ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

第14回山行μ+第2回山行χ・5年ぶりに雁回山を再訪しました 1/2 ――― 今回の登りは宇土コース

2016年01月28日 | ハイキング/山行μや山行χ

2016/1/3  伊勢神宮、閑谷学校と回りながら熊本に到着した僕ですが、なんと! 右下奥の歯茎が腫れて、痛いのと口がわずかしか開かなくなって、登山どころではない状況に陥ってしまました。他の土地のことは知りませんが、熊本は凄いところで、普通の内科にしろ、歯医者だって、一年365日年中無休の病院があるのです! 助かりました。初診の際は車に乗せて行ってもらいましたが、家から自転車でも20分くらいの場所でしたから、2回目からは自分だけで行きました。
痛み止めの薬ももらい、まさか飲む羽目になるとは思いませんでしたが、結局、もらった5錠のうち3錠も飲んでしまうことに。よく効くんですね。
原因は旅行中の歯磨きがいい加減になってしまったことにあります。僕の歯の健康状態は毎日の丁寧な歯磨きによってやっと保たれているんだと、心底思い知らされました。

こんなアクシデントがあったせいで、12月中はMちゃんやK君を山に連れて行ってあげることは出来ませんでした。K君も山へ行けることを楽しみにしてくれているようですから、本当はK君レベルの山とMちゃんレベルの山との2回の山行をしたかったのです。
でも、日程的に1回しか無理です。Mちゃんには我慢してもらって、易しい山行を計画し、MちゃんとK君ふたりを連れて行ってあげることにしました。

公共の交通機関を使っての山行ですから、行ける山域はかなり限られてしまいます。そういう訳もあって、今回も以前行ったことのある雁回山を選びました。まったく同じコースではつまらないですから、幾つも登るコースがあるうちの宇土ルートから登ることにしたのです。
前回登ったのは5年前ですから、Mちゃんが小学1年生の時です。K君も小学1年生ですから、ちょうどいいのかもしれませんね。


▲5年前にはバスで川尻駅まで行き、JRで宇土駅へ、そこからタクシーで登山口へ向かいました。でも、今回調べていたら、宇土方面へ行くバスが近くのバス停から出ていることが分かったのです。しかも、今日登る登山口のすぐそばまで行くバスもあることが分かりました。
終点の宇土市スポーツセンターで下車しました。乗って来たバスが去って行きます。バスだけで来れるとは超ラッキー! 8:56ころ。

そうそう、ラッキーと言えば、もうひとつ超ラッキーなことが。なんと! 家のすぐそばに新しくセブン・イレブンが出来ていたのです。その日の行動食をすぐに手に入れることが可能です!


▲すぐに「雁回山遊歩道コース図」なる看板も出現しました。5年前は一般的な富合コースからでしたが、今日はその反対側の宇土コース。下山は5年前と同じ城南コースです。他にも西から順に如来寺コース、雁回公園コース、松橋コース、東阿高コースなどとあるのですね。9:02ころ。


▲住宅街の中を進んで行くと、途中には道標も設置されていて、迷うことはありません。いよいよ山もよく見えるようになりました。あれが雁回山です。9:12ころ。


▲人家もなくなってきました。9:19ころ。


▲「宇土八十八ヵ所 第十九番札所」と書かれた木札がありますから、お寺なんでしょうね。9:29ころ。


▲先ほどのお寺? の右から山道に入りました。K君はさっそく杖を探してきました。K君にとっては大き過ぎる段差がありますが、ものともしませんね。9:35ころ。


▲山道のロープが張ってありました。ロープが必要なほど急ではありませんが、緩やかでもありません。9:38ころ。

歩き始めからそうですが、Mちゃんはトップでどんどん進んで行きます。僕の姿が見えなくなるような先までは行かないようにと、言ってありますから、はぐれることはありませんがMちゃんにとっては遅すぎるスピード。


▲ロープに続いて立派な柵も出現しました。S子はMちゃんとともに行き、K君は彼なりのペースで、僕は最後尾をしめています。9:42ころ。


▲K君は階段が好きではありません。でも、泣き言ひとつ呟かずに、否、楽しそうに登って行きます。9:48ころ。


▲急登が続いて、さすがのK君も休憩を要求。先頭のMちゃんに「平らな場所があったら休憩するぞ!」と声をかけました。真ん中のMちゃんがうなだれた格好をしていますが、本人全然疲れていません。10:00ころ。


▲ヤブツバキでしょうか。10:16ころ。


▲山頂が近そうな雰囲気になってきました。K君は俄然スピードアップします。10:23ころ。


▲ウッディーな建物が見えて来ました。休憩所です。手前の入り口ふたつは男女のトイレ。10:25ころ。


▲第一展望所です。柵の間からK君がこちらを覗いています。雁回山山頂ではありませんが、こちらももう一つの山頂です。10:29ころ。


▲展望所の上はこんな感じ。10:30ころ。


▲360度のパノラマが広がっていました。これは八代の方でしょうか? 10:31ころ。


▲中央の山は宇土半島の山並みだと思います。右奥に見える山は島原半島の雲仙普賢岳でしょう。10:31ころ。


▲中央少し左に見える山は熊本市のシンボル金峰山のはずです。手前や右には熊本の市街が広がっているのです。10:32ころ。


▲さらに右へとパーンすると、熊本市街地だとはわかりますが、詳しくは分かりません。10:33ころ。


▲ちょっと先に見えているなだらかな山頂がおそらく雁回山の本当のピークなんでしょう。でも、展望所のあるこのピークの方が山頂らしい雰囲気は持っていますね。11:08ころ。


