ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

雪の六ツ石山には到達しませんでしたから、途中のハンノキ尾根を下降しました

2016年02月25日 | 雪山/奥多摩

2016/2/11  前回山へ行ってからも、チャンスを自ら逃してしまっていました。晴れているのに、S子がちょっと調子が悪いからとかの理由で、単独で行こうと思えば行けるにもかかわらず、なんとなく行かなかったりしたのです。2月に入ると、今度は仕事が意外と忙しくて、やっと建国記念日の祝日に出かけることが出来ました。
この季節になると、冬眠してしまう(山へ行かなくなる)人がいますけれど、そんな人々の気持ちが分かるようになってしまいました。それではいけませんね。

奥多摩にはまだ雪が残っているでしょうから、雪の上を歩きたく思って、六ツ石山へ登ることにしました。


▲またしても遅い出発(反省)。水根のバス停です。次のバス停が奥多摩湖。9:50ころ。


▲舗装道路を登って行くと、後ろの風景が広がって来ます。奥多摩湖と小河内ダム。写真の左には大ブナ尾根と清八新道の尾根が見えます。中央少し右の笠型のピークは月夜見山だと思います。その右のどれかが三頭山だと思うのですが。10:10ころ。


▲杉林の中に産土(うぶすな)神社が見えて来ました。山の安全や土地の平安を司る大山祇命(おおやまづみのみこと)が祀られているそうです。10:28ころ。


▲産土神社の建物の中を覗くと、祠が安置されていました。この祠が神社本体なのでしょうか? 脇にも小さな祠が祀られています。愛宕神(防火)、稲荷神(豊作)、金山彦社(山の資源)、疱瘡神(厄病除け)も合祀されているそうです。10:31ころ。


▲登山者によく踏まれていますし、南面の登山道ですから所々凍っていました。S子も滑らないよう注意しながら歩きます。10:58ころ。


▲ずうっと杉林の雪道が続きました。久し振りに陽の当たる平らな場所がありましたから、ここで休憩にしました。11:08ころ。


▲植林が終わり、広葉落葉樹林が現われました。地面に陽がたっぷり届きますから、雪が融けてしまっています。11:40ころ。

広葉樹林はすぐに終わり、また杉の植林になります。雪も出て来ました。


▲これが「風ノ神土」だと思います。不思議な名前ですし、宮内敏雄氏の本やネットでも調べてみましたが、正体が分かりません。11:53ころ。


▲標高も高くなってきましたから、雪もけっこう残っています。12:04ころ。

途中、雪の消えた暖かい斜面で休憩しました。上から降りて来る登山者もいました。


▲落葉した広葉樹林では雪は消えていますね。南面なのでなおさらです。12:54ころ。


▲右に延びる尾根が見えています。南斜面の雪は解けていますが、尾根筋には雪が残っていますね。あの尾根がハンノキ尾根です。13:02ころ。

今日は最初から決めていたのですが、六ツ石山山頂に14時までに到着(もっと厳密に言えば、山頂を14時までに出発)出来ないようならば、山頂には向かわず下山することにしていました。コースタイムではあと1時間以上かかりますし、休憩もいれるとS子の足ではあと2時間以上かかりそうです。と言うわけで、今日の六ツ石山は断念。それでハンノキ尾根を下降することにしました。

ハンノキ尾根をこれまで2回くらい登ったことがあると思います。ただ、雪のあるハンノキ尾根を、しかも下降するのは初めてですけれど、大丈夫でしょう。


▲ここがトオノクボと呼ばれる地点なんでしょうか? 僕たちは右から登って来ました。後ろへ行けば六ツ石山です。これから前方のハンノキ尾根を下ります。先へと二人分の足跡が続いていました。二人パーティーが登って来たようです。トレースがあることは心強いですね。13:05ころ。


▲トオノクボから六ツ石山方向を眺めました。標高は1300mほどあるので、広葉樹林ですが、完全に南斜面でないかぎり雪は融けないようですね。13:05ころ。


▲ハンノキ尾根の下降開始です。13:09ころ。


▲天気も最高ですし、雪も綺麗に積もっていて楽しい雪山散歩ですね。13:12ころ。


▲植林が出現すると、明るさが減ります。13:22ころ。


▲何かしらの電波の反射板らしきものが現われました。S子の後ろの白い板です。その反射板の左下方向には小河内ダムがあり、見通せるように植林は刈り払われていました。13:43ころ。


