▲大喰カール上の稜線に到着しました。眼前近くに再びの槍ヶ岳です。
このショットを僕は撮り忘れていましたから、この写真はO橋君撮影です。
1912年の記録ではこう書かれています。
「1時15分に、私たちは大変急で滑りやすい登りをやりとげて、草におおわれた大喰の頭にたどり着いた。今日の道中でも一番てこずった斜面だ」とあります。確かに大喰カールの直下から大喰カールのとりわけ上部は、急な登りで滑りやすい雪渓でした。
僕たちは休憩込みで横尾からここまで8時間30分ほどかかっていますが、ウェストンは6時間15分で到着しています。
1891年にはあまり詳しく書かれていません。山行紀をまとめる際に、横尾のコルからツバメ岩西端のコルを経た大喰峠までの表現をかなりはしょって書いているようなのです。
僕の解釈では1文か2文ごとに場所が、何の接続詞も経過説明もなく変わっていっているのです。少し長い引用になりますが、こんな風にです。
「尾根の割れ目に達した。この尾根のかなたに“槍の峰”が隠れているのがいま分った。のぼりを続けるとともに、私たちの元気はますます旺盛で、まもなく痩せ尾根を越えると、遥か左に槍ヶ岳の鋭い峰が、雨の中にぼんやり浮んでいるのが見えた。けれども、その峰はなんと恐ろしく遠いかなたに見えたことだろう! もう2時になったのに、まだまだたくさん歩かなければならなかった。鞍部の北側の斜面を駆けおり」となっています。翻訳文では6つの文章になっています。下線を引いた場所は最初から、横尾のコル、ツバメ岩西端のコル、大喰峠の順でしょう。僕はそう解釈しています。
ここで問題なのは、2時にはいったいどこにいたか? です。ツバメ岩西端のコルでしょうか? それとも、大喰峠なのでしょうか?
この年、ウェストンたちは明神付近で泊まって、朝6時15分に出発しています。横尾を8時に通過したと仮定すると、6時間です。この時、ウェストンは29歳ですから、「元気はますます旺盛」なウェストンが50歳になった1912年より大幅に遅いはずがありません。ですから、2時には大喰峠にいたと考えられるのです。
▲上から見ても赤の破線コースはなだらかで歩き良さそうですね。右奥の二つの黄色い矢印は僕たちが通過して来た、横尾のコルとツバメ岩西端のコルです。12:36ころ。
▲僕たちは坊主岩小屋へと下降するルートを探しました。今いる場所からも槍ヶ岳側の斜面を降りて行けそうではありますが、もっと良い、易しいルートがありそうです。
辿りついた尾根を少し南東に下った箇所を見てみると、そこの方が易しそうですし、坊主岩小屋へ向かってほぼ一直線に向かって行っています。ここに違いありません。
と言う訳で、右の矢印の場所が、ウェストンが名付けた大喰峠だと、僕は結論付けました。12:42ころ。
▲K松さんが別の下降場所も見ているようです。12:47ころ。
「大喰の頭にたどり着いた。(中略)来たときには、燕岳と大天井のほかは、近くの高い山頂がすべて雲に隠されていて、まったく失望した」と書かれています。K松さん右上のピラミダルな山は常念岳です。そのずうっと左の写真からわずかにはみ出したあたりの山が大天井岳でしょうね。
ある程度の高所まで来なければ、この山並は見えません。横尾のコルから天狗池経由で槍沢へ降ると、絶対に見ることのない光景なのです。
▲ということで、この地図なのです。青いバツのポイントが当初僕が推測した大喰峠の位置ですが、実際にこの場所に来てみると、もう少し低い位置が大喰峠でした。赤バツの位置は正確ではありませんが、2960mだとすると9711フィートですから、「約10000フィート」と言っていいでしょう。
結局、最後の雪渓を素直に楽なコースを選んで登ってくれば良かったのですね。そこが大喰峠だったのです。
でも、このブログに記録をまとめながら、他の可能性にも思い当りました。実際には歩いていないルートなので、何とも言えませんが、歩き易さ次第ではこちらの方が妥当だと思います。
→クリックして拡大して見てください。
▲それがこのルート。星印がこの場合の大喰峠です。標高は約2920m、約9580フィートです。約10000フィートと言うにはギリギリの線ですが、ウェストンが大喰峠の高度を正式に測ったようではありませんから、まあ許される範囲でしょう。
