ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

日の出山北尾根から御岳を経て奥多摩駅へ。山頂付近は雪山でした 1/2

2015年02月26日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/19  若いころのように体力にまかせた山行は出来なくなっています。週休二日制がまだ一般的ではありませんでしたから、土曜日にザック等を背負って仕事に出かけ、一日中働いてから夜行の登山電車で山へと向かい、1~2時間仮眠をとるかとらないかで登り始め、山を目いっぱい歩き回って、下山後の打ち上げ、電車で自宅に戻るのは真夜中、それが普通でした。翌日はもちろん、仕事が待っています。

悪天で山へ行けないのは仕方ありませんが、なにやかやと理由をつけて山へ行かないことが多くなりました。もっともっと気持ちを若く持ち続けなくては、と思います。

2週間ぶりの山歩き。雲取山荘のHPによると50cmの積雪があるそうですから、標高の低い、まだ軽登山靴で歩けそうなコースへと足慣らしがてら行って来ました。


▲ここは御嶽駅。御岳や大塚山方面が見えていますが、白く彩られています。8:21ころ。


▲御嶽駅からは河原に降りて、御岳渓谷の遊歩道を進みます。対岸の建物は玉堂美術館だと思います。8:29ころ。


▲ここ御岳渓谷はカヌーのメッカです。カヌー競技用でしょうが、目印がぶら下がっていました。8:33ころ。


▲途中の日当たりのいい河原で朝ご飯にしました。それから、神路橋を渡って御岳のケーブルカー滝本駅方向へ向かいます。前方の山は惣岳山756m。9:00ころ。


▲またまた写真が横倒しのままで済みません。御岳神社への入り口にある一の鳥居の脇に「正二位子爵榎本武揚」と書かれていました。御岳神社と榎本との接点は分かりませんが、歴史ある神社ですから大切にされてきたのでしょうね。9:05ころ。


▲光仙橋の脇にある階段が日の出山北尾根の登山口になります。
左下の沢は琴平沢。出合からすぐの滝は直登できません。大きく高巻きます。途中、小さなチムニーっぽい滝がひとつあったように記憶しています。9:11ころ。


▲この尾根には十数年前だったでしょうか、初めて登りました。当時はまだ仕事道程度で、頂上直下は踏み跡もほとんどないような様子でした。その後、本などでも紹介されるようになり、昭文社の地図に尾根名どころか赤い破線まで引かれるようになったのです。今では立派な登山道が出来上がっています。9:37ころ。


▲右の谷の奥にケーブルカーの滝本駅があります。写真中央ピークのあたりに御岳山駅があります。9:42ころ。


▲同じ場所から望遠で撮ってみました。中央にケーブルの御岳山駅が見え、その右上に向かってリフトが延びています。


▲北方向を振り返ってみました。右のピークは惣岳山ですが、中央遠くのピークは棒ノ折山969mでしょうか? 9:56ころ。


▲雪が出始めました。10:01ころ。


▲あれからしばらくは雪も消え、暖かな場所で休憩したりしながら、ゆっくりと登りました。すると、再び雪景色に。数センチですけれど、しっかりと積もっています。10:56ころ。


▲北尾根の中でもわずかに南向き斜面では雪は積もりません。11:10ころ。


▲北尾根の登り斜面は日陰がちですから雪が残っています。標高も上がって、針葉樹の枝葉の上にも雪がまだ残っているようで、しょっちゅう雪が降り落ちて来ます。写真中央の日が射している部分に雪が舞い散っているのですが、分かりますか? 11:16ころ。


▲積雪が10cmを越えるくらいになりました。雪山と言っても許されるくらいの雰囲気が出て来ました。僕は軽登山靴を履いてきていますから、しかも防水が甘い靴ですから、S子に先を歩いてもらっています。ボロ靴で、あっちこっちからしみ込んで来そうですから。11:26ころ。


