ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

ウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートの解明―――大喰峠はどこだ!? 2/4

2014年09月01日 | ハードハイク/北アルプス

2014/8/13  まだ暗い中、目を覚まして一番心配だったことは今日の天気。15日も予備日として確保してあるとはいえ、明日以降の天候は再び下降気味の予報でしたから、実質的に今日がラストチャンスなのです。
結果的には晴天でした。帰宅後、気象庁の上高地における今月のデータを見てみると、8月3日から19日までこの13日以外は雨が降らない日はずっとなかったようです。多くの社会人が休みとなる9日~17日の9日間の降水量は232ミリ、1日平均29ミリも降ったのです。

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▲3時に起床。朝食担当はK松さんです。アルファ米ですから、ここでは食べずに各自が持つことにします。そして、いよいよ出発。4:01ころ。

ウェストンは1891年に初めて槍ヶ岳の登頂を試みますが(その時は不成功)、その際初めて横尾本谷ルートを通ります。明神付近で泊まったウェストンは1891年8月6日の朝、横尾に到着します。
「とうとう谷間の路は二つに分れた。それで、私たちのとるルートを決めるのに緊急会議を開いた。『右側の峡谷(槍沢のこと)は長いことは長いですが、以前槍ヶ岳にのぼった二つのパーティーはどれもこのルートを取りましたから、路はよく分っています。けれども、旦那さんがたが“スポーツ”がお好きなら、左の方の路は多分それよりもっと短いし、もっと面白いでしょう。もっとも、路は私たちで見つけなければならないでしょうが』と一番年取った猟師が言った。『それじゃあ、左の路にしよう』と私たちは言った」
ウェストンの文章からの引用です。これからもそれを赤字で記しますが、引用文献は以下の通り。
『日本アルプス 登山と探検』(岡村精一訳 平凡社ライブラリー)
『日本アルプス再訪』(水野勉訳 平凡社ライブラリー)
『日本アルプス登攀日記』(三井嘉雄訳 東洋文庫)
ただし、上記三冊のうちのどれなのかは記載を省きます。悪しからず。

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▲横尾岩小屋跡です。暗いので標識だけ。4:25ころ。
「横尾谷をのぼって行くこの新しいルートは面白いことがまもなく分った。(中略)およそ800メートルもがいて行くと、峡谷の側面にある洞穴に達した」
今は岩小屋は崩れてしまっていますけれど、ウェストンの当時は使えていたようですね。
「猟師たちが日暮れまでには楽に帰れると保証したので、ここに大部分の荷物を置くことにした」
結局、ウェストンたちはその日のうちにはここに戻れなかったのですが、荷を軽くしたことは正解だったのではと、僕は思います。

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▲屏風岩右岩壁とお月さまです。左のピークは屏風ノ頭でしょうか? 4:48ころ。
「屏風岩の垂直でものすごい花崗岩の岩肌が生々しく目に飛び込んできた。右手にある横尾谷の激流の、低い裂け目を守る歩哨のように立っている」

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▲本谷橋到着です。4:57ころ。

ここで朝食タイムとしました。

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▲前の写真の山と同じです。朝陽が当たり始めました。北穂高岳3106mだと思います。北穂の東稜なのでしょうか? そこへ月が半分沈み始めています。5:09ころ。

ここから横尾谷に入渓してもいいのですが、連日の雨でいつもより水量が多いので、無理をせずにもう少し先の涸沢出合付近まで登山道を利用することにしました。ウェストンたちはずう~っと道なきルートを進んでいますから、感心してしまいます。
「岩の狭間を狂奔して流れくだる時沸きかえり渦立つ水の上を、丸石から丸石へと飛びながら、荒れた急流の川床をもがきのぼった。おりおり一方から一方へと氷のように冷い流れを渡らなければならず、あるいはまた、荒れた岸辺に取り付き、斧やナイフで、路をふさぐ蔓草や草むらのもつれた茂みを切って前進しなければならなかった」

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▲横尾本谷が登山道から見えて来ました。見えている山は南岳3032.7mなのでしょうか? シシバナの岩壁なのでしょうか? 5:26ころ。

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▲登山道が涸沢出合の真上を通過するあたりで、かすかな踏み跡を見つけました。以前はもっと明瞭な踏み跡があって、テープも付いていましたが、今回は見つけられませんでした。5:33ころ。

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▲涸沢出合の川原に降り立ちました。5:45ころ。

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▲横尾本谷遡行のスタートです。念のために、ハーネス、ヘルメットを装備し、靴も濡れていい靴に履き替えます。6:07ころ。