▲大休止後、その大喰峠から下降し始めました。O橋君が果敢に進んで行きます。13:04ころ。
▲最初は幅の広いガレ場です。どこを進むのが一番楽なルートなのか、各メンバーが手分けして確かめながら歩いています。13:14ころ。
下方にはルンゼの幅が狭くなっている箇所が見えます。そこの傾斜が急そうでしたから、手前で左のハイマツ帯へ逃げます。
▲結局はやはり、端っこの草付帯がいいという結論に。13:22ころ。
▲二つ前の写真で、ハイマツ帯を左へ進むとここへ出ます。ゴールも間近! 13:30ころ。
▲写真左の涸滝のような箇所を巻いて降りたのです。下から見ると、巻かなくとも下降は出来たようですね。13:36ころ。
▲坊主岩小屋はすぐ目の前です。13:41ころ。
▲最後から降りて来たY根君。13:55ころ。
ここで大喰峠からの下降を記した文章を確認してみたいと思います。
1891年の記述は「鞍部の北側の斜面を駆けおり、その斜面をふちどる五葉松の平たい塊のなかとかその上を押し進み、やがて岩の荒涼とした所にやって来た」となっています。
1912年の水野氏の本では「私が名付けた大喰峠の標高は約3000メートルである。冷たい霧雨の中を、雪渓とハイマツ帯へと斜めに下りていく。そこには上の絶壁から巨大な岩石が落ちて散在している」とあり、内容は共通しています。
ただ、1912年の三井氏の本では同じコースのはずなのに、かなり異なった部分が見られるのです。
「1時30分に立ち去り、私たちは左の方へ下るとハイマツ帯に出て、お茶などを入れて半時間を過ごした(1時45分~2時15分)。ときおり、霧の中に槍ヶ岳がちらりと見えた。険しくつらい登りを経て、今夜泊る洞穴(坊主小屋)に向かった。午後3時45分、ついに私たちはそこに到着した」となっています。
「左の方へ下る」や「険しくつらい登り」の意味がよく分かりません。同じ1912年同士なのに、何故こんなに違うのでしょう?
また、時間的にも不思議です。僕たちは大喰峠から坊主岩小屋まで50分くらいで下降できました。三井氏の表記では1時間45分もかかっています。
ただこれは翌日のウェストンの帰路の記録を読むと分からないことはありません。「右足が道中の疲労でだんだん悪く」なって、「おおげさに足を引きずりながら」歩かなければならず、時間も大幅にかかっているのです。この日も最後になって、どこかを痛めたり、疲労の影響が出ていたのかもしれません。ウェストンも50歳になっているのですから。
ただ、坊主岩小屋手前に「険しくつらい登り」などどこにもありません。こればかりは理解に苦しみます。
もうひとつ、坊主岩小屋を眼前にしながら、ティータイムに30分もかけるでしょうか? ただ、翌日の下山中に「とても痛くなりだした足の手当て」をしたり、二ノ俣では「お茶を飲むために休ん」で、「生き返った心地」になったりしていますから、そういう理由なら30分のティータイムもあるのかもしれませんね。
1891年の記述にも時間は出て来ます。先ほど検証したように、大喰峠へは2時に到着したようです。そして、坊主岩小屋へ到着します。「そこでこのことを祝うために、三人組の猟師たちは坐って煙草をふかし、それから米を煮ようとして松の枝を燃しかけた。しばらくのあいだは、彼らは明らかに動きそうにもなかった。もう4時だった」と書かれています。猟師たちがどのくらいの時間を坊主岩小屋前でのんびりと過ごしていたかが分かりませんが、僕たちと同じ1時間前後では下降出来ていると思います。
ウェストンの書いたフィールド・ノートの実物を見なければ、これは理解出来そうにありませんね。
▲あの有名な坊主岩小屋前での写真、ウェストン、上条嘉門次、根本清蔵が揃って写った写真を真似て撮影。ただ、立つ位置や順番、ポーズなど、うろ覚えでしたから、いい加減です。気分としては、右からO橋ウェストン、K松清蔵、Y根嘉門次なんです。14:08ころ。
「この荒涼とした所の真ん中に、奇妙な自然の洞穴を見つけた。それは岩が両方からお互いに寄り合ってできたもので、両側からはいれた。ここで私たちのリーダーは、本来の登山ルートにまた出会ったと言った」
