
『津山30人殺しの犠牲者の墓』
「津山30人殺し」は、犯行が行われた二時間足らずの間に28名が即死し、5名が重軽傷を負った。そのうち2名が続いて死亡。
日本刀、鎌、銃などで武装して寝静まる村の家々に押し入り、次から次へと村人を惨殺したんだね。
大量殺人を扱った横溝正史の 『八つ墓村』のモデルとなった事件で、1977年に松竹映画『八つ墓村』が公開され、
1983年には、富士映画(あまり聞かないね?)『丑三つの村』も映画化された。『八つ墓村』の山崎努の形相が凄かった。
『八つ墓村』 1977年に松竹映画 山崎努
其の恐ろしい事件の舞台になった西加茂村大字行重は地図で云えば中国縦貫道津山、鳥取に繋がる因美線、姫新線、津山線が重なる辺りに
在る東津山駅から真上(北)に約10キロ鳥取県側に向かった処に位置してるね。其の因美線を鳥取方面へ四つ目、
美作加茂(みまさかかも)駅が在る。其の駅から西へ約2キロだね。現在は、道路も整備されて街に出るのも容易(たやす)くなってるけれど、
当時は、山に取り囲まれて、僻地、辺境の地と云っても過言じゃなかったろうね。中国縦貫自動車道が開通し交通の利便性を高めて
日夜、東西に車両が往来し山陽道や国道2号線との連絡も容易になった今でも、やはり山間部に入れば辺鄙な寂しい処に変わりはないけどね。
昔、弟と付き合って毎夜の如く車を走らせていた頃、中国縦貫道は庭のような趣(おもむき)で津山なんて見飽きた景色でしかなかった。
其の頃は、此の津山の山の向こうで、遥か昔、こんな事件があったってことは知らなかった。
知らなかったけれど歴史は道路のように今に繋がって、其れに伴う諸々の出来事も何かの拍子に突き当たって知る処となるんだね。
で、また、駄文の餌食にして明日に繋ぐ奴も出る。「おまえやな」 そう。
『岡山県苫田郡(とまたぐん)西加茂村大字行重(現、津山市加茂町行重)の山間部、貝尾、坂元両集落』
社会から隔絶されたような山間の辺境で農作物育てて生計立てて働く以外にこれと云って何するでもない時代だったんだろうね?
貧しい家の子沢山なんて云うけど愉しみごとは男と女の営みに尽きるんだろうかね?
ゲーム機やステレオやテレビが有る訳じゃないしね、映画館も無ければ娯楽の店も無い、日が暮れたら家ん中以外は漆黒の世界。
この貝尾、坂元両集落では、夜這いの風習があったらしいんだね。べつに貝尾、坂元両集落だけに限ったことではなく田舎のどこそこでも
似たような遊びで、ともに慰めあって生きてる実感を共有していたとあるね。AV映画なんか、今でもお盛んなのかして
夜な夜な他人の家に忍び込んで寝てる女性をその気にさせて布団の中で組んず解れつ汗かく男女に興奮してるっ「それはおまえやろ?」
『丑三つの村』 1983年 富士映画 松竹映画配給なんだね。
そうだったね、つい興奮して表現を間違ったよ。そんなのが許される環境ならば溺れて飽きぬ遊びなのかも知れんね。
都井睦雄(とい むつお)も若さの勢いで、そんな真似事して何人かの女性と関係をもっていたらしい。「今晩は、〇〇子をイカシちゃるっ」
頭の中は其ればっかし。そんなAV的破廉恥が続いていれば大きな惨たらしい事件には発展していなかったかも知れない。
『丑三つの村』 1983年 富士映画 ちょっと、この映画はエロに力を入れ過ぎだったようで嬉しいね。「なんや、嬉しいんかい」
都井睦雄の家は、育ての親いね婆さんと姉みな子の三人暮らしで、資産もそこそこ有って生活に脅かされるよなこともない境遇ではあった。
両親は、睦雄が2~3歳の幼い頃に、ともに肺結核で早死にし、子供二人は、いね婆さんに育てられて成人した。
睦雄は、学業優秀で、この能力だったらと先生が進学を強く薦めたんだけど、世話になってるいね婆さんが反対したんだね。
年老いた自分を置き去りにはさせないってね。ちょっと、お婆さん間違ってるね。睦雄は、尋常高等小学校を卒業直後に肋膜炎を患って
医師から農作業を禁止され無為な生活を送っていたとあるね。肋膜炎(ろくまくえん)は肺の外部に炎症を起こす疾患で
ほとんどは癌、結核、肺炎など、後に発症することが多いんだね。親御さんからのDNAかねえ?