▲展望所で昼食を済ませ、本当の山頂へ向かいます。展望所の階段を降りるS子。11:10ころ。


▲林道脇で白い花が咲いていました。サザンカだとは思いますけれど、すごく小さいのです。その時に反対側から歩いて来た物知りっぽいおじさんもサザンカかなあ、と言っていました。11:25ころ。


▲展望所と雁回山山頂とはこんな感じの林道でつながっています。11:31ころ。


▲雁回山(木原山)314.4mの山頂です。MちゃんはS子の身長に追いついちゃいましたねぇ! 早いものです。K君もすぐに僕を追い抜くんでしょうね。11:37ころ。


岡山県の閑谷(しずたに)学校を訪ねました

2016年01月24日 | 帰省の途中旅

2015/12/26  青春18きっぷの旅は時間だけは贅沢にある旅です。伊勢市から熊本まで一気に行くことは不可能なのですが、途中でどこかに寄って旅を続ける計画を考えてみました。
そこで考えたのが岡山県備前市の閑谷学校です。僕は中学生のころ(多分)と20代のころの2回、訪れたことがあります。岡山の池田藩の藩校であるという知識くらいしか、今回再再度訪れるまでは持っていませんでした。ただ、山深い中に静かにたたずむ江戸時代の古い建物や周囲の雰囲気が素晴らしかったことだけは記憶にありましたから、S子をそこへ連れて行ってあげたかったのです。


▲閑谷学校の最寄駅は山陽本線の吉永駅です。岡山県東部の備前市にあります。田舎の小さな駅でした。11:08ころ。

ちなみに青春18きっぷの旅程をお教えしましょう。
伊勢市4:45~5:56亀山6:02(関西本線)~6:27柘植6:34(草津線)~7:22草津7:36~9:33姫路9:39~9:58相生10:30~11:00吉永
この日はホテルで超早起きしました。


▲閑谷学校までの道のりは3~4kmほどですから、最初からぼちぼち歩こうと考えていました。時間次第ではタクシーを使うこともあるでしょうが、今日は天気もいいことですし、歩いて行くのが気持ちいいですね。途中のコンビニでお昼ご飯を購入して、散歩気分で歩き始めました。歩くS子の頭上の道路標識には閑谷学校まで3kmと標示されています。11:28ころ。


▲道路脇に妙なものがありました。寄って行ってみると、いびつに曲がった太い自然木がゲートのように設置してあります。11:42ころ。


▲ゲートの右隣りには牛の像があり、その周りにも小さな牛の置き物が並べられていました。賽銭箱らしきものも置いてありますし、牛頭観音などと関係があるのでしょうか? 11:42ころ。


▲急ぐ旅でもありません。ゲートの先に続く長い階段を登ってみることにしました。11:44ころ。


▲登り切ったらそこは展望台のような場所でした。吉永駅の周りの街並みが一望できます。12:13ころ。ちょうどお昼時ですし、ここでお昼ご飯にしました。12:13ころ。


▲こんな感じの展望台でした。12:14ころ。


▲車道を進んで行くと、大きな池の先で歩行者用の道が車道から分かれていました。おそらく昔の車道なのでしょう。以前来たときには山中の車道をくねくねと登って来た(その時には車で)淡い記憶がありますから、この車道だったのでしょうか? 12:53ころ。


▲トンネルを抜けると、いきなり閑谷学校が始まりました。でも石塀の中に見える建物は僕にとっては初対面です。12:55ころ。


▲この建物は何でしょう? 明治時代の学校みたいですね。これが何かは後で判明します。12:55ころ。


▲「信勤倹 学びの跡
講堂に端座する学生服の一団をみるか  経書の一章を師について朗読するを
火除山の草に大の字になる少年を見るか  天空駆けて夢膨らます大志の行方よ
閑谷川に太古の響き  大成殿に風の清澄  
赤松に赤松の匂い  楷樹に楷樹の輝き
我らはこの地に学んだ  疾風怒濤の青春を生きた
懐旧と往年の熱  呼びさまして願う  
この谷の弦誦の声の  永遠なることを」
この石碑が何故ここにあるのかも最初は理解できていませんでした。以前来た際には、これは見ていませんし。「学生服の一団」とありますから、江戸時代ではないですしね。12:58ころ。


▲校門は修復中だったのか、被いで囲われていました。受付の門へ向かいます。そこには「日本遺産決定!」の看板が。昨年4月に「近世日本の教育遺産群」として弘道館、足利学校、咸宜園などとともに日本遺産第一号と認定されたのだそうです。この静けさが気に入っていた場所なのに、有名になって観光客が増えるのは個人的には好ましいものではないですね。13:00ころ。


▲聖廟(せいびょう)です。1684年に建てられた閑谷学校の中でも最も古い建物。江戸時代ですから儒学の祖・孔子を祭っているものです。
階段の両側の二本の巨木は楷(かい)の木。ウルシ科の落葉高木で左は赤く、右のは橙に紅葉するそうです。写真で見ましたが、実に美しい紅葉の姿ですよ。大正4年に中国山東省曲阜にある孔子の墓所で採取された種を日本に持ち帰り、十数本が育苗に成功しました。そのうち2本が閑谷学校へ寄贈されたのだそうです。東京の湯島聖堂や佐賀県の多久聖廟の楷の木も同じときのものだそうです。13:13ころ。


▲聖廟の中はこんな感じ。左は厨屋(くりや)、中央は孔子像が納められている大成殿かと思います。13:15ころ。


▲広場の向こうに見えているのは国宝に指定されている講堂です。今では備前焼瓦ですが、創建当初は茅葺きだったそうです。「学問の殿堂」のシンボル的存在ですね。13:18ころ。


