インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ・第二部1(中編小説)

2017-05-03 16:53:25 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
祭のない原野へ(第二部)

                                  李耶シャンカール


 ――ここから先は行けないよ。ここはいいところだよ。私たちは旅券を持っていなかった。もし二人とも旅券を持っていたら、もっと先へ行っただろう。国境の向こうでの生活がこちらの生活と変わりがなくても、やはり、行ってみたかっただろう。(H・E・ノサック)
                                    

    一

 熱球にあおられた喧騒の街、カルカッタが融けかかっている。
 男の薄い躯は熱風にはたかれ、引きちぎれそうになっている。汗の海に溺れたインド製綿シャツ&ズボンのペア、クルター・ピジャマは油紙のように靡きながら黄味色の膚を露わに透かせる。
 道の真ん中に磔になっていた男の影が崩れ、路上へ流れ出した。眼下に抛られた餌食に褐色の膚色の群集がハイエナのように群がる。
 ドーナツ状に盛り上がった中央の空洞で、男は肩こう骨を怒らせ、食道を捻転させるような声とともに胃袋に納まった食物すべてを吐き出していた。口元を押さえた指の隙間から、黄土色の吐瀉物がとろりと垂れかかる。
 
 暑さに人一倍弱い男は日がな一日ベッドに身を横たえたまま、微動だにしない。全開にしたエアコンディションが耳障りな雑音を醸す。ブラインドを下ろしたままの中級ホテルの室内は日中でも薄暗く埃っぽかった。
 夕刻、寝返りを打って半身だけ起こした男は、
「中華料理が食べたいな」
 くぐもった声で女に呟いた。食欲がいくらか戻ってきているようだった。
 道の溝に汗と埃にまみれた黒い肉の塊が貼り付いて、夕刻とはいえいっこうに和らぐ気配のない陽射しにコールタールのように蕩け出していた。アルミ缶がきらりと閃き、歩行者の一人が放ったコインが乾いた金属質の音を立てる。
 ホテルの並びの一角に、古ぼけた教会が建っていた。敷地内の付属幼稚園では、こぎれいな水色の上っ張りを羽織った園児たちがのどかに遊戯に興じている。それはまるで、猥雑な吹き溜りに忽然と咲き誇ったスカイフラワーのようだ。
 尻に申し訳程度にボロきれを纏った薄汚い子どもが鉄柵にもたれるように、桃源郷の天使の舞いに見とれている。輪の中央で指揮をとっていた保母ははたと手の動きを止めると、つかつかと柵に歩み寄って、野良犬でも追い払うかのように邪険にしっしっと乞食を追いやった。それから、その背後で一部始終を見守る異人カップルに今初めて気づいたとでもいうように、にっととってつけた愛想笑いを浮かべた。
 二人は無理矢理共犯者に仕立て上げられたかのような後ろ暗い心地で、あたふたと向かいのチャイニーズレストランに駆け込む。生煮えのチョーメンが喉につかえる。男は揚げた麺の上にどろりとケチャップの垂れたチョップスウェイを無言で掻き込んでいる。店を出ると、二人の意表を突いて、先程の子どもが路地の奥からにゅうっと顔を現わした。澄んだ瞳が人懐つっこく瞬いて、垢にまみれたあどけない掌をひらひら閃かせながら男に纏わりつ く。
「おい、どうする」
 男が気弱などっちつかずの声で投げる。
「癖になるわよ」
 女はあくまで冷ややかに放つ。男は神経質そうに乞食の手を払いのけながら、なんとも後ろめたそうな面持ちになって足を早めた。子どもはしつこく付き纏って離れない。
「好きにしたら……」
 見かねたように女が放つと、ほっと救われた面持ちになって、ズボンのポケットをまさぐった。コインをきつく握り締めた子どもの顔がたちまち輝かしい笑みの波紋に彩られる。感謝の意を表わすかのように媚びて男の脇ににじり寄ると、快活に身を翻した。
 男の膝がその拍子に崩れた。咀嚼されてどろどろに混ざり合った流動物を戻すたび、背がいびつに歪む。指の根元に麺の一筋が絡みついて揺れている。
 
