おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

115 葛西城址公園

2009-07-12 19:35:22 | つぶやき
 葛西城。築城者と築城時期は不明だが、秩父平氏の一族、葛西氏の城館といわれる。戦国期は、関東管領上杉氏の属城として、大石氏が勢力を持っていたとされる。
 小田原城の北条氏綱により攻略され、天文七(1538)年二月、北条氏の下総方面への進出拠点の一つとなった。
 永禄年間の初期には一時、里見氏に属する網代大炊充らが在城していたが、北条氏康の命で太田康資配下の本田氏らが葛西城を攻撃、永禄五(1562)年四月二十日に攻略した。しかし永禄六(1563)年、葛西城の守備にあたっていた太田康資が寝返りにより里見・岩槻太田側に走ったため、北条氏康が攻めて攻略。
 国府台に陣取る反北条軍と対峙し、永禄七(1564)年正月、天文七年以来ふたたび国府台で大合戦となり北条方が大勝、下総からの里見氏・太田氏の影響力を排除し、同時に、越後から度々関東に出陣していた上杉謙信らを牽制することに成功する。
 天正十八(1590)年、秀吉の小田原征伐による徳川氏の江戸城入府で廃城。その後は「青戸御殿」が建てられ、徳川三代将軍家光の頃まで鷹狩の宿舎として利用されたが、明暦三(1657)年頃、取り壊された。
 俄かに脚光を浴びたのは昭和47(1972)年の環状七号線の道路建設に伴う発掘で、戦国期の陶磁器、漆器等が発見されたが、葛西城に結びつく確実な史料は発見されなかった。現在では、城郭(に想定される)の中心も環七通りの下になり、一部は通りに隣接する公園になっていて、まったく城址の面影を留めていない。
 本丸跡の一部は公園になって、説明板などは環七を挟んで西側の御殿山公園内に立っている。
 ちなみに、私が子どもの頃は、今の御殿山公園付近をそのままそのように呼んでいて、遊び場でもあった。
 してみると、「青戸御殿」なるものが存在したのは確かだが、葛西城址云々は検討の余地がある。まして、「青砥藤綱」と結びつけるのは、荒唐無稽であろう。
 葛西城址については、上千葉町(西亀有3丁目)の通称「大曲り」付近にあったとする説も強く、「千葉伝考記」に、千葉太郎実胤が下総葛西に住み、その地を千葉村と称したとある。地形的にも奥州古道(陸前浜街道・後の水戸街道)に面して、他地より若干高く城砦の址と思われる場所で、地元には、刑部の内、城の内、蔵の内、家老家、宿添、馬場などの地名が残っているとのこと。このことも今後研究していく必要がある。
 写真は、現在の「葛西城址公園」。何の変哲もない、公園。広場があって、人もいない、ただ、ブランコが揺れているだけだった。
環七をはさんだ西側にある御殿山公園。
コメント (2)
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