ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

NZ旅№6―――キャロラインハットでの1泊目

2014年01月24日 | ニュージーランド旅2013

2013/11/15  キャロラインハットは今回のガイド、マーティンとギディアンが所属しているガイド会社、アルパインレクリエーションが所有する山小屋です。一般の登山者は使えない山小屋。日本にはそのような形態の山小屋はありませんから、不思議な感じがしますよね。
ガイド以外の客がMax8人限定、ベッドが8つあります。小屋には部屋が3つありました。正面玄関を入ると、左奥にガイドの寝室、右の広い部屋が客の寝室&キッチン&ダイニングです。もうひとつはその広い部屋のさらに右にあるのですが、別のドアからしか入れません。そこは背もたれのないベンチのような長椅子があるだけですから、小屋の外と中の中間的な位置づけなのでしょう。僕たちはそこでアイゼン装着のチェックを受け、そこにアイゼン、ピッケル、ヘルメットを置いておきました。
そして、トイレですが、少し離れた下の方にあります。

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▲小屋到着後すぐに、そのトイレの説明がギィディアンからありました。19:48ころ。
ギィディアンはこの後、小屋からトイレまでのステップを切ってくれました。トイレへの斜面でスリップすれば、数時間前に歩いていたタズマン氷河へ滑落していくのです。

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▲小屋の横で記念撮影です。僕とS子。19:52ころ。
後はキャロラインフェースですが、上部は雲に隠れて、マウントクック山頂は見えません。
S子が着ているブルーの上着はクライストチャーチで購入したもの。

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▲夕食の担当はマーティンでした。調味料や保存のきく食材は小屋にたくさんあるようです。生鮮食材はみんなで今回担ぎ上げました。ボリュームたっぷり、野菜もたっぷり、味も最高の本格料理です! 山岳ガイドって料理もプロ並みじゃないと駄目なんですね! もっとちゃんと料理の写真を撮っておくべきでした。僕はいつも食欲に負けて、料理の写真が少なすぎるんです。20:55ころ。
華世ちゃんもホッとした表情ですね。

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▲食事中の華世ちゃんと藤井さんです。20:59ころ。
華世ちゃんの後ろの棚には飲み物やお菓子(行動食)が入った箱や本が。藤井さんの後ろはベッドです。下の段で藤井さんが寝ることに。

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▲自分のベッドサイドで何を想う。右にストーブと食卓が見えます。左には藤井さんのベッドが。僕は自分のベッドからこの写真を撮っています。22:03ころ。

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▲華世ちゃん就寝。敷布団とシュラフは山小屋備え付けのもの。各自、シュラフの内側で木綿のインナーシュラフに潜っています。アルパインレクリエーションの事務所から各自が背負って来ました。これのみを下山時には持ち帰ります。22:35ころ。

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▲就寝前のS子。右のベッドが僕のねぐら。22:35ころ。

こうして夜が過ぎて行きました。8人限定の山小屋に4人だけですから、実に贅沢な状況です。標高およそ1800m、昔から憧れていたマウントクックの直下の山小屋でシュラフにくるまり眠っていることの不思議が心を覆います。

【服装のこと】
マウントクックは南緯約44度ですから、日本で言えば北海道の大雪山の5月中旬と同じだろうと考えて服装を整えました。つまり、完全な冬山装備。荒天になると、厳冬期と同様の状況になるはずと考えたのです。
〈閑話休題〉もし北海道に3000~4000m級の山岳が存在したら、確実にニュージーランド以上の氷河が存在したことでしょう。残念無念・・・・・・・・・・・・(終)
しかし今回、天候は安定し、好天続きでした。結果的には、日本のGWの残雪期の山、しかもポカポカ陽気の最高の天気! と言った感じの山でした。
ですから、今回の経験だけで、どんな服装がいいとは言い切れませんが、ネットで見る限りでは12月や1月の(つまりもっと夏の)Ball Pass Crossing で雪が降り、軽くラッセルにもなっているようですから、冬山装備が基本だとの考えは個人的には変わっていません。
ただ、予想以上にニュージーランドは高緯度にもかかわらず暖かかったのも事実です。理由を考えたのですが、日本の北西にはユーラシアという巨大な大陸があることが、日本の冬をより寒くしている原因になっています。大陸に安定した寒冷な高気圧が居座り易いからです。一方、ニュージーランドの西にはタスマン海が広がり、南西方面にも南極海があるだけです。海は陸に比べると冷気が溜まりません。
山はともかく、街では日本の初夏のような気温の日もあるので、もっとショートパンツやTシャツを持って行けば良かったと思っています。

