インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

祭のない原野へ・第二部2(中編小説)

2017-05-03 16:58:03 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)
 
   二

 ジープはタイヤを軋ませながら、フルスピードで山道を駆け上がる。巻き上げた砂塵が窓外を覆い、弾かれた砂利が窓ガラスに当たって火の粉のように爆ぜる。
 前方に急峻な岩山が迫る。切り立った岸壁の背後になだらかな雪山が覗いている。純白の山容が藤色の空に眩ゆく照り映える。
 索漠としたモノトーンの風景に倦んだ目の中をいきなり、鮮やかな緑が過る。
 土のあわいからこんこんと這うように水が湧き上げていた。風に揺れるポプラ並木、白い石造の村落、たわわに実った麦穂は黄金(こがね)の房を風の向きにいっせいに靡かせている。木陰では、牛や馬、山羊などの家畜がのんびりと草を食んでいた。どうやら麓が間近らしい。
 助手席に腰掛けた女の背後から、荷台に並んで坐った男二人の会話が、聞くともなしに洩れてくる。
「この神の恩寵ともいえる手つかずの自然は、どうです、我々文明人がとうに失ってしまったものではありませんか」
「いやはや、実に、実に荘厳なヒマラヤ越えでした。息もつかせぬ壮大なパノラマの前に、今回ほど、人間がいかに無力でちっぽけなものか、感じ入ったことはありません」
「この国は実に深い奥行きを持っている。さまざまに相矛盾するものを孕みながら、紛れもないその底を一種敬虔なスピリットとでもいうべきものが貫いている。シンプルってことは時に、驚くほど強いものですね。我々文明人は物事を複雑に考えすぎるあまり、大事な本質を見失ってしまう。私は、今の日本人ほど、精神性のない民族はないと、密かに軽蔑すらしているんです。そこへいくと、ここには何もかもがある。悠久の母胎は聖濁併せ呑んで、混沌と豊饒を育んでいる……」
「美しい国、ですね」
「確かに」
 最北端のレーを制覇する旅の途上、二人は偶然、葉瀬と名乗る年配の中学教師と昵懇になり、ひょんな成りゆきで旅程を共にすることになったのである。
 四四六キロというハードな道程を二日がかりでヒマラヤ越えするバスは、ペンキが剥げかかり、岩壁にぶつけてできたらしいかすり傷やへこみで満身創痍になっていたが、葉瀬が絶賛する通り、車窓に繰り広げられる景色は息もつかせぬパノラマの連続で、絶景そのものだった。
 見はるかす限り黒々と針葉樹林に覆われた一帯を抜けると、威嚇するように絶壁が伸び上がり、青黒い岩肌を吃立させていた。遥か真下にV字に抉られた峡谷が急峻な口を開け、雪渓が石灰を流し込んだかのように貼りついて雪解け水がちょろちょろ流れ出していた。
 ちょうどバカンスのシーズンにあたっていたこともあり、車内は欧米からの若いツーリストで溢れ、バスが休憩するたびに我先にと飛び降りて、奇声を撒き散らしながら足下に繰り広げられる壮大な自然の恩恵を余すところなく満喫していた。
 摺り鉢状の谷肌には、キャメル色の天幕が茨のように張り出し、家畜の群れが点々と蟻のように貼り付いていた。ヤクを追う遊牧民がちょろちょろテントから出入りするたびに、乗客全員の口からほうーっと感嘆ともつかぬ声があがる。まさしく、この苛酷な大自然の下(もと)では、人間はケシ粒程度の存在でしかなかった。にもかかわらず、彼らは確かに、ここに生存しているのである。ひ弱な文明人には到底想像も及ばぬ、タフな肉体と強靱な精神力をもって……。女はそのことに打たれていた。それこそは、人間の生命の尊厳、とでもいうべきものではなかったか。
 途上、軍用トラックの渋滞とぶつかり、中継地に入ったのは、深夜二時を回っていた。ホテルはどこも満室で、二人はしょうがなしにその他大勢と共にバス内で仮眠することに決めたのだが、そのとき、斜め前に坐っていた小柄なチベット系と見える男性がだしぬけに、
「もしよろしかったら、私が予約してあるホテルにいっしょに泊まりませんか。部屋はツインですが、予備のベッドを出してもらえれば、三人でも可能でしょう」
 と流暢な日本語で、親切に申し出てくれたのだった。それまでてっきり土地の人間と思い込んでいた二人は驚くやら呆れるやら、恐縮しながらも同胞の好意を有り難く受け入れることにしたのだった。
 男たちは現代文明の到達したパラドックスをひとしきり憂えた後で、ぽつりぽつりと互いの境遇について語り出した。
「私もこの年まで、したい放題、心ならずも多くの人たちに迷惑をかけてきましたが、どうやら、形にして報えそうで……この旅が終わったら、カナダに移住するつもりでおるんです」
「それはなんとも、羨ましいお話ですな。私など、しがらみに縛られてなかなか身動きが取れない。この旅も、子供たちの夏休みを利用してなんとか実現にこぎつけたような次第でして」
「いやいや、普段やるべきことはきちんとやられておるんだから、日本社会では何にもまして強いですよ。私など、とうにレールを外れてしまった人間ですから。最期は、どことも知れぬ異国の涯で野垂れ死にという顛末になるんでしょうな。私には守るべき家族もないし、一生こうやって放浪し続けて終わるのでしょう」
 ジープが耳をつんざくような甲高いブレーキ音をあげて停まった。野放図に伸びた草叢から、小さな仏塔が純白の円蓋を点々と覗かせている。その背後になだらかにうねる丘陵のふもとから頂上にかけて、白い村落が折り重なるように段を成して真上にゴンパを戴いていた。
 煉瓦壁を白く塗り込めた矩形の僧院は、すみれ色の空と溶け合って素朴で閑雅な佇まいを呈していた。小豆色の法衣を纏った愛くるしい稚児僧が鉄の閂を解くと、門が重々しい音を立てて開かれた。
 薄暗く澱んだお堂の奥にかすかに光の輪が蠢き、やがて金色(こんじき)の仏像が燦然と輝いてご本尊を現わした。
 弥勒菩薩を守護するように、周囲の壁画は、顔の造りも、法衣の色も、印の結びも一体一体微妙に異なる愛らしい千体仏で埋め尽くされている。涼やかな凛とした面立ちのもの、ふくよかで艶めかな色香に匂うもの、長い年月の間に目鼻立ちが擦り切れてあやふやになったもの、千種千体の小仏がせめぎ合い、慈愛が潮のように満ちうねる中に女はゆらりと半身を泳がせながら、ほのかに色づいた千体の妖しい幻影が虹に渦巻いて、荘厳なる七彩の大仏と化すかのような不可思議な錯覚に捉われた。
「いやぁ、大したものですねぇ。人里離れたこんな辺鄙な山奥に、純金の仏像が燦然と祀られている。人間てものは、周りが荒涼としたモノトーンの世界であればあるほど、絢爛豪華な仏を造り出すものらしいですね。宗教とはつくづく、不思議なものです」
 いまだ興奮の冷めやらぬ上ずった声で葉瀬が述懐した。男は、わずか三間に満たない本堂に繰り広げられる華麗な曼荼羅宇宙の金縛りにあったように、その場に釘付けになっていた。