現在なら、然程、恐れる病ではないんだけど、当時は、まだ、恐ろしい病で忌み嫌われてたらしい。
1937年(昭和12年)、睦雄は徴兵検査を受け、結核を理由に丙種合格(入営不適、民兵のみ徴用可能、実質上の不合格)と
されたことから、病持ちであることが村中に知れ渡り、結核持ちの兵隊にもなれない男と蔑(さげす)みの目で見られるんだね。
その頃から、これまで関係を持った女性たちにも拒絶されるようになったばかりか、心無い風評が村々に広がった。
常識、価値観なんてのは、時代、時代でコロコロ変わる。まして、山間に閉ざされた辺境地では、一旦、染まると抜けきらない。
『丑三つの村』 1983年 富士映画 古尾谷雅人は、自殺したんじゃなかったかね? 「生きてたらどないすんねん?」
睦雄は、この村人たちの豹変に相当のショックを受けたとある。所謂、村八分の目にあったんだね。
被害妄想は、自身の中で増幅して何気に目が合ってもよろしくは取れなくなる。村の子供たちも親の話に影響されて態度がぞんざいになる。
道端で立ち話の姿を見ても陰口に聞こえて不快は募る。兵隊にも行けない中途半端な男、病に侵されても女を求める変態好色漢と尾びれがつく。
睦雄が、育ての親のいね婆さんに至って弱いことを知る女たちは、むけむけに「いね婆さんに云うよっ」って拒む台詞に活用する。
睦雄の育ての親のいね婆さんは、由緒ある厳格な旧家に嫁いだ人で厳しい躾(しつけ)や習慣が身に着いてんだね。
睦雄も姉のみな子も、其の婆さんのもとでかなり厳しく育てられて、其れが人格形成に大きな影響をもたらしたみたいなんだね。
姉のみな子が嫁に出た頃から睦雄の生活態度に変化が生じ、自分の前途を悲観する傾向が強くなったらしい。
いね婆は、厳しくあっても睦雄を甘やかせる傾向も持ち合わせ、飴と鞭を使い分けて睦雄を牛耳るような趣があったようだね。
生活の糧も困らず面倒かけて育った恩と鉄拳制裁の厳しい躾の中で、睦雄は、いね婆に頭が上がらぬ男になっていた。
幼い頃からの我が身の有り様が遠慮となって従順に在るべき自分という思いと、
己の人生を操作されるような意図を感じる鬱憤を溜めこむ自分とが、睦雄の中で交錯して遣る方ない思いを抱えていたんだろうかね?
姉のみな子は、嫁ぎ先で環境も変わり明るく人に好かれていい奥さんだと評判に包まれつつ幸せに暮らして1991年平成の3年まで生きた。
しかし、いね婆の躾は身に染み切ったのか家内(いえうち)のみな子は別人の如く厳格で気性激しく鉄拳制裁の母親であったらしい。
『都井睦雄の実姉は、嫁ぎ先の津山でうどん屋さんを経営していた』 現在は、亡くなって閉店している。
人は、幼い頃の環境、境遇が其の人格形成に大きく影響を及ぼすようだね。 「おまえは?」 オレもちょっとおかしいよ。「ちょっとか?」
だいぶんおかしいよ。 「自覚があるだけ救いだよ、自覚があれば矯正の道は正常な方向に繋がってる」 オレも狂人かよ?
「人が人であるには、感情を制御する理性が勝らねばならん」 感情を殺し切れば冷血動物とかわらん人間になるしね。
「其れを、なお、コントロールするのはなんだ?」 素直な優しい心かな? 「そうだよ、純粋な心が制御の潤滑油だよ」
心を汚してはいけないんだよ。睦雄は、身体を病んだ上、心までが拗(ねじ)けて病んで、
右に倣えで流れてはいけないことを知らずに、なお、心を汚したんだよ。 姉のみな子は、人への愛情で救われたんじゃないかね?