【日焼けのこと】
僕は生まれてこの方、日焼け止めと言うものを塗ったことがありません。GWの雪山で、上方からの夏のような陽光、下からはその反射光に数日間晒されても、真っ黒になるだけで、皮膚のダメージはありませんでした。
「ニュージーランドの紫外線は日本の7倍もある」と、脅しのようなコメントをたくさん読みました。でも、気象庁(だったかな?)のデータを調べると、南極大陸のオゾンホールはこの時季だいぶん収縮していて、紫外線量も日本とたいして変わりがないことが分かりました。内心「これは大丈夫そうだ」と確信した次第です。
とにかく、自分の肌での実感を基準にしようと覚悟しました。危険と感じるまでは日焼け止めは塗らない、そう決めたのです。(ひょっとしたら、危険と感じた時にはすでに手遅れなのかもしれませんが)
3日間、山の強い紫外線を浴び続けました。僕の実感としては、日本のGWの雪山、連日の好天で陽光を浴び続けた場合とさほど変わりはないようです。強いて言えば、ニュージーランドの方が2~3割は強いかな、と思いましたけれどね。
日本のGWでも仲間はほとんど皆、日焼け止めクリームを塗っていますから、一般的にはキチンと塗ることを僕はお勧めします。

2013/11/16  二日目の朝です。起床が何時で、出発予定が何時だったかは忘れましたが、僕自身は6時過ぎには目を覚ましていました。

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▲トイレの前からの眺め。タズマン氷河が眼下に見えます。写真には写っていませんが、左手前に写っている稜線の先には Novara Peak 2299m があるのです。その稜線の向こう側の谷には Murchison River が流れ、上流には Murchison Glacier があります。南北に(写真では左右に)長く連なっている尾根は Liebig Range で、2000m台後半の山々です。6:22ころ。

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▲便座に座って朝のお勤め。上の写真の山も見えます。左のは手の消毒用アルコールジェル。トイレはとても清潔です。6:25ころ。

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▲便器です。当り前のことですが、ニュージーランドでは山小屋のトイレも洋式。こういう形の洋式トイレは僕も初めてですから、何となく使い勝手が悪そうに感じましたけれど、実際に使ってみると、大丈夫ですね。とにかく、清潔に保たれています。6:31ころ。

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▲便器の背中側にはこんな貼り紙が。左下は「うんちボックスは捨てないで! ビジターセンターまで運び下ろして!」って感じでしょうか。右下は「4U2P(for you to pee)」とあります。「ここでおしっこしてね」ということ? 「ゴミは捨てないでね」とも。
それはともかく、右上の赤い紐で結ばれた石っころは何のためなんでしょうかね? 6:31ころ。

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▲キャロラインフェースに朝陽が当たり始めました。6:34ころ。

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▲この小屋の第3の部屋は木組みのベランダから入れます。6:34ころ。

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▲小屋の南西方向の斜面です。直近のパーティーが歩いた足跡が付いています。6:34ころ。

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▲朝の日差しが強まって来ました。下に見える小さな屋根はトイレの屋根です。6:34ころ。

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▲昨日はこの写真の尾根を右下から中央の小ピークを越えて左へと歩いて来たのです。6:36ころ。

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▲あらためて、キャロラインハット全景。小さな山小屋です。煙突、そして手前には屋根で受けた雨水を貯める容器が設置されています。6:37ころ。

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▲日本の山でもそうですが、S子は山ではよく寝ます。6:47ころ。

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▲モーニングコーヒー(ティー?)を飲みながら読書する藤井さん。7:37ころ。