▲ここまでほぼ尾根沿いに下ってきましたが、山腹を巻くように山道が付いています。写真左上方にピークがあるのですが、そこが1041m標高点ではないかと思います。14:02ころ。


▲山腹を回り込み、再び尾根筋に出て来ました。そこで休憩しましたが、南には御前山が見えていました。14:30ころ。


▲尾根筋から山道が外れます。846.1mのイソツネ山へは向かわずにその北斜面に山道はあります。そこへ雪ですから山道がどこを通っているのか分からなくなってしまいました。2人パーティーの足跡も自信なさげで、そのうち僕もその足跡を見失ってしまいました。14:46ころ。


▲この辺りは萱場なんでしょうか? カヤと言うのか、ススキなのか、そんな枯草の上に雪が積もっていますから、思いのほか足が深く潜ります。歩きにくくもあります。尾根自体は左上方なんですが、山道はこちらにあるはずです。15:09ころ。


▲小屋がありましたから、そのそばには必ず山道があるはずと、小屋まで来ました。この小屋の右下には柵が続いていて、その柵沿いに進んでみました。15:10ころ。


▲東を眺めると、山並みが広がっています。右から大岳山、御岳山、大塚山、城山、高水三山などが見えていると思います。15:15ころ。


▲柵沿いの踏み跡が下に向かうようになりました。足跡もしっかりと付いています。S子の右側にはこの土地の所有者でしょうか、家が建っています。15:21ころ。


▲柵の中からモノレールの軌道が現われ、山道もレール沿いに付くようになりました。15:25ころ。


▲レールからも離れ、山道は下に続いています。けっこう多くの人が歩いているようです。15:33ころ。


▲だんだん里が近い雰囲気になってきました。雪道もしっかりと踏まれていて、安心感が増してきます。15:42ころ。


▲見覚えのある廃屋が現われました。15:47ころ。

去年の6月13日にもこの道を歩いています。その時は小中沢へと降りて行きましたから、今日歩いたハンンキ尾根は通っていないのですが、7ヶ月後に戻って来ましたね! 去年の記録は下記を参考にしてください。

http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/ad52c20992cf47faad573532a512a93b


▲境集落が見えて来ました。廃線になった鉄道の高架も見えています。16:18ころ。


▲境集落の道路に出ました。16:24ころ。

境橋のバス停に向かうと、すぐにバスが来ました。奥多摩駅前の天益へ入ります。しばらくすると、Kさん来店。ずいぶん前に遭難された方の捜索活動をされてきたとか。すでに引退なさったのに、凄いですね。いろいろな話題を楽しみ、一度列車に乗り遅れ、再び天益に戻って来て、次の電車で帰宅。


惣岳山で奥多摩の雪山低山歩きを楽しんで来ました

2016年02月15日 | 雪山/奥多摩

2016/1/24  最近山を登る回数が減っています。良くありません。休みの日に運悪く天候が悪かったりするのは仕方ありませんけれど、快晴なのに何かと理由をつけて行かないことがあります。S子の体調がいまいちだとか(そんな時は単独で思い切り歩いてくればいいのです)、前の日遅く(と言っても夜7時くらいですが)帰ったので、翌朝早起きして山へ出かけるのは辛いとか。
まだまだ登山にチャレンジしていかなければ駄目だと考えていますから、僕は決めました。山岳会へ入ろうと。山岳会に限らず、山の仲間(S子以外の)がいると、山行計画が早めに決まります。そこへ向かって精神的肉体的な準備を作って行くのです。
前日になって、否、前夜になって「明日どこ行こうかな?」と考えるのはあんまりですよね。誰でも朝はゆっくりしたいです。しかも翌朝ならなおさら。

そんな僕の愚痴ともつかぬことはさておき、山へ行くことを決めました。山と山の間隔が空いてしまうと、毎回のように「とりあえずは足慣らしに」ということになってしまいます。でも、今回は同じ足慣らしとはいえ、奥多摩に雪が降ってから初めてなので、短時間のハイキングコースとは言え、雪があるはず。楽しみです。


▲軍畑駅で下車。10:04ころ。

軍畑で降りるということは、対岸の三室山に登ったり、高水山の常福院方面へ行くのが普通でしょう。でも、今回は僕もまだ歩いたことのないヤナクボ沢沿いの道から惣岳山に登ることにしました。駅からは西へ向かいます。