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▲歩く順番はO橋君、K松さん、Y根君、僕と一応は決めていますが、このメンバーですから、ほぼ自由。各自好きなところを歩いています。K松さんとY根君ですね。6:16ころ。

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▲二俣の手前で残雪が出て来ました。この辺りで標高は約2000mでしょうか。6:28ころ。
「私たちは2080メートルの高度の所で初めて雪を見た」
ウェストンの1891年8月6日のことです。

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▲左俣です。北穂池から降りて来て、右俣カールへと上部だけを横切ったことはあるのですが、ここから大キレットまで歩き登ったことはありません。いつか行ってみたいものです。6:36ころ。

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▲トップのO橋君がルートファインディングしながら進みます。この大岩の箇所では水流沿いに進むのがちょっと困難になっています。大岩の右を回り込むようにして越えるのです。6:51ころ。

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▲順調に高度を稼ぎます。6:57ころ。

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▲登って来た背後を振り返ると、素晴しい光景が広がっています。屏風ノ頭と前穂北尾根。7:08ころ。

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「万雷の轟きを立てて岩の滝壷へそそぐ美しい滝のかかった絶壁の下に達した時、ちょっとのあいだ、素晴しいのぼりとなった。これをよじのぼると広々とした雪原のはしに着いた」
とウェストンが記しているのはこの風景ではないかと僕は思います。滝壺は今でこそ埋まってしまったのでしょう、ありませんが、この上の広々とした黄金平に着くまでは、横尾本谷右俣では一番楽しい登りを味わえるのです。この日は見ての通りの快晴! 天空に駆け登って行くような快感を味わうことができます。7:10ころ。

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▲O橋君が快調に飛ばしています。僕も心浮き立つせいでしょう、二番手に飛び出します。7:13ころ。

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「素晴しいのぼり」の中間地点くらい。ぐんぐん高度を稼ぎ、水は転がり落ちて行っています。7:14ころ。

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▲2級くらいなのですが、手足を用いてグイグイと登って行く感覚は楽しいものですね。時折、身長の高さくらいの岩のボルダリングもあったりしますし。せいぜい3級程度ですが。7:14ころ。

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▲いよいよ「素晴しいのぼり」もフィナーレ! 7:17ころ。

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「これをよじのぼると広々とした雪原のはしに着いた。その雪原は、荒涼としてしかも峨々とした峰々の円形をした山腹に、白い斜面となってかかっていた」
爽快な急登を登り終わって、突然このような場所に飛び出したなら、誰しもがワァウォ~! と、声を上げてしまうでしょう。黄金平です。7:20ころ。

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▲この別天地でしばし休憩です。7:25ころ。
左後方のたおやかな山稜は蝶ヶ岳への長塀尾根ですね。

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▲けっこうな大休止後、再び歩き始めます。すると、ここまでも気になっていた植物が出て来ました。クロウスゴです。僕は勝手に野生のブルーベリーと呼んでいます。7:55ころ。
「谷の下部、約2100メートルの地点で、おいしいクロフサスグリが野生しているのを、ふたたび見つける」とウェストンは書いていますが、僕にはクロフサスグリは見つけられませんでした。その代わり、クロウスゴが見つかりました。例年よりも熟すのが遅いのか、まだ緑色で堅い実でしかありません。ベニバナイチゴも通常なら実が付いているころと思いますが、まだ花が咲いていました。

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▲キバナシャクナゲが咲いていました。7:57ころ。
ウェストンも1912年8月20日に横尾本谷から槍ヶ岳へのコースの途中でたくさんの美しい高山植物を愛でたようです。名前の出ているのだけでも、イワカガミ、テンジクアオイ、ハクサンイチゲなどがあり、そして、場所は横尾本谷ではありませんが「ハイマツの間に、キバナシャクナゲの群落があるのが見えた」と書き留めています。

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「その雪原は、荒涼としてしかも峨々とした峰々の円形をした山腹に、白い斜面となってかかっていた」
ウェストンが歩いた今から100年以上むかしは、この写真よりずっと雪の量が多かったのでしょう。黄金平のすぐ上の円形カールです。横尾のコルは山の稜線の最低鞍部です。8:05ころ。

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▲南南西の方角にポッコリと北穂高岳3106mの北峰に建つ北穂高小屋が見えました。8:17ころ。

