おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

薬で幸福は得られるか

2005-05-14 17:26:22 | つぶやき
 今日の話しはかなり深刻です。自分でも迷いながら書くつもりです。
 どういう話しかというと、「薬で心は癒されるか」ということです。薬で精神的な病いは直るのかということです。さらに、「直る(直った)」ということは、どういうことかということです。
 頭が痛いときには、頭痛薬を飲んで頭の痛さがなくなるようにします。市販薬を何度か試してもなかなか直らないと、お医者さんに行きます。そこで時には慎重な検査が行われ、専門医を紹介されたり、大きな病院で検査を勧められます。直りにくい頭痛の原因が、例えば脳腫瘍であったり、先天的な疾患が見つかれば、それなりの大変な治療が施されます。大なり小なり、腹痛の場合もそうでしょう。
 痛みの程度にもよりますが、一般的に内臓をはじめ、筋肉・皮膚その他の病気は、薬などを用いずに治す場合もありますが、痛みや苦痛・不快感から早く逃れるため、薬を飲んだり、貼ったり、あるいは手術したりして病気の原因を取り除き、直すという医学的方法をとることになります。本人だけでなく、それは家族などの関係者も望むことにもなります。
 そして、その病が癒える(病気の進行が止まる・・・なども含め)ことになれば、それまでの苦痛や痛みから解放され、病気であったときにしえなかったことや、思っていたことをやり直すことにもつながっていきます。本人もうれしいし、家族たちもほっとします。万が一、余命幾ばくもないと宣告されても、治療を続けるかどうかの深刻な判断も含めて、医者のインフォームドコンセントに基づいて、選択がなされる場合もあるでしょう。
 実は、小生の知人がだんだんやる気がなくなり、朝もなかなか起きられなくなり、そのうち職場に出かけるのがおっくうになり、仕事も手につかなくなり、という状態になりました。そういう状態が一ヶ月近くなったので、自分から近所の心療内科の門をくぐりました。そこで、鬱病と診断され、3ヶ月の休職という診断書が出ました。
 さっそく職場の管理職にその旨を報告し、休職となりました。薬は4種類、朝昼夕それに寝る前と大量の薬をもらってきました。しかし、2週間たっても3週間たっても、特には病状に変化はなく、それどころか、ますます事態は深刻になりました。医者に行くと、それでは別の薬にしましょうと、漢方薬やら何やら薬を変えました。それ以降、つごう4・5回、薬の種類を変えました。
 しかし、やはり大きな変化はなく、3ヶ月が経ちました。休職期間が切れることになったので、再び職場に復帰しました。けれどもそういう状態でしたから、仕事場に行っても仕事は進まず、むしろ行き帰りに電車に飛び込んでしまおうか、というような気持ちにもたびたび襲われました。やむなく、今度は9ヶ月(これで休職期間は合計1年になるわけです。)の休職に入りました。
 ところが、2度目の休職期間に入った頃から、徐々に状態がよくなってきました。快方に向かったのです。医者は薬の効果が出てきましたね、と診断しました。本人は、職場に行かなくてもいいということが一番気持ち的にはほっとした、と話しています。
 薬はそのまま続けて飲みました。次第に明るさとやる気を取り戻していきました。そのうち、かなり活発な活動状態になっていきました。今までしてこなかったスポーツをやるようになり、積極的に電話をかけ始め、毎日のように出かける約束をとりつけ、夜中と言わず昼といわずのべつまくなしに人に会おうとするようになりました。お金の使い方もだんだん派手になりました。気前よく人にごちそうするようにもなったり、さしあたり必要のないものをカードで購入したり、派手な柄の服を即決で買うようになったのです。
 名刺を印刷し、誰彼となく出会った人に配るようになり、電車の中でも見知らぬ人に声をかけ、映画を見ても、特にそういう場面ではないのに、人目をはばからず泣くようになりました。夜遅くまで出歩くようになりました。薬も飲んだり飲まなかったりになりました。本人はそうした自分に気になることがあったのでしょう、医者に行きました。
