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ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

お盆山行4日目 ――― のんびりと上高地へ

2022年09月18日 | ハードハイク/北アルプス

朝目覚めて、いちばんの心配事は自分の脚の疲労回復度合いでした。昨日の横尾本谷右俣で受けた大ダメージが残っていたら、この日の行程も辛いものになりそうですからね。本当のところは実際に歩いてみなければ分かりませんけれど、起きて周辺を歩いた感じでは、脚には疲労が残っていないように思いました。

 

天気も良く、ただ歩いて上高地に帰るだけの日を楽しくしてくれそうです。雨が降っていたりすると、ただ黙々と修行のように歩くだけになってしまって詰まらないですからね。

 

2022年8月14日(日) ババ平~上高地

▲6:20。槍ヶ岳は見えませんが、北西方向を見ています。正面の稜線は東鎌尾根ですね。

 

▲6:21。テントも撤収し、いよいよ下山です。

 

▲6:33。途中、赤沢岩小屋がありました。ウェストンもここで野営したそうです。僕も泊まりたいものですが、今は禁止されています。

 

▲6:52。槍沢ロッジで小休止。(撮影:K野)

 

▲6:55。ロッジのそばに槍ヶ岳が見える場所があります。かっこいいですよね。

 

▲7:05。槍沢水力発電所です。国立公園内なので、小規模な設備しか作れないそうなのですが、それでも約300ワット時までに発電量もアップし、山小屋全体の5~10%の電力を賄っているそうです。

 

歩いてみると、いつも通りに歩けました。昨日は半歩半歩恐る恐る歩を進めたのですが、この日は一歩一歩普通に歩けます。もし、何かに躓いても踏ん張って体勢を立て直せると思いました。もちろん、躓かないよう細心の注意は払っていますけどね。さほど急いではいませんが、槍沢ロッジ~横尾間をコースタイム1時間20分のところ1時間ちょっとで歩けました。

 

▲8:11。横尾からの光景です。今回は登れなかった前穂北尾根も見えています。写真の中では8峰には登ったことはありませんが、他はS子と登っています。S子と二人で奥又白池からA沢を登って前穂高岳に至り、前穂北尾根を下降して、5・6のコルから奥又白池まで戻ったりもしました。

 

▲8:37。横尾でゆっくりと休んで、徳沢へ歩き始めると、ニホンザルの親子が反対から歩いて来ました。登山者と同じように当り前に歩いています。思わず「こんにちは」と挨拶してしまいそうなくらい平和に歩いています。

 

▲8:38。K野さんがカメラを向けても、まったく動じません。

 

▲8:47。前穂東壁が真正面に大きく広がっています。S子と二人で登攀できるルートがないかと調べたこともありますが、全体的にレベルが高くて、僕たちには無理そうでした。唯一、前穂東面の外周ルートを歩いただけです。奥又白池~A沢~三本槍~前穂北尾根下降~5・6のコル~奥又白池、です。

 

▲9:36。徳沢でもゆっくりと休憩しました。カイツブリ(だったかな?)がたくさんいて、草原を歩いたり、小川で泳いだりしています。その姿をK野さんがカメラで追いますが、すばしこくてなかなかシャープに撮れません。

 

▲9:45。徳沢のすぐ先で明神岳の眺望が良い場所がありました。恐らく左のピークが明神5峰だと思います。明神岳の主峰がどれだかよく分かりません。ガスの中なのかもしれません。

 

▲10:20。明神のすぐ手前で、この景色に出会います。右の丸いピークは長七ノ頭でその左下のコルにひょうたん池があります。S子も含めて4人で明神岳東稜を登った際に、池の畔でテントを張りました。池の水は使わずに担ぎ上げました。左の尖ったピークは何番目のピークなんでしょうか? 4峰くらいでしょうか? とにかく主峰はガスの中です。

 

▲11:09。河童橋まで戻って来ました。観光客の方が圧倒的に多くて、大きなザックを背負って汗臭い登山者は異質な存在です。

 

▲11:10。河童橋の向こうに岳沢が見えています。奥穂高岳を中心に吊尾根西穂への稜線が見えるはずなんですけどね。奥穂南稜、コブ尾根、畳岩などもまったく見えません。(撮影:K野)

 

▲11:19。上高地のバスターミナルに到着しました。バスに乗るために大勢の人が並んでいましたから、僕たちもとりあえず列の最後尾に付きました。

 

さわんどBTへ着き、車の場所へ行きました。そして、とにかくお風呂です。そして、島々の竜島温泉せせらぎの湯へ。僕たちが入ってから少しずつ増えて来ましたが、静かでこじんまりした良い温泉でした。入湯料は520円。

帰路は渋滞との競争でもあります。大月辺りからだったのでしょうか? 下道に降ります。時々寝てしまった僕なんかとは違い、S﨑君はずっと運転、有難いですね。解散場所は高尾駅。高尾駅そばの中華料理店『龍縁』で夕食。僕とK野さんはアルコールも摂取! 安くて、ボリュームもあって、美味しいお店でした。高尾で下山後の反省会をするならお薦めのお店ですね。

翌日は筋肉疲労が相当ありました。でも、小同心クラックの時ほどの疲労感はありません。このレベルの山行は8年ぶりくらいですから、僕の肉体への負荷は強かったですね。年に1、2度は体をこのレベルに慣らさないといけないと感じます。『龍縁』では大量のクミンシードがまぶされた肉料理が美味しくて印象的でした。で、家でも安いアメリカ産豚肉ステーキにクミンシードをたっぷりまぶして、焼いて食べました。 インパクトがあって美味しいですね。


お盆山行3日目 ――― 最初の予定通り横尾本谷右俣を登りました。でも、僕の脚の筋肉は大ダメージ!

2022年09月09日 | ハードハイク/北アルプス

前日の天気予報から判断して、この日は雨の中、涸沢から徳沢へ降りるだけの日だと考えていました。ですから、前の晩は夜中まで楽しく語り合い、僕なぞは無制限に飲み続けていました。朝早く起きた僕は、涸沢ヒュッテのトイレへ向かいます。懐電で足元を照らしますが、僕は石畳の道をフラ~リ、フラリと歩きます。完全なる二日酔いです!