人は、皆多かれ少なかれ愚かをする生きものだから仕方のない処もあるけれど病みつきになって溺れてはいけない線がある。
睦雄は、五十路になるつきよ(実名)にお金を押し付け情交をさせてくれと迫るんだね。
つきよは、睦雄の家の事情に明るいから「この金をいね婆さんとこ持って行ってみんな云うぞ」って脅すんだね。
睦雄は睦雄で、このセリフには弱くすごすごと引き下がる。それを皆して嘲笑うんだね。他人であればこそ互いに礼儀の線が在るけれど、
夜な夜な身体を合わせる仲ともなれば身内意識が湧いて出て、歯に衣(きぬ)着せることなく露骨なものいいが乱れ飛ぶ。
互いの思いが食い違い罵りごともえげつない。ひとつ曲がれば骨肉の争いのような展開になるんだろうかね?
骨肉の怨恨ほど凄まじいものはないという。都井睦雄は、そういう世界に在って孤立した。この時、都井睦雄は21歳だった。
『丑三つの村』 1983年 富士映画
この岸田つきよには、息子が3人居て同い年の長男の勝之とは睦雄は仲が良かった。しかし、勝之は徴兵検査で甲種合格し、
晴れて、横須賀のエリート海兵団へ入隊した。病もちでうだつの上らぬ睦雄は、この勝之に嫉妬していたんだね。
五十路になる友人の母と情交を重ねることで他人とは思えぬ近しさなんてのを感じるのかね? まるで犬猫の世界だね。
次男の吉男は14歳、三男の守は11歳、この二人は子供たちの先頭に立って睦雄に罵詈雑言を浴びせて、日々、馬鹿にしたんだね。
母親のつきよ、吉男、守るに対する睦雄の恨み骨髄の思いは襲撃の夜の惨劇に露わに残った。
吉男や守の傷のつきようは尋常なものではなかったとある。吉男は頭部を日本刀で突き抜かれ、守は8か所も刺されていた。
岸田つきよに至っては、恨み深し刃が喉を切り裂いただけでは飽き足らず、左胸の乳房の辺りを切り裂き、右肩付け根を割り、
口の中まで突き抜いて滅多刺し、顎への殴打による損壊は顔面を潰すほどで顎の形状不明の状態だった。
つきよは上半身半裸の状態で口と左胸を無残に抉(えぐ)られ、寒さに凍えるように両肩に手をやり首を捩じって眼を見開いたまま絶命した。
岸田勝之は、この時、兵役で不在だった。
『丑三つの村』 1983年 富士映画
都井睦雄は、同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入、翌1938年(昭和13年)には、それを神戸で下取りに出し、
猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入し、毎日、山に籠って射撃練習に励むようになった。
睦雄は、自宅や土地を担保に借金をし武器の調達を始めるんだね。 「どいつもこいつも、今に見てけっかれ」
しかし、睦雄がいね婆の病気治療を目的で味噌汁に薬を入れているところをいね本人に目撃され、「孫に毒殺される」と大騒ぎして
警察に訴えられたために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され猟銃免許も取り消された。
このいね婆さんも、ちょっと、おかしいね? 睦雄は、味噌汁に入れたのは胃薬のワカモトだと潔白を主張した。
結局、真相は不明で終わった。 「ワカモト」って昔の胃もたれ、便秘、疲れた体の栄養補給のワカモト製薬の薬だね。昔、うちにも有ったよ。
『封切られた映画、相撲の双葉山優勝、発行の芸能誌 いずれも1938年』
睦雄は、この一件で凶器類を全て失ったが、知人を通じて弾薬を購入したり、遠出して購入したりと、再び、凶器類を揃えだす。
この時期の4月24日に睦雄は、大阪にまで出て来ているんだね。西区の京町通(掘?)5丁目の栗谷火薬店で猛獣用実弾アイデアル100個を購入、
翌、4月25日には、大坂市東区内本町3丁目の鷲見(津)火薬店でポンプ式詰替え機(実包製造機)一台を購入してる。
以前に購入のため出入りしていた神戸の銃砲店には警察から「都井睦雄について通告書」が配布されていたんだね。
睦雄は、其れを何らかで知り、手配の行き届いてない大阪まで足を延ばしたらしい。
