久々のハイキング? 大中寺、清水寺から晃石山、桜峠、大平山とホントはぐるっと一回りしてから大平山神社に向かう予定が、早々予定変更。
大中寺(なかなか風情のある古刹。早々にここで昼食休憩でした)の裏手からちょっとした山道をせっせこ登って、太平山へ。今回のお目当ては、あじさい見物なんですから、これもまたヨシ!
途中、謙信平にも立ち寄って。ここは、なかなかの絶景。少し曇っていたが晴れていたらさぞかし・・・。周囲には、4,000本の桜が植えられており、4月上旬は桜のトンネルとなるそうだ。上杉謙信がその眺望を感嘆したところから名付けられたという「謙信平」。
ここからは、富士山、東京の高層ビル、みかも山、岩舟山などが見え、雲の間から山々が見えるところから“陸の松島”と言われている。また、夜景が大変きれいな所。是非晴れた日に、再び訪れてみたい場所でした。
そして、大平山神社に。以下、面倒なので大平山神社の公式ページによります)
神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も前のことですが、太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。
この後、太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地となり、摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。
さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが、天正13年(1585)の戦火で、これら淳和・後小松両天皇の額は焼失してしまいました。
戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど、関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には早くも復興し、徳川幕府から朱印地50石を認められました。
さらに寛政年中(1789~1801)には「御願御抱場」となるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。『雲上明鑑』『雲上明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど、武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。
太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。
おわかりだったでしょうか、実に由緒ある神社なのですね。特に、大平山の旧名が「三輪山」だったということは、奈良の三輪山信仰と関係があるのでしょうか。奈良の三輪山は、ご神体自体が山そのものなのです。
でも、今回は、あじさい坂。神社から下っていくことにしました。よかった!ここから、石段が1000段もあるそうで、登ってこなくて助かった!登ってくる人は、息も絶え絶えの人もいました。これじゃ、あじさいどころじゃなさそうな・・・。
『六角堂』まで続く『あじさい坂』は、2000株以上のアジサイが咲いている歩道。
途中に茶屋もありました。下りもけっこう、膝ががくがくしてきました。それに振り返り振り返りあじさいを見るというのも何だか疲れてしまう。上り下り、人も大勢出ていましたが、ゆっくりと味わい、楽しむことが出来ました。花の種類と多さにびっくりしました。
実は、去年のこの時期、違うメンバーと鎌倉に行きました。あじさい寺・明月院は混みそうなので、江ノ電で、長谷寺と成就院に行きましたが、さすが鎌倉、もう大混雑!江ノ島の方に早々と向かいました。
その経験があったので、今回の旅、大平山も捨てたものじゃないな、鎌倉よりよほど風情があるな、と思いました。曇っていましたが、雨にも降られなかった6月最後の日曜日でした。この頃、東京は、激しい雨だったそうです。
写真は、坂の途中の御茶屋さん付近のようす。
大中寺(なかなか風情のある古刹。早々にここで昼食休憩でした)の裏手からちょっとした山道をせっせこ登って、太平山へ。今回のお目当ては、あじさい見物なんですから、これもまたヨシ!
途中、謙信平にも立ち寄って。ここは、なかなかの絶景。少し曇っていたが晴れていたらさぞかし・・・。周囲には、4,000本の桜が植えられており、4月上旬は桜のトンネルとなるそうだ。上杉謙信がその眺望を感嘆したところから名付けられたという「謙信平」。
ここからは、富士山、東京の高層ビル、みかも山、岩舟山などが見え、雲の間から山々が見えるところから“陸の松島”と言われている。また、夜景が大変きれいな所。是非晴れた日に、再び訪れてみたい場所でした。
そして、大平山神社に。以下、面倒なので大平山神社の公式ページによります)
神社の歴史は『諸神座記』を始め多くの古文書によれば、垂仁天皇の御宇に大物主神(おおものぬしのかみ)・天目一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も前のことですが、太平山神社の周辺からは古い時代の祭祀遺跡・祭祀遺物が出土しており、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じることでついに入山を果たした」とあります。これが今日伝えられている「天長四年慈覚大師開山説」で、旧暦1月8日に執り行われる神蛇祭(しんださい)の祝詞にも伝えられています。こうして太平山神社は「神仏」を祭る山としての第一歩を迎えたのです。
この後、太平山は神鎮まる御山として一大宗教の霊地となり、摂末社および寺院が八十余遷座・建立されました。
さらに明徳3年(1392)には後小松天皇から「太平山神社」の額を下賜されましたが、天正13年(1585)の戦火で、これら淳和・後小松両天皇の額は焼失してしまいました。
戦国時代に北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだという言い伝えが残っているほど、関東平野を一望できる地に太平山神社は鎮座しております。天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には早くも復興し、徳川幕府から朱印地50石を認められました。
さらに寛政年中(1789~1801)には「御願御抱場」となるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されました。『雲上明鑑』『雲上明覧』にも「下野 太平山宮司」「野州 大平山神主」または「野州 大平山別當」と記載されるなど、武家伝奏が朝廷へ執奏する社でもありました。
太平山神社は様々な歴史を経て参りましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。
おわかりだったでしょうか、実に由緒ある神社なのですね。特に、大平山の旧名が「三輪山」だったということは、奈良の三輪山信仰と関係があるのでしょうか。奈良の三輪山は、ご神体自体が山そのものなのです。
でも、今回は、あじさい坂。神社から下っていくことにしました。よかった!ここから、石段が1000段もあるそうで、登ってこなくて助かった!登ってくる人は、息も絶え絶えの人もいました。これじゃ、あじさいどころじゃなさそうな・・・。
『六角堂』まで続く『あじさい坂』は、2000株以上のアジサイが咲いている歩道。
途中に茶屋もありました。下りもけっこう、膝ががくがくしてきました。それに振り返り振り返りあじさいを見るというのも何だか疲れてしまう。上り下り、人も大勢出ていましたが、ゆっくりと味わい、楽しむことが出来ました。花の種類と多さにびっくりしました。
実は、去年のこの時期、違うメンバーと鎌倉に行きました。あじさい寺・明月院は混みそうなので、江ノ電で、長谷寺と成就院に行きましたが、さすが鎌倉、もう大混雑!江ノ島の方に早々と向かいました。
その経験があったので、今回の旅、大平山も捨てたものじゃないな、鎌倉よりよほど風情があるな、と思いました。曇っていましたが、雨にも降られなかった6月最後の日曜日でした。この頃、東京は、激しい雨だったそうです。
写真は、坂の途中の御茶屋さん付近のようす。