ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

熊本地震の4ヶ月後、近見と熊本城の現状

2016年09月24日 | 熊本起点の旅や遊びなど

2016/8/16  今年の熊本への里帰りは短期間になってしまいました。行きには長崎の叔母さん宅に寄りましたし、帰りは京都を巡ったりしたいと思っていますから、結局、熊本では5泊しかできませんでした。

しかも、これまでは必ず実行していた熊本滞在中の登山も計画すらできませんでした。その理由は熊本地震です。地震の影響でいまだ熊本から阿蘇への鉄道が不通になっているからです。夏なので、せめて標高1000mくらいはある山に登りたいですよね。阿蘇方面以外で鉄道等を使っていける山は標高数100mくらいしかありませんから、暑くてたまらないのです。

登山は実行できませんでしたけれど、是非行ってみたい場所がありました。熊本城です。ですから、熊本に来た翌日すぐに訪れました。ともかく実際に自分の目で見てみたかったのです。

家を出て、バス停に向かう道々にも、地震の爪跡は残っています。

 
▲実家のそばの市道沿いの商店は大打撃を受けていました。12:15ころ。


▲歩道沿いの植木の囲いもこんなに砕けてしまっています。12:15ころ。


▲先ほどのビルのお隣りのビルですが、折れて、曲っています。12:15ころ。


▲この電柱、どこか可笑しいと思いませんか? 12:17ころ。


▲この電柱なら分かりますよね! そうです。沈んでしまっています! 住所表示は普通、目線の高さにありますよね。12:18ころ。


▲以前からこの石柱の表示の意味が分かりませんでした。「大正八年十月架?」「近見橋」と書かれています。確かに、幅1m半ほどの溝のような流れはあるのですが、それに架かっていた橋を記念して石柱を立てるとは思えません。今回、地震に付随して報道された記事を読んで合点がいきました。それは熊本市内を流れる大きな河川、白川と緑川、その二つを結ぶ流れがこの市道付近を流れていたそうなのです。そこに架かっていた、それなりの大きな橋が大正時代にはあったのでしょうね。12:19ころ。

この辺りを川が流れていたとすると、川砂が堆積しているのは当然のことかもしれません。それで、この付近に集中して地震による液状化現象が起きていたのです。


▲このお店も営業再開できないままなのですね。割れたガラスもそのまま放置してあります。12:21ころ。


▲残ってる溝のような流れがこれ。4ヶ月たっても路肩が補修されていません。12:23ころ。


▲日吉小学校の前にあった文房具屋さんには「危険」を示す赤い紙が貼られていました。「地盤の沈下。建物の著しい傾斜」がその理由です。12:25ころ。


▲建物と建物の隙間を覗いて見ると、大変なことになっています。12:27ころ。


▲日吉小学校の正門。一見、何事もないようですが・・・・ 12:25ころ。


▲玄関の様子です。だいぶん綺麗に整えたのでしょうが、盛り上がっていますね。12:28ころ。

バスに乗り、交通センターへ行きました。途中、工事中のシートで覆われた建物が普段より多いような気がしました。熊本随一の繁華街である通り街でも、地震の影響で閉店している店もちらほらとありました。
そして、熊本城へ向かいます。