▲ロウバイの花が咲いていました。10:08ころ。

駅の西にある最初の踏切を渡ります。


▲紅梅も咲いていました。10:11ころ。


▲ヤナクボ沢に沿った車道に合流すると、日陰にはまだ融けていない雪が現われます。10:27ころ。

林道の看板が出て来ましたが、それには谷久保(やくぼ)林道となっています。「やなくぼ」とも読めるでしょうから、ヤナクボ沢で統一しておきます。


▲未舗装の林道になると、両サイドの山も迫って来ますから、雪が増えて来ました。10:44ころ。


▲シカの足跡もくっきりと残っています。10:44ころ。


▲堰堤上の水溜りの表面が凍っていました。11:00ころ。


▲林道の終点に到着しました。見づらいと思いますが、矢印が上を指していて、「尾根ニ出ル」と書いてあります。昭文社の地図ではもっと上流まで黒の破線が付けられていますが、その山道は消えてしまっているのでしょう。この道標に従って、ここから尾根へ直上することにしました。11:23ころ。


▲踏み跡らしき仕事道も発見できません。ひたすら登って行きます。下には林道が見えていますね。11:31ころ。


▲尾根がすぐ近くに見えて来ました。11:52ころ。


▲尾根です。11:59ころ。


▲北斜面が見事に伐採された場所に出ました。12:11ころ。


▲高水山759mが見えているはずなのですが、どのピークでしょう? 中央のだとは思うのですが・・・・ 12:12ころ。


▲雪を踏むとこれくらいは潜ります。20cmは積もっているでしょうね。12:15ころ。


▲トレースは付いていますから体力的にも精神的にも楽です。12:19ころ。


▲614m標高点はもう過ぎたと思います。思いのほか一般登山道までは長かったですね。12:33ころ。


▲湧き水の上に建つお社です。今日は水が溜まっていました。12:55ころ。


▲惣岳山山頂に到着です! 建物は青渭神社。大国主命が祀られています。13:04ころ。


▲S子の記念撮影。惣岳山山頂756m。13:06ころ。


▲下山です。御嶽駅への人気ルートを下りますから、雪道は踏み固められて滑り易い! 13:30ころ。


▲来るときに見た湧き水のあるお社です。13:34ころ。


▲「しめつりの御神木」を過ぎ、のんびりと下って行きます。13:56ころ。


▲丹縄方面へ降りる山道もあるんですね。14:29ころ。


▲JR古里線と新秩父線のふたつの鉄塔を越え、412m標高点を過ぎたところだと思います。15:03ころ。


▲多摩川第三線の鉄塔をくぐると、御岳の町はもうすぐです。15:15ころ。


▲青梅線の線路です。15:25ころ。

御嶽駅に着くと、上りの電車がすぐに来ました。最寄りの駅で下車すると、二人で打ち上げ。


第1回・京都の旅 ――― 大原を歩く~寂光院から三千院へ~

2016年02月10日 | 帰省の途中旅

2016/1/7  僕は両親存命中は実家にほとんど行くことのない、親からすれば実に親不孝な愚息でした。それは親と別に住むようになった高校生のころから始まっています。数年間もの間、親と顔も合わせないことが続くのは普通のこと。ただ、結婚をすると、妻のために実家へ行くことが増えました。さらに、母が認知症等になると、母のため盆と正月には実家へ帰ることが決め事のようになりました。母が亡くなってしまうと、本当は帰る必要もないのですが、幾度も熊本へ帰っている間に僕の甥っ子家族と本当の家族のようになってきました。帰るところが今でもあることに、僕は心から感謝しています。

ただ母の顔を少しでも長く見ていたい、そんな母の生前には、可能な限り熊本にいる日を長く、東京との移動時間は短くというのが、僕のセオリーでした。でも、今は違います。
今回も東京から熊本へは3泊4日で行きましたし、熊本からの帰りは2泊3日の予定です。東京・熊本間の単なる移動では詰まりませんから、いろいろな場所へ寄ってみたいと思っているのです。
ところで、タイトルにも「第1回・京都の旅」とあるように、熊本からの帰路は当面の間、京都泊まりにして京都のあちらこちらを歩いてみようと思っています。

いよいよ第1回目の京都の旅は「大原」です。大原は僕にとって少し特別な意味のある土地なのです。それは後で話に出るかとは思います。それに、最近NHKの「猫のしっぽ カエルの手」の再放送を観ているものですから、大原には興味があるのです。
ちなみに、その番組を観ようと思ったきっかけはベニシアさんが梶山正さんの奥さんだからなんですね。梶山さんと言えば山屋ならよく知っている写真家ですよね。「へぇ~っ、梶山さんの奥さんメインの番組なんだ」「ちょっと観てみようかな」となる訳です。