 

2022年8月13日(土) 横尾本谷右俣~ババ平

▲5:24。意外や意外! 吊尾根や奥穂の斜面には陽が当たっています。

 

▲5:41。北穂は明るく輝き、青空も広がっています。

 

▲5:47。こんな天気なら前穂北尾根も登れるんじゃないかと思いました。でも、その時点での予報は午前中は霧、昼からは雨も降るというもの。今の晴れ間も何時雲の中に隠れてしまうか信用できません。天気予報には翻弄され続けていますからね。それに、前穂北尾根の登攀には僕たちにとってはそれなりの覚悟が必要ですから、一旦緩んだ緊張感はそう簡単には戻りません。

 

という訳で、この日の計画を横尾本谷右俣に変更しました。変更というよりは、当初の計画通りに戻したのです。午前中が霧程度なら雨が降る前に横尾本谷右俣を登り切ることが出来るでしょうからね。という訳で、6時1分、K野さんから会に対しての山行計画変更のメールを次のような文面で送りました。「少し雨にふられそうですが、本日、横尾本谷右俣、天狗池経由で徳沢を目指そうと思います」

 

6時ころには涸沢を出発しました。天気は凄くいいですね。ただし、僕は二日酔いでフラフラしています。でも、僕はこんな経験は何度もしていますから、1時間も歩けば回復すると分かっています。でも、これまでいろんな件で高齢の影響か、予想通りに行かなかったことが多々ありましたから、二日酔いに関してはどうだろう? と一抹の不安はありましたけれどね。

 

本谷橋への急な下りが始まる手前で横尾本谷へ下降しなければなりません。それも涸沢出合に下降できればベストです。その下降点は山行初日に確認しておきました。この日僕は二日酔いですから、先頭を歩いていたんですが、足元ばかりしか見ることが出来ていませんでした。ベストな下降点を通り過ぎてしまっていました。K野さんもS﨑くんも気付いていたそうですが、僕に別の考えがあるんだろうと、思っていたんだとか。あまりどんどん下って行くので、僕に声を掛け、僕自身も気付き、適当な場所から横尾本谷に下降しました。

 

▲7:26。この写真が下降地点の横尾本谷の景色です。僕が知っている涸沢出合とは違う景色でした。K野さんがGPSの地形図で確認してくれ、涸沢出合より300mほど下流だということが判明。まあ、本谷橋から横尾本谷を歩いたこともありますから、問題はありませんけれどね。ここで小休止。朝食を食べたりしました。僕の二日酔いもほぼ回復しています。ホッ!

 

▲7:50。横尾本谷を涸沢出合に向かって進みます。

 

▲7:58。ここが涸沢出合(写真の左から涸沢が始まっています)ですね。僕たちはもちろん横尾本谷を進みます。

 

▲8:14。横尾本谷の遡行と言っても沢装備は特別に必要ありません。ヘルメットを被っているだけです。

 

▲8:57。横尾本谷左俣です。ここはまだ歩いたことがありません。一度は歩きたいですね。大キレット付近に詰め上がります。例年ならこの手前で雪渓が少し残っているはずなんですが、今年はありませんでした。

 

▲9:11。こんな滝も時々出て来ます。

 

▲9:25。一ヵ所、直登が嫌らしい滝が出て来ます。滝の直下までは行ったのですが、引き返して左岸に回り込みました。古い残置のロープが垂れ下がっていました。重荷を背負っていると、ロープを掴んでいても、思いのほか嫌らしい登りです。S﨑くんも苦労したようですね。僕はS﨑くんの腕も掴んでやっと登れました。

 

▲9:57。写真ではちょっと分かりにくいと思いますが、が湧きだしています。冷たくて美味しい水です。ここで小休止。

 

▲10:05。ベニヒカゲ?(撮影:K野)

 

▲10:14。こんな感じの急登をぐいぐいと登って行きます。青空のもと、快感を伴う易しい登攀が続きます。

 

▲10:21。水も転がり落ちて行ってます。

 

▲10:22。こんな傾斜。

 

▲10:25。突然傾斜が消えて、平坦な地形に飛び出します。

 

▲10:26。ここからが黄金平です。後ろには屏風ノ耳、屏風ノ頭が見えています。

 

▲10:38。ミヤマリンドウ? あちこちでたくさん見ました。小さいですけど、とても可憐で綺麗な花です。(撮影:K野)

 

▲10:42。3人ともこの情景の中、横尾本谷右俣黄金平の自然に酔い痴れています。素晴らしい大自然です。

 

▲11:02。黄金平と上部カールの間にはモレーンがあります。そのモレーンの斜面には灌木が生い茂って僕たちの行く手を阻んでいます。S﨑くんがルートファインディングして先行します。僕は途中で別のルートを辿ろうとしましたが、あえなく密な灌木に敗北して、断念。S﨑くんの辿ったルートに戻りました。

 

▲11:20。灌木に覆われたモレーンを抜けると、岩だらけのカールに出ます。

 

▲11:36。写真の右上のコルのような場所は、昔、穂高お池巡りをした時に、横尾本谷左俣から右俣に抜けた際に通った場所です。

 

▲11:38。この場所に来るのは5、6回目ですけれど、雪がまったく無いのは初めてです。雪渓がないと、歩くのが大変です。(撮影:K野)

 

▲11:44。写真中央の最低コル付近に突き上げる予定です。右の尾根は横尾尾根。

 

▲12:03。雪渓が全く無いばかりでなく、伸びている草の背丈が高くなっています。そのせいで足元がよく見えません。浅い溝があったり、岩があったりしますから、見えないととっても歩きにくいんです。雪渓が融けたのが早かったんでしょうね。

 

▲12:12。前穂北尾根から屏風ノ頭、右にはすぐ近くに北穂高岳が見えています。北穂の小屋もよく見えました。それはともかく、僕の頭頂部は薄くなっていますね。(撮影:K野)

 

▲12:37。最後の急なザレ場を登ります。手前は僕、向こうにS﨑くんが見えます。S﨑くんはここは2度目(S﨑くんは穂高お池巡りでここのカールから上には訪れたことがあるのです)ですから、もっと左から登ろうとしています。(撮影:K野)

 

▲12:49。写真では分からないと思いますが、かなりの急登で、注意深く歩かないと落石を起こすどころか、自分自身がずり落ちて行ってしまいます。

 

▲13:21。稜線直下の岩場を登るK野さん。

 

▲13:22。写真中央に僕の姿が見えていますね。最低コル目指して右上しています。(撮影:K野)

 

▲13:29。僕が先に最低コルに着きました。さすがのK野さんも彼の重いザックでの急登はきつかったのでしょう。

 

▲13:39。S﨑くんはもっと前に着いていました。本来ならガスの中に槍ヶ岳が見えるはずなんですけどね。(撮影:K野)

 