                  
 仏陀が悟りを開いたことで有名な聖地ブッダガヤの公営ロッジは、熱帯の色鮮やかな花々が咲き乱れ、蝶の飛び交う麗しの庭園を取り巻くように、コッテージ形式の個室が配されていた。白のレースのカーテンは甘い薫風にはためきながら、ドレープの襞にねっとりと濃厚な花の蜜を吸い上げる。
 ロッジの主人は男とさして年の違わない四十半ば、白髪混じりの顎髯をたっぷり蓄えた大柄な風采の、がっしりした腕を広げて二人を大歓迎してくれた。が、途上行き過ぎた海辺で緩和されていた暑さがぶり返したこともあって、挨拶もそこそこに男は部屋に引きこもってしまった。女はそんな男を尻目に、町に出た。
 烈光をプラチナ色に弾き返す砂利道を下ると、ここに来る途上過った小さなバザールに出た。板葺きの粗末な露店が路地の両脇に軒を並べ、そのうちの一軒では、サフラン色に熟したマンゴーはじめ、ざくろ、パパイヤ、ココナッツなど、熱帯の豊潤なフルーツが山と溢れていた。軒下に垂れた赤茶けたバナナは、陽に溶けて甘い腐臭を発散している。
 鉄柵で囲われた庭園の一角に、塔紛いの高い建造物が漆黒の威容を雲一つない蒼穹に伸び上がらせていた。
 炎天下に晒された石畳が下足を脱いだ足裏に焼きごてのように押しつけられる。剥き出しの手足がひりひりと火傷に似た痛みを伝える。
 飛びのくように駆けて、女は、裏手に放縦に枝葉を広げる巨木にぶつかる。樹齢三千年を重ねた古木の太く逞しい幹は緋と代赭の布で交互に取り巻かれ、仏陀が涅槃に入定した金剛座として丁重に祀られていた。根元は幾重にも枝分かれした根が地中深く這い、千蛇のように撓い、絡まり合っている。蓮池を伝って流れ来る微風は涼やかな葉擦れの音を鳴り響かせ、世にもかぐわしい香りを漂わせる。
 女の気持ちは不思議に安らいでいた。青い透かし彫りの天蓋が烈火を閉ざし、銀鈴の鳴り渡る別天地へと女をいざなう。
 バザールを過ぎて、家畜小屋同然のうらびれた境内を潜り抜けると、裏手の石段の下に忽然と川が現れた。表通りの猥雑さからは程遠く、川はとうとうと久遠の流れを編んでゆったりと流れていた。
 頭上に素焼きの壺を載せた少女が、オリーブ色のロングスカートの裾をたくし上げると、上手にバランスを取りながら赤茶けた渦を掻き分けていく。水嵩は少女の丸い膝すれすれに届くか届かないくらいしかない。女は次第に小さくなっていく背を見送りながら、サンダルを放り素足をそっと水際に浸してみる。河泥が足指の隙間でぬめり、生温い水がとろりと纏わりつく。
 川を渡ると、死んでいた風が生き返った。荒れ果てた砂地には疎らに灌木が茂るのみで、野放しの牛や山羊が侘しげに枯れ草をつついていた。
 丘陵のふもとに打ち捨てられたように、その村は人気のない静寂にひっそりと息づいている。太古、苦行の果てにこの地に辿り着いた仏陀は、村の娘、スジャータの差し出す乳粥で体力を回復し、未明、川向こうの菩提樹の下で解脱を得るに至ったのである。藁葺屋根の家屋は原初の面影を偲ばせ、女はいつか、気の遠くなるような歳月を遡りながら、悠久の彼方におぼつかなげに足を乗せていた。