▲大原のバス停です。京都駅から大原へ直通バスがたくさん出ていることは事前に調べて分かっていましたから、苦労もなく大原へは到着。10:58ころ。


▲京都駅前のバスの切符売り場のおじさんに「京都観光一日乗車券」の購入を勧められました。一日乗り放題で1200円です。


▲まずは寂光院へ行くことにしました。高野川を小さな橋で渡ります。右の建物は確か、喫茶店だったような・・・・? 11:10ころ。


▲朧(おぼろ)の清水です。この清水は飲めるような水ではないのですが、建礼門院徳子が京都からこの地へ訪れた際、この清水のあたりで日が暮れたのだそうです。朧月夜の明りに照らされた我が身のやつれた姿をこの水面に写して嘆かれたという話が伝わっています。
もちろん、建礼門院徳子とは平清盛の娘、高倉天皇のお后、安徳天皇の母です。壇ノ浦の合戦で安徳天皇は入水、徳子は助かり、寂光院で平家の菩提を弔うためにこの地へ来られた時の言い伝えです。すべてを失った徳子はこの水面に映る自分の顔を見てどのように思ったのでしょう。11:20ころ。


▲草生川沿いの大原女の小径を寂光院へ来ました。その小径は寂光院で終わっていて「この先行き止まり」との看板も出ているのですが、すごくその先が気になる雰囲気を漂わせていました。そうなると行かないわけにはいきません。すると「阿波内侍(藤原信西の息女)←墳墓」との看板も現われました。他にも4名の名前が列記してあります。すぐに左へ登って行く山道が分かれ、そこを登ったところにお墓があるようです。
写真は山道を登って出て来たお墓です。どのお墓が誰のものだかは僕には全く分かりません。阿波内侍とその他の侍女たちのお墓です。11:37ころ。


▲さらに上にもお墓がありました。「信洙院?蓮夢大童子」と読めます。その上には菊の御紋らしき模様も彫られています。誰なのでしょう? 11:39ころ。


▲たくさんのお墓が並んでいます。11:40ころ。

戻って、寂光院に入りました。


▲拝観の順路は決まっています。階段を登って行くと、右に見えるのがこの茶室「孤雲(こうん)」と池のある庭。茶室の名前は建礼門院が粗末な庵室に貼っておられた「笙歌(せいが)遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎(しょうじゅらいごう)す落日の前」との歌にちなんでいます。11:51ころ。


▲山門をくぐると、本堂が見えます。何事もなかったかのように静かに建っていますけれど、実はこの本堂は平成12年5月9日、放火による火災で焼失してしまったのです。重要文化財の地蔵菩薩立像や建礼門院像と阿波内侍像も焼けてしまったのです。その後、宮大工と大仏師の手により再興されました。多くの人々の悲しみや願いが凝集している本堂なのです。11:53ころ。


▲四方正面の池。本堂の右側にある庭は回遊式四方正面の庭と言うそうです。その中核たる池ですが、小さくても水の清い美しい池でした。11:55ころ。

本堂左手前の汀の池を通り、いったん西門から外へ出ました。


▲寂光院に隣りあってあるのがこれです。御庵室遺蹟と書いてありますが、建礼門院の住まいが建っていた場所です。小さくて質素な庵室だったようですね。
『平家物語』最後を飾る「灌頂の巻」はまさにここ建礼門院の庵室が舞台です。建礼門院を大原に尋ねた後白河法皇と建礼門院が対面する場面なのだとか。最初は会うことを拒んでいたのですが阿波内侍の説得でお会いになり、建礼門院は自分の半生を語ったのだそうです。法皇やお供の者たちも涙するばかりだったとか。実に『平家物語』の最後にふさわしいシーンですね。12:09ころ。

最後に宝物殿を見て、帰りました。寂光院は初めてでしたが、静かで、あまり観光地っぽくなく、建礼門院が遠く都を離れて閑居した雰囲気がわずかなりとも残っているようでした。


▲同じ道を引き返します。お腹が減って来ましたから、どの店に入ろうかと探しました。地元の料理を出してくれる店もあったのですが、結局この「朧道」という店で僕はカレーライス、S子はパンケーキを食べました。美味しかったです。13:17ころ。