最後の急登は毎回きつく感じます。今回もそれは同様ですけれど、とりわけ登高スピードが遅くなるわけでもなく、K野さんよりも先に登り切ることも出来ました。ところが、どの時点でだったかは忘れましたけれど、僕は自分の肉体、脚の状態の異変に気付いたんです。おそらく、登山道を下り始めてすぐだったと思います。どのような異変かと言うと、脚が疲労困憊していて踏ん張る力が残っていないんです。ちょっとでも躓いたりすると、体勢を立て直す余力がなくて、そのまま転んでしまいそうなんです。ですから、一歩一歩足を出すのではなくて、半歩半歩恐る恐る出す感じですね。こんな経験は初めてです。

 

▲13:59。横尾のコルから天狗池へと登山道を下りました。途中、雪渓が少し残っていて、S﨑くんが大の字に。

 

▲14:20。天狗池です。槍ヶ岳のガスも晴れて、逆さ槍を見ることが出来ました。

 

▲14:54。岩礫の斜面を下って行きます。(撮影:K野)

 

▲14:58。槍沢の岩礫の登山道が続きます。僕の脚は弱り切っています。

 

この日は横尾キャンプ場までは降りたかったのですが、僕の歩く様子を見て、K野さんとS﨑くんは相談をしたようです。無理をせず、ババ平の槍沢キャンプ地で泊まることにしたようです。その決定を聞いて、僕はホッとしました。

 

▲16:37。K野さんは途中先行して、テントを張る場所を探し、確保してくれました。涸沢では石がゴロゴロの天場でしたから平らで砂地のこの場所は天国のようです。僕も疲労困憊の肉体に鞭打って、テント設営を少しは手伝いました。

 

僕の脚の状態は最悪でしたけれど、それでも天狗池からここまではほぼ標準コースタイムで歩けていました。転ばないように丁寧に足を運び続けていましたからね。でも、さらに2時間先の横尾まで歩く気力は残っていませんでしたね。

K野さんはテントを張り終えると、30分ほど下の槍沢ロッジまでビールとかを買いに行きました。体力にまだまだ余裕があるんですね。羨ましい限りです。でも途中で、雨がかなり激しく降りだして、傘は持って行ってなかったはずだし、びしょ濡れになってるんじゃないかと心配になりました。そんなに濡れ鼠になることもなく、戻って来ました。

 

▲17:49。K野さんは体全身を汗拭きシート(僕はこの方面まったくの無知なので、よく知りません)みたいなので綺麗に拭き、着ていたものを全部(パンツも)着替えて、超サッパリとなりました。S﨑くんもそれなりに。着た切り雀の僕だけが汗まみれの臭いまま。古い山屋は下山するまで1週間でも10日間でも着替えるという発想はないのです。

 

3日目の夕食はS﨑くんの担当です。1日目の食当は重荷を背負うK野さんにお願いしました。いちばん食が進むはずの2日目は僕、でも2日目もまだ涸沢のままです。3日目のS﨑くんは食料を背負って歩かなければなりません。必然的に軽くて乾燥した食材になりますよね。軽量食材での工夫が要求されます。α米、高野豆腐+切り昆布、麻婆春雨だったかと思います。

この日の夜の記憶は、僕にはほとんど残っていません。疲れていたからだと思います。会話中も身体を横にしていました。早めに寝たんだと思います。

夜の間、時々雨が降っていました。トイレに行った時も、雨が降っていましたが、トイレまで遠くて、途中迷ったりしながら、向かいました。

 

この日は最上部のカールに到着するまでは青空の広がる良い天気でした。幸運に恵まれたと思います。横尾本谷右俣も青空のもとでこそその美しさが際立ちますよね。S﨑くんは右俣を完全遡行して、とっても感動していました。「秋に黄金平で泊まりたいね」と言っていました。


お盆山行2日目 ――― 天候悪く、涸沢で停滞。北穂高岳には登りました。夜は飲み過ぎて大丈夫かな?

2022年09月05日 | ハードハイク/北アルプス

夜はあまりよく眠れませんでした。でも、肉体的には疲労もなく、高度馴化も問題なさそうです。夜中には途中で雨も降っていたようですし、強い風も時折吹いていたみたいでした。

 

2022年8月12日(金) パノラマコースと北穂高岳

▲5:10。朝起きて、テントから出ると、涸沢岳や奥穂高岳の中腹に朝陽が当たっていました。稜線は厚いガスに覆われています。このままガスが上がって行き、天候が回復してくれることを願うばかりでした。

 

▲5:13。でも、すぐに東の空からは太陽の姿は消えてしまいました。予報でもこの日の天気はあまり良いものではありません。無理をして前穂北尾根を登るのは危険ですから、早々に前穂北尾根は断念しました。

 

▲7:15。目的喪失の無為な朝の時間が過ぎて行きました。稜線にガスはかかっていますが、この程度のガスの状況なら、登ることも出来たかもしれない、そんなことを思ったりもします。いっそのこと雨が強く降ってくれれば、諦めもつくのですがね。そんなことを思っていたら、ガスが次第に降りて来て、小雨も降り始めました。

 

▲9:57。テントの中でじっとしているのも退屈ですから、9時半くらいだったでしょうか、傘を差して涸沢カールのパノラマコースを散歩しに行きました。K野さんはα米にお湯を注ぎ入れたばかりだったのですが、そのままにして出かけました。ちょっとの散歩のつもりでしたから。写真はパノラマコース途中の見晴岩。もちろんこの日は見晴しゼロ。

 

▲10:24。霧雨の粒を綿毛に纏ったチングルマがとっても綺麗でした。

 

▲10:41。軽い散歩のつもりがパノラマコースを一周して、涸沢小屋まで来てしまいました。僕とS﨑くんはここで昼食を食べました。(K野さんはテントに戻ればα米があるので)

 

涸沢小屋ではWi-Fiの試験運用中だったようで、スマホが使えました。涸沢のテント周辺でも弱い電波は届いているようでしたが、あまり快適ではありませんでした。小屋の中で休憩しながら、明日以降の行動予定を3人で話し合いました。明日も天気予報はあまりよくありません。明日も前穂北尾根は無理そうですし、雨の中、横尾本谷右俣を歩くのも快適ではありません。

話し合った結果、明日は雨の中、徳沢まで下ってテントを張る。そして、明後日にひょうたん池ピストン。そう決めて、会にも山行計画の変更をメールしたのです。

 

▲11:11。涸沢小屋ではこの日の午後の予定も計画しました。その計画も会に報告しておきます。ネットが繋がると、山中での行動変更も連絡できて安心できますね。涸沢小屋を後にするころには雨も止んでいました。テントへ戻ります。

 

▲11:55。テントで少しだけ休憩すると、僕たち3人は北穂高岳へ向かいました。まだガスっていて、時々霧雨も降ったりしていますが、それほど悪天候にはならない予報なので、じっとしているのも退屈ですから出かけることにしたのです。

 

