例幣使街道(れいへいしかいどう)。東武線「新大平下」駅とJR「大平下」駅との間にある道路が、今でも「例幣使街道」と呼ばれている街道に当たります。
徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され 日光東照社に祀られ神となりました。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣されました。以降、毎年家康の命日の祭礼には、「日光例幣使」が派遣されることになりました。「例幣使」とは神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使です。
この行事は、慶応3年(1867)迄221年間休むことなく続きました。その勅使が通る道を「例幣使街道」と呼びました。
例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ります。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。
例幣使の一行は「幣(金幣)」を納めた、葵の金紋付きの黒革長持を中心に例幣使が座乗した輿や随員が乗った駕篭が続きました。
一行(五十人前後)は4月1日に京を発ち、近江草津宿から中山道を進み、倉賀野宿から「日光例幣使道」に入りました。
楡木宿で「壬生道」に合流し、今市で日光道中に合流、4月15日鉢石に到着しました。14泊15日の旅。翌16日は幣帛を奉納し、帰路は日光道中で江戸に出て、東海道で京に戻りました。
この日光例幣使道はのちに道中奉行扱いとなり五街道並に昇格しています。
ところが、この例幣使の慣例は徳川幕府の威光をしめすものにほかならず、朝廷にとってははなはだ屈辱にみちていました。
例幣使の一行は横暴の限りを尽くし、とりわけ中山道から離れ日光例幣使道に入ると、その増長振りは目を覆うほどと謂われています。
乗っている駕籠をわざと揺すり金品を要求する行為は「強請(ゆすり)」の語源になったくらい。実に怖い街道だったわけです。宿場や沿道の民家は雨戸を閉め、節穴は紙で目張りをすることが命じられ、宿場は「昵懇金(じっこんきん)」を用意してユスリに対処しました。
一行は江戸に出ると、日光より持ち帰った前年の金幣を細かく刻み江戸表の緒大名屋敷に送りつけ金品を要求する始末だったという。
〔道中宿場名〕
倉賀野宿(群馬県高崎市)-玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)-五料(ごりょう)宿(群馬県佐波郡玉村町)-柴宿(群馬県伊勢崎市)-境宿(群馬県伊勢崎市)-木崎宿(群馬県太田市)-太田宿(群馬県太田市)-八木宿(栃木県足利市)-梁田宿(栃木県足利市)- 天明宿(栃木県佐野市)-犬伏宿(栃木県佐野市)-富田宿(栃木県下都賀郡大平町)-栃木宿(栃木県栃木市)-合戦場(かっせんば)宿(栃木県下都賀郡都賀町)-金崎宿(栃木県上都賀郡西方町)-楡木宿(栃木県鹿沼市)-奈佐原宿(栃木県鹿沼市)-鹿沼宿(栃木県鹿沼市)-文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)-板橋宿(栃木県日光市)-今市宿(栃木県日光市)
写真は、街道に面した病院の旧住居(大平下病院)。
徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され 日光東照社に祀られ神となりました。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣されました。以降、毎年家康の命日の祭礼には、「日光例幣使」が派遣されることになりました。「例幣使」とは神に祈りを捧げる「金の幣(ぬさ)」を奉納するための勅使です。
この行事は、慶応3年(1867)迄221年間休むことなく続きました。その勅使が通る道を「例幣使街道」と呼びました。
例幣使は京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ります。この例幣使街道が通る栃木の宿は、東照宮に参拝する西国の諸大名も通り、にぎわいをみせた。
例幣使の一行は「幣(金幣)」を納めた、葵の金紋付きの黒革長持を中心に例幣使が座乗した輿や随員が乗った駕篭が続きました。
一行(五十人前後)は4月1日に京を発ち、近江草津宿から中山道を進み、倉賀野宿から「日光例幣使道」に入りました。
楡木宿で「壬生道」に合流し、今市で日光道中に合流、4月15日鉢石に到着しました。14泊15日の旅。翌16日は幣帛を奉納し、帰路は日光道中で江戸に出て、東海道で京に戻りました。
この日光例幣使道はのちに道中奉行扱いとなり五街道並に昇格しています。
ところが、この例幣使の慣例は徳川幕府の威光をしめすものにほかならず、朝廷にとってははなはだ屈辱にみちていました。
例幣使の一行は横暴の限りを尽くし、とりわけ中山道から離れ日光例幣使道に入ると、その増長振りは目を覆うほどと謂われています。
乗っている駕籠をわざと揺すり金品を要求する行為は「強請(ゆすり)」の語源になったくらい。実に怖い街道だったわけです。宿場や沿道の民家は雨戸を閉め、節穴は紙で目張りをすることが命じられ、宿場は「昵懇金(じっこんきん)」を用意してユスリに対処しました。
一行は江戸に出ると、日光より持ち帰った前年の金幣を細かく刻み江戸表の緒大名屋敷に送りつけ金品を要求する始末だったという。
〔道中宿場名〕
倉賀野宿(群馬県高崎市)-玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)-五料(ごりょう)宿(群馬県佐波郡玉村町)-柴宿(群馬県伊勢崎市)-境宿(群馬県伊勢崎市)-木崎宿(群馬県太田市)-太田宿(群馬県太田市)-八木宿(栃木県足利市)-梁田宿(栃木県足利市)- 天明宿(栃木県佐野市)-犬伏宿(栃木県佐野市)-富田宿(栃木県下都賀郡大平町)-栃木宿(栃木県栃木市)-合戦場(かっせんば)宿(栃木県下都賀郡都賀町)-金崎宿(栃木県上都賀郡西方町)-楡木宿(栃木県鹿沼市)-奈佐原宿(栃木県鹿沼市)-鹿沼宿(栃木県鹿沼市)-文挟(ふばさみ)宿(栃木県日光市)-板橋宿(栃木県日光市)-今市宿(栃木県日光市)
写真は、街道に面した病院の旧住居(大平下病院)。