▲先行者の足跡が一人分付いていました。S子にはそれを追わせます。11:47ころ。


▲山頂がすぐそこに見えています。12:05ころ。


▲登山道の一角へ飛び出ます。12:08ころ。


▲今度は本当の山頂が見えて来ました。12:11ころ。


▲日の出山902.0mの山頂です。12:14ころ。

思っていたよりは雪があり、心配していたほどは雪がありませんでした。
用心深く歩いてきたので、僕のボロ軽登山靴の内部へのしみ込みは最小限にとどめることができました。靴下の一部分がほんの少し湿ったかな? という程度です。
気温も高く、風もなくて、長閑な日和でした。


日光橋公園ボウルダーでのトレーニング第6回―――またゼロからの再出発

2015年02月24日 | 日光橋公園ボウルダー

2015/2/12  前回のトレーニングから2ヶ月が経過してしまいました。

ムーブはつながり、あとは持久力を保ち続けて頑張れるかどうかだけだったのです。

でも、それ以降、何かと忙しかったせいなのか、年末は体調をわずかですが崩し、熊本へ行っている間は好調だったのですが、帰京後は再び万全な体調ではなく、体調が戻ってからも、なんだかんだと理由があって、もしくは、理由をつけて、トレーニングをさぼっていたのです。

ですから、今日はまったくのゼロからの再スタートです。


▲今日はS子も一緒です。S子の課題はまずはこの面までくらいはスムースに来ること。


▲この写真の反対側からこの前掲壁半分あたりまでは最初のトライで楽に来ることができました。ですから、この前掲壁中心に練習します。今いるところから、この面の左端までが核心部。


▲いよいよここからが難しい!


▲前の写真から右手を少し下げました。ここからのムーブを忘れてしまっています。
この時は、次の動きで落ちてしまいましたけれど、あれこれ試した結果、左手の下にあるアンダーホールドを使えば楽だということが分かってきました。

この後も30分くらい続けて、結局、今日は2時から3時までトレーニングしました。
やっぱり、毎週必ずトレーニングしないとダメですね。


五日市憲法ゆかりの地から真藤ノ峰、梵天山経由で金比羅尾根下降 2/2

2015年02月22日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/3  昨年は雪の積もったこの尾根を下山しました。そして、今日は登っています。

その日のブログをもう一度、
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/de812464c06d6c807b59a6817cc99092
読み直してみたいと思われる方はどうぞ。

その時も、あきる野市と日の出町の境界尾根を小机あたりから登り、本当は金比羅尾根まで行って下降したかったのですが、思いのほか時間がかかり、途中のこの尾根を下降したわけです。
僕が持っていた登山地図にも二万五千図にも、この尾根に山道があるようなことは出ていません。
この尾根を下降路と決めた理由はふたつあります。
まずは傾斜がなだらかな尾根であること。次に、送電鉄塔が立っている尾根であること。
里山ですから、歩きやすいなだらかな尾根には山里に住んでいる人が使う山道があるものです。それに、送電鉄塔があれば、鉄塔の保守管理用の山道も必ずあるのです。
案の定、歩き易い立派な山道がついていました。

ですから今日は、去年見つけたこの山道から登ることにします。


▲このあたりがこの谷最奥の民家だと思います。脇道に入っていきます。10:26ころ。


▲先ほど見えていた送電鉄塔は「新所沢線16号」なんですね。10:27ころ。


▲おそらく右の鉄塔から「新所沢線15号」「新所沢線14号」「新所沢線13号」なのだと思います。10:36ころ。


▲こんな立派な山道が続いています。10:49ころ。


▲「新所沢線16号」の鉄塔です。10:57ころ。


▲鉄塔のそばの日蔭にはまだ雪が残っていました。数センチ残っています。10:59ころ。


▲クマの爪跡でしょうか? クマにしてはキズが深い気がします。シカが角で付けたキズ跡でしょうか? 11:03ころ。


▲あきる野市と日の出町との境界尾根に出ました。尾根上に立っている送電鉄塔は「新所沢線17号」です。本当に今日は穏やかな晴天ですね。風もないので、ここで昼食にしました。11:10ころ。