 本人からそうした現状を話したようです。医者の話しは完治しましたねということで、薬はもういいでしょうということでした。結局、本人は、鬱病から解放されたということで、ますます飛び回るようになりました。心配した身内の者が、そのお医者さんに連絡しました。大丈夫ですよ、だいたい「躁病」の人は医者に来ませんから、という返事でした。それで話しはオシマイになりました。
 その後は、いっそう深刻な状況に陥りました。およそ3ヶ月、いわば「躁」状態が続き、まるで病気の前の人格とも病気中の人格とも違う、第3の人格という感じになりました。何を言っても聞き入れません。周りははらはら見守っているだけです。そのうち、花火がいつかは消えてしまうように、また静かな落ち着いた状態に戻りました。残ったのは、莫大な借金と人間関係でした。仕事は1年の休職の後、退職になりました。
 それから数ヶ月後、またまた何もしたくない、朝起きられない、という気分が出てきました。そうして、再び前のお医者さんに行ったのです。あなたは感情の起伏が激しいということを自覚して生活した方がいいですね、という話しとなり、(弱い)薬を寝る前に飲んでくださいと、薬を4種類飲むことになりました。1ヶ月以上も飲むうちに、状態が回復してきました。前回よりは随分と鬱の状態は軽い感じでした。
 鬱病は薬で治るということがよく言われます。たしかに脳の中の何とかという物質が影響しているらしく、その物質に対しては、薬学的アプローチがきわめて有効だそうです。
 巷でも、鬱病に関する書物がたくさん出版されています。「鬱になる前に」あるいは「鬱病になったら」という本はたしかに多くあります。けれども、鬱病が治るとはどういうことか、その後どうなるのかという話しは、どこにも掲載されていません。カウンセラーという仕事も大事なしごとです。むしろ、そういうほうが精神的な病気にはいいのではないかとも思います。
 薬漬けで人間性が保たれるのか? 薬は万能ではないのでは? こうした素人考えは間違っているでしょうか?
 今、日本人の自殺者は交通事故で死ぬ人の3倍以上だそうです。そして、その多くは鬱病(本人が自覚するしないに関わらず)からではないかと言われています。薬で治療しているので、この程度の自殺者数で済んでいるのかも知れません。たしかに鬱病は(突発的な)自殺をするケースが多いようですから。
 しかし、自殺を防ぐためには投薬も大事でしょうが、それだけではなく、その人を取り巻く環境やら、その人への人間の関わりも大事なのではないかと思うのです。勿論、それは、専門家の関わりはどうでもいいということではありませんが、小生としては、薬だけで精神的病いは直らないのではないかと思います。
 今、脳そのものに対する物理的・医学的解明は急速に進んでいます。いつか鬱的な気分だけでなく、悩みや苦しさの原因が物質的に明らかになり、それらを解消できるような特効薬が開発されるかもしれません。また、脳の細胞自身を遺伝子操作などによって変えてしまうような、心の病い治療の新技術が生み出されるかもしれません。
 けれども、人間が心の病から解放され、憂鬱や嘆きから解放され、では幸福になるかということはどうでしょうか。薬や何かによって物理的に解放された心。それでも人間らしい心を持った人間といえるかどうか。
 やはり、幸福というもの、心の平安というもの、また意欲・努力・積極的な人生などは、薬では手に入れられないものではないでしょうか。こういうふうに書けるのは心の重い病気にかかったことがないからだ、というおしかりは甘んじて受ける覚悟ですが。
 酒やタバコ、趣味なども憂鬱な気分を解消したり、ストレスをいっときは(少しは)解消するものなのでしょう。それらと心の治療に用いられる薬とはどう違うのか、考え込んでしまいます。もし、本人があのとき進んで医者にも行かず、薬も飲まなかったら、大切な生命を失っていたかも知れないと思うと・・・。
コメント (5)
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