▲講堂の中は静まり返っており、心引き締まります。重厚な雰囲気に圧倒されます。13:19ころ。


▲講堂は10本の欅の円柱で支えられています。周囲には花頭(かとう)窓があり、柔らかい光が差し込んで来ます。写真に見える額には「克明徳」と第9代藩主・池田治政により書かれています。13:22ころ。


▲講堂と隣接して小斎や習芸斎、この写真の飲室があります。飲室は教師と生徒たちの休憩室、喫茶室だったそうです。火の使用はここの囲炉裏だけに限定されていました。しかも、炭火だけしか使ってはいけなかったようです。火の管理には厳しかったみたいですね。当然ですけれど。13:25ころ。


▲講堂の先に建っている蔵は文庫と呼ばれています。閑谷学校所蔵の書籍等を保管しておく土蔵。入り口は四重戸で厳重に管理されています。でも、規則には「文庫の書籍諸生望次第之を貸与す」とあったそうですから、大らかな校風でもあったようですね。
この文庫の裏に小高い丘がありますが、これは火除山(ひよけやま)で、石垣の上に大量の盛り土をしたものです。実は、この丘の向こう側には生徒や教師たちの生活の場があるのです。そちらでは火を使いますから、万が一にも飛び火しないよう、人工的な火除山を作ったのですね。13:29ころ。


▲火除山を越えると、この建物が立っています。江戸時代には教師や生徒の生活の場であり、小さな集落があったようですが、今はそれは残っていません。どうやらここは資料館になっているようですね。中の展示物を見て、この建物が何なのか、分かりました。14:31ころ。

この建物は明治時代に建てられたもので、藩校としての使命が終わった後もこの地を教育の場として生かし続けたい人々の手により、閑谷学校に隣接するこの地に、閑谷精舎、閑谷黌、私立閑谷中学校、私立閑谷黌、岡山県閑谷中学校、岡山県立閑谷高等学校、岡山県立和気高等学校閑谷校舎などと名称を変えながらも昭和39年まで学びの場として存続したのでした。
僕が最初にこの地を訪れた際にはこの校舎に気付きませんでしたが、学校自体はすでに使命を終えていたのですね。

この資料館で僕は初めて知りました。1670年に岡山藩主の池田光政が藩士のためではなく一般領民のためにこの閑谷学校を建設したことを。以前訪れたときには、何も考えず、当然武士の子弟が集まって教育を受けていたものと考えていました。今回、じっくりと見て、武士の子弟ではなく一般領民のための学校だと知り、その革新性に驚きました!


▲資料館(この写真では中央の文庫(土蔵)の向こう側にあります)から戻って来ました。14:33ころ。


▲講堂前から聖廟とその右の閑谷神社を望みます。閑谷神社は創始者・池田光政を祀る神社。この二つの建物は光政から閑谷学校の建設や運営を任された津田永忠が学校の永続を図って建てたものです。一般領民のための学校など藩主が変わり教育への情熱がしぼんでしまうと、いつ廃校となってしまうか分からなかったからです。孔子と光政の廟や神社があれば、無碍にはなくすことは出来ないだろうと考えたのですね。写真右の小高い丘は椿山と呼ばれています。池田光政の髪、爪、歯などを納めた供養塚があるそうです。14:34ころ。


▲閑谷学校から500mほど離れた場所に建つ黄葉亭へも初めて行ってみました。学校を訪問する客人のため設けた応接の場です。茶室ですね。途中には津田永忠の住居跡もありました。14:51ころ。


▲2時間ほど閑谷学校と資料館を見て回りました。いろんなことが分かった2時間でした。昔この地を訪れたときは山中に本当に静かに佇んでいましたから、独特の静謐さがありました。今はいろいろな建物が周囲に建っています。次第に観光地化して行くのでしょう。日本遺産にもなりましたし、世界遺産登録への動きもあるようです。こういう学校の存在が知られるようになることはいいことと、思うしかないでしょうね。15:05ころ。


▲資料館前を通りすぎます。この校舎は1905年に建てられたものですが、その後60年間も生徒たちの学び舎として生きて来たのです。15:07ころ。


▲のんびり歩いて吉永駅へ向かっていました。でも途中で、この電車に間に合いそうだと分かりましたから、少しだけ歩を速めました。これから岡山市へ向かいます。15:54ころ。

岡山駅までは40分ほどしかかかりません。駅のすぐそばのホテルにチェックインし、街へ出かけます。何となく雰囲気の良さそうな居酒屋さん(〝居酒屋もりもと”だったような気がします。後で知ったのですが、なかなかの人気店ですぐに満席になりますから座れたのはラッキーだったようですね)がありましたから、そこへ入りました。僕たちが入ってからお客さんが次々に来て、すぐに一杯になりました。最初からカウンターに座らされた理由が納得できます。


▲大根とジャコのサラダと黄ニラの卵とじです。黄ニラは岡山県の名物らしいですね。全国の約7割を岡山県で生産しているのだそうです。太陽に当てないで育てることで、普通の青いニラよりも柔らかく、甘く、香りも淡く上品になるのです。確かにそれは当たっています。通常のニラの強烈さはありませんがね。18:47ころ。


▲鯨刺しがあったので頼んでみました。18:51ころ。


▲向う側のはアジ(?)のなめろうだったでしょうか? アジだったと思います。手前のは鮟肝だったかと思います。冬ですから、名古屋でも伊勢市でも頼んで食べました。3つのお店とも素材は似た感じでしたが、このお店が味付けやアレンジが上手で頭抜けて美味しかったですね。写真では写っていませんし、銘柄も忘れましたが、地酒も頼みました。美味しかったです。純米酒中心にいいお酒を揃えていましたね。19:47ころ。