▲境界尾根を歩き始めます。ほとんどが杉の植林です。11:41ころ。


▲優しい丸いカーブを描いた山容の真藤ノ峰543m。美しい名前の山ですよね。11:48ころ。


▲ときおり、落葉広葉樹林が現れると、明るく、暖かくなります。11:54ころ。


▲急登です。写真の見た目よりも急な斜面。12:04ころ。


▲ロープまで設置されています。でも、さっきの斜面の方が急でした。12:06ころ。


▲梵天山607mです。近くには金比羅山もありますし、仏教がらみで付けられた山名ですね。12:11ころ。


▲杉の植林の中を歩きます。12:20ころ。


▲山道の右側に柵が出て来ました。採石場でもあるのでしょうか? この尾根の南東部末端にある勝峰(かっぽ)山の麓にはセメント鉱山があるようですから、その関連でしょうか? 12:23ころ。


▲この柵は日鉄鉱業のもののようですね。まだこの付近には石灰岩の採掘場などはないようですし、将来のために山を買って、囲い込んでいるのでしょうか?
ところで、このピークの山名はいったい何なのでしょう! タルクボノ峰はこの西にある680mピークです。この看板は最初はそう書いてあったのに、誰かが白岩山640mと上書きしたようですね。でも、白岩山はここの北北西のなだらかなピークのことだと思います。そこがおよそ640m。白石山って何? 白岩山の別名なんでしょうか? 僕には分かりません。
そこで奥多摩の山のバイブル宮内敏雄著『奥多摩』を調べてみました。そこでは「タルクボノ頭から東するとすぐ三角点六四二米の白石山の小尾根をけ蹴出し」とありますから、白岩山の別称なんでしょうね。
結論は山名不詳の631.7mピークだということ。12:30ころ。


▲柵は続いています。このあたりの尾根は一日中日当たりが悪いのでしょう、標高はさほど高くありませんが雪が残っています。12:33ころ。


▲右に見えている雪のない登山道が金比羅尾根の登山道。左がここまで二人で歩いてきた境界尾根の山道です。隣り合っている山道なのに、雪のあるなしが何故にこんなに異なっているのでしょう? 12:37ころ。

 
▲写真の左に見えるピークが梵天山。その隣り、中央に見えるピークが真藤ノ峰です。その真藤ノ峰の右下の谷あいに深沢集落があるのです。12:44ころ。


▲登山道に霜柱が出て来ました。雪が融けて、土にしみ込み、それが凍ってできているのでしょう。12:49ころ。


▲ほとんどが融けている尾根道の雪も日陰の山道になると、まだ少し残っていました。S子の左方に見える丸いカーブの山は真藤ノ峰。12:56ころ。


▲朝方、深沢集落を歩いているときにも、「あじさい山」や「山抱きの大カシ」の標識は見ました。いつかそちらからも登ってみたいと思います。13:55ころ。


▲日本人の習性です。富士山が見えると喜びます。14:00ころ。


▲林道と登山道が立体交差している珍しい場所。14:28ころ。


▲少し前からこうなんですが、登山道がぐちゃぐちゃの泥だらけです。さっきまでは凍っていた霜柱が標高が下がって、融けてしまっているのです。おかげで、靴底は泥まみれ。14:39ころ。


▲本当に今日の山名看板は訂正・修正ばかりですね。金比羅山の標高は何メートルなんですか? 420mと470mでは50mもの差があります! 14:46ころ。


▲金比羅山の山名標識はこの琴平神社が建っている横にあります。ここの標高はおよそ450m。14:46ころ。

ということは、この山名標識が付けられている場所が金比羅山ならば450mの標高表示であるべきです。470とか420とかの標高になるピークはこの近辺にはありません。
つまり、金比羅山の場所はいったいどこなのか? そこに集約されるようです。ここからは300m以上離れた468mピークが金比羅山なのか、それともこの琴平神社があるところが金比羅山なのかどちらかでしょう。