同年5月1日、再び、大阪の東区内本町3丁目の鷲見(津)火薬店に往き、偽名を使って「12番口径ブローニング5連発銃」を購入している。
『12番口径ブローニング5連発銃』
『1938年(昭和13年)大阪梅田阪急百貨店前』
此の「12番口径ブローニング5連発銃」は猛獣用実弾及び散弾も装填発射できるもので、睦雄は此れを9連発式に改造したんだね。
都井睦雄は、警察を欺くことに手抜かりなく着々と武器の収集を進め、5月7日には、刀剣愛好家の加茂町の歯科医を訪れ、
「従兄の軍曹昇進祝いに送りたい」と日本刀を購入した。其の日本刀の柄は異常に長いもので実に2尺1寸5分(約65センチ)もあった。
もう、この時の都井睦雄は、床下でスイッチの入った時限爆弾の如く止めようない狂気に染まっていたんだね。
此の12番口径ブローニング5連発銃も歯科医から購入した日本刀も都井睦雄が狂った如く大量殺戮に使用したんだね。
事件後、此の歯科医は、日本刀を不用意に売り渡したことを悔いて被害者の孤児がいれば引き取りたいと警察に申し出たという。
『岡山県苫田郡(とまたぐん)西加茂村大字行重(現、津山市加茂町行重)の山間部、貝尾』 実写
「俺の前途を閉ざした糞婆、手のひら返したように嘲笑(あざわら)って男子の誇りに泥塗り被せた女ども、陰で悪口叩く卑怯卑劣な奴等めっ」
「うぬらを叩っき殺さずにおれようかっ」 烈火として湧き上がる怨念の虜(とりこ)となった都井睦雄は、
研ぎ終えた鎌の刃に指を当て 「どうしてくれようかっ」 遣るからには徹底的に殺す、其のためには邪魔は排除せねばならん。
都井睦雄は、電柱に登り村に繋がる送電線を切った。そうして村の気配を伺ったが、何の動きも騒ぎも無く貝尾、坂元両集落は静まりかえっている。
「これなら停電にしても誰一人騒いで町に連絡する奴は居ない」 「くっふふふふ、豚どもめ、次来る闇に震えてくたばれっ」
蛮行の計画は用意周到のうちに進められた。睦雄は、平屋の家の屋根裏に部屋を造り凶器を蓄えその日を待った。
『岡山県苫田郡(とまたぐん)西加茂村大字行重(現、津山市加茂町行重)の山間部、貝尾の都井宅』 実写
5月18日に二人の女性が嫁ぎ先から村に帰って来た。西川良子と寺井ゆり子、ゆり子の弟の貞一と三木節子の結婚式が15日に執り行われ
其の祝いに帰って来たらしい。村を起こしての祝い事だった。其の頃、睦雄は、屋根裏の部屋で独り遺書を書きしたためていたらしい。
寺井ゆり子は、睦雄と幼馴染で村でも評判の美人であったため睦雄が一方的に熱を上げていたとも、恋仲であったともいわれているんだね。
しかし、睦雄が結核だったため、彼女の親族が無理やり引き離し、ゆり子を隣村の男性の元に嫁がせたという説もある。
睦雄が犯行に及んだ日は、ゆり子が嫁ぎ先からちょうど村に里帰りしていた時だったことから、
睦雄は、ゆり子が帰って来るタイミングを見計らっていたとも云われている。
『丑三つの村』 1983年 富士映画
睦雄は、ゆり子の家にも押し入り、ゆり子以外の家族を全員殺害している。ただ、ゆり子は素早く隣家に逃げ込み命拾い
することができたが、ゆり子を匿った隣家は巻き添えをくらい、一人が射殺されている。
いずれにせよ、睦雄が、ゆり子に対して異様な執着を持っていたことには間違いがないようなんだね。
二人の間に何があったのか? 睦雄のゆり子に対する一方的な恋慕だったのかも知れないけれど、
事件から70年以上も経過した今となっては知るよしもない。
都井睦雄が想いを寄せた女性、寺井ゆり子は、2010年の時点で90歳を超えて存命しており今も健在かも知れないらしいね。
『岡山県苫田郡(とまたぐん)西加茂村大字行重(現、津山市加茂町行重)の山間部、貝尾』 実写
睦雄は、決行の前日の夕方、貝尾に通じる電線を切断した。「あら、また、停電だわな」
「かなわんのお~しゃあないわ、明日には復旧しよるやろ」 村人たちの夜は早い。蝋燭や灯篭に火を灯して明かりをとる。
暮れ往く夜にぼんやりとした明かりが、此処かしこの家々に浮いて、やがて、貝尾の村は漆黒の闇の中に溶け入る。