▲12:45。北穂南稜に付けられている登山道には何ヶ所かこのような岩場が出て来ます。

 

▲12:53。谷に溜まった霧の上に出て来ました。曇っていますが、前穂北尾根の下部が見えて来ました。(撮影:K野)

 

▲13:06。1本休憩を取りました。

 

▲13:31。鉄梯子も出て来ます。

 

▲14:32。稜線ではありませんが、縦走路登山道に出ました。

 

▲14:44。ガスの中、北穂高岳山頂です。

 

▲14:45。僕も。(撮影:K野)

 

▲14:58。北穂高小屋で美味しいコーヒーを飲みました。40年近く昔に泊まった時の雰囲気が今も漂っていました。まったく変化がない訳ありませんけれど、この食堂と椅子やテーブルの様子が僕の想い出と重なります。(撮影:K野)

 

▲14:59。最近はどこの山小屋も食事のレベルが上がっているようですが、40年前とかは北穂高小屋の食事の美味しさは有名でした。これだけ標高の高い場所にある小屋なのに、山小屋定番のカレーライスやレトルトハンバーグではなくて、手作り感のあるおかずでした。しかも連泊の客には違うメニューで出してくれていました。食堂にはいつも静かにクラシック音楽が流れていたものです。

 

▲15:34。小屋での休憩を終え、再び山頂に来ると、晴れ間から陽光が山頂に当たります。嬉しいプチ奇跡です。

 

▲15:35。僕たちだけの静かな山頂。(撮影:K野)

 

▲15:35。北穂東稜にも陽が当たっています。その向こうには屏風ノ頭。

 

▲15:44。北穂高岳山頂から少し降りて来ました。

 

▲16:00。登山道を降りて行くと、前穂北尾根のガスがほんのりと薄らいでいきます。全貌が見えるのではないかと、期待を抱かせてくれます。

 

▲16:06。少し薄っすらとガスが残っていますが、ほぼ全貌が現われました!

 

▲16:42。急な岩場を降りて行きます。(撮影:K野)

 

▲16:44。天場も見えて来ました。(撮影:K野)

▲17:03。涸沢と前穂北尾根。

 

▲19:09。この日の夕食担当は僕です。メインディッシュはロイタイのマサマンカレースープ。鶏肉や野菜などを入れて煮るだけで出来上がりです。野菜は家に残っていた野菜を切って来ました。それら全てを冷凍して持って来ました。完全に自然解凍していましたが、悪くはなっていませんでした。他には水でふやかす海藻サラダ高野豆腐でした。毎度、写真を撮るのが遅くなってしまいますね。

 

その夜は、テントの中で大いに楽しい時を過ごしました。 山の話はもちろんですが、映画やアニメや歴史やら、蜿蜒と話題は尽きません。 博識なS﨑君が場を引き締めています。

S﨑君が夜のテントの中で語っていましたが、「吉永小百合とオードリー・ヘプバーンと前穂北尾根」青年の三大憧れなんだとか。 奇妙な説ですが、不思議と納得できる主張ですね。 

その後、S﨑くんが上記の出典を教えてくれました。『日本のクラシックルート』(山と渓谷社)の中で書かれている遠藤甲太氏のコラムです。一部だけ引用します。

「吉永小百合、オードリー・ヘプバーン、前穂北尾根―――1960年代初葉、ぼくらの思春期において、彼女たち(?)は同列だった。ひとしい美への讃仰、憧憬の、はかない恋の対象にほかならなかった。」

前穂北尾根に恋い焦がれた遠藤氏自身、16歳の夏に単独登攀し、前穂高岳山頂ではあまりにも精神が高揚し、鼻血が止まらなかったそうです。残念なことに遠藤甲太氏は2020年5月に病没。享年71歳。幾多の初登記録も持つ優れたクライマーであったばかりでなく、文筆家、登山史研究者としても才能溢れる方でした。

 

僕はと言えば、前夜のアルコール禁止の呪縛が解けて、際限なしに飲み続けています。 赤ワイン、梅酒、ウイスキーを飲み続けています。

気が付くと、真夜中を過ぎていたようで、そろそろ寝ようかということに。 僕はそのまま寝てしまったみたいで、2時ころ目覚めるとシュラフに潜らずにそのまま寝ていました。


お盆山行1日目 ――― 初日はのんびり涸沢まで。僕は夜のアルコールを控えました

2022年08月30日 | ハードハイク/北アルプス

YYDの若手実力者であるK野さんには幅広い体験をして欲しいと思っています。僕で貢献できることがあれば、可能な限りの協力をしたいと思います。それは僕にとってもメリットがあって、K野さんと共に行動することで現状の僕の力量でも行ける山のルートが増えるのです。

今年のお盆休みに選んだ主目標は北アルプス前穂高岳の北尾根、いわゆる前穂北尾根です。その姿は美しく、まさに岩稜登攀の醍醐味、爽快感を堪能できる名ルートです。僕は3回(うち1回は下降)登攀したことがありますが、快適で、技術的にもさほど困難ではありません。

そして、副目標は横尾本谷右俣。W.ウェストンが槍ヶ岳登頂に際してアプローチに利用した有名なルートです。登攀的要素はまったくありませんが、美しい景色に囲まれた楽しいルートです。それに、意外と人もいません。僕はウェストンがらみで興味もあり、好きなルートです。これまでに3回か4回、歩いたことがあります。

 

S﨑くんとは、僕がアラフィフのころ、よく山行を共にした仲です。一ノ倉沢、北岳バットレス、剱岳の八ッ峰6峰Dフェースや本峰南壁や源次郎尾根などの登攀を共にしました。

GWの飯豊山東部の前山巡りはS﨑くんの思い入れのある独創的な山行でした。一部の人たちには猿地蔵と呼ばれているルートです。

僕にとっての最高傑作とも言える穂高お池巡りは、S﨑くんとY根くんという強力メンバーがいてこそ実現できた山行です。上高地を出発し、ひょうたん池~奥又白池~前穂北尾根5・6のコル~涸沢~北穂の池~横尾左俣~横尾右俣~天狗池。高度をあまり上げもせず下げもせず、山腹をトラバースして、4つの山岳池を結びました。山のピークをひとつも踏まないルートでした。ここまででも大満足だったのですが、夏の休みが残っていましたから、槍ヶ岳からの北鎌尾根下降を足したのです。2峰まで下降し、天上沢~水俣川を下りました。その4泊5日の一場面一場面を今でも明瞭に思い出せます。

そんなS﨑くんも結婚して、10年以上のブランクがありました。でも、今春から岩トレ、沢登りを再開し、6月には小同心クラックを登攀しました。まだ、山体力は復活途上ですが、彼の経験や判断力を僕はとても高く評価しています。そんな彼も参加してくれますから、僕にとっては心強い限りです。