「やがて、今夜のビヴァーク地である標高約2700メートルの坊主小屋に着く。ここは数個の大きいくさびのような岩でできたV字形の洞穴で、快適な避難所である。入口近くの岩棚には、槍の最初の開拓者といわれる、昔の僧侶(坊主)〔播隆上人〕の小さい像が立っている。手近にぎっしり生えているハイマツが、石の寝床に贅沢なスプリング付きのマットレスとなったばかりでなく、焚火の薪として、やがて洞穴の入口で勢いよく燃え上がった」
「洞穴の標高は9100フィートで、槍ヶ岳の頂上から1200フィートほど低い。何年か前に、その頂に初めて登った坊主(仏教の僧侶)〔播隆上人〕の話から、その名がつけられた。彼を記念して、外側のへりに小さい石碑が立っている。洞穴は内側にV字形にくぼみ、寝るときは、私はその左側が割り当てられた」
とそれぞれ記されていますが、今でもまさにその通りです。
▲坊主岩小屋の中です。一段へこんだ奥の部屋。14:09ころ。
ここでウェストンも寝たのでしょうね。
ところで、予定ではこれから槍ヶ岳へ登ることになっています。しかも、通常ルートからではなく、ウェストンが登頂したルートを探しながら・・・・
坊主岩小屋から槍ヶ岳を登り、再び坊主岩小屋へ戻って来るのに、ウェストンは3時間かかっています。遅くとも、6時までにはここへ戻って来ることができれば、横尾の僕たちのテントまでは一般登山道ですから、夜暗くなっても安全に戻ることは出来るでしょう。
でも、僕たちは満足しきっていました。
ウェストンの文章と地形図から予測したコースを、何事もなく安全に、ザイルを用いることもなく、歩ききることが出来たのです。しかも、時間的にも予測の範囲内で。
全員一致で、今回の槍ヶ岳登頂は諦めました。ここまでの歩きで、十分過ぎるほどの満足感を味わったのですから。
そうと決まれば、さあ! 下山です。
その前に、僕がウェストンの槍ヶ岳登頂横尾本谷ルートをこのルートだと確信するに至ったウェストンの文言があります。彼が下山する際に記した文章です。
「坊主小屋から、横尾谷ルートを右に見て分かれ」と書いているのです。つまり、坊主岩小屋から右へ分かれて、大喰峠へ登って行くと横尾本谷ルートなのです。
→クリックして拡大して見てください。
▲途中、ニホンザルが木の実か草を食べているようでした。4つの星印の所に見えますね。14:53ころ。
▲天狗池から流れ落ちる滝が見えました。14:54ころ。
▲ツバメ岩と大喰峠が見えています。赤の矢印のコースが今日僕たちが歩いたコースです。15:17ころ。
ただ、山行後数週間たつうちに、他の可能性も考えるようになりました。
例えばこうです。
▲大喰峠がもう少し低い場所だった可能性もあるのではないかと。「約10000フィート」とか「約3000メートル」とかの表現からは少し遠ざかりますが、黄色の矢印のコースもあるかもしれません。そうなると、大喰峠は2920メートル(9580フィート)となりますが、許容範囲内でしょう。
▲2008年7月の同じ場所の様子です。雪が多く、歩き易そうです。
▲ババ平の槍沢キャンプ場です。水場から遠いこんな河原にまでテントが張ってあります。この先、テントが密集していました。写真を撮り忘れるくらいびっくりしました。その後も、続々とテント泊に違いないパーティーとすれ違いましたけれど、どうしてこんなに多いんでしょう。天気も悪いのに。15:37ころ。
僕たちは赤沢岩小屋の横を坊主岩小屋から1時間半くらいで通りました。
1891年のウェストンは槍ヶ岳の肩から少し登ったところまでで登頂を断念し、それから赤沢岩小屋へ急いでいます。
「6時少し前にその洞穴(坊主岩小屋)を立ち去って、全速力で岩の所や雪渓を急降した。(中略)待ち焦がれていた目的地(赤沢岩小屋)にびしょ濡れになって着いたのは、7時過ぎてからだった」と、やはり1時間20分くらいかかったのでしょうね。
1912年には50歳という年齢の影響も出ているようです。
「私たちは11時45分に上高地への下りに出発した。赤沢岩小屋への下り道は、年寄にはきつかった。特に私の右足が道中の疲労でだんだん悪くなり、痛みだした(15分休止)。私たちはよく目立つ“避難所(赤沢岩小屋)”へ、ついに1時30分に到着した」とありのままに書かれています。それでも、ちょうど1時間半で到着していますから、ウェストンは速い!