 ロッジに戻ると、主人が恰幅のいい躯を波打たせながら、穏やかな笑みとともに女を手招いた。
「ごいっしょにティーはいかがかな」
 薔薇園に臨むテラスで、男は一足先にテーブルについてティーを啜っていた。空いた方の手が、足元にうずくまったアルセイシアンの頭を無意識裡に撫でている。
 主人は女に席を勧めながら、ポットからティーを給仕しつつ、思いつくままにぽつりぽつりと、流暢な英語で話しかける。
「お二人の宗教は?」
 男はいっこうに答える素振りを見せない。瞳がぼんやり虚空に泳ぎ出していた。
「特に信仰している宗教というのはありませんけど、強いて言えば、仏陀を崇拝しているから、仏教徒ということになるでしょうか」
 代わりに、女が答えた。
「そういえば、日本はブッディズムの国ですな」
 主人が納得したように頷き、男の方に向き直った。
「あなたも、仏教徒ですかな」
 男は首を垂れたまま、じゃれつく犬に気をとられている。
「いかがかな」
 再度の威厳ある問いかけに、男もさすがに応じないわけにはいかなくなった。
「私は、無神論者ですよ」
 主人の口からわずかに慨嘆のようなものが洩れた。
「あなたは何を糧に生きてらっしゃるのかな」
「何も……気の向くまま、足の向くまま」
「自分の感情を信じておられる?」
「少なくとも、神よりは」
「ここを訪ねた人で、無神論者と答えた人は、恐らく、あなたが初めてであろう」
 主人はかすかに頭を振った。男はとってつけたように、犬の頭を撫でることに熱中し始めた。が、少なくとも、この主人が寛ぎのひとときとしているティータイム、時に宿泊客を招いての穏やかな楽しみに満ちたそれは、取り繕うことを知らぬ礼儀知らずの異端の男によって台無しにされてしまったことだけは間違いなかった。
「今宵は、このガーデンで婚礼セレモニーが催されます。異国の民の祝言をともに祝ってやってくださらぬか。あなたがたに、幸多かれと祈ります」
 主人はとってつけたように話題を転換すると、勧誘した。

 辺りがうっすらと夕闇に包まれる頃、赤、黄、緑の豆電飾に彩られた庭園の植裁がいっせいに瞬き出し、まるでクリスマスツリーのような趣きを漂わせた。女たちは、目の覚めるような原色のシルク地に金糸・銀糸の縫い取り、スパンコール付き、あでやかな綾を浮き彫りにした絢爛豪華なサリー、男たちは古式に則った礼服に身を飾り、晴れがましい祝典の幕が上がるのを今か今かと待ちわびている。縁者同士のひそひそと小声で交わされる内輪の歓談、合間にあがる短い哄笑、和やかなさんざめきの底に、晴れの日に立ち会う慶ばしさが潮流となって渦巻いているようである。
 女は人々の輪から外れて、片隅のテーブルで頬杖をつき、満艦飾に着飾った参列者の一団をぼんやり遠巻きに眺めていた。
「こんなに暑いクリスマス、は初めてだな」
 いつのまにか傍らに立った男が、ぽつりと呟く。
「七月のメリークリスマス、ね」
 そのまま無言で互いの思いを囲ううちに、開け放したビールはすっかり生温くなっていた。
                  