カウンターのお隣の席にお二人楽しそうに語らいながら飲んでおられました。何がきっかけだったかは忘れましたが、その方たちとお話しが弾むようになったのです。酒も入っていい気分になっていましたから、何を話したのか内容は全然覚えていないのですが、とても楽しい会話だったことだけは記憶に残っています。
別れ際にこのブログのタイトルだけを告げたように思います。もし、このブログを読んでくださっていたら、「楽しい会話が出来てありがとう」と言いたいですね。


伊勢神宮の外宮も参拝しました

2016年01月20日 | 帰省の途中旅

2015/12/25  伊勢神宮に参拝するのは実は2回目です。かなり昔に車で来たことがあります。その時は内宮だけ訪れました。偶然、大相撲の幕内力士たちの奉納相撲が執り行われていて、関取を肉眼で見たのは初めてでしたから、その巨躯に驚かされたものです。テレビの画面では小兵力士にすら見えてしまう横綱の千代の富士が目の前で見るととても大きく見えることにびっくりしました。同じ横綱でも当時調子が悪かった大乃国がしぼんだ感じに小さく見えたことがとても印象的でした。勢いのある力士は筋肉が外へとパーンと張っていて、実際以上に大きく見えるのです。

ですから、外宮は今回初めて訪れます。楽しみですね。
外宮には豊受大神(とようけのおおみかみ)が祀られていて、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)と呼ばれています。内宮に祀られている天照大神のお食事を司る神様なのだそうです。ですから、衣食住をはじめあらゆる産業の神様になっておられるとか。


▲伊勢市駅前のバス停で下車しました。12:53ころ。


▲宇治橋では右側通行でしたが、ここ表参道火除橋は左側通行なのです。13:06ころ。


▲勾玉池に設置された奉納舞台。13:10ころ。


▲勾玉池のほとりに建つ「せんぐう館」に入ってみました。展示物等は撮影禁止ですから、これ以上の内部写真はありません。13:14ころ。

このせんぐう館では本当にいろいろと教えてもらえました。展示物がとても充実しています。いろいろと知らなかったことがたくさん分かりました。御装束神宝も式年遷宮にあわせてすべて作り替えること、その製作工程。それに、外宮正殿の実物大の再現物が展示されているのには驚きます。そのさらに詳細な解説を決められた時間になるとしてくださり、その内容も興味深かったですね。例えば、伊勢神宮にある大きな鳥居ですが、それは式年遷宮で解体された旧正殿の棟持柱を再利用しているのだそうです。


▲こういう鳥居も再利用なのでしょうね。14:23ころ。


▲正宮です。塀の中に入ってからは撮影禁止ですから、これくらいしか撮れません。14:28ころ。


▲風宮(かぜのみや)です。風雨を司る神様である級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)が祀られています。蒙古襲来のおり、神風を吹かし国難を救ったことで、別宮に昇格したのだそうです。14:29ころ。


▲長い階段を登って行きます。14:31ころ。


▲別宮の多賀宮です。豊受大神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)を祀っています。14:33ころ。


▲別宮の土宮(つちのみや)です。大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀っています。14:39ころ。


▲実に風格のある巨樹です! 広葉樹に見えますが、何の木なのでしょう? 14:49ころ。


▲来たときとは別の道を通っています。やはり森が美しい! 14:54ころ。


▲豊受大神宮の御料御馬の笑智(えみとも)号。平成18年生まれのアングロアラブ種です。14:56ころ。


▲菊の御紋ですよね。散歩に出るようです。15:00ころ。

外宮は内宮に比べると参拝客が少しは少なくてざわざわした感じがあまりしませんでした。思いのほか心地よい場所です。それに「せんぐう館」はとてもいい施設です。ぜひ訪れてみてください。


▲予約を入れていたホテルにチェックインし、いい頃合いに駅前の商店街に向かいました。伊勢神宮の御膝元にしては、賑わいがあまりありません。地元の魚がうまそうなお店に入り、地酒をいただきました。料理、お酒ともに美味しかったのですが、お客さんが少なくてちょっと寂しい居酒屋さんでした。何を頼んだのかは忘れましたが、中央の皿はウツボの唐揚げ、その左は鰆のたたきだったような・・・・ 17:50ころ。


伊勢神宮の内宮を参拝しました

2016年01月16日 | 帰省の途中旅

2015/12/25  昨年、出雲大社を訪れましたから、今度は伊勢神宮というのは自然な流れです。しかし、今回はムーンライトながらの指定券をひと月前に確保し忘れ、前日に名古屋へ入っておくことになってしまいました。僕たちの旅は青春18きっぷの旅です。参考までに東京から名古屋までの乗り継ぎをお教えしましょう。
東京13:37~15:14熱海15:17~17:30掛川17:40~18:43豊橋18:46~19:38名古屋。


▲早朝名古屋を発ち、近鉄で伊勢市駅まで来ました。この日の晩はこの駅そばのホテルに泊まりますから、余計な重い荷物はコインロッカーに預けてから歩きます。そして、再び近鉄線に乗り、五十鈴川駅で降りました。9:19ころ。


▲まずは伊勢神宮の内宮(ないくう)へ向かいます。内宮に続く道路の両サイドには石燈籠が続いていました。9:24ころ。

今回ここへ来ることになって、伊勢神宮が知っている以上に大きなお宮であることが分かりました。これまで僕が伊勢神宮として知っていたお宮は伊勢神宮の一部に過ぎない「内宮」だったのですね。
しかも、伊勢神宮と当り前のように呼んでいますけれど、正式名称はただの「神宮」なのです。中でも中心的な皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)、その他14社の別宮(べつぐう)、109社の摂社や末社や所管社、合わせて125社の総称が神宮、通称・伊勢神宮なのです。
その神宮の敷地は広大で、伊勢市の4分の1を占めるのだそうです。第二宮域林と呼ばれる広い山林を持っているのです。