「皆様方よ、今日が名残の此の世ぜよ。わしが彼の世とやらへ送り届けてやりもそお」
『八つ墓村』 1977年に松竹映画 山崎努
『八つ墓村』 1977年に松竹映画 山崎努
『八つ墓村』 1977年に松竹映画 山崎努
1938年(昭和13年)5月21日の未明、都井睦雄は、用意した衣装に身を包み屋根裏から階下に降り、いね婆に気づかれぬように
表に出ると用意して置いた大きな斧(おの)を手にして家内(いえうち)に戻る。断たねばならん、婆の蹂躙を断たねばならんのだ。
「睦雄っ何しとるっ?」 いね婆の一喝で全てが萎える自分が居る。婆を断たねば何も出来ぬっ。
斧を握る手が戦慄いている。睦雄の家には6間がある。ふすまを静かに開け座敷を進む。いねは、縁側に面する6畳間の炬燵に
身を入れて熟睡している。睦雄は、そんないね婆の寝姿をゆっくりと上から見下ろした。
睦雄は、学生服のような黒の詰襟服、膝から下には兵隊が使用するゲートルを巻き地下足袋を履いている。
二つの懐中電灯を角のように頭に鉢巻きで固定してナショナルの自転車用パンドライトを紐に首からぶら下げている。
弾薬の入った雑嚢(ざつのう)を左の肩からの右脇に掛け、日本刀一振りと短刀2本を腰にしっかりと括りとめている。
そして12番口径ブローニング9連発銃を左手に持ち、今は何も知らず熟睡するいね婆を見下ろしている。
『丑三つの村』 1983年 富士映画
深くドス黒い葛藤を胸に睦雄は、いね婆の首を目がけて思い切り斧を振り下した。鈍い衝撃が手に伝わる。
いね婆の身体がブルルンッと痙攣して悶絶した。うめき声を発したかどうか、まだ、首は胴体と身と皮で繋がってるのかっ?
睦雄は必死の形相、渾身の力で何度も何度も斧を振り下した。そしていね婆の首は胴体からちぎれて飛んだ。
『都井いねの死体』 実写 枕に巻いていた布に噛みついてる。
どす黒い血が心臓の鼓動に合わせるかのようにドクドクと溢れだしてる。いねの首は、枕に巻き付けた布に必死で噛みついて、
然程は飛ばなかった。睦雄は、心に絡み着くツタの根をついに切り落とした。呪縛から解かれたかのように
「わしを萎えさせる婆は、もう、居ない」 睦雄は、裏口から外に出て井戸水で斧にこびりつく血油をきれいに洗い落とした。
その後、隣家から侵入し村人を次々と襲った。日本刀で滅多斬りにしながら一人ひとり、血祭りにあげていった。
岸田つきよをはじめ恨みが深かった女性に対しては、乳房をえぐったり、口の中に刀を突き立てたり、股間を撃ち抜いたりと
怨恨非情の嬲り殺しだった。破壊力が強い猛獣用の弾丸は、人体に大穴を開け内臓が飛び散ちり腸がぶよぶよと飛び出し畳の上を這った。
『丑三つの村』 1983年 富士映画
被害者のなかには妊婦もいたが、構わず胎児もろとも容赦なく殺害している。睦雄が標的にしたのは、
既に肉体関係を持ちながらにして、手のひら返すように拒絶した女性とその家族が中心だった。
返り血に染まり銃を乱射し刀を振り回す睦雄は、ただただ逃げるしかない人たちに向かって容赦なく銃弾を浴びせた。
犯行からわずか2時間足らずで28人の村人を殺害。5人に重傷を負わせ、そのうち二人は暫くして息絶えた。
彼は猟銃や日本刀などを携えた重装備でありながら山間部の急斜面を駆け上り駆け下り犯行に及んでいる。肺に持病がある人間とは思えない。
沸々(ふつふつ)たる怨みのエネルギーなのかねえ? 凄まじい集中力を以て殺害に没頭したんだろうね。
『都井睦雄の自殺体』 実写 手前に長ものが転がってるが12番口径ブローニング9連発銃か? それとも日本刀か?
凶行を終えた後、都井睦雄は村を一望できる山の頂にて遺書を残し猟銃で自決した。
『都井睦雄の凶行で犠牲になった遺体を納めた棺桶に手を合わせる親族たち』 実写
人は人らしく生きねばならんねえ。むやみに縁を繋いで自分を曝すことは慎まなくてはいかんと思うよ。
点と点を繋いだ線は片方だけでは消えない。忘れた頃に其の線が浮かび上がって現れる。運命なんだろうかね?
『1938年(昭和13年)の当時の大阪阿倍野天王寺駅』