おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

畳の上で死ぬこと

2005-05-24 22:15:39 | 世間世界
 生老病死の続き。老いていくということは、当然、病気と切り離せない場合が多い。そのため、あるいはもう助からないと分かっていても入院させ、治療を受けさせることが当たり前になっている。そして、多くの年寄りは、勿論若い人もだが、臨終を病院で迎える。
 患者が家にいて、もうその看護で疲れ果ててしまったり、医師の訪問も度重なってくると、家族もやむをえず入院させる。二度と生きて我が家に戻ってくることのない身内を入院させるほど、辛いものはない。まして年寄りならばなおのことである。しかし、それが当たり前になっている。家族も本人もそう思っている。
 完全看護の病室で亡くなっていく。時には、家族に看取られながらのケースもあるが、中には、人知れず亡くなることもある。死は、医者のもとで判定される。それが絶対とは言えないケースもあるが、死の判定は医師が行う。こうして、死は、病院の管理下に置かれる。
 最近、近所のお爺さんが入院した。家族(娘夫婦)も病院に入れて、治療を受けさせることにした。しかし、なかなか治療の効果が上がらず、もう手の施しようもなくなってしまった。
 そのとき、まだ意識だけはしっかりしていた患者は、家で死にたいとつぶやいた。家族は悩んだ末に、父親の願い通りに家に連れて帰った。それから大変な看病生活が始まったが、家族の協力で父親の最期を、家族みんなで大変さを分かち合いながら、看取ることにしたのだ。
 孫たちも死に行くお爺さんの姿を間近に見ながら、「死」(あるいは大切な人との別れ)のことを考えるようになった。そして、お爺さんは亡くなった。最期まで、あまり家族の手を煩わせることがなかったという。
 今、「死」という生々しい現実を目にすることはほとんどない。かつて、小生の父親も家の布団で死んだ。ガンの末期であったが、ほとんど苦しむこともなく、最期は「末期の水」ならぬ最後に好きだったタバコを口にくわえ、一服吸ってふっと息を吐いて、そのまま呼吸が止まった。その一部始終を、家族たちが見守ってやれことができた。ふとそんな体験も思い出させた話しであった。 「死」が人間から遠くなって、実感できずにいる子どもたちも多くなっている。「死」を身近に味合わせることの是非はあるだろうが、死に行く立場に立って、死者を見送る姿勢が生き残った人たちには大事な姿勢ではないだろうか。特に子どもたちにとっても大切なことではないだろうか。
コメント (2)
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