▲眼下には武蔵五日市の街並み、その向こうには秋川や昭島や立川、さらに先には東京の都心部も見えているはず。家で写真を拡大して見てみると、我が家のある団地も写っていました。14:50ころ。


▲金比羅山山頂付近はサクラやツツジやツバキなどの花木が植えられ、公園になっています。僕が来るのはいつも花のない時季ばかり。そのうちお花見にも来てみたいものですね。15:00ころ。


▲あきる野市役所五日市出張所に立ち寄ってみました。二階の展示コーナーではあきる野市ゆかりの人物が紹介されていました。16:00ころ。
なかでも五日市生まれの萩原タケを詳しく紹介しています。明治6年(1873年)に生まれ、20歳の春に日本赤十字社看護学校に入学。その後、数多くの災害・救護派遣に携わり、1900年の北清事変では看護婦長となり、フランス兵をはじめ多くの外国人を救護、その献身的看護を評されフランス政府からオフェシェー・ド・アカデミー記章を贈られました。
その後も国内外で活動を続け、1920年には第1回フローレンス・ナイチンゲール記章が授与されたのです。

五日市憲法と言い、萩原タケと言い、五日市の町にはただの山里ではない歴史と文化が根付いた土地柄だったのでしょうね。


▲展示コーナーの一角には映画『五日市物語』もありました。ひとりの女性が五日市の町や人々と深く関わりを持っていく中で、五日市の魅力をさりげなく紹介するそんな内容の映画になっています。あきる野市のHPでは平成23年に立川シネマシティで公開されたことになっていましたから、僕とS子はそのとき観たはずです。16:01ころ。


▲五日市出張所を出ると、萩原タケの胸像が立っていました。胸像下のプレートには「人道のために国家のために」と刻まれています。この言葉は萩原タケがヨーロッパ滞在中に訪れたナイチンゲールから贈られた言葉なのだそうです。16:09ころ。

今日は短いハイキングでしたから、以前から気になっていた場所を山の前後に訪れました。こんな山行もいいものですね。


五日市憲法ゆかりの地から真藤ノ峰、梵天山経由で金比羅尾根下降 1/2

2015年02月18日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/3  昨年の二度の大雪のあと、2月21日に単独で奥多摩を歩いて来ました。その時、下山して来たのが深沢集落だったのです。興味引かれる点があったので、近いうちに来てみようとは思っていたのですが、思いのほか早く来ることになりました。

その昨年の記録がこちら。
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/de812464c06d6c807b59a6817cc99092
興味のある方はちょっと目を通してみてください。


▲写真の向きを変更できませんでした。悪しからず・・・・
武蔵五日市駅の北口へ出ると、すぐに深沢方面への標識が立っていました。9:09ころ。


▲いつも出る南口とは違って、北口には何にもありません。今日もS子と二人です。9:10ころ。


▲葉の落ちた木に小鳥の群れがとまっていました。家に帰って写真を拡大してみると、カワラヒワのようでした。9:13ころ。


▲このような立派な標識が、要所要所に設置してあります。深沢集落の幾つかの名所案内ですが、町としても力を入れている証拠ですね。9:26ころ。


▲穴澤天神社です。稲城市の穴澤天神社が有名みたいですが、ここも同名です。9:36ころ。


▲ミツマタです。まだ花には早く、蕾の奥の黄色ものぞいていません。9:51ころ。


▲深沢小さな美術館の入り口です。でも、今は冬期休館中。この丸太ん坊の土筆のような人形がここまでもずう~っとところどころにあるのです。何かこの地域独特の謂れある人形なのでしょうか? 調べても分かりません。9:56ころ。


▲ロウバイが咲いていました。田舎を歩いていると、庭の手入れもよくされていて、いろいろな花や木に目が行って楽しいですね。10:00ころ。


▲深澤家屋敷跡入口。10:04ころ。


▲深澤家の屋敷の門です。右奥に見えるのが土蔵、その手前は何かしら倉庫のような感じです。10:05ころ。


▲屋敷の門をくぐると、説明板がありました。昔はこの写真の建物がここに建っていたそうです。戦前に小金井市に移築されたそうです。現在のことはネットで調べても出て来ませんから、空襲で焼失したのでしょうか?


