退職して、5年目になった。日々の生活で、自分の
体から力が抜けていっているような気がする。
疲れやすくなったようである。
ちゃんと、計画的に筋力トレーニングをしているが、
どうしてだろう。
努力をあざ笑うように、自分の体が萎えていく。
少しばかり、腹は出てきたものの、現役時代より
筋肉はついているはずだが。
仕事をしていた頃、出勤時、大通りに出る際、目の
前を退職しただろうと思われる年配の人が、弁当か
なんか持って毎日歩いて、横切っていった。
わたしは、健康のために、ウォーキングを兼ねている
とみたが、しかし、数年経つと、その顔が熟年の表情
から老人の表情に変わっていったことに気づき、驚い
た。
そして、いつしか、その人は、見かけなくなった。
どうしたのだろう。
わたしの努力をあざ笑うように、老いは、容赦
をしないようである。
わたしも、かの人のくちかと、不安がよぎる。
現役時代、退職生活が輝いて見えた。
しかし、それは、隣の芝生が青かっただけだ。
現実は、賽の河原で、石積みをしているような
ものだ。
寝たきりの高齢者は、失ったものの大きさにショック
を覚え、未来のない現実に、絶望し、葛藤と怒りに
疲れはて、精神は失速し、意識は薄れ、全てを忘却の
彼方に置いていってしまう。
いや、忘却そのもの忘却してしまう。
未来のあることが、どんなにか生きることに、力
を与えてくれることであろうことか。
思うに、人の住まなくなった家が、朽ち果ていく
ように。
いくら、筋力トレーニングをした体も、現役を引退した
者たちの無為な日々で漂泊するような精神では、生命の
宿らない筋肉かも知れない。
退職して気づいたことがある。
いつも見慣れた風景が、退職と同時にまったく違う風景
になった。
消費期限の過ぎた夥しい数の所在投げな高齢者が、わたし
の視界を埋めつくす。
今後、この風景がエスカレートしていくかと思うと、
長寿社会の悲しい現実にうろたえてしまう。
国そのものが立ち枯れしそうだ。
こんなはずではと、叫んでみても、池塘春草の夢をみる
ことが叶わない現実に、懊悩してしまう。
長寿化が、少しでも不死に近づくかと、期待に浮かれた
のは何時の日のことであっただろう。
現実は、三途の川べりを疲れ果てるまで、歩き回って
いるようなものだ。
退職者というレッテルをもらったとたん、今まで見て
いた風景が突然消えた。
誰彼もが、一人で、とぼとぼと三途の川べりを、所在
なげにあてもなく歩き回っている。
そんな、ばかな話が、と言いたいのだが。
夢でないのが、やっかいだ。