 昼間あれほど強烈だった陽射しが夕刻、矢尻を折って高知特有の冷えが舞い戻ってきた。早朝、道端に坐り込んで野菜を売っていた行商の女たちがまたどこからともなく現れて、大根、白菜、ほうれん草など、平地では見かけぬ冬野菜の溢れた籠を前に、のんびりと編み物にいそしんでいる。鍔の反り返った黒い民族帽から豊かなお下げを垂らし、ウェストを絞り腰の周りをふんわり盛り上げた小豆色のロングドレスを身に纏っていた。チベット色の強い民族衣装だった。
 山焼けした見るからに血色のいい健康そのものの顔は、太い眉の下に素朴な無垢の瞳を有し、含羞みとないまぜになった人懐っこい笑みを湛えている。
 百メートルも行けば、道が尽きてしまうようなメインロードの両脇には日常のありとあらゆる小間物を並べた露店が軒を詰め、彼方の丘陵に九層もの段を成して聳える古代のチベット風王宮が、黄昏刻のバザールの賑わいを荘厳に悠然と見下ろしていた。町は二日後に祭を控え、倍近く膨れ上がった人々でごった返していた。 
 仮ごしらえの天幕の下の夜店では、けばけばしい紛い物のアクセサリーが溢れ、アセチレンランプの灯に人工的な着色を燦めかせている。
 四つ辻で、ひとりの老婆が地べたにうずくまりながら、七輪の火を盛んに団扇で煽り立てていた。網の上の串刺しの羊肉からもくもくと黒煙が噴き上げ、