▲途中、月讀宮(つきよみのみや)と案内があったのでその森に入ってみました。9:31ころ。


▲お宮が4社、祭られていました。まずは伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祭ってある伊邪奈岐宮(いざなぎのみや)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祭ってある伊佐奈彌宮(いざなみのみや)です。この二柱の神様は国生み神生みの神様で天照大神(あまてらすおおみかみ)と月讀尊(つきよみのみこと)の親神です。
あと二つのお宮は子の神様である月讀尊を祭ってある月讀宮と月讀尊の荒御魂(あらみたま)を祭ってある月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)です。神様自体ではなく、神様の御魂を祭る宮というのも不思議な感じがします。
この4社は四別宮でもあります。9:44ころ。


▲内宮の直前には「おかげ横丁」があります。前回の式年遷宮の年、1993年に開業した通りだそうです。そこに郵便局がありました。S子の前にある黒い箱はポストなのです。日本最古のポストを模して作り、ここに設置したのです。早速S子は持って来ていた投函し忘れの年賀状をここへ入れました。10:44ころ。


▲赤福本店がありました。僕でも赤福の名前くらいは知っています。300年以上の歴史があるのですね。帰路、熊本へのお土産とふたりがすぐに食べる分を買いました。10:48ころ。


▲おかげ横丁はこんな感じ。お店も一軒一軒が面白くて、この通りだけでも結構楽しめます。10:53ころ。


▲伊勢神宮の表玄関と言えるのがこの宇治橋です。11:03ころ。
この橋も式年遷宮に合わせて作り替えるのかなと思って調べましたら、式年遷宮の4年前に作り替えているのですね。ただこれには訳があります。敗戦後の1949年が第59回の式年遷宮だったのですが、戦後の混乱の中、昭和天皇が式年遷宮の無期延期を決めたのだそうです。その際、せめて宇治橋だけでもと、作り替えたのだそうですね。その後、1953年に式年遷宮が行われましたから、以降、宇治橋だけは式年遷宮の4年前に作り替えられるようになったとのこと。
架け替え工事中はすぐ隣に仮橋を渡すのですが、その時の橋脚と思われるものが残されていました。


▲五十鈴川御手洗場(みたらし)。参拝前に心身を清める場所なのですね。でも、今はそのための手水舎がありますから、ここで清めなくてもいいようです。11:13ころ。


▲心地よい森の中の大路を進みます。11:15ころ。


▲巨木が目立つようになりました。11:19ころ。


▲内宮の皇大神宮(こうたいじんぐう)の中心がこの写真の正宮(しょうぐう)です。天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。この階段から先は撮影禁止ですから写真はありません。11:21ころ。


▲社殿の神秘・神聖さはあまり実感できませんでした。信心しているわけでもないですし、それ以上に観光客がたくさんいますから、そんな雰囲気ではないのです。でも、こんな巨樹なら感じさせてもらえます。これら巨樹や深い森が伊勢神宮の神聖さを支えていると考えるのはバチ当たりでしょうか? 11:31ころ。


▲巨きな樹があるとついつい寄って行ってしまいます。惹きつけられます。パワーがありますよね。見事な巨樹や素晴らしい森を抱いている伊勢神宮は凄い場所です。11:32ころ。


▲荒祭宮(あらまつりのみや)にも式年遷宮の代替地がすぐ隣りにありました。ここには天照大神の荒御魂が祀られています。第一別宮でもあります。11:38ころ。


▲荒祭宮です。代替地には階段も前もってあります。社を建て替えるだけなのですね。11:40ころ。


▲広い参道へ戻ると、まだたくさんの参拝者が続いていました。12:03ころ。


▲宇治橋に戻って来ました。12:04ころ。


▲おかげ横丁を戻り、帰ります。12:22ころ。

次は外宮(げくう)に向かいます。歩くと6kmほどのようです。五十鈴川駅までの倍ほどですから、歩いて行こうと思っていたところ、おかげ横丁の端っこにあったバス停でちょうど伊勢市駅へ向かうバスがありましたので、飛び乗りました。


『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著 時岡敬子訳 講談社学術文庫

2016年01月01日 | 読書

2015/12  韓国や北朝鮮は日本の隣国ですから高校生のころから人並み程度、もしくはそれよりは少し多くの関心を抱いていました。最近はNHKで放送された韓国歴史ドラマを通じて、韓国の歴史にも少しですが関心を向けるようになりました。「宮廷女官チャングムの誓い」から始まって、「イ・サン」、「太王四神記」、「ファン・ジニ」、「トンイ」などを観て来ました。ドラマとしてよく構成されていて面白いですし、朝鮮歴史の勉強にもなります。

しかし、幾つかのドラマを観ていくうちに少し違和感も抱くようになりました。「太王四神記」以外は14世紀末から20世紀初頭まで続いた李氏朝鮮王朝のドラマなのですが、日本の戦国時代から幕末、明治時代を扱った歴史ドラマと比較して、人物構成があまりにも単純なのです。日本のドラマなら主役級の歴史上の人物が綺羅星の如く登場して、国の歴史が一人一人の人物の決断、躊躇、愛憎、運不運などで様々に変貌していくのですが、韓国の歴史ドラマは王宮内限定のように思えます。中でも印象的なシーンは、高級官僚である両班たちが発する「王様! どうぞお考え直しください!」などと口を揃えて繰り返し嘆願するシーン。日本の歴史ドラマではありえないシーンです。