▲最初に目に飛び込んで来た惨状がこれ。14:21ころ。


▲近づいて見ると建物も崩れ落ちたのですね。国指定の重要文化財、北十八間櫓、東十八間櫓、五間櫓です。14:31ころ。


東十八間櫓の南側石垣が民間駐車場へ落ちたのだそうです。その石をここへ運び、石の位置などを記録し、復旧に備えています。14:39ころ。


戌亥櫓と崩れた石垣。14:43ころ。


▲あまり人目につかない場所もこんな感じで崩れていました。14:43ころ。


▲このように観光客も通れるようにしてくれてあります。14:43ころ。


熊本城でいちばん好きな宇土櫓。昔のままの姿を保っている国指定の重要文化財です。右につながっている部分が潰れてしまいました。14:46ころ。


▲ちょっとした石垣もこんな状況でした。14:50ころ。


▲天守閣の周囲をドローンが飛んでいました。お城の現状を撮影し、調べているのでしょう。14:51ころ。


▲大天守と小天守。14:52ころ。


▲小天守の土台もこんな状態です。14:54ころ。


▲西大手門。角の石垣でかろうじて支えられていますね。14:58ころ。


▲戌亥櫓と石垣を先ほどとは違う角度から写しました。15:00ころ。


戌亥櫓も角の石垣で支えられていました。15:05ころ。


戌亥櫓から西大手門に続く長塀も崩れてしまいました。15:11ころ。


▲二の丸駐車場のトイレにも「要注意」の黄色い紙が。15:18ころ。


▲調べたのですが、この櫓がどこかは分かりませんでした。15:22ころ。


▲飯田丸五階櫓を支える工事が始まっていました。15:25ころ。


▲馬具櫓だと思います。15:32ころ。

お城のガイドさんがお客さんに「市役所の14階からよく見えますよ」と話すのが聞こえましたから、行ってみることにしました。


▲飯田丸五階櫓が見えていました。15:38ころ。


▲熊本市役所14階の展望ロビーに上がってきました。15:47ころ。


▲熊本城の全貌を見渡せます。レストランもあるので、思いのほか穴場ですね。15:49ころ。


飯田丸五階櫓は手前角の石垣一列だけでかろうじて支えられていましたから、応急処置が進められていました。15:49ころ。


▲本丸御殿大広間は外見だけを見る限りでは大丈夫そうでした。15:51ころ。

交通センターへ戻り、バスで家へ。


我が家のお墓はそれほどの被害はなかったのですが、周囲には大変なお墓があったようです。
まだ手付かずのお墓もあって、どうにかしてあげられないかと思ってしまいます。17:45ころ。


▲倒れたままになっている墓石がたくさんあります。元に戻すにも、確かに重くて大変。こんな実情なのも、仕方がないと思います。遠くに住んでおられたり、ご高齢だったりするのでしょうね? そのままなのを責めることは出来ません。17:50ころ。


▲近見神社の鳥居もこのありさまでした。17:51ころ。


▲鳥居の上のこれが落ちたのです。17:51ころ。


▲「支那事変記念碑」の大砲の弾でしょうか? 落ちてしまいました。17:52ころ。


やっぱり実際に自分の目で見ると、その大変さがよく理解できます。今後も長く見続け(見守り続け)て行きたいと思います。


青春18きっぷの旅/帰京編。初日は長距離移動で明石まで。ちょっとだけ三原城址を見学

2016年09月21日 | 帰省の途中旅

2016/8/20  この夏の熊本滞在は短いものとなってしまいました。もっとゆっくりと居たかったのですが、長崎にも二泊しましたし、仕方がありません。
前回から帰京時には京都に長逗留(と言っても2泊とか3泊ですが)することにしました。今回も3泊したかったのですが、20(土)~22(月)の日程ではどうしても20日の宿代がすごく高くなってしまいます。京都の手前で、格安ホテルを探したのですが、京都府内や大阪府内、さらには神戸周辺までは全然安くはなりません。やっと明石になって、我慢できるほどの価格になりました。

この夏から、実家の近所に今春完成した「西熊本駅」を使うことが出来ます。これまでは熊本駅まで早朝、車で送ってもらっていたのですが、徒歩で駅まで行けるようになりました。
西熊本駅5:44発です。熊本、荒尾、小倉、下関、徳山、岩国、三原、東岡山、姫路と乗り換えをします。明石駅に到着するのは19:50。この夏最長の乗車時間です。


▲三原駅での乗り換え時間が29分間ありました。そこで、駅に隣接した三原城址へ。お堀の一部が残っていました。15:48ころ。


▲北を眺めると、三角の山が見えます。桜山です。なぜ知っているかって? 実はこの山の麓の学校に通っていたのです。登ったこともありますよ。15:49ころ。


▲三原城址にはお堀跡はありますけれど、天守閣とか、櫓とか、その土台とかは残っていません。公園のようになっていました。15:51ころ。


▲この城は小早川隆景の築城です。沼田川河口の小島をつなげて建てた城ですから、城でもあり、軍港でもあるような特殊なお城だったようです。ですから「浮城」とも呼ばれていました。15:52ころ。


▲三原名物の「たこめし」を買いました。16:01ころ。


▲煮ダコが美味しい駅弁です。16:02ころ。

明石のホテルには20時過ぎに到着です。少し休憩して、外へ食事に出かけるのですが、もう閉まっている店も多く、なかなかこれぞというお店が見つかりません。商店街に入って、灯りが点いている狭いお店がありました。そこに入ることに。
お店も美味しくて良いところでしたが、カウンターでお隣りに座った方がいい方で、明石のことをいろいろと教えていただきました。その件は、また明日のブログで。


