今日は、メーデー。かつては代々木公園で大集会を開き、いろいろなコースに分かれてデモ行進をした。一番長いのは土橋コース。延々と青山通りを行進した。朝から夕方まで行進が続いた。
平日であっても、職場でやりくりしては参加した。時々シュプレヒコールをやりながら、道行く人の視線を感じ、職場の人と話しながら歩いた。途中参加する人も多かった。小生も、それなりに参加した方だった。
いつしか、そうした代々木公園での大規模な集会がなくなった。総評が連合になり、共産党系が全労連を結成し、それらに入らない都庁の職員たちなどが別々の集会を行うようになった。代々木公園の会場取りを巡って争いがあったのも遠い昔の話し。まだまだそれぞれ元気があった。
その会場も、代々木公園、日比谷公園、亀戸中央公園(たしか)などとそれぞれ別になった。そのうち、連合は、休みの日にやってみたり、余興というかアトラクション中心にしてみたりで、何だか尻つぼみのような集会と化してしまったようだ。今年はそれぞれどこでやるのか。聞くところでは、全労連が代々木、全労協が日比谷。連合はメーデー当日はもう何もやらないらしい。
かつて、5月1日は労働者の祭典とか言われて、華やいだ中にも、時にさまざまな政治問題・経済問題などに、一定の異議申し立てをするような雰囲気もあって、道行く人にも組合の存在感をアピールしていたような気がする。
それから連合路線になって、首相があいさつするは、自民党もあいさつするはで、何だかだらしない雰囲気となり、若い人も年寄りもほとんど見向きもしなくなった。と同時に、それまである程度は認めていた、職場から集会のためにでかけることが制限されるようになり、いよいよ形骸化してしまった。今は、ごく一部の労組でかろうじて運営されている、と言ったら語弊があるだろうか。共産党系の集会は、日本共産党支持一色だし、・・・。
今、労組の組織率も毎年最低を更新しているようだ。日教組も共産党系が離れて以来、毎年組織率を低下させている。共産党系の「全教」も職場の支持はごく一部。かつての官公労は、姿かたちもない。また、民間労組は、徹底した企業内組合として、会社の利益向上のためには首切り合理化から賃下げまで、積極的に協力している・・・。
戦後、新しい平和憲法のもと、さまざまな民主化(今は批判の対象としてことさらあげつらう輩もいるが)を推進した一翼を担ったのは、労働組合である。しかし、あまりにも党派性が露骨に出て反発されたり、権力の介入を許したりで、組合員の意識の変化も加わって、しだいに先細ってしまった感がある。
強弁するわけではないが、こうした組合の存在が希薄になったと共に、政治への不信、経済への不安、平和への危機、改憲策動・・、日本の進路をめぐるさまざまな問題から、また、日本企業の病巣が見え始め、今やどうにもならなくなったといえるのではないだろうか。
ダサイ組織の代表と揶揄されるようになってしまった「組合」の存在感を今こそ見せなければならないのではないかと思う。
しかし、こうした危機感や切迫感が、組合幹部や組合員にあるだろうか。日本社会の転換期だからこそ、「組合」の意義も組織もあるはずなのに、まるで発揮する機会なし。
市民と共に考え、行動できるような組織、既存の組合「サヨク」運動の限界を超えていけるような、新たな組合運動が築けないものだろうか。
今日は、資料整理に追われる一日になりそうだ。
しかし気分は、・・・。
平日であっても、職場でやりくりしては参加した。時々シュプレヒコールをやりながら、道行く人の視線を感じ、職場の人と話しながら歩いた。途中参加する人も多かった。小生も、それなりに参加した方だった。
いつしか、そうした代々木公園での大規模な集会がなくなった。総評が連合になり、共産党系が全労連を結成し、それらに入らない都庁の職員たちなどが別々の集会を行うようになった。代々木公園の会場取りを巡って争いがあったのも遠い昔の話し。まだまだそれぞれ元気があった。
その会場も、代々木公園、日比谷公園、亀戸中央公園(たしか)などとそれぞれ別になった。そのうち、連合は、休みの日にやってみたり、余興というかアトラクション中心にしてみたりで、何だか尻つぼみのような集会と化してしまったようだ。今年はそれぞれどこでやるのか。聞くところでは、全労連が代々木、全労協が日比谷。連合はメーデー当日はもう何もやらないらしい。
かつて、5月1日は労働者の祭典とか言われて、華やいだ中にも、時にさまざまな政治問題・経済問題などに、一定の異議申し立てをするような雰囲気もあって、道行く人にも組合の存在感をアピールしていたような気がする。
それから連合路線になって、首相があいさつするは、自民党もあいさつするはで、何だかだらしない雰囲気となり、若い人も年寄りもほとんど見向きもしなくなった。と同時に、それまである程度は認めていた、職場から集会のためにでかけることが制限されるようになり、いよいよ形骸化してしまった。今は、ごく一部の労組でかろうじて運営されている、と言ったら語弊があるだろうか。共産党系の集会は、日本共産党支持一色だし、・・・。
今、労組の組織率も毎年最低を更新しているようだ。日教組も共産党系が離れて以来、毎年組織率を低下させている。共産党系の「全教」も職場の支持はごく一部。かつての官公労は、姿かたちもない。また、民間労組は、徹底した企業内組合として、会社の利益向上のためには首切り合理化から賃下げまで、積極的に協力している・・・。
戦後、新しい平和憲法のもと、さまざまな民主化(今は批判の対象としてことさらあげつらう輩もいるが)を推進した一翼を担ったのは、労働組合である。しかし、あまりにも党派性が露骨に出て反発されたり、権力の介入を許したりで、組合員の意識の変化も加わって、しだいに先細ってしまった感がある。
強弁するわけではないが、こうした組合の存在が希薄になったと共に、政治への不信、経済への不安、平和への危機、改憲策動・・、日本の進路をめぐるさまざまな問題から、また、日本企業の病巣が見え始め、今やどうにもならなくなったといえるのではないだろうか。
ダサイ組織の代表と揶揄されるようになってしまった「組合」の存在感を今こそ見せなければならないのではないかと思う。
しかし、こうした危機感や切迫感が、組合幹部や組合員にあるだろうか。日本社会の転換期だからこそ、「組合」の意義も組織もあるはずなのに、まるで発揮する機会なし。
市民と共に考え、行動できるような組織、既存の組合「サヨク」運動の限界を超えていけるような、新たな組合運動が築けないものだろうか。
今日は、資料整理に追われる一日になりそうだ。