一時期の韓流ブームも過ぎ去り、振り子は嫌韓の方向へすら振れているようですが、日本人も韓国人も相手国の歴史や自分の国の歴史をありのままに見つめる目が必要だと思います。先入観や断定なしに相手と自分を知ること、否むしろ、尊敬の気持ちをもって相手を見、謙遜の気持ちを忘れずに自分を見ることが大切だともいます。


▲『朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期』イザベラ・バード著 時岡敬子訳 講談社学術文庫

書店で目に留まったこの本を読んでみました。文庫本とは言え、600ページ近い本ですし、夜寝る前に眠たい目をこすりながらちょっとずつ読みましたから、何ヶ月かかったでしょうか? 途中、他の本を読むこともしょっちゅうでしたから、半年間はかかったような気がします。

イザベラ・バードは『日本奥地紀行』でも有名な旅行作家で、この本は彼女が1894年1月から1897年3月にかけて4度にわたる朝鮮旅行を記録したものです。この時代は朝鮮半島をめぐって日本と清国が争った日清戦争の時代と重なっています。日清戦争は1894年7月から1895年3月ですから、まさにその時代ですね。

読後の感想文を書くにも、旅行記ですから旅の見聞を淡々と記録したものがほとんどです。そのところどころにイザベラ・バードならではの印象や感想が書かれてるのです。そんな、彼女の感受性溢れた部分から僕にとって印象的だった言葉をテーマ別に書き抜いて列記したいと思います。あえてそういう箇所だけを通して読むと、彼女が知って欲しかった当時の朝鮮の姿とはずれてしまうかもしれません。でも、それはそれで現代に生きている僕の視点が影響してるのでしょう。

【朝鮮人の肉体や精神や能力】
・朝鮮人はたしかに顔だちの美しい人種である。体格はよい
・知能面では(中略)理解の早さと明敏さ(中略)外国語をたちまち習得してしまい(中略)優秀なアクセントで話す
・東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない
・体格は日本人よりはるかに立派である
・庁舎に必ずたむろしている知識層から、わたしたちは育ちの悪い無作法な行為を何度も受けた(中略)それとは逆に、無学な階層の男たちはこまやかな親切をさまざまな形でわたしたちに示し
・日本人のこまやかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮人の農業はある程度むだが多く、しまりがない。
・朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった(中略)朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる
・どんな男もできるかぎりニュースを集め、あるいはつくる。耳に入れたことをうそと誇張で潤色する。朝鮮は流言蜚語の国なのである。朝鮮人は知っているとこと、というより耳にしたことを人に話す。ダレ神父によれば、朝鮮人は節度の意味を知らず、それでいながら率直さにははなはだしく欠ける
・狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、二〇〇〇年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる
・その一方で、国民のエネルギーは眠ったままである
・朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである
・朝鮮の重大な宿痾は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている。つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある

【朝鮮王朝】
・わたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した
・国王は反外国的な感情はまったくいだいていない(中略)外国人の助力を遠慮なく頼りとしてきた(中略)国王の人柄について長々と記したのは、国王が事実上朝鮮政府であるからである(中略)その意志薄弱な性格は致命的である

【朝鮮の宗教や思想など】
・儒教は公認の宗教であり、孔子の教えは朝鮮人道徳の原則である
・聖職者に対して過酷な法律が制定されたのは、三世紀前に日本が侵略してきたとき、日本人が仏教僧に変装して都に入る許可をもらい、守備隊を虐殺したからだと朝鮮人はいう
・朝鮮人の受け入れる宗教は、努力せずに金を得る方法を教えてくれる宗教である。無関心がはなはだしく、宗教的機能が欠如しており、興味をそそられる宗教理念が皆無で、孔子の道徳的な教えはどの階級にもたいして影響をおよぼしていない
・朝鮮人は宗教を持たない
・神、祈り、道徳的悪、善といった最も初歩的な概念を持たない人々を相手にまともな礼拝を行うのは不可能だった(中略)宗教的な観念のない人々なのである
・人々の心に宗教の入りこんでいる形跡がなんら見られないのは、朝鮮人の非常にめずらしい特徴である

【朝鮮の自然や気候】
・気候は疑問の余地なく世界で最もすばらしく
・トラとヒョウはおびただしく棲息し
・城内でトラやヒョウが撃てると自慢できる首都はたしかにソウルをおいてはめったにない!
・城壁の外はうっとりするような田園地帯で(中略)すぐ近くにこれほどすてきな散策や乗馬の場所のある都会は東洋にあまりない
・隣国日本でよく見られる、土地を荒廃させるような洪水は地震とともに朝鮮にはない