 聖なるガンジス河の東岸に、真っ赤に炎上した日輪がゆるゆると昇り初める。暁を待ちわびたかのように、周囲の寺院群から鐘の音がいっせいに鳴り響く。
 曙光の一矢を眉間に射貫かれた信者の一団は法悦の表情で、祈りの文句を唱え、小さな金壺に満たした聖水を頭上に降り注ぎながら、河中に穢れの肉体を幾たりとなく潜らせる。
 河岸まで石段の下りた沐浴場、ガートは、敬虔なる信徒たちの洗礼をよそに、歯磨き・洗顔、全身を洗い清める者、歓声をあげて泳ぎ回る子ども、果ては洗濯する女たちまで、混沌と猥雑なまでの生の営みに満ちて、聖濁併せ呑んだ大河はゆったりと悠久の雅楽を奏でていた。
 白みかけた天を穿つ真緋の大円は、サフランゴールドの箭を放射状に閃かせる。舟頭は河の流れに逆らうことなくゆったりと櫓を漕ぎ、朱鷺(とき)色の河面に舟底を滑らせる。艫から半身乗り出した男の上体が朱(あけ)に染まる。水はどんより渋茶色にくすんでいたが、掌中に掬い上げると、思いのほか透明で、湿した後がさらりと滑らかだった。
 そのとき、藻屑に混じって、波間をぷかりぷかりと漂い流れてくるものがあった。一見丸太の切れ端のようにも見える。男の上体がぐらりと河面に泳ぎ出しそうになった。
「赤ん坊、だよ」
 呆然と放つ。女は震撼のあまり絶句する。どうやら、幼い子どもの遺体は焼かれず、そのまま流されるらしかった。
 舟べりにかかった重心に均衡を失ったボートがその一瞬、大きく揺らいだ。意味不明のローカル語で叱咤する船頭に、はっと我に返ったように女は元の位置に戻る。
 火葬ガートが目と鼻の先に見えていた。白々と明け初めた空に、薪にくべられた焔がめらめらと舞い上がる。井桁に組まれた薪の隙を突いて突如、妙に生白い死人の掌がひらひらと食み出し天を指し示す。燻るような黒煙が中空に棚引いている。傍らでは、薄紅(くれな)いの布に包まれた女人の亡骸が、荼毘に付される順をひっそりと待ちわびていた。
 舟はやがて火葬場を離れ、対岸の白く光る陸(おか)を間近にする。「不浄の地」とされ、漁師以外寄りつかないとされているところだった。
「向こう岸に渡ってみたいわ」
 女の口からつと、呟きのような願望が洩れでる。男がすかさず指図すると、船頭は渋々といった態で漕ぎ出したが、河岸間近まで来ると、もうそれ以上決して舟を進めようとせず、勝手に降りて行け、というようなしぐさをとった。
 浅瀬は代赭色の河床が剥き出しになって、亀の甲羅のようにひび割れた地肌が乾いた粉(こ)を吹いていた。足裏にぬるりと纏わりつく泥を掻き分けながら進むと、水際で網を引く漁師に行き合った。たくし上げた網の目に絡まるように、銀色の小魚が無数に飛び跳ねている。
 女は岸辺に佇むと、だだっ広い砂原一帯を見渡した。そこには、期待するようなものは何一つなく、唯荒涼とうらびれた原野が途切れることなく、地平の涯まで続いているだけだった。
「満足かい」
 背後に立った男が尋ねる。
「向こう側、ってこんなものなの。何もないのね、でも、行ってみたかった……」
 女の声音にはそこはかとない失望がこめられていた。対岸のガートの賑わいがよそよそしいものに映る。
「愛と同じ、不毛ね」
 女は、希望から見放された恋愛はできないのだと、男に面と向かって言ってみたかった。愛の不毛は、死より耐えがたいと……。男とともに降り立った彼岸は寥々たる気配が漂い、禁忌を犯した者たちを冷酷に追い立てた。

 苛酷な自然に培われた人々の逞しい生命力、ピュアでタフなあの突拍子もないエネルギーは夜のカーニバルに向けて、いっせいに解き放たれる。
 色とりどりの豆電球が家々の軒先や窓枠を飾り、闇に流麗な虹のシルエットを浮かび上がらせる。
 きらびやかな盛装を施された山車が目抜き通りを繰り出し、黒山の群集は我先にと供花を注ぐ。ジャスミンの芳香と人いきれが攪拌され、むんとうだるような熱気を醸し出す。車体がゆらりと前方に押し出されるたび、内部(なか)に祀られた笛を手にする青いご神体のクリシュナ様が神々しいお顔を覗かせ、敬虔なる信者たちの眉間に雨霰と祝福を降り注ぐ。耳をつんざく高らかな歓声、陶酔の極みの熱狂はとどまることを知らず、竜巻となってごうごうと闇の渦中を駆け巡る。
 海辺の聖地で見逃す羽目になった山車祭にはからずも、この地で出遭えた。
 催し場の一角の仮設遊園地では、手製の素朴なメリーゴーランドや観覧車が子どもたちを乗せて、ひっきりなしに回り続けていた。
 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた観覧車が、浅黒い人夫の頑丈な腕でぐいと勢いよく回されるたびに、子どもたちは黄色い歓声を張り上げて振り落とされまいと木箱のへりに必死でしがみつく。色とりどりの晴れ着が七彩に渦巻いて、それはそれは夢のように美しいファンタジー、メルヘンの世界を醸し出 す。
 女たちも今宵は一張羅で着飾り、よりどりみどり、品定めする男たちの足を釘付けにする。ランプの灯に照らし出された金・銀、刺繍の縫い取りやスパンコールの綾は、夜目に至玉のように瞬いて眩惑する。
 祭のさんざめきは地を這い、うねり、夜通し続く。

につづく)

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