君に友だちはいらない
瀧本哲史
京都大学客員准教授
を読み終えた。
その紹介のために、一部抜粋して、取り上げ
てみたい。
はじめに
現在の日本は、かつてなく「仲間づくり」
(チームアプローチ)が重要な時代となって
いる。
その理由のひとつには、「グローバル資本
主義の進展」がある。
グローバル資本主義とは、世界全体がひと
つの市場になって「消費者」と「投資家」の
おカネを引きつけるために、世界中のあらゆ
る「企業」が国境を越えて競争している状態
のことを指す。
世界中の消費者は、自分の必要としている
品質の製品を、世界中から探して「もっとも
安く」手に入れることができる。投資家は、
全世界の会社のなかからもっとも効率よく儲
けさせてくれる会社やプロジェクトに資金を
提供し、そうでない会社・プロジェクトから
は、一瞬にして資金を引き上げる。
この世界レベルでの消費者と投資家のお金
の動かし方は、国家、企業から個人の人生に
まで避けがたい影響を与えている。
2007年に世界経済を失速させたサブプライ
ム問題と翌年のリーマンーショックも、2013
年夏の参議院選挙で争点のひとつとなったT
PP問題も、突き詰めれば、このグローバル
資本主義が世界全体にゆき渡ったことで、生
じたものだ。
世間では、グローバル資本主義の影響の大
きさと、時に見せる残虐性を批判する人も少
なくない。
確かにグローバル資本主義というと何か凶
凶しい「化け物」のようなものを思い浮かべ
がちだ。だが、その正体は、私たち一人ひと
りの「少しでもよいものを、より安く買いた
い」という思いの集積にほかならない。
つまりグローバル経済とは、私たち人類の
欲望の総計として、必然的に生み出されてい
るものなのだ。
この「グローバル資本主義」は、これまで
日本がお家芸だった、「よりよい商品をより
安く大量生産する」というビジネスモデルを
急速に葬り去りつつある。
中国や台湾、韓国、そしてインドなどの新
興国の生産管理技術が格段に向上して、ハイ
テク家電もパソコンも「コモディティ」とな
ったからだ。
コモディティというのは、もともと「日用
品」を意味する言葉だが、経済学では「どの
メーカーの製品を買ってもたいした差がない、
成熟した商品」のことを指す。
テレビ、携帯電話、パソコン、自動車とい
った20世紀にわれわれの生活を一新した製
品はすっかりコモディティとなった。日本メ
ーカーの製品は新興国の製品に価格的に太刀
打ちできなくなり、商品の細かい機能で差別
化したところで、大きな利益をあげることは
できなくなってしまった。
2012年、パナソニックとソニーという日本
の戦後復興の象徴であった名門企業が、巨大
な赤字に苦しんでいることが大々的に報じら
れた。
戦後日本の礎となってきた「よりよい商品
を、より安く」というビジネスモデルは、新
興国にその地位を完全に奪われつつあるのだ。
一方で、世界市場を見てみると、あらゆる
業界で競争が激化し、産業の浮き沈みのサイ
クル、ビジネスモデルの耐用年数が、どんど
ん短くなっている。
かつて『日経ビジネス』が「企業の寿命30
年」という特集を組み話題になったが、今で
は一世を風扉したビジネスモデルが、3年、
いや1年と持たないことも珍しくない。
この企業の栄枯盛衰のサイクルが極端に短
期化したことによって、ひとりの人間が生き
るために働く40年ほどの現役生活において、
ずっと同じ会社で同じ職種を続けることは、
ほとんど不可能になってしまっている。
商品だけではなく、「人間のコモディティ
化」がはじまっているのだ。
次々に変わるビジネスモデルの潮流にあわ
せて、企業のなかの仕事はどんどん仕組み化
され、国境を越えて、より給料の安い人にア
ウトソーシングされていく時代になった。
技術の革新は、それまで100人の労働者
が必要だった仕事を、ひとりのオペレータと
コンピュータに置き換え、99人の失業者を生
み出すことになった。
働いても働いても、暮らしが楽にならない。
企業の業績はよいのに、働く人々の生活は変
わらない。昨今大きな社会問題となっている
「ブラック企業」が増え続ける本質的な原因
も、人間のコモディティ化にある。ブラック
企業では、商品同様、コモディティとなった
人材はたとえ正社員であっても安く買い叩か
れる。
世界のグローバル化か今以上に進展してい
くことを押しとどめるのは不可能だ。もちろ
ん行き過ぎたグローバリズムの弊害は是正さ
れねばならないが、その流れに背を向けるこ
とは、日本を再び「鎖国」することと本質的
には同じである。
それでは私たちは、コモディティ化から逃
れ、人間としてより豊かに、幸福に生きるた
めにどうすればいいのだろうか。
その答えこそが、「仲間」をつくることだ。
現在の日本は、パナソニックやソニーなど
これまでこの国を牽引してきた株式会社とい
う組織を筆頭に、かつて有用だった仕組みが
緩やかに解体されて、再構築される途上にあ
る。既存の組織や枠組みに替わって、個人が
緩やかなネットワークでつながり、その連携
のなかで学習や仕事をし、プロジェクトベー
スで離合集散するという世界観が、現実のも
のになりつつある。
どれだけコンピュータの性能が上がろうと、
コンピュータ同士が自ら目的を持ってチーム
を立ち上げることはない。
常に複数の緩やかなつながりを待った組織
に身をおき、解決すべき課題を見つけて、共
通の目標に仲間とともに向かっていくこと。
これがグローバル化が進展する時代に、人
々が幸福に生きるための基本的な考え方にな
るはずだ。
本書では、さまざまな事例を紹介しながら、
今この時代にどうすればよい仲間と、本当に
機能する〝武器としてのチーム〟をつくるこ
とができるのか、解説していく。
読み終えたときには、『君に友だちはいら
ない』という本書タイトルの真の意味を、ご
理解いただけるはずだ。
以上。
一部カットはしたが、この「はじめに」の文
章が、この本の概要を示している。
彼の著書で『僕は君たちに武器を配りたい』と
いうのがあり、すでに読んでいたので、この
本を店頭で見かけたら、すぐさま、読んでみる
気になった。
読んで、いろいろと触発されるものがあったの
で、やはり、すでに出版されていた『武器とし
ての決断思考』と『武器としての交渉思考』を
軽く読んでみた。
この2冊は、京都大学の授業を書籍化したよう
なので、ある意味で、京都大学の授業を受けて
いるのと同じことになり、京都大学に入るだけ
の学力のないわたしとしては、聴講生にでもな
った気分になって、嬉しく思われる。
瀧本哲史氏の本を都合4冊読んだことになるが、
できるだけ、若い人には、読んでもらえたらと
思っている。
もっとも、わたしたちの世代でも、今がどうい
う時代かを知る意味において、読んでみるのも
いい本かもしれない。
もしかすると、子どもが大学生の人もいるかと
思うので、自分の子どもがどのような時代に生
きているのかを知る意味においては、やはり、
いい本かもしれない。
そうじて、林修や千田琢?の世界に近い話では
あると思うので、わたし個人に直接的に該当す
る話ではない。しかし、今がどういう時代かを
知るには、いい本だと思う。
この本で教養の定義が面白かった。
教養とは「自分と違う世界に生きている人と
会話ができる」こと
「教養とはほかの見方が存在しうることを知る
こと」にある。
教養の持つ大切な機能の一つが、「自分と違う
世界に生きている人と会話ができるようになる
こと」だ。
以上。
どうだろう。
言われてみれば、全く同感である。