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▲カールの壁を登る最後の急登が始まりました。8:27ころ。
「私たちは、ともすれば滑りがちな雪の上をのぼり、それから右の方に進み、砕けた岩をはいのぼって、尾根の割れ目に達した」
ウェストンのこの表現が実際とほぼ合致することを歩いてみるとよく分かります。写真は「右の方に進み」かけたあたりです。

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▲この斜面にシナノキンバイの小さなお花畑がありました。8:33ころ。

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▲右は北穂高岳、左の尾根が前穂北尾根ですね。北穂池はまだ隠れているようです。8:39ころ。

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▲振り返ると、富士山が見えました! 8:40ころ。
真ん中に浮かんでいる雲のすぐ左にあるのですが、分かりますか? 家で写真のコントラストを100%にすると、その形が現われました。

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▲最後の登りです。8:57ころ。
「砕けた岩をはいのぼって」の箇所ですね。これまで僕が辿り着いた稜線よりも少しだけ左へ向かっています。

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▲横尾のコルに到着です。9:04ころ。
1891年の記述は「この尾根のかなたに“槍の峰”が隠れているのがいま分った」となっています。手前の雪原のカールあたりから雨が降り出していたからです。景色は隠れていたようです。
1912年は「11時35分に、私たちは三つ目の頂点のてっぺんに登っていた。横尾大喰の端だった」と記されています。この翻訳自体には僕は確認してみなければならない問題点があると感じています。原典に接してみなければ分らないでしょう。
「大喰」とは大喰岳命名の由来にもなっているのですが、猟師の間では獣たちが集まって山草を貪り喰らう場所のことを言うようです。もともとは普通名詞で「大喰」と呼ばれる場所があちこちにあったのかもしれません。
でも、時間だけは恣意からは離れています。僕たちは3回の大休止をしながら、横尾から5時間かかりました。ウェストンたちの1912年の記録では4時間半です。幕営地は徳沢と横尾の間、横尾に近いと推測できます。ウェストンたちは朝食をとってから出発していますし、10時台の昼食休憩以外はあまり休んでいないみたいです。それにしても、ウェストンは速い! 1912年の夏、ウェストンは50歳です。ウェストン自身は1886年、24歳でマッターホルンに登頂(翌年にも再登頂)しているほどのアルパインクライマーですから、山では本当に強い人物だったのでしょう。ウィンパーによるマッターホルン初登からまだ21年しか経っていない時代に、あの若さで登頂するのですから。今の時代にマッターホルンを登頂するのとは比べ物にならない困難さのはずです。

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▲横尾のコルから来た方向を振り返ってみました。9:14ころ。
上の写真は横尾尾根、その右奥が蝶ヶ岳でしょう。
下の写真はその右に続く景色です。屏風ノ頭、前穂北尾根、北穂高岳。
矢印が2箇所を指していますが、2007年に僕とY根君、S崎君で“穂高お池巡り”をした際に越えたコルです。二つの矢印の中間あたりには北穂池があるのです。左が前穂北尾根の5・6のコル、右が南岳東南稜2652m横のコルです。
「この荒々しい峡谷を見渡す大きい馬蹄形の圏谷。穂高の巨大なバットレスと尖峰がうしろに控え、左向こうには木が茂る蝶ヶ岳の大きい山稜があり、すばらしい」
ウェストンが表現した景色はまさにここですね。

この横尾のコルまでは一般に流布しているウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートと一緒です。まあ、違い様がありませんものね。
ここからが僕の考えと大きく違って来ます。
でも、もし仮に、ウェストンがここから天狗池経由で槍沢へ下り、坊主岩小屋へ向かったのなら、彼の記録と合致しない点が数多く出て来ます。広場のような天狗原、天狗池、延々と続く槍沢のだらだらした登り、それらの表現は一切ありません。
ではどんな表現があるのかと言えば、1891年には「痩せ尾根を越える」「その峰(槍ヶ岳)はなんと恐ろしく遠いかなたに見えたことだろう!」「鞍部の北側の雪の斜面を駆け降り」とあります。1912年には「大変急で滑りやすいのぼり」「草におおわれた大喰の頭」「今日の道中でも一番てこずった斜面だ」などとあります。
天狗池経由のルートではこのような表現をするべき箇所は思いつきません。穂苅三寿雄氏による(僕の推測なのですが)天狗池と槍沢間の登山道はまだ開通していなかったとしても、困難かもしれない箇所は天狗池から槍沢へ出る部分だけです。ウェストンが書いたような表現が当てはまりそうな箇所はないのです。

いよいよここからが今回の山行の核心部分! 後半の報告を楽しみにして下さい。

続きは http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/90987e2ba8899c8a809731fa0003e252


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