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▲朝食の準備をするマーティンとギィディアン。右上の人物写真はこのガイド会社の創設者であり、この山小屋を建てたGottlieb Braun-Elwert です。残念なことに彼はすでに亡くなりましたが、会社は彼の妻が運営しています。娘さんも手伝っているようですが、父親とともにマウントクックに14歳で登ったんだそうです!!! 8:15ころ。

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▲またしても食事の写真を撮り損ねています。ベジマイトを勧められたので食べてみました。食パンに付けて食べるのは如何なものかとは感じましたが、ベジマイト自体の味は日本人にはさほど抵抗感はないのではと感じます。美味しいです。オーストラリアとニュージーランドの国民食と言えるほどにポピュラーなのだとか。逆に、両国以外ではほとんど受け入れられていないとも。8:24ころ。
朝食は何だったか忘れてしまいました。パンやシリアルを好みで食べたような気がします。フルーツもあったような・・・・

出発は何時だったんでしょうか? 今日はボールパスまでの往復ですから、基本的にはのんびり出来る日です。それに、天気予測としては、朝方はあまり良くないと判断していたようですから、様子を見ながら出発時刻を決めようといった具合だったようです。


いつも車窓から眺めるだけだった彦根城へ行って来ました

2014年01月16日 | 帰省の途中旅

2013/12/28  ニュージーランドから帰国したのが11月26日。翌日からすぐに仕事がありましたから、熊本への帰省旅のことなんかまったく考えていませんでした。本当は11月28日の早朝から「ムーンライトながら」の指定席購入に動かなければならなかったのです。やっと気付いた28日の夜にチェックしても時すでに遅し。売り切れてしまっていました。指定席販売は一ヶ月前にスタートするのです。ここで「ムーンライトながら」の説明をしておきましょう。春、夏、冬の学生などの休みにあわせて運行する季節列車で、東京を夜中に発ち、岐阜県の大垣に早朝到着する夜行の普通列車なんです。全席指定ですから、早めに購入しないと、すぐに完売!
結局、12月28日の始発電車で東京駅へ向かい、青春18きっぷ鈍行旅のスタートです。

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▲彦根駅着14:25、駅前の北西方向へ延びる駅前お城通りを彦根城へ歩きます。14:40ころ。
名古屋まで太平洋側を進んでいる間は好天でしたが、関ヶ原のあたりからちらほらと雪が舞い始めました。彦根の街は雪景色です。

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▲中堀を渡り、佐和口から入ります。14:47ころ。

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▲重要文化財の馬屋が公開されていましたから、見学することに。L字形の建物で、21頭もの馬を収容できます。これほどの大規模な馬屋が残っている例はないとのこと。14:50ころ。

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▲馬屋の中の様子です。日本の馬なので、サラブレッドなどよりはずいぶん小型でした。写真の馬はもちろん模型です。14:52ころ。

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▲表門の橋を渡り、階段を上がって来ると、この廊下橋が現われます。この橋は非常時(戦争時?)には落とされるのだとか。14:59ころ。

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▲廊下橋の下をくぐって、左回りに登って来ると、廊下橋の上に出て来ます。橋を渡った左右に天秤のように広がる建物は天秤櫓(てんびんやぐら)、重要文化財です。15:01ころ。

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▲天秤櫓を通過すると、時代劇の登城シーンによく出て来そうな曲った階段の坂道。裃(かみしも)姿の侍たちが幾人も歩いて登る姿が目に浮かびます。15:02ころ。

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▲本丸直前、最後の関門がこの太鼓門櫓。これも重要文化財です。15:05ころ。
この太鼓門櫓、写真の裏側には壁がなく、開放された渡り廊下のような具合になっています。一説では太鼓の音を響かせるためと考えられていますが、確かではないようです。
さらにはこの櫓、どこかのお城の城門を移築したものなのだそうですね。昔からリサイクルは大切だったようです。

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▲太鼓門櫓をくぐると、本丸広場です。人々が並んでいるので、僕とS子も最後尾へ付こうとしました。ところがどうやら、ヒコニャンに会うために並んでいるのだそうです。時間もないので、並ぶのはよしました。15:07ころ。

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▲ここは確か二階だったでしょうか? 天守閣が戦火等で焼失することなく残っているのは奇跡的なことだと思います。現存12天守のひとつで、その中でも4つの天守閣が国宝に指定されています。彦根城も国宝。ちなみに他の3つの天守閣は姫路城、松本城、犬山城です。15:17ころ。