熊本への青春18きっぷの旅、第3日目は長崎の親戚宅へ。4日目はお墓参り、5日目に有明海をフェリーで熊本へ

2016年09月19日 | 帰省の途中旅

2016/8/13  今日は完全なる移動日です。西条を6:02に出発して、岩国では39分間の待ち時間がありましたから、駅の外のパン屋さんに朝食を食べに行きました。ここは少しですがイートインのテーブルもあり、コーヒーもあるのです。このパン屋さんは朝早くから開いているので、以前にも2回ほどお世話になったことがあったのです。
さらに下関、小倉、鳥栖と乗り換えました。
そして、長崎県へ。


▲この駅で下車しました。すごい田舎の駅のようですが、長崎市内です。市布という名前の駅。16:41ころ。

この駅から30分くらいはかかったでしょうか。S子の叔母さんの家を訪ねました。

2016/8/14  叔母さんの家に泊まらせてもらい、翌日はS子の叔母さんや従弟夫婦とともにお墓参りをしてきました。


▲駐車場から坂道を登って、いちばん上のお墓でした。叔母さんの旦那さんが眠っています。18:19ころ。


▲長崎のお墓には必ずこの「土神」も一緒に祀ってあります。「どじん」と読むようですが、一般的には「つちがみ(さま)」と呼ばれています。中国の風習が長崎の地にも根付いたもののようですね。18:29ころ。

お墓に一緒に行った従弟さんは叔母さんの息子さんですが、夜、もう一人の息子さん(長男)も訪ねて来ました。そして、泊まります。僕たちももうひと晩お世話になりましたから、叔母さんも嬉しかったでしょうね。

2016/8/15  朝食をいただき、9時過ぎには叔母さんのお宅を後にしました。諫早で島原鉄道に乗り換えます。


▲島原鉄道は一両編成です。諫早駅発10:36。10:32ころ。


▲分かりますかね? 諫早湾の潮受け堤防が見えるのですが・・・・ ちょっと分かりにくいですね。11:07ころ。


▲途中の多比良町駅のホームにはサッカーボールの石碑がありました。ここはあの国見高校の最寄駅なのですね。こんな田舎だったんだ! 11:23ころ。


▲終点の島原外港駅に到着です。11:50ころ。

ここで昼食をいただくことに。見回したり、人に聞いたりしても近くにはあまりたくさんお店はないようです。わりと近くに「島原かまぼこセンター」があり、2階がレストランになっているそうなので、そこへ行きました。


▲これは「かんざらし」。「しらたま団子」のことで、汁は甘いです。S子が注文。12:37ころ。


▲僕が頼んだのは「具雑煮定食」。右の鍋がその具雑煮ですが、天草四郎が籠城した際に具雑煮を作らせたそうです。まあ、こんなに贅沢な具は入っていなかったはずですが。12:45ころ。


▲S子が頼んだこれは何だったかな? 12:49ころ。


▲フェリーが港に入ってきました。これにはまだ乗りません。13:17ころ。


▲港を出港です。背後には眉山が屏風のように広がっていました。この山は江戸時代の「島原大変肥後迷惑」の主役です。眉山が山体崩壊を起こし、海へ大量の土砂が流れ落ちることで、向かいの熊本へ大津波が襲来したのです。島原では1万人、肥後では5000人の死者が出たと言われています。13:53ころ。


▲眉山の左後ろから雲仙岳が姿を見せました。13:55ころ。


▲今度は進行方向に熊本の山々、おそらくは金峰山などが見え始めます。14:18ころ。


▲熊本港に着きました。僕たちが乗って来たオーシャアロー号です。14:33ころ。

港のバス停にバスが停まっていました。とりあえず乗ったのですが、どこで降りると最も実家に近いのかがよく分かりません。そもそもどのルートをとるのかもよく分かりません。結局、熊本駅で下車し、タクシーで実家まで行きました。港からタクシーで行った方が多分安上がりだったような気が。

この日はちょうど僕の誕生日で、Y美子さんやMちゃんにサプライズの誕生日祝いをしてもらったのにはビックリでした。人生での初体験でした。有り難う!