 

2022年8月10日(水) 高尾駅~さわんどバスターミナル

僕はこれまで電車やバス利用で上高地に入っていました。今回はS﨑くんが車を出してくれましたから初めての自家用車利用です。

9時半に高尾駅北口に集合しました。YYDのSS木さんが見送りに来てくれていたのには驚きましたね。とっても嬉しかったです。

そこからはS﨑くんに任せっきりで、一路沢渡へ。さわんどバスターミナル到着は真夜中を過ぎていました。広大な駐車スペースの奥の方はまだ空いている場所の方が多かったですね。停めた車の横にテントを張って、そこで仮眠を取ることにしました。

 

2022年8月11日(祝) さわんどバスターミナル~上高地~涸沢

▲5:44。さわんどBT始発のシャトルバスは定時前から動いていました。山の日の祝日ですから、時刻表に関係なく可能な限りのバスを動かして、ピストン輸送するようですね。僕たちも通常なら始発のバスに乗ったのと同じなんですが、それ以前に何台ものバスが出発していたようです。写真は上高地のバスターミナルです。

 

▲5:54。河童橋ですね。岳沢はガスっていて奥穂は見えませんでした。中央はS﨑くん、右は僕です。(撮影:K野)

 

▲9:51。稜線のガスは残っていますが、天候は回復して来ました。横尾大橋をこれから渡ります。

 

▲10:11。屏風岩が圧倒的迫力で迫って来ました。

 

▲10:11。屏風岩を眺めるS﨑くんと僕。(撮影:K野)

 

▲10:45。本谷橋を渡るK野さん。今回、彼のザックは25kg以上あるかと思います。ザイルもテントも入っているのです。僕は高齢ゆえ、S﨑くんはブランクゆえに、ザックの重さは15kgほど。少し重いので、K野さんは普段は使わないストックを使っていますね。僕も彼くらいの年齢の時には25kgくらいは重いとは感じませんでしたけどね。とは言え、僕もあと2、3kgは楽に背負いたいですね。

 

▲11:39。本谷橋からの急登を登ると、対岸に横尾本谷右俣が見えて来ました。明後日のこともあるので、下降し易そうな場所を探しながら歩きました。

 

▲11:57。涸沢が視界に入って来ました。中央の尾根は前穂北尾根です。その右には吊尾根が続いています。(撮影:K野)

 

▲13:53。涸沢ヒュッテに着きました。

 

▲13:55。涸沢ヒュッテのテラスで休憩しました。真正面は吊尾根、その左に前穂高岳、右に奥穂高岳(ピークは見えず)。写真の左端の黄色のTシャツは僕ですね。(撮影:K野)

 

▲15:08。テントもしっかりと張りました。テントはS﨑くんのでムーンライト5だったかな? 少し高さのあるテントなので、山岳相談所のすぐ山側に設営しました。夜間の谷風が若干は防げると思います。

 

▲15:22。北穂高岳3106m。ピーク手前の尾根は南稜で、登山道があります。右に延びているのは東稜、今回も天候等の状況次第では登る可能性もあります。間の沢は北穂高沢です。涸沢ヒュッテのテラスに再び来ています。

 

▲15:25。反対側(東側)を眺めると、屏風ノ頭と屏風ノ耳が見えます。屏風岩の大岩壁は山の向こう側なので見えていません。左の山並みは大天井岳と常念岳の間です。ピークの同定はよく分かりませんね。その手前の少し見えている尾根は横尾尾根だと思います。

 

▲15:28。ビールで乾杯です。僕はビールは苦手なので、ほんの少しだけもらいました。

 

▲15:28。僕とS﨑くん。(撮影:K野)

 

▲15:53。奥穂(のピークは見えていないのですが)と涸沢岳。いちばん右の尖がったピークは涸沢槍です。中間のコルは白出(しらだし)のコルで、穂高岳山荘が建っています。

 

▲16:11。前穂北尾根の最上部に陽が当たっていますね。前穂高岳(1峰)は尖って見えていませんが、左へ2峰、3峰と連続しています。写真の左端が4峰です。3峰の下部に細長い影が見えますが、それが3峰のチムニーかなと思います。唯一ザイルを出して登攀する箇所です。

 

▲16:12。分かりやすい絵地図がありました。僕たちのテントの場所は山岳相談所の上、「オクホへ」の文字の「へ」あたりです。

 

▲16:17。K野さんをテント場の反対側に連れて来ました。涸沢小屋の近くです。明日以降、前穂北尾根の全貌が見える保証はありませんから、見せておきたかったんです。1、2、3峰と連続し、その左に4峰、5峰、6峰と見えています。

 

▲16:35。16時半から長野県警山岳救助隊員による安全登山講話が山岳相談所の裏で催されました。僕たちは自分たちのテントに居ながら聴くことが出来ました。

 

▲17:08。初日の夕食担当はK野さんです。α米とハンバーグは覚えていますが、右上のは何だったでしょう? お腹がいっぱいになったことは覚えています。(撮影:K野)

 

▲17:40。夕食も済ませ、まったりしています。僕はツルネ東稜の時のこともあるので、ここではアルコールを一切飲んでいません。標高も2300mほどありますから、初日はとりわけアルコールの回りも早く、影響も大きいですから、飲まないことにしたのです。

 

▲18:16。左から白出のコル、涸沢岳、涸沢槍。

 

▲18:16。上の写真を撮っている僕の立ち姿。(撮影:K野)

 

▲18:17。前穂北尾根にこの日最後の陽射しが当たっています。明日はこの岩稜を登れるでしょうか?