←←写真をクリックして拡大してください。
▲土蔵は昔のままここに残っています。手入れは加わっているとは思いますが、ここからあの素晴らしい「五日市憲法」の草稿が発見されたのですね。地元にとってどころか、日本人にとって誇るべき遺産だと思います。
明治憲法に直接反映されることはありませんでしたけれど、この自由民主主義思想は現代につながる思想的土壌となっていたことは確かでしょう。


://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hyouka.html

このホームページの最後から「五日市憲法」全文を読むことができます。でも、よほど関心がある人でないと、そこまでは読みませんよね。

そこで、僕が調べた際に役立ったのがここ。
http://home.interlink.or.jp/~jho-masa/ituka1.htm
この草稿作成の中核となった人物・千葉卓三郎が若くして戊辰戦争に幕府方として参戦した仙台藩の下級武士出身であること。
彼のような幕府方(負け組)の武士たちが学制令による全国的な公立学校設立の際に必要な教師として活用されたこと。千葉卓三郎がそのために勧能学校(現・五日市小学校)に赴任したこと。
その五日市で千葉と深沢が出会ったのです。
五日市の町は江戸時代から炭と木材の供給地として繁栄していたようです。5のつく日に市が開かれていたことから五日市という地名になったというほどですから、人や物の交流する要所であったのでしょう。
そんな五日市深沢村の名主であった家柄の深沢家ですから、山持ちであり、材木も扱っていたようです。深沢名生(なおまる)は千葉を高く評価し、その息子・権八は惚れ込み傾倒していきます。名生は商用で上京するたびに書籍を大量に購入する蔵書家としても大変なもので、当時東京で出版された新刊の7~8割は揃っていたというのですから驚きです。その中には、欧米の先進的な自由民権思想の著作も数多く含まれていたようです。

その後、もうひとつよくまとまったHPを見つけました。あきる野市役所の公式サイトですから、よくまとめられていると思います。
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/about02.html


▲これが「五日市憲法」の草稿が見つかった土蔵。10:14ころ。


▲敷地から背後の山の斜面を見上げると、お墓が並んでいます。深沢家代々のお墓のようです。10:13ころ。


▲左が父、右は息子のお墓ですね。「故深澤名生之墓」「権八深澤氏墓」と記されています。10:17ころ。


▲墓地のある場所から屋敷の敷地跡を見下ろしました。10:17ころ。
谷あいの最奥にある小さな集落に住む人物が、世界に誇れるような憲法草案を生み出した一人となっているのは素晴らしいことだと思います。


▲深澤家屋敷跡地を後にし歩くと、すぐに前方の鉄塔が見えてきます。今日登る尾根はあの鉄塔が立つ尾根です。10:24ころ。


第12回山行μ 3/3―――白岳を後にし、蕗(つわ)岳登頂し、牟田峠から下山しました

2015年02月16日 | ハイキング/山行μや山行χ

2015/1/5  白岳からの登山道は、海側の右には崖と言ってもいいくらいの急な斜面が続いています。それはつまり、海(八代海)の光景が広がっている、と言うことでもあります。
このコースが「観海アルプス」と言われていることに納得です。