昭文社のMAPによると、坊主岩小屋~赤沢岩小屋間のコースタイムは2時間30分くらいです。
O橋君とK松さんはどんどん進み、時々最後尾の僕を止まって待ってくれます。Y根君は前の二人と僕の中間に居てくれます。まあ、僕としてはもうそんなに急ぐ理由もないので、置かれない程度に急いでいる訳です。(ちょっと強がり・・・・)
▲「槍見」と呼ぶそうです。「カブト岩」とも。鋭い岩峰ですね。登攀対象になっているのでしょうか? 15:58ころ。
K松さんはこの岩峰左の白沢経由で赤沢山に登り、西岳へ行ったことがあるそうです。
▲こちらは本物の槍ヶ岳。槍沢ロッジからです。16:03ころ。
▲槍沢ロッジでしばし休憩しました。みんな生ビールを飲みます。
そして、16:31ころ、出発。
▲横尾に戻って来ました。17:37ころ。
1912年のウェストンはここまでもずいぶん大変だったようです。僕たちは1時間ちょっとで到着していますが、ウェストンは3時間15分もかかっています。二ノ俣で30分、お茶を飲むための休憩をしていますが、それを差し引いても2時間45分。昭文社のMAPのコースタイムでも1時間40分程度ですから、右足の具合が相当悪かったのでしょうね。
「とても痛くなりだした足の手当てで、45分はまたたく間に消えうせた。おおげさに足を引きずりながら、私は上高地への旅の最後の15マイルに出発することになった。午後2時15分、多少はなんとかなるが、ほかに仕方がなかった。(中略)ルートは、全くいらいらさせる密生した藪にあり、倒木や硬い鋭い石でかなり難儀だが、一方、川は今では6回徒渉するだけだ。以前は、7回かそれ以上だった」とウェストンは書いています。結局、横尾付近からさらに明神のそばまで移動し、午後7時30分に到着しています。ここで嘉門次と合流、旧交を温め、ココアを飲んだ後に、再び歩を進めているのです。その夜の宿の上高地の温泉に着いたのは夜の9時30分でした。
ウェストンも1912年8月21日は槍ヶ岳に登頂し、上高地まで下山したのですが、15時間近く行動していました。僕たちも13時間30分も行動しました。充実感でいっぱいです。
ところで、ウェストンの文章の中でこの横尾本谷ルートのことを一番よくまとめている文章が、1912年の8月20日の山行紀冒頭に書かれている次の文章です。
このルート全体を簡潔にまとめているのです。
「翌朝、8時間ほどのきつい登りで、荒れた横尾谷をさかのぼり、槍ヶ岳の東の麓のある猟師小屋に着く。(中略)このゴルジュは梓川の源流の一つで、三段の急斜面になって上がり、その上部は雪渓となり、最後は大喰という大きな馬蹄形の崩壊した岩壁になっている。(中略)私が名付けた大喰峠の標高は約3000メートルである。冷たい霧雨の中を、雪渓とハイマツ帯へと斜めに下りていく。そこには上の絶壁から巨大な岩石が落ちて散在している。やがて、今夜のビヴァーク地である標高2700メートルの坊主小屋に着く」
ウェストンはこの日、横尾付近を出発し、坊主岩小屋まで8時間45分の行動でした。
しかし、この「三段の急斜面」というのが、何を意味しているのか、よく分かりません。横尾本谷の中での段だと考える向きがあるようなのです。