再びバス停に戻り、今回は三千院へ向かいます。


▲途中、椿地蔵さんのところでちょっと道から外れ、景色のいい所へ出ました。ベニシアさんの番組でよく見るような大原の風景ですね。13:47ころ。


▲三千院への参道は呂川沿いの道です。昔はこんなお店は並んでなかったような・・・・? 13:51ころ。


▲三千院のすぐ前の通りには立派なお店が並んでいました。昔はまったくありませんでしたね。13:54ころ。


▲三千院の正面入口、御殿門です。13:55ころ。

御殿門を入ると、順路は左へと。受付を経て建物の中へ入りました。建物の中は撮影を遠慮しますから、写真はありません。


▲庭の苔が見事でした。冬ですから、瑞々しい輝きには欠けていますが、それでも美しい。14:14ころ。


▲順路に従って庭を歩きます。途中、往生極楽院やわらべ地蔵や弁財天などがあります。そして、ここが金色不動堂。秘仏金色不動明王が御本尊だそうです。確かこの左側、写真からは外れた場所にある建物の中で、昆布茶を無料でふるまわれました。中国人観光客も数人いました。美味しかったので、その昆布茶も購入。商売が上手ですね。14:18ころ。


▲観音堂です。この両横には小さな数センチほどの観音像が名前入りで奉納、安置されています。数えきれないほどありました。14:26ころ。

補陀落浄土を再現した慈眼の庭を通り、律川の流れが見えて来ます。その向こうに何やら石の像があるので。行ってみました。
ちなみに、三千院へ来る手前の川は呂川でしたよね。呂川と律川。呂と律。そう、呂律「呂律(ろれつ)が回らない」という言葉の「呂律」はお経を唱える声明(しょうみょう)の呂様と律様からきた言葉です。


▲茫洋とした雰囲気の大きな石仏です。価値が高いのかそうでもないのか、よく分からない、そんな俗な判定からも無縁な様子なのです。調べると、どうやら鎌倉時代中期の浄土信仰を物語る貴重な阿弥陀如来なのだとか。そんな知識を持つことでしか、やっと「へぇ~っ」と感じ入ることのできない自分の愚かさというか、権威主義みたいなものを反省してしまいます。14:33ころ。


▲紫陽花苑を歩きました。もちろん紫陽花は短く切られて何もありませんけれど、午後の陽射しに光る苔の輝きが紫陽花にもまして美しく感じました。14:36ころ。


▲三千院を出ました。次へと歩いていたら、大原陵がありました。後鳥羽天皇と順徳天皇の陵墓です。両天皇ともに鎌倉時代、承久の乱で敗れ、隠岐の島と佐渡ヶ島で崩御なさいました。遺骨の一部が都に持ち帰られ、大原法華堂へ納められたのだそうです。建礼門院もそうですが、大原は悲運の人が深く関わる土地なのですね。14:49ころ。


▲大原陵の先に勝林院があります。天台宗の寺院で、声明の道場として高名なお寺だとか。14:52ころ。

今回の大原での寺院巡りはこれで終了です。いい時刻になってきましたから、もうひとつの目的のために歩きたいと思います。
それは、僕の沢登りの原点を探す旅。20代のころ、大原の民宿に泊まったことがあります。夕方、小さな流れに沿って散歩しました。そのうち道はなくなり、沢沿いの山道になります。午後の陽射しを浴びて小さな水の流れは輝き、フキノトウのまだ固い芽吹きも同様に煌めいていました。なだらかな流れでしたから、山道が消えてからも沢沿いに歩き登りました。少し傾斜が緩くなり、お椀の底のような地形になると、その先には少し急な斜面が長く続いていましたから、散歩もここまでとしたのです。水が流れる周囲には初春の命が輝いていました。水の流れ沿いに山を歩く素晴らしさを感じたのです。
それで東京に戻ると、すぐに奥多摩の沢を登ってみました。記憶に残っていた林道脇の流れを登ろうとしたのです。林道すぐ下のなだらかな滝を登山靴を履いたまま登り始めました。当然、滑ります。裸足になりました。何とか登れましたが、すぐに垂直の滝が出現。高巻きという言葉は知りませんでしたが、当たり前のように左側から高巻こうとしていました。でも、危険だと直感的に分かります。その日はそこまででした。沢の名前は日原川のカロウ川谷。
その後、沢登りの本やルート図集を発見し、独力で沢登りを経験して行ったと言うわけです。


▲勝林院とともに平安時代前期に円仁によって創建されたお寺、来迎院へ至る道。この呂川が僕の沢登り原点の川ではないかと、辿って行ってみました。でも、結局分かりませんでした。昔、それも40年ほど昔とはずいぶん変貌しています。この川だったとしても、川の周辺の様子は変わってしまっているようです。まあ、分からなくても僕の記憶の中では鮮明ですから、一向に構いませんが。15:04ころ。