熊本への青春18きっぷの旅、第2日目は笠岡市の我が母校を訪ねて西条へ

2016年09月17日 | 帰省の途中旅

2016/8/12  初日に滋賀県までしか進んでいませんから、二日目もそれなりに進まなければなりません。ムーンライトながらに乗れなかった影響がこんなところにも出て来ます。
今夜の宿は東広島市の西条ですから、途中どこかへ立ち寄る時間はあまりありません。S子には申し訳ないのですが、僕の個人的な郷愁の旅に付き合ってもらうことにしました。 

南彦根は7:30の比較的遅めの出発でした。近江八幡、姫路、相生、岡山と乗り換え、僕たちが行ったのは・・・・


▲ここは笠岡駅。おそらく笠岡といってもほとんどの方は御存知ないでしょうね。12:33ころ。

岡山県のいちばん西の端、広島県寄りの町です。


▲笠岡が全国に誇れるものの一番はカブトガニ。カニとは言われていてもカニの仲間ではありません。クモやサソリに近い動物だそうです。5億数千年前に出現し、2億年前には現在と同じ形態だったようです。ですから、「生きている化石」とも言われています。12:35ころ。


▲僕が笠岡に住んでいた小、中学生のころはこの地図中央の「笠岡干拓」はまだ着工もしていませんでした。左端の「日本鋼管福山製鉄所」が出来始めていたころです。僕自身は中央の水路のような場所の右、「横島」に最初は住み、「笠岡干拓」に移り住みました。「笠岡干拓」の社宅がまだ完成していませんでしたから、それまで「横島」に住んだのです。でも、すぐに移ることは明確でしたから、小学生の僕は笠岡駅そばの小学校に越境入学することになったのです。越境入学は反則なのですが、どうやら当時はまだ存在していた「米穀通帳」を操作し、他人の住所に移すことで、形式的には越境入学ではなくしたようです。「横島」はほとんどが田んぼの田舎でしたから、近所の子供たちとの付き合いや初めてのバス通学など、色々と楽しい思い出があります。12:36ころ。


▲笠岡駅前ロータリーです。昔がどうであったかの記憶は薄れてしまいましたけれど、こんなに広くなかったことだけは確かですね。12:43ころ。


▲この通りが昔の中央通りです。親父の勤務していた銀行の建物はなくなっていました。12:48ころ。


▲中央通りはアーケードの商店街だったのですが、奇跡的にこの写真の部分だけが残っていました。一軒一軒のお店も昔のままのようですが、シャッターが閉まっている店も多いようでした。まだやっているのでしょうか? 12:50ころ。


▲市役所横のにこにこ食堂で昼食をいただきました。ここは障がい者が就労している食堂です。値段も安く美味しかったですね。13:09ころ。


▲にこにこ食堂の外観。13:37ころ。


▲僕の卒業した小学校です。13:38ころ。


▲昔の記憶はあやふやですが、これほど綺麗でなかったことだけは確かです。13:42ころ。


▲僕が通っていたころの小学校の校門がこれです。子供のころは知らなかったのですが、笠岡は江戸時代は徳川の直轄領だったそうで、ここに代官所があったのですね。明治になると、廃藩置県によりこの地域は小田県となり、笠岡に県庁がおかれました。代官所が県庁になったのです。小田県が岡山県に合併された翌年には、ここに小学校が移され、この門が小学校の校門になったというわけ。僕もここをいつも通っていたのです。13:43ころ。

でも、現在はこの門は使われていないようです。その理由は次に。


▲上記の古い門の数10m左にごく普通の校門があります。そこを入って校庭や校舎を写したのがこの写真。今はこの小学校は「笠岡小学校」なのですが、僕の通っていたころは「笠岡東小学校」と「笠岡西小学校」に分かれていたのです。この写真左に講堂が見えますが、その講堂の左から写真の右手前に向かってさほど高くない木の塀があって、東小と西小に分断されていたのです。雪が降ると、小石を入れた雪玉で雪合戦をしていたものです。ちなみに僕は東小。13:46ころ。


▲何十年ぶりの小学校訪問のあと、再びさっきのアーケード街に来ました。どうしてこんなボロなアーケードが残されているのでしょうか? これから僕の住んでいた家を探しに行きます。14:01ころ。


▲山陽本線の踏切。昔と同じですね。まだSLが走っていたころです。14:06ころ。


▲トンネルは昔と同じですが、高架道路が出現しています。県道60号線のようです。14:11ころ。


▲この伏越港は昔からありましたけれど、港湾の広さが倍以上になっていました。小さな漁港のようでしたが、今では漁港といった様子は見えませんね。白石島と北木島へのフェリーが就航しているようです。14:12ころ。


