画は合成で上は零戦52型、下は一式戦(隼)です。
養老孟司 「特攻隊は平和思想の極限」より
日本は何万年もヒトが住んできた世界であり、いまでも住んでいる。
それなのに、「これも世界」だという意識がない。なんだか特別な
場所だと思っているが、なにが特別か、わからない。だから、
それが、「なにか」、調べようとするのだと思う。日本もヒトの
住む世界で、そこに特別なことはなにもない。
日本といっても、いつ、どこから「日本」か、それが不明。
日本の「思想史」はきちんと書かれていない。日本に
「思想はない(丸山真男)」か、「歴史観がない(山本七平)」
ことになっている。それは、マルクシズムや、同じことだが、
ユダヤ・キリスト教に基ずく「普遍」に立った見方が「ない」
ということであろう。そんなものは、ないにきまっている。
その意味では、日本は別な世界だからである。
しかし、同じ脳ミソを使って生きている以上、その脳の上に
こういう世界も構築可能なのである。そうした複数の世界を
共通に把握する見方、つまり新らしい「普遍」、それが
われわれに要求されている。
私の専門は死体だが、その見方は、歴史の上で大きく変化
している。死体観、身体観からすれば、鎌倉時代から戦国までが
一時代であり、江戸初期から現在までがまた、別の一つの時代
である。この二つの大きな時代区分を、乱世と平和と言い換え
てもいい。・・・・
乱世では、身体は現実であり、ゆえに個人が正面に出る。
身体なくして個人は成立しないからである。文化や伝統、
たとえば日本語や茶の湯では、個人は不要である。「利休は
死すとも茶の湯は死せず」というのは、江戸を準備した思想
であろう。だから、戦国の個人思想の対極は江戸の平和思想
である。そこでは身体は無視され、ゆえに唯心論となる。
七生報国から神風特別攻撃隊に至る思想は身体無視の
唯心思想であり、西洋人が誤解するような生命軽視の思想
ではない。特攻隊は、平和思想の極限なのである。
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養老孟司 「特攻隊は平和思想の極限」より
日本は何万年もヒトが住んできた世界であり、いまでも住んでいる。
それなのに、「これも世界」だという意識がない。なんだか特別な
場所だと思っているが、なにが特別か、わからない。だから、
それが、「なにか」、調べようとするのだと思う。日本もヒトの
住む世界で、そこに特別なことはなにもない。
日本といっても、いつ、どこから「日本」か、それが不明。
日本の「思想史」はきちんと書かれていない。日本に
「思想はない(丸山真男)」か、「歴史観がない(山本七平)」
ことになっている。それは、マルクシズムや、同じことだが、
ユダヤ・キリスト教に基ずく「普遍」に立った見方が「ない」
ということであろう。そんなものは、ないにきまっている。
その意味では、日本は別な世界だからである。
しかし、同じ脳ミソを使って生きている以上、その脳の上に
こういう世界も構築可能なのである。そうした複数の世界を
共通に把握する見方、つまり新らしい「普遍」、それが
われわれに要求されている。
私の専門は死体だが、その見方は、歴史の上で大きく変化
している。死体観、身体観からすれば、鎌倉時代から戦国までが
一時代であり、江戸初期から現在までがまた、別の一つの時代
である。この二つの大きな時代区分を、乱世と平和と言い換え
てもいい。・・・・
乱世では、身体は現実であり、ゆえに個人が正面に出る。
身体なくして個人は成立しないからである。文化や伝統、
たとえば日本語や茶の湯では、個人は不要である。「利休は
死すとも茶の湯は死せず」というのは、江戸を準備した思想
であろう。だから、戦国の個人思想の対極は江戸の平和思想
である。そこでは身体は無視され、ゆえに唯心論となる。
七生報国から神風特別攻撃隊に至る思想は身体無視の
唯心思想であり、西洋人が誤解するような生命軽視の思想
ではない。特攻隊は、平和思想の極限なのである。
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