 

▲18:59。空には薄暮が残っていますが、地上はすでに夜ですね。涸沢小屋の窓から灯りが漏れています。僕はザックの修理をしようとしているんだと思います。30年以上物なので、あちこちが壊れても可笑しくない状態です。この日はウエストベルトのバックルが割れてしまいました。替えの部品もありませんから、何とか工夫してウエストで締めることが出来るように考えました。(撮影:K野)

 

翌日は今回の山行の主目標の前穂北尾根を登る日です。でも、天気予報は良くありません。東京を出かけるまでは晴れ予報だったのですが、ここに来て急変しました。台風が接近していて、そのコースや通過スピード次第ですから仕方ありません。半分以上は諦めつつも、一縷の望みを抱いて、夜は早めに眠りに就きました。でも、なかなか寝付けなかったですね。


ウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートの解明―――大喰峠はどこだ!? 4/4

2014年10月21日 | ハードハイク/北アルプス


▲大喰カール上の稜線に到着しました。眼前近くに再びの槍ヶ岳です。
このショットを僕は撮り忘れていましたから、この写真はO橋君撮影です。

1912年の記録ではこう書かれています。
「1時15分に、私たちは大変急で滑りやすい登りをやりとげて、草におおわれた大喰の頭にたどり着いた。今日の道中でも一番てこずった斜面だ」とあります。確かに大喰カールの直下から大喰カールのとりわけ上部は、急な登りで滑りやすい雪渓でした。

僕たちは休憩込みで横尾からここまで8時間30分ほどかかっていますが、ウェストンは6時間15分で到着しています。

1891年にはあまり詳しく書かれていません。山行紀をまとめる際に、横尾のコルからツバメ岩西端のコルを経た大喰峠までの表現をかなりはしょって書いているようなのです。
僕の解釈では1文か2文ごとに場所が、何の接続詞も経過説明もなく変わっていっているのです。少し長い引用になりますが、こんな風にです。
尾根の割れ目に達した。この尾根のかなたに“槍の峰”が隠れているのがいま分った。のぼりを続けるとともに、私たちの元気はますます旺盛で、まもなく痩せ尾根を越えると、遥か左に槍ヶ岳の鋭い峰が、雨の中にぼんやり浮んでいるのが見えた。けれども、その峰はなんと恐ろしく遠いかなたに見えたことだろう! もう2時になったのに、まだまだたくさん歩かなければならなかった。鞍部の北側の斜面を駆けおり」となっています。翻訳文では6つの文章になっています。下線を引いた場所は最初から、横尾のコル、ツバメ岩西端のコル、大喰峠の順でしょう。僕はそう解釈しています。
ここで問題なのは、2時にはいったいどこにいたか? です。ツバメ岩西端のコルでしょうか? それとも、大喰峠なのでしょうか? 
この年、ウェストンたちは明神付近で泊まって、朝6時15分に出発しています。横尾を8時に通過したと仮定すると、6時間です。この時、ウェストンは29歳ですから、「元気はますます旺盛」なウェストンが50歳になった1912年より大幅に遅いはずがありません。ですから、2時には大喰峠にいたと考えられるのです。


▲上から見ても赤の破線コースはなだらかで歩き良さそうですね。右奥の二つの黄色い矢印は僕たちが通過して来た、横尾のコルとツバメ岩西端のコルです。12:36ころ。
 

▲僕たちは坊主岩小屋へと下降するルートを探しました。今いる場所からも槍ヶ岳側の斜面を降りて行けそうではありますが、もっと良い、易しいルートがありそうです。
辿りついた尾根を少し南東に下った箇所を見てみると、そこの方が易しそうですし、坊主岩小屋へ向かってほぼ一直線に向かって行っています。ここに違いありません。
と言う訳で、右の矢印の場所が、ウェストンが名付けた大喰峠だと、僕は結論付けました。12:42ころ。


▲K松さんが別の下降場所も見ているようです。12:47ころ。
「大喰の頭にたどり着いた。(中略)来たときには、燕岳と大天井のほかは、近くの高い山頂がすべて雲に隠されていて、まったく失望した」と書かれています。K松さん右上のピラミダルな山は常念岳です。そのずうっと左の写真からわずかにはみ出したあたりの山が大天井岳でしょうね。
ある程度の高所まで来なければ、この山並は見えません。横尾のコルから天狗池経由で槍沢へ降ると、絶対に見ることのない光景なのです。


▲ということで、この地図なのです。青いバツのポイントが当初僕が推測した大喰峠の位置ですが、実際にこの場所に来てみると、もう少し低い位置が大喰峠でした。赤バツの位置は正確ではありませんが、2960mだとすると9711フィートですから、「約10000フィート」と言っていいでしょう。
結局、最後の雪渓を素直に楽なコースを選んで登ってくれば良かったのですね。そこが大喰峠だったのです。

でも、このブログに記録をまとめながら、他の可能性にも思い当りました。実際には歩いていないルートなので、何とも言えませんが、歩き易さ次第ではこちらの方が妥当だと思います。

 →クリックして拡大して見てください。 
▲それがこのルート。星印がこの場合の大喰峠です。標高は約2920m、約9580フィートです。約10000フィートと言うにはギリギリの線ですが、ウェストンが大喰峠の高度を正式に測ったようではありませんから、まあ許される範囲でしょう。


▲大休止後、その大喰峠から下降し始めました。O橋君が果敢に進んで行きます。13:04ころ。


▲最初は幅の広いガレ場です。どこを進むのが一番楽なルートなのか、各メンバーが手分けして確かめながら歩いています。13:14ころ。
下方にはルンゼの幅が狭くなっている箇所が見えます。そこの傾斜が急そうでしたから、手前で左のハイマツ帯へ逃げます。
 

▲結局はやはり、端っこの草付帯がいいという結論に。13:22ころ。


▲二つ前の写真で、ハイマツ帯を左へ進むとここへ出ます。ゴールも間近! 13:30ころ。


▲写真左の涸滝のような箇所を巻いて降りたのです。下から見ると、巻かなくとも下降は出来たようですね。13:36ころ。


▲坊主岩小屋はすぐ目の前です。13:41ころ。


▲最後から降りて来たY根君。13:55ころ。

ここで大喰峠からの下降を記した文章を確認してみたいと思います。
1891年の記述は「鞍部の北側の斜面を駆けおり、その斜面をふちどる五葉松の平たい塊のなかとかその上を押し進み、やがて岩の荒涼とした所にやって来た」となっています。
1912年の水野氏の本では「私が名付けた大喰峠の標高は約3000メートルである。冷たい霧雨の中を、雪渓とハイマツ帯へと斜めに下りていく。そこには上の絶壁から巨大な岩石が落ちて散在している」とあり、内容は共通しています。

ただ、1912年の三井氏の本では同じコースのはずなのに、かなり異なった部分が見られるのです。
「1時30分に立ち去り、私たちは左の方へ下るとハイマツ帯に出て、お茶などを入れて半時間を過ごした(1時45分~2時15分)。ときおり、霧の中に槍ヶ岳がちらりと見えた。険しくつらい登りを経て、今夜泊る洞穴(坊主小屋)に向かった。午後3時45分、ついに私たちはそこに到着した」となっています。
「左の方へ下る」「険しくつらい登り」の意味がよく分かりません。同じ1912年同士なのに、何故こんなに違うのでしょう?