▲白嶽森林公園のキャンプ場です。この青いテントにも泊まることができるのだと思います。14:03ころ。


▲手前の建物は炊事棟のようですね。14:07ころ。


▲トイレを使わせてもらいました。14:09ころ。


▲牟田港が見えています。右の島は舟揚島(ひのがりじま)。珍しい名前の島ですが、ネットで調べても名前の由来は分かりませんでした。14:15ころ。


▲途中こんな場所がありました。Mちゃんが身を乗り出してみます。でも、怖いのでこの程度。もっともっと前に出なくちゃ! 白岳もまだ見えています。14:17ころ。


▲穏やかな山道が続きます。14:38ころ。


▲気候が暖かいのですね。もうスミレが咲いていました。14:39ころ。


▲蕗(つわ)岳分岐が出て来ました。14:49ころ。


▲蕗岳まではすぐでしたが、途中はシダの美しい山道です。14:51ころ。


▲蕗岳山頂320mです。14:54ころ。


▲蕗岳からはこれから進む尾根の様子も見えました。3つ見える鉄塔の真ん中の少し先に牟田峠があるのです。そこからは林道を左へと歩いて下ることができます。写真中央に街並みも見えていますが、その海側に目指す松島バス停もあるのです。14:54ころ。


▲先ほどから見えている牟田港や舟揚島(ひのがりじま)です。左の灯台がある小島やその手前の埋め立て地もよく見えますね。14:55ころ。


▲白岳方向を眺める二人。14:56ころ。


▲蕗岳を後にすると、北方が開けた尾根が出て来ました。北北東の方角に遠く大きな山塊が見えます。島原半島の雲仙岳です。15:08ころ。


▲妙な植物が目に飛び込んできました。本体の木の幹は見当たりません。杉や柳などの房状の雄花に似たようなのも見えています。
あのカニ姫の看板があったそばに唐突に設置してあった説明板を思い出しました。それにはヒカゲノカズラとかヒモヅルとかの名称がありました。ネットでさらに調べると、分かりました。
この植物の名前はヒモヅルです。ヒカゲノカズラ科で、シダの仲間なんですね。南方系の珍しいシダ類で日本においては天草で初めて発見されたのだそうです。15:15ころ。


▲岩場ですが、鉄製の階段がついているので安心です。15:20ころ。


▲岩場はさらに続きます。15:21ころ。


▲先ほど見えていた、送電線鉄塔の下をくぐり、久し振りに枯葉の積もった山道です。海の見える尾根道にはあまり落葉樹は生えていませんでしたから。16:02ころ。


▲牟田峠に出ました。この先にはまだ観海アルプスルートが続いています。いつかこのルートも歩いてみたいものですね。16:08ころ。


▲もうあとは気楽です。車道を下るだけ。16:10ころ。


▲関東の山をよく歩く山屋としては、この檻を見た瞬間、「クマの罠だ」と考えるのは仕方のない性でしょう。ですが、よく考えなおしてみると、九州からはクマが絶滅したとも言われているくらいです。
それに、檻の中に撒かれている米糠のような粉、クマを呼び寄せる餌としてはあまり聞いたことがありません。
そこで調べ直してみました。すると分かりました。イノシシ用の罠でした。
天草には本来イノシシはいなかったそうです。それが近年になって増加し始め、農業被害も莫大なものになってきているのだそうです。16:35ころ。


▲バス停に到着しました。合津中央というバス停です。でも、バスは来そうにありませんから、タクシーを呼びます。16:55ころ。


▲タクシーはすぐに来ました。タクシーに乗ってみて気づいたことですが、歩いても行けるくらいの近い距離だったのですね。徒歩で30分くらいの距離です。
松島バス停に戻って来ました。あまくさ号が見えますが、僕たちが乗るのとは逆方向のバスです。17:04ころ。


▲熊本交通センター行きの快速あまくさ号が来ました。バスに乗って待っていると、きれいな夕焼け空になってきました。写真左の家は食堂なんですが、その店の名前は「バテレン食堂」です。いかにも天草ですね。17:35ころ。

今回初めて天草行きの快速バスを使って山登りをしました。なかなか便利なバスだと分かりました。今後もこの快速バスを使った登山がいろいろと出来そうですね。

家に帰ったときはもちろん真っ暗。でも、家のすぐそばで下車できるので、気分的に楽ですね。

Mちゃんも大人と変わらない歩きようです。今後も、いろいろな山に一緒に楽しく登れることを願っています。