三井氏の翻訳でも「私たちは三つ目の頂点のてっぺんに登っていた。横尾大喰の端だった。この荒々しい切り立った峡谷を見渡す大きい馬蹄形の“圏谷”」となっているのです。
「三段の急斜面」も「馬蹄形の“圏谷”」も横尾本谷の中で完結していると理解しているようです。
僕の考えでは、一段目の急斜面=横尾本谷、二段目の急斜面=横尾のコルからツバメ岩西端のコル、三段目の急斜面=ツバメ岩西端のコルから大喰峠、なのです。もちろん最後の大喰峠は僕が考えるところの大喰峠であることは言うまでもありません。そこの標高は約3000メートルであり、そこから下って行くと、坊主岩小屋に着くのです。
このウェストンが辿った横尾本谷ルートの素晴らしさは、これが槍ヶ岳への最短ルートだと言うことです。しかも、景色の変化に富んでいます。
1891年、最初に案内人の語った言葉を思い出してみましょう。
「旦那さんがたが“スポーツ”がお好きなら、左の方の路は多分それよりもっと短いし、もっと面白いでしょう。もっとも、路は私たちで見つけなければならないでしょうが」と言っているのです。
横尾のコルから天狗池を経由して槍沢へ下りたならば、近道という感じはしません。当時は槍沢コースでさえ徒渉を繰り返す訳ですから、そこまでならスポーツっぽいのはどちらもです。横尾のコルからなおもさらに槍ヶ岳へ向かって一直線に進んでいく、それこそが「左の方の路」の醍醐味だと思います。
▲テントの中で飲んでいます。Y根君はいつものようにすでに半分寝ています。19:38ころ。
横尾に到着すると、小雨が降ったり止んだりとなりました。避難小屋の庇の下でつまみの残りを総動員して、酒を酌み交わしました。どこからか、ビールや日本酒も湧いて出て来ます。Y根君が小屋で買ってきたり、他のメンバーもそうしていたのでしょうか? 僕はただ、並んでいるつまみを口にしながら、「どうぞ」と言われて出されるお酒を飲み続けていました。
雨も止んだようなので、テントの前に移動し、宴会が続きます。また、小雨が来たので、テントの中に移動します。変わらないのは、酒を飲み続けていることと、語り合い続けていること。山での至福の時間です。
ずうっと心に抱き続けていた山行を、素晴しい仲間と一緒に実現出来たこと。しかも、その山行が僕が想像していた通りの、いや、それ以上の素晴らしい充実した山行だったこと。
僕にとっては、感謝でいっぱいの今日一日でした。
2014/8/14 この日、涸沢へ行くK松さんとは横尾でお別れです。
時折の小雨の中、上高地へ向かい、強くなった雨の中、上高地アルペンホテルで入浴しました。
松本で打ち上げの昼食とし、帰路についたのでした。
2014/10/1 三井嘉雄訳の『日本アルプス登攀日記』を山行後、アマゾンで購入しました。それまではO橋君からコピーを送ってもらったのを読んだだけだったのです。その本を読了しましたが、1913年の残雪状況が参考になったりしました。その年は冷夏だったのか、松本の8月平均気温が21.5度しかありません。ちなみに今年は24.3度、昨年は25.5度です。
山行記録をまとめていく過程でも、僕の基本的考えに変化はありませんでした。ただ、大喰峠の位置に関しては、再考の余地があるかもしれません。
ですから、2920m地点からの下降をいつかトライしてみたいと思います。