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▲お城の最上階(3階)からの眺めです。琵琶湖が広がっていました。15:21ころ。

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▲玄宮園です。15:29ころ。

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▲彦根城は改修工事等は行なわれて来ましたが、基本的には400年以上昔の創建当時のままです。ですから、階段も怖いぐらいに急です。15:31ころ。

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▲本丸には今はこの天守しか残っていませんが、もともとは藩主の住む御広間、宝蔵、着見櫓(つきみやぐら)なども建っていたのだそうです。1604年に建設がスタートし、1607年ころの完成だとか。さらに、藩主である井伊家の歴史を記した『井伊年譜』にはこの天守閣が京極家の大津城を移築した旨が記されており、それが真実であるとすれば、17世紀版の古民家再生のようなお城なんですね。15:39ころ。

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▲天守閣土台の石積み。野面積みの一種の牛蒡積みだそう。創建当時の石垣。天秤櫓の左半分は江戸時代に修復工事が施されたので、接触する岩同士を隙間を少なくするように形を整えた落し積みになっているそうです。15:41ころ。

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▲西の丸三重櫓にも入って見学できましたから、入ってみました。ここも国の重要文化財です。簡素で頑丈な櫓です。すべて漆喰塗にしてあるのは攻められた際に燃えにくくするためなのでしょうね。15:55ころ。

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▲西の丸三重櫓を内側から眺めた様子です。外側から眺めると、石垣の上に建っていますから、けっこう威圧感を持って立ちはだかっている風情です。15:57ころ。
天守閣もここも同様ですが、入る際には靴を脱ぎます。僕はまだしも、S子は足が冷たくて耐えきれない様子でした。昔のお侍さんたちはどうだったのでしょうか?

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▲内堀まで降りて来ました。天守は右上方にあるのです。16:09ころ。

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▲内堀沿いの道を歩いて、玄宮園へ向かいました。正式には庭園部分を玄宮園、建物部分は楽々園と呼ぶそうですが、今は昔よりも規模が比較できないほどに縮小しているようですから、建物も含めて玄宮園という庭園と呼んでいいのではないでしょうか? そのように感じます。16:16ころ。
写真の建物は「御書院」。

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▲玄宮園には僅かですが雪が覆い、常以上に凛とした美しさをたたえているように思えます。16:22ころ。

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▲庭園と建物とのバランスが絶妙です。16:23ころ。

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▲石灯籠。16:23ころ。

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▲池畔の建物は「臨池閣」と言うのだそうです。背後には彦根城が・・・・ なかなかに見事な光景ですね。16:24ころ。

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▲同じ「臨池閣」ですが、少し角度が変わっています。彦根城は左に見えています。この写真で分かると思いますが、池には薄く氷が張っているのです。16:29ころ。

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▲少しだけ角度を変えて、同じ「臨池閣」を望遠で撮ってみました。16:29ころ。

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▲この橋は「龍臥橋」と呼ぶようです。橋を渡っているのはS子。16:29ころ。

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▲「龍臥橋」からの「臨池閣」。16:30ころ。

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▲井伊直弼大老の像がある金亀児童公園には二季咲きの桜が3本植えられています。親善都市の水戸市から寄贈されたもの。4~5月と11~1月の二つの季節に花を咲かせるのだそうです。16:37ころ。

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▲内堀では白鳥が泳いでいました。16:38ころ。

少しでも明日の行程が楽になるようにと、東海道本線を西へ小1時間進み、大津駅で下車しました。10分ほど歩き、ホテルにチェックイン。小雪も時折舞っていましたし、ホテル周辺は繁華街ではありませんでしたから、近所の居酒屋さんにすぐ入ります。おでんメインの居酒屋さん。と言っても、わりかしと高級なお店です。滋賀県の地酒を幾つか飲んで、いい時間を過ごしました。料理も美味しいお店でした。

翌朝早い電車に乗って、一路九州へ、熊本へ。早朝の大津駅にも、夜遅い熊本駅でも改札口には駅員さんがいなくて淋しく素通り・・・・