▲僕がいたころはこの「笠岡干拓」にポツンポツンと家が建っているだけでした。親父もゴルフの練習を家の前の干拓地でしていました。打ちっ放しなのです。僕がそのボールを拾う係でした。今は違います。建物だらけです。風景がまったく変わってしまっていましたから、近くの国道2号線や山との距離感から大体の見当を立て、探してみると、ありました! まさかあるとは思っていなかった僕の住んでいた家がまだ残っていたのです! 14:17ころ。


▲これがその家。人は住んでいないようです。建築関係の会社の小さな置き場になっているのでしょうか? 門は広げられ、建物の右端には昔はなかった入り口が作られていました。14:18ころ。


▲家の玄関も昔と同じままでありました。14:19ころ。

まさか数十年前の家がそのままの形で残っているとは思いませんでした。
庭で飼っていた犬の太郎のことや、庭の植木や花や野菜のこと、縁側に寝っ転がって見物した花火大会、たくさんの思い出が脳裡をよぎります。


▲駅へ戻ります。伏越港には白石島へのフェリーがとまっていました。見えている山は笠岡城が建っていた山です。村上水軍で知られた能島村上家の要害として造られた山城でしたが、明治時代に干拓のため山頂部分が削られて城の遺構はほとんど残っていません。14:26ころ。


▲「笠岡湾干拓」が見えています。遠くには工場群の煙突が林立しています。14:26ころ。


▲中学は電車通学でしたから、この道が僕の通学路でした。14:43ころ。


▲昔はこの踏切付近で自分が乗る列車によく追い抜かれたものです。そんな時には、この踏切から線路に入り、線路内を走ってホームに駆け上がるのです。すでにスタートしている列車をホーム上で追い駆け、追いついて、デッキの鉄の棒を掴んで飛び乗るのです。今と違って、列車の乗車口は自動で閉まる訳ではなく、いつも開いていますから、そんなことも可能だったのです。
その逆に、下車の際も飛び降りなどよく(毎回)してましたね。14:46ころ。

笠岡とはこのあたりでお別れです。東広島市の西条に向かいますが、笠岡からはそれほど遠くはありません。


▲西条駅です。初めて降りる土地ですが、僕のイメージよりずっと新しい大きな街でした。16:40ころ。

駅前の大きな通りを市役所の先まで歩き、今宵のホテルに入りました。
観光パンフレットを読み探して、夕食の場所を決めます。ゆっくり休んでから出かけましたが、第一候補の店は予約なしでは無理なお店でした。昨夜の居酒屋さんでは酷い想いをしたので、今夜は心地よく美味しいお店に入りたいものです。


▲入ったお店は駅前の『しょうの助』。店内の雰囲気はいいですね。18:41ころ。


▲右は広島名物の「がんす」です。左は上品に薄味付けされたオクラ。18:49ころ。


▲カルパッチョです。18:54ころ。


▲カマンベールの天麩羅。どんな味がするのか、興味深かったので食べてみました。19:15ころ。


▲黒酢入り酢豚。丁寧な作りですね。19:20ころ。


▲広島風お好み焼き。僕は大阪風が好きなのですが、せっかく広島にいるので。19:43ころ。

とってもいいお店でした。地酒を頼みましたが、賀茂泉、賀茂鶴、関西一、どれも美味しかったです。
昨晩の居酒屋が散々でしたから、今晩こそはと思っていました。いいお店で本当に良かった! 価格的にも満足度と比較すればとっても安価に収まりました。
せっかくの旅です。その土地の美味しい料理とお酒を味わいたいものですね。


熊本への青春18きっぷの旅、第1日目は長浜城

2016年09月14日 | 帰省の途中旅

2016/8/11  今年の夏休みも、恒例の青春18きっぷの旅! 前もって計画を立てることが出来なかったものですから、大垣行きの「ムーンライトながら」の座席指定券(青春18きっぷも使用可)は購入できませんでした。利用する電車の出発日の一ヶ月前に発売を開始するのですけれど、すぐに完売してしまいますから、7月14日とか15日になって買おうと思ってももう無理なのです。