【朝鮮の社会】
・これほど安全な環境をもつ都会はほかにない
・北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし(中略)ソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていた
・朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている
・貨幣はほとんど流通しておらず、取り引きは物々交換、もしくは農民が労働で支払う
・借金という重荷を背負っていない朝鮮人はまったくまれで
・学校といっても私塾である。家々でお金を出しあって教師を雇っているが、生徒は文人階級の子弟にかぎられ、学習するのは漢文のみで
・漢江流域には郵便施設がなく、もちろん新聞もない
・朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある(中略)伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である
・上流階級より下層階級の方がしあわせな結婚ができる。朝鮮の女たちはつねにくびきをかけられている
・日本と土壌がきわめてよく似ているのであるから、しかも朝鮮は気候には日本よりはるかによく恵まれているのであるから、行政さえ優秀で誠実なら、日本を旅した者が目にするような、ゆたかでしあわせな庶民を生みだすことができるであろうにと思う
・悪政はこれ以上ひどくなりようのない状態で、あまりな搾取に対し、よくある農民蜂起を超えた規模で武装抗議するための時は熟している
・わたしの宿泊先にかぎらず、どこもかしこもみすぼらしくてほこりとごみだらけというのは信じがたいほどではあっても(中略)給水のひどさは話にならず、あらゆる種類のごみと汚物が井戸の口まで堆積している。
・朝鮮の官僚は大衆の生き血をすする吸血鬼である(中略)政府官僚の大半は、どんな地位にいようが、ソウルで社交と遊興の生活を送り、地元での仕事は部下にまかせている。しかも在任期間がとても短いので、任地の住民を搾取の対象としてとらえ、住民の生活向上については考えようとしない
・平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して「交易」は存在しない
・概して相手を信用しないこと(中略)階級による偏見があること、一般に収入が不安定で(中略)まったくもって信じられないほど労働と収入が結びつかないこと
・もしも「搾取」が、役所の雑卒による強制取り立てと官僚の悪弊が強力な手で阻止されたなら、そしてもしも地租が公正に課されて徴収され、法が不正の道具ではなく民衆を保護するものとなったなら、朝鮮の農民はまちがいなく日本の農民に負けず劣らず勤勉でしあわせになれるはずなのである
・朝鮮の下層階級の女性は粗野で礼儀を知らず、日本のおなじ階層の女性のしとやかさや清国の農夫の節度や親切心からはおよそほど遠い
・農家の女性にはなんの楽しみもない(中略)働きづめに働くばかりである。三〇歳で五〇歳に見え、四〇歳ともなればたいがい歯がない
・朝鮮女性の地位の現状を推しはかるのはじつにむずかしい(中略)女性がいないと考えるのが礼儀なのである。女性は教育を受けず、どの階級においてもきわめて下位に見なされている。朝鮮人男性は女性とは当然男性より劣ったものだという、ある種二元的な哲学を持っている
・読み書きのできる朝鮮女性は一〇〇〇人にひとりと推定されている
・朝鮮国内は(中略)官僚主義の悪弊がおびただしくはびこっているばかりでなく、政府の機構全体が悪習そのもの、底もなければ汀もない腐敗の海、略奪の機関で、あらゆる勤勉の芽という芽をつぶしてしまう
・朝鮮における司法はおしなべてひどいものである。立法府はまだ創設されていないのも同然であるし、法を執行する裁判官も同様にまだ存在していない
・一八九七年にソウルに導入された最も画期的な変革のひとつに監獄の改善がある。これは元上海警察顧問官で現在朝鮮警察庁顧問官のA・B・ストリップリング氏によるところが大きい。氏はもともと日本人が提唱した監獄の改革を人道的かつ進歩的に実行している

【朝鮮の産業など】
・商店はどれも、商品のすべてが手を伸ばせば届くところにあるほど小さい
・地方に特産物はとぼしい
・朝鮮には卵はあるし、地方によっては鶏もある。栗の実はおいしい
・朝鮮ではほかのどこよりも紙の用途が多様であり、生産される紙のじょうぶさと耐久性は測り知れない
・朝鮮は非常に原始的後進的なタイプの純然たる農業国であり、その最上の農地の大半はろくに道も通っていない山脈で実質的に隔絶されているのである。また慣習の支配が強固である。さらに朝鮮の農夫は、米や豆が利益を生むこと、外国には米や豆の需要が無尽蔵にあること、高い綿の衣服を着るよりも外国から糸や布を輸入すれば衣服にかかる出費が抑えられること、外国製品が入ってくれば生活が便利になること、をようやく知りはじめたばかりである

【朝鮮の道路事情など】
・道路事情は劣悪
・道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて、冬にはぬかるみ(中略)たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、七月はじめの雨で流されてしまう。そして10月なかばになるまで修復されない

【朝鮮の文化、芸術、芸能など】
・美術工芸品はなにもない。
・朝鮮語は東アジアで唯一、独自の文字を持つ言語である点が特色
・朝鮮人の文学、迷信、教育制度、祖先崇拝、文化、考え方は中国式である
・ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺物はわずかしかないし、公園もなければ(中略)見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている

【朝鮮の中の日本】
・良質な日本円またはドルは現在全国で通用する
・釜山の居留地はどの点から見ても日本である(中略)銀行業務は東京の第一銀行が引き受け、郵便と電信業務も日本人の手で行われている。居留地が清潔なのも日本的であれば、朝鮮人には未知の産業、たとえば機械による精米、捕鯨、酒造、フカひれやナマコや魚肥の加工といった産業の導入も日本が行った
・清国人は彼(袁世凱)を恐れるあまり、朝鮮人に対してはまずまず態度がよかった。これに比べれば、日本人の朝鮮人に対する態度は話にならない
・方法のちがいが肉をこうさせてしまうので、ソウルでもほかの町でも外国人は日本人の肉屋で買わざるをえない
・わたしたちは朝鮮国内で最も整然として魅力的な町に入っていた(中略)元山条約港の日本人街である
・元山は(中略)朝鮮人が戦時中に日本人の払ったとほうもない労賃で裕福になったこと
・日本軍による占領は済物浦のこの区域を中世の悪疫のように壊滅してしまった
・日本人街と海岸沿いは殷賑をきわめていた(中略)物価は高く賃金は二倍以上になっており、「搾取」はなくなって朝鮮人は自発的に働いていた(中略)お供がいらないほど治安はよく(中略)日本の郵便局で(中略)親切な日本兵に迎えられ、お茶と火鉢でもてなされた
・日本の将校が朝鮮軍を訓練していた。改善といって語弊があるなら変化はそこかしこにあり、さらに変化が起きるといううわさがしきりにささやかれている
・現在朝鮮の改革は日本の保護下で行われていないとはいえ、進行中のものはほとんどどの段階においても日本が定めた方針に則っていることを念頭に置かなければならない
・このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった(中略)日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。盗む側と盗まれる側である
・日本は朝鮮人を通して朝鮮の国政を改革することに対し徹頭徹尾誠実であり、じつに多くの改革が制定されたり検討されたりしていた
・平壌は猛襲を受けたわけではない。市内では実際の戦闘はなく、敗退した清国軍も占領した日本軍も朝鮮を友邦として扱っていた。この荒廃のすべてをもたらしたのは、敵ではなく、朝鮮を独立させ改革しようと戦った人々なのである。「倭人(ウオジェン=矮人=こびと)は朝鮮人を殺さない」ことが徐々に知られるようになり、多くの住民はもどってきていた
・そのあとの占領中、日本軍は身を慎み、市内および近郊で得られる物資に対してはすべて順当な代金が支払われた。日本兵を激しく嫌ってはいても、人々は平穏と秩序が守られていることを認めざるをえず
・そのための改革は日本によって行われてきたが、日本も自由裁量権をあたえられているわけではなく、また改革に着手した(とわたしは心から信じる)ものの、役割を果たし調和のとれた改革案を立てるには未経験すぎた(中略)改革は断続的断片的で、日本は枝葉末節にこだわって人々をいらだたせ、自国の慣習による干渉をほのめかしたので、朝鮮を日本の属国にするのが目的だという印象を、わたしの見るかぎり朝鮮全土にあたえてしまった
・慈山でもほかと同様、人々は日本人に対してひとり残らず殺してしまいたいというほど激しい反感を示していたが、やはりほかのどこでもそうであるように、日本兵の品行のよさと兵站部に物資をおさめればきちんと支払いがあることについてはしぶしぶながらも認めていた
・断髪令は朝鮮人を日本人と同じような外見にさせて自国の習慣を身につけさせようとする日本の陰謀だと受けとめられた。朝鮮人らしさを奪う勅令は日本の差し金だという考えはきわめてつよく、あちこちで起きた断髪令反対の暴動は日本人への敵意を公然とあらわしており、殺人にいたった場合が多い
・現在行われている改革の基本路線は日本が朝鮮にあたえたのである。日本人が朝鮮の政治形態を日本のそれに同化させることを念頭に置いていたのは当然であり、それはとがめられるべきことではない
・日本人の制定した改革が最も著しくあらわれているのはこの分野である(中略)きわめて野心的な部分をなしており、賞賛に値する青写真だった。そのまま実行されていれば、朝鮮の宿痾たる多くの悪弊が根絶されたはずである
・朝鮮の教育改革計画はもともと日本人による改革時代に発案されたもので、初等学校制度、直接成果の出る師範学校、中等学校の創設がその内容である
・朝鮮市場におけるイギリスの手ごわい競争相手は日本で、わたしたちは二四時間以内に朝鮮の海岸線に到着できるうえ、海運をほぼ独占しているばかりでなく、現在最も頭の回転が早く、適応性があり、忍耐強く、進取の気象に富んだ人々と競合せねばならないのである
・日本の成功は、地の利はべつとして、朝鮮の津々浦々に目はしのきく出張員を送り、その出張員から仕入れる情報の正確さ、そして朝鮮市場の好みと要求を調べる製造業者のきめ細かな配慮に主として起因している
・わたしは日本が徹頭徹尾誠意をもって奮闘したと信じる。経験が未熟で、往々にして荒っぽく、臨機応変の才に欠けたため買わなくともいい反感を買ってしまったとはいえ、日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる

【朝鮮人の日本観】
・三世紀にわたる[豊臣秀吉の朝鮮出兵以来の]憎悪をいだいている朝鮮人は日本人が大嫌い
・住民たちは三世紀前の遺産である憎しみから日本兵を嫌っているが、彼らに対してはなにも言えないでいる。日本兵がきちんと金を払ってものを買い、だれにも危害を加えず、庁舎の門外にはめったに出てこないことを知っているからである
・人々は日本人に対して激しい嫌悪感をいだきながらも、日本人が騒ぎを起こさず、なにを手に入れるにもきちんと金を支払っていることを認めざるをえない

【イザベラ・バードの印象的な言葉】
・このように旧態依然とした状況、言語に絶する陳腐さ、救いがたくまた革新のないオリエンタリズムの横溢する国に、西洋による感化という動揺がもたらされたのである。このか弱い属国は何世紀にもわたる眠りからいきなり揺さぶり起こされ、なかばおびえ、また完全にとまどいながら、強力で野心があり、性急で必ずしも節度をわきまえているとはいえない列強が、押し合いへし合いしつつ自分の上に覆いかぶさっているのを知った。そして、新しい道へとむりやり連れていかれ、由緒ある慣習の弔鐘を乱暴に鳴らされ、利権をよこせとやかましくせつかれ、求めてもいなければなんの意義も見いだせない改革やら提案やら万能薬的解決策やらでめんくらわせられているのである
・絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシアチブのもとに行われないかぎり成功は望むべくもない
・わたしには羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした
・清との関係が終結し、日清戦争における日本の勝利とともに、中国の軍事力は無敵であるという朝鮮の思いこみが打破され、本質的に腐敗していたふたつの政治体制の同盟関係が断ち切られた
・朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない

                                      以上