また、時間的にも不思議です。僕たちは大喰峠から坊主岩小屋まで50分くらいで下降できました。三井氏の表記では1時間45分もかかっています。
ただこれは翌日のウェストンの帰路の記録を読むと分からないことはありません。「右足が道中の疲労でだんだん悪く」なって、「おおげさに足を引きずりながら」歩かなければならず、時間も大幅にかかっているのです。この日も最後になって、どこかを痛めたり、疲労の影響が出ていたのかもしれません。ウェストンも50歳になっているのですから。

ただ、坊主岩小屋手前に「険しくつらい登り」などどこにもありません。こればかりは理解に苦しみます。

もうひとつ、坊主岩小屋を眼前にしながら、ティータイムに30分もかけるでしょうか? ただ、翌日の下山中に「とても痛くなりだした足の手当て」をしたり、二ノ俣では「お茶を飲むために休ん」で、「生き返った心地」になったりしていますから、そういう理由なら30分のティータイムもあるのかもしれませんね。

1891年の記述にも時間は出て来ます。先ほど検証したように、大喰峠へは2時に到着したようです。そして、坊主岩小屋へ到着します。「そこでこのことを祝うために、三人組の猟師たちは坐って煙草をふかし、それから米を煮ようとして松の枝を燃しかけた。しばらくのあいだは、彼らは明らかに動きそうにもなかった。もう4時だった」と書かれています。猟師たちがどのくらいの時間を坊主岩小屋前でのんびりと過ごしていたかが分かりませんが、僕たちと同じ1時間前後では下降出来ていると思います。

ウェストンの書いたフィールド・ノートの実物を見なければ、これは理解出来そうにありませんね。 


▲あの有名な坊主岩小屋前での写真、ウェストン、上条嘉門次、根本清蔵が揃って写った写真を真似て撮影。ただ、立つ位置や順番、ポーズなど、うろ覚えでしたから、いい加減です。気分としては、右からO橋ウェストン、K松清蔵、Y根嘉門次なんです。14:08ころ。

「この荒涼とした所の真ん中に、奇妙な自然の洞穴を見つけた。それは岩が両方からお互いに寄り合ってできたもので、両側からはいれた。ここで私たちのリーダーは、本来の登山ルートにまた出会ったと言った」
「やがて、今夜のビヴァーク地である標高約2700メートルの坊主小屋に着く。ここは数個の大きいくさびのような岩でできたV字形の洞穴で、快適な避難所である。入口近くの岩棚には、槍の最初の開拓者といわれる、昔の僧侶(坊主)〔播隆上人〕の小さい像が立っている。手近にぎっしり生えているハイマツが、石の寝床に贅沢なスプリング付きのマットレスとなったばかりでなく、焚火の薪として、やがて洞穴の入口で勢いよく燃え上がった」
「洞穴の標高は9100フィートで、槍ヶ岳の頂上から1200フィートほど低い。何年か前に、その頂に初めて登った坊主(仏教の僧侶)〔播隆上人〕の話から、その名がつけられた。彼を記念して、外側のへりに小さい石碑が立っている。洞穴は内側にV字形にくぼみ、寝るときは、私はその左側が割り当てられた」
とそれぞれ記されていますが、今でもまさにその通りです。


▲坊主岩小屋の中です。一段へこんだ奥の部屋。14:09ころ。
ここでウェストンも寝たのでしょうね。

ところで、予定ではこれから槍ヶ岳へ登ることになっています。しかも、通常ルートからではなく、ウェストンが登頂したルートを探しながら・・・・
坊主岩小屋から槍ヶ岳を登り、再び坊主岩小屋へ戻って来るのに、ウェストンは3時間かかっています。遅くとも、6時までにはここへ戻って来ることができれば、横尾の僕たちのテントまでは一般登山道ですから、夜暗くなっても安全に戻ることは出来るでしょう。
でも、僕たちは満足しきっていました。
ウェストンの文章と地形図から予測したコースを、何事もなく安全に、ザイルを用いることもなく、歩ききることが出来たのです。しかも、時間的にも予測の範囲内で。

全員一致で、今回の槍ヶ岳登頂は諦めました。ここまでの歩きで、十分過ぎるほどの満足感を味わったのですから。

そうと決まれば、さあ! 下山です。

その前に、僕がウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートをこのルートだと確信するに至ったウェストンの文言があります。彼が下山する際に記した文章です。
「坊主小屋から、横尾谷ルートを右に見て分かれ」と書いているのです。つまり、坊主岩小屋から右へ分かれて、大喰峠へ登って行くと横尾本谷ルートなのです。

 →クリックして拡大して見てください。 
▲途中、ニホンザルが木の実か草を食べているようでした。4つの星印の所に見えますね。14:53ころ。


▲天狗池から流れ落ちる滝が見えました。14:54ころ。


▲ツバメ岩と大喰峠が見えています。赤の矢印のコースが今日僕たちが歩いたコースです。15:17ころ。

ただ、山行後数週間たつうちに、他の可能性も考えるようになりました。
例えばこうです。


▲大喰峠がもう少し低い場所だった可能性もあるのではないかと。「約10000フィート」とか「約3000メートル」とかの表現からは少し遠ざかりますが、黄色の矢印のコースもあるかもしれません。そうなると、大喰峠は2920メートル(9580フィート)となりますが、許容範囲内でしょう。


▲2008年7月の同じ場所の様子です。雪が多く、歩き易そうです。


▲ババ平の槍沢キャンプ場です。水場から遠いこんな河原にまでテントが張ってあります。この先、テントが密集していました。写真を撮り忘れるくらいびっくりしました。その後も、続々とテント泊に違いないパーティーとすれ違いましたけれど、どうしてこんなに多いんでしょう。天気も悪いのに。15:37ころ。

僕たちは赤沢岩小屋の横を坊主岩小屋から1時間半くらいで通りました。
1891年のウェストンは槍ヶ岳の肩から少し登ったところまでで登頂を断念し、それから赤沢岩小屋へ急いでいます。
「6時少し前にその洞穴(坊主岩小屋)を立ち去って、全速力で岩の所や雪渓を急降した。(中略)待ち焦がれていた目的地(赤沢岩小屋)にびしょ濡れになって着いたのは、7時過ぎてからだった」と、やはり1時間20分くらいかかったのでしょうね。
1912年には50歳という年齢の影響も出ているようです。
「私たちは11時45分に上高地への下りに出発した。赤沢岩小屋への下り道は、年寄にはきつかった。特に私の右足が道中の疲労でだんだん悪くなり、痛みだした(15分休止)。私たちはよく目立つ“避難所(赤沢岩小屋)”へ、ついに1時30分に到着した」とありのままに書かれています。それでも、ちょうど1時間半で到着していますから、ウェストンは速い!
昭文社のMAPによると、坊主岩小屋~赤沢岩小屋間のコースタイムは2時間30分くらいです。
O橋君とK松さんはどんどん進み、時々最後尾の僕を止まって待ってくれます。Y根君は前の二人と僕の中間に居てくれます。まあ、僕としてはもうそんなに急ぐ理由もないので、置かれない程度に急いでいる訳です。(ちょっと強がり・・・・)