▲三千院前の道を南へ行くと、大原念仏寺がありました。たくさんのお地蔵さんが並んでいます。15:23ころ。

そのままぶらぶらと南へ歩きます。僕の昔の記憶には全くなかった観光客用の駐車場があったりします。自分が歩いている道も車道になっていますが、昔は土の道だったような。
観光客が多く行く場所、そしてその周辺にはすでに大原の良さは消えてなくなっていると感じました。都から遠く離れ、鄙びた山間の邑。しかし、高貴な文化と歴史の香りも濃く漂わせている邑。そんな大原は今はもうないようです。


▲高野川を越えて「里の駅 大原」へ行ってみました。観光コースから外れると、雰囲気のいい大原の里が広がっています。16:13ころ。


▲右の山は比叡山近くの山なんでしょうか? 近いうちに比叡山へ行ってみたいと思っています。16:32ころ。


▲戸寺バス停まで来てしまいました。ここから京都駅へ帰ります。16:49ころ。

京都では1泊目は龍馬軍鶏農場京都駅前店で、2泊目は京の都庄屋烏丸七条店で夕食にしました。京都では何を食べたらいいのか、まだよく分かりませんから、京野菜のメニューを幾つか頼みました。その中に九条ネギを使ったメニューがあったのですが、東京へ戻ってから同じ庄屋で同じ九条ネギのメニューがありましたから食べ比べてみたのです。圧倒的に京都の店の方が美味しかったですね。ネギを輪切りにしてたくさん載せてあるだけなのですが、京都のお店では細かく丁寧に切ってあるのです。京都が1mm幅に揃えて切ってあるとすると、東京で行った店では2~5mmで幅もバラバラですし、広いですから食感がぼそぼそなのです。九条ネギの味そのものも辛みが強くなって、美味しくありません。さすが京都だなぁと、東京に戻って来てから感じた次第です。

今回の大原の旅はどうしても40年ほど前の印象と比較してしまいます。40年前に勝てるわけがありませんよね。でも、機会があればもっと大原の普通の道を歩いてみたいと思いました。それに、大原起点でハイキングコースも幾つかあることが分かりましたから、今度は京都に3泊4日くらいして、1日はハイキングに当てようかとも考えています。
その意味ではいろいろと収穫のあった最初の大原の旅でした。京都には見るところ歩くところがたくさんありました。

京都駅そばのホテルで今回は2連泊しました。熊本との往復では初めての経験です。翌朝、東京へ帰りました。
ご参考までに熊本から京都、京都から東京の電車乗り換えの実際を記しておきます。
【1月6日】熊本5:51~6:47荒尾6:56~9:52(電車が遅れ、連絡が予定通りにならず)門司10:09~10:16下関10:32~11:39新山口11:53~13:54岩国13:55~16:13糸崎16:23~17:55岡山18:00~19:25姫路19:27~20:59京都
【1月8日】京都8:19~9:14米原9:16~9:53大垣10:11~11:39豊橋11:42~12:15浜松12:29~13:14島田13:25~15:08熱海15:11~16:21横浜16:27~17:25八王子~

今回の青春18きっぷの旅を金銭面で総括してみたいと思います。(すべて二人分です)
・青春18きっぷ 11850×2=23700円
・近鉄 3220円
・内宮から伊勢市駅までのバス 600円
・京都でのバス 2400円
   ◆交通費トータル 29920円
・名古屋のホテル 5980円
・伊勢市のホテル 8300円
・岡山のホテル  6800円
・京都のホテル  11800円(2泊分)
   ◆宿泊費トータル 32880円      ■全トータル■ 62800円

行きも帰りも新幹線(自由席)を使って旅をすると、宿泊費はもちろんかかりませんが、二人でいくらかかるかというと、102680円です。
39880円、青春18きっぷの旅の方が安上がりなのです。もちろん施設への入場料等もかかりますけれど、大した額ではありません。その分、食事などを少し贅沢にすることが出来ますね。


Mちゃんも一緒に三人でスイーツを食べ、熊本城見学へ

2016年02月06日 | 熊本起点の旅や遊びなど

2016/1/4  もともとの心づもりでは、今日は3人で昨日より少しレベルの高いハイキングに行く予定でした。でも、自動車道路を2時間近くも歩かせてしまいましたから、Mちゃんは「足が痛い」と言って、行きたがりません。行けないこともないと思いますけれど、そんなに無理をする必要もありませんし。ハイキングどうのこうのと言うより、Mちゃんは昨日のスイーツに関する約束の方が大事なんです。
そんなこともあって、熊本の中心街に出て、久し振りに熊本城見物をすることにしました。