そんなこともあって、東京(拝島)を始発電車に乗ってスタートしました。
立川、武蔵小杉、横浜、熱海、静岡、掛川、豊橋と乗り換えながら、12:46に大垣に着きました。そして、ここで駅の外に出ました。青春18きっぷの旅のいいところは自由に駅の外に出られること。駅ビルの上階にある『日本海庄や』で昼食。
再び、14:10の電車に乗って、米原で乗り換え、長浜へ向かいます。

この米原駅では過去20数回、30数回と乗り換えをしていますけれど、いつも東海道本線から外れることはありませんでした。ですから、僕としてはいつもいつも北陸本線へ乗って行きたくて仕方がなかったのです。
今回、初めて北陸本線に乗りました。ただ、ほんの僅かだけ。9分間だけですが・・・・


▲15:10長浜駅到着。駅から長浜城の天守閣が見えました。15:19ころ。


▲駅から降りるエスカレーターで「関西に来たんだな~ぁ」と実感します。皆さん、右側に並んで立っています。15:19ころ。


▲なんとなくお城っぽい長浜駅。15:22ころ。


▲お城の手前に広がる公園にニホンザルが飼われていました。何故そこに居るのか知りませんが、ちょっと寂しそうな表情をしているようでした。ネットで調べると、滋賀県はニホンザルによる農作物被害に悩んでいるようです。そんな関連で、ここにいるのでしょうか? それとも長浜は豊臣秀吉との深い因縁がありますから、織田信長から「サルめ!」と呼ばれていたことにちなんで居るのでしょうか? 15:26ころ。


▲まだ羽柴秀吉と名乗っていたころ、初めて一国一城の主となってこの地に来た豊臣秀吉がこの長浜城を築きました。その後1615年に廃城になりますが、その石垣や櫓材は彦根城などへ移されたのだそうです。15:30ころ。


▲南西の方角を望むと琵琶湖が広がっています。安土城跡や彦根城、佐和山城跡も見えるようですね。16:33ころ。


▲遠く伊吹山1377mが見えています。いつか登りたい山ですね。長浜駅も見えています。関ケ原や姉川の古戦場もすぐ近くです。16:36ころ。


▲どれが井戸なのかよく分からないのですが、「太閤井戸」と呼ばれています。秀吉が長浜城を築城した際に掘った井戸だそうです。今は渇水期のようで、水面から出ていますが、普段は水に没しているのだとか。16:50ころ。

長浜城跡を後にして、長浜駅に戻りました。


▲長浜駅伊吹口にある「秀吉・三成出逢いの像」を見てきました。17:10ころ。

この像は長浜城主だったころの秀吉がまだ少年の石田三成に出逢い、見出した際のエピソードを表現したものです。鷹狩の途中、とある寺に立ち寄った秀吉に寺小姓だった三成がお茶を持ってきてあげるのですが、汗をかいている秀吉の様子を見て、一杯目を大きな茶碗になみなみとぬるいお茶で出したのです。秀吉がもう一杯所望したところ、最初より少しだけ熱めのお茶を半分ほどついで出しました。さらにもう一杯頼むと、小さな茶碗に熱めのお茶を出したのです。秀吉は茶の出し方ひとつにもこれほどの気配りができる少年・三成をいたく気に入り、召し抱えることにしたのです。「三献の茶」と呼ばれる有名な話です。


▲電車の時刻まで少し時間がありましたから、ちょっと小腹も空きましたし、駅の土産物店で純米吟醸酒・御代栄「近江米のしずく」を子持ちの鮒ずし肴で飲み食いしました。鮒ずしを食べたのは初めてなのですが、さほど臭みも気にならず、美味しくいただけました。
相変わらず食欲がまさってしまい、ほとんど食べ終わってからやっと気づいて写真を撮った次第・・・・ 17:33ころ。


▲今宵の宿は南彦根駅から15分ほど歩きます。駅から湖西の山並みに沈む夕陽が綺麗でした。18:38ころ。


▲ホテルで教えてもらった居酒屋さんがお休みでした。駅から来る途中で見た『昭和食堂』へ。昭和レトロな店の雰囲気は心地よかったのですが、料理やお酒はいまいちです。それに最悪なことにすぐ近くの客席で大勢の若者たちが大声で「王様ゲーム」をし続けていました。「口と口のキスはなしだからね」と最低限の節度は守っているようでしたが、店内の雰囲気が悪くなるのは当然の流れ。店側から注意をしてやめさせて欲しかったですね。20:21ころ。