▲「槍見」と呼ぶそうです。「カブト岩」とも。鋭い岩峰ですね。登攀対象になっているのでしょうか? 15:58ころ。
K松さんはこの岩峰左の白沢経由で赤沢山に登り、西岳へ行ったことがあるそうです。


▲こちらは本物の槍ヶ岳。槍沢ロッジからです。16:03ころ。


▲槍沢ロッジでしばし休憩しました。みんな生ビールを飲みます。
そして、16:31ころ、出発。


▲横尾に戻って来ました。17:37ころ。
1912年のウェストンはここまでもずいぶん大変だったようです。僕たちは1時間ちょっとで到着していますが、ウェストンは3時間15分もかかっています。二ノ俣で30分、お茶を飲むための休憩をしていますが、それを差し引いても2時間45分。昭文社のMAPのコースタイムでも1時間40分程度ですから、右足の具合が相当悪かったのでしょうね。
「とても痛くなりだした足の手当てで、45分はまたたく間に消えうせた。おおげさに足を引きずりながら、私は上高地への旅の最後の15マイルに出発することになった。午後2時15分、多少はなんとかなるが、ほかに仕方がなかった。(中略)ルートは、全くいらいらさせる密生した藪にあり、倒木や硬い鋭い石でかなり難儀だが、一方、川は今では6回徒渉するだけだ。以前は、7回かそれ以上だった」とウェストンは書いています。結局、横尾付近からさらに明神のそばまで移動し、午後7時30分に到着しています。ここで嘉門次と合流、旧交を温め、ココアを飲んだ後に、再び歩を進めているのです。その夜の宿の上高地の温泉に着いたのは夜の9時30分でした。

ウェストンも1912年8月21日は槍ヶ岳に登頂し、上高地まで下山したのですが、15時間近く行動していました。僕たちも13時間30分も行動しました。充実感でいっぱいです。

ところで、ウェストンの文章の中でこの横尾本谷ルートのことを一番よくまとめている文章が、1912年の8月20日の山行紀冒頭に書かれている次の文章です。
このルート全体を簡潔にまとめているのです。
「翌朝、8時間ほどのきつい登りで、荒れた横尾谷をさかのぼり、槍ヶ岳の東の麓のある猟師小屋に着く。(中略)このゴルジュは梓川の源流の一つで、三段の急斜面になって上がり、その上部は雪渓となり、最後は大喰という大きな馬蹄形の崩壊した岩壁になっている。(中略)私が名付けた大喰峠の標高は約3000メートルである。冷たい霧雨の中を、雪渓とハイマツ帯へと斜めに下りていく。そこには上の絶壁から巨大な岩石が落ちて散在している。やがて、今夜のビヴァーク地である標高2700メートルの坊主小屋に着く」
ウェストンはこの日、横尾付近を出発し、坊主岩小屋まで8時間45分の行動でした。

しかし、この「三段の急斜面」というのが、何を意味しているのか、よく分かりません。横尾本谷の中での段だと考える向きがあるようなのです。
三井氏の翻訳でも「私たちは三つ目の頂点のてっぺんに登っていた。横尾大喰の端だった。この荒々しい切り立った峡谷を見渡す大きい馬蹄形の“圏谷”」となっているのです。
「三段の急斜面」「馬蹄形の“圏谷”」も横尾本谷の中で完結していると理解しているようです。

僕の考えでは、一段目の急斜面=横尾本谷、二段目の急斜面=横尾のコルからツバメ岩西端のコル、三段目の急斜面=ツバメ岩西端のコルから大喰峠、なのです。もちろん最後の大喰峠は僕が考えるところの大喰峠であることは言うまでもありません。そこの標高は約3000メートルであり、そこから下って行くと、坊主岩小屋に着くのです。

このウェストンが辿った横尾本谷ルートの素晴らしさは、これが槍ヶ岳への最短ルートだと言うことです。しかも、景色の変化に富んでいます。
1891年、最初に案内人の語った言葉を思い出してみましょう。
「旦那さんがたが“スポーツ”がお好きなら、左の方の路は多分それよりもっと短いし、もっと面白いでしょう。もっとも、路は私たちで見つけなければならないでしょうが」と言っているのです。
横尾のコルから天狗池を経由して槍沢へ下りたならば、近道という感じはしません。当時は槍沢コースでさえ徒渉を繰り返す訳ですから、そこまでならスポーツっぽいのはどちらもです。横尾のコルからなおもさらに槍ヶ岳へ向かって一直線に進んでいく、それこそが「左の方の路」の醍醐味だと思います。


▲テントの中で飲んでいます。Y根君はいつものようにすでに半分寝ています。19:38ころ。

横尾に到着すると、小雨が降ったり止んだりとなりました。避難小屋の庇の下でつまみの残りを総動員して、酒を酌み交わしました。どこからか、ビールや日本酒も湧いて出て来ます。Y根君が小屋で買ってきたり、他のメンバーもそうしていたのでしょうか? 僕はただ、並んでいるつまみを口にしながら、「どうぞ」と言われて出されるお酒を飲み続けていました。
雨も止んだようなので、テントの前に移動し、宴会が続きます。また、小雨が来たので、テントの中に移動します。変わらないのは、酒を飲み続けていることと、語り合い続けていること。山での至福の時間です。

ずうっと心に抱き続けていた山行を、素晴しい仲間と一緒に実現出来たこと。しかも、その山行が僕が想像していた通りの、いや、それ以上の素晴らしい充実した山行だったこと。
僕にとっては、感謝でいっぱいの今日一日でした。

2014/8/14  この日、涸沢へ行くK松さんとは横尾でお別れです。
時折の小雨の中、上高地へ向かい、強くなった雨の中、上高地アルペンホテルで入浴しました。
松本で打ち上げの昼食とし、帰路についたのでした。

2014/10/1  三井嘉雄訳の『日本アルプス登攀日記』を山行後、アマゾンで購入しました。それまではO橋君からコピーを送ってもらったのを読んだだけだったのです。その本を読了しましたが、1913年の残雪状況が参考になったりしました。その年は冷夏だったのか、松本の8月平均気温が21.5度しかありません。ちなみに今年は24.3度、昨年は25.5度です。

山行記録をまとめていく過程でも、僕の基本的考えに変化はありませんでした。ただ、大喰峠の位置に関しては、再考の余地があるかもしれません。
ですから、2920m地点からの下降をいつかトライしてみたいと思います。