まずはスイーツです。交通センターからスタートし、下通のアーケイド街を進みます。Mちゃんに入りたい店を選ばせます。女の人にはありがちですけれど、Mちゃんも女の子。なかなか店を決めることが出来ません。やっと選んだかと思うと、普通のどこにでもあるチェーン店。それじゃあ詰まらないからと、本当はMちゃんが選んだ店なのだからそこでいいのだけれど、僕の一存で、却下! 結局、デパートの鶴屋に行き、スイーツのお店に入ることにしました。モロゾフのお店だったように記憶しています。僕もS子もランチを食べましたけれど、Mちゃんはここぞとばかりにたくさん食べていました。やっぱり女の子なんですね。スイーツは完全に別腹のようです。


▲S子とMちゃんが先を歩いています。須戸口門から入りました。15:03ころ。


▲時代劇でそのまま使えそうな場所がたくさんあります。15:07ころ。


▲これは何門というのでしょうか? 闇(くらが)り通路への入り口です。15:09ころ。


▲天守閣が出現しました。15:11ころ。


▲本丸御殿を見学しました。以前、出来てから比較的すぐに訪れた際には説明板などほとんどなかったのですが、今回は充実していました。ここは大広間。15:47ころ。


▲大広間の縁側です。15:48ころ。


▲縁側から左の建物を見ました。この建物の地下に闇(くらが)り通路が通っているのです。15:48ころ。


▲若松之間です。藩主が家臣と対面する部屋だったそうです。15:49ころ。

この再建された本丸御殿の素晴らしいところは、可能な限り昔と同じ姿に、昔と同じ方法で再現されている点です。柱も壁も襖も屋根もすべて江戸時代そのままの再現なのです。この絵も歴史学者や日本画家などの意見を集約し、「こんな絵であったろう」と言える絵を当時の手法そのままで描いているのです。


▲昭君之間です。中央の白馬に乗った女性が王昭君だと思います。中国4大美人にあげられるほどの美女。ただ、匈奴に政略結婚させられた悲劇の女性だったようですね。15:50ころ。


▲昭君之間。15:51ころ。


▲昭君之間の天井は漆塗りの折上げ格天井で、60枚の草、木、花が描かれています。薬用植物のようですね。復元調査の過程で発見された「御城内昭君之間格天井図」に基づき京都の絵師が描いたのだとか。本格的! 15:51ころ。


▲本丸御殿を出て、天守閣の最上階に行きました。そこから見た本丸御殿です。これだけ復元しても、まだ本来の本丸御殿の半分以下なのだそうです。16:10ころ。


▲天守閣から西方を眺めました。右に宇土櫓が見えています。西南戦争でも焼けなかった唯一の櫓です。天守閣はもちろん焼け落ちましたから、現在の天守閣は鉄筋コンクリート造りです。その先には西出丸や二の丸広場が見えています。16:13ころ。


▲宇土櫓です。国の指定重要文化財。この櫓だけが慶長年間(1596~1614)から残っている唯一の建物。僕は熊本城でもこの櫓がいちばん好きですね。16:37ころ。


▲西陽に映える天守閣。大天守と小天守です。風格のある城らしい城ですね。16:37ころ。

熊本に帰ると、何度かに一度は必ず熊本城へ行きます。本当は毎回でも行きたいのです。熊本に住んでいる市民は、忘れがちでしょうが、熊本城は本当に素晴らしいお城。誇らしい存在です。


第14回山行μ+第2回山行χ・5年ぶりに雁回山を再訪しました 2/2 ――― 下山してから最後に苦難が

2016年02月02日 | ハイキング/山行μや山行χ

2016/1/3  雁回山(木原山)314.4mの山頂からは5年前と同じ城南コースを下ります。

 
▲山頂からまたしばらく林道を歩きます。なにやら工事中のようで、キャタピラの跡がありました。ここからは左の道へ下ります。右へは宇城市に下山できますが、途中で松橋コースと東阿高コーストに分かれるようですね。11:45ころ。


▲最後のキャタピラ跡とも別れ、ひたすら下降です。K君は動きが速いせいか、写真で撮るとこんな風にぶれてばかりです。11:56ころ。


▲雁回山には九十九谷あると謂われているそうです。まあ、沢屋の感覚からすると谷というほどのものではないのですが、確かに低い山にしては山に襞がたくさんあるようにも感じますね。そんな谷のひとつがこれ。木の橋が架かっています。12:10ころ。

この九十九谷に関しては面白い民話が伝わっているようです。調べていたら目にしました。
http://www.nik-net.co.jp/arekore/minwa/minwa_07_01.htm
読んでみてください。


▲のんびりと降りて来て、途中で休憩。身長ではほぼ同じになったS子とMちゃんですが、背中はまだS子の方が大きく広いですね。12:33ころ。


▲九州の山には竹が多く生えています。先ほどからときどき見かけましたが、今度は太い竹が多くなりました。竹の節をたたきながら歩きます。節の長さで音程が違ってくるのです。12:51ころ。


▲人の手が入って、整備されている竹林ですね。人里近くになりました。12:59ころ。


▲舗装道路に出ました。13:03ころ。


▲写真の中央の山が雁回山山頂だと思います。13:10ころ。


▲ホトケノザがもう咲いていました。熊本はやっぱり南の国なんですね。13:14ころ。


▲御領貝塚です。この貝塚は縄文時代後期のもので、この時代のものとしては九州最大なのだとか。そして、淡水産のシジミが90%以上を占め、この辺りが次第に陸地化し、海から遠くなったことが分かるのだそうです。13:16ころ。


▲これはみんなシジミなんでしょうね。古代のゴミ捨て場。昔からゴミは決められた場所に捨てたんですね。偉い! 13:16ころ。


▲竹下水神という神社のようです。5年前はここでタクシーを呼びました。今日も本当はタクシーを呼ぶつもりだったのです。夜、親戚会が行われる予定だったからです。僕の親戚の面々、と言っても、僕のいとこの子供や孫たち、せいぜい僕よりもずうっと若いいとこが来るくらいの集まりですから、当然僕が最年長なのですが、めったに会えないメンバーばかりですから、楽しみにしていたのです。でも、急遽中止になってしまいました。そのことは午前中にメールで知らされていましたから、いつも以上にのんびりと歩いていたわけです。
急いで帰る必要がなくなっていましたから、無性に駅まで歩きたくなって、子供たちにもここからひと頑張りしてもらうことにしたのです。
Mちゃんが立っている後ろの木はイチョウです。たくさん乳(ち)が垂れていて、相当に古いイチョウの木ですね。13:35ころ。


▲神社の前に土俵が作ってありました。MちゃんとK君がさっそく相撲を取ります。5歳も違いますから、K君がかないっこありませんが、そこは男の子、投げ飛ばされても向かっていきます。13:37ころ


▲神社を離れ、県道(多分)38号線を宇土駅へ向かって行きました。浜戸川にはカモでしょうか、水鳥がたくさんいました。100羽以上は軽くいたと思います。13:42ころ。


▲「足が痛い」と言っていたのに、K君は元気に走って行きます。Mちゃんがいろいろと難題を吹っ掛けたりしますが、面白がって言われた通りのことを実行するのです。14:14ころ。


▲でも、そのうち本格的に足が痛くなってきたようです。ザックは僕が持ち、K君にはS子が付いて歩くようになりました。舗装道路を歩くのは足には本当に負担が大きいのです。タクシーが通りかかればすぐにでも止めようと思ってはいたのですが・・・・ 15:04ころ。


▲宇土駅前のバス停です。全員けっこう疲れましたが、頑張って歩きとおしました。2時間くらい車道歩きをしたんですね。子供たちはよく頑張ったと思います。15:40ころ。

ところで、僕も若干ですが子供たちに申し訳なかったなぁと思ったものですから、駅までの途中で喫茶店のような店があったら入って甘いものでも食べよう! と約束したんです。でも、喫茶店どころか店らしい店もありません。「じゃあ、家の近くの喫茶店でね?」とMちゃんが言います。「いいよ」と応じました。
ところが、家の近くの喫茶店はまだ開いていません。
それでどうしたかと言いますと、翌日街へ連れて行くことになったのです。当初の予定では翌日はMちゃんを連れて少し難しい山へ登ることにしていました。「明日は足が痛くて、山になんか登れない」とMちゃんが言います。もっともな発言です。
K君は学童保育(東京での言い方ですが)が始まります。それにあまりスイーツには関心がないみたいですし・・・・ と言うわけで、翌日の行動計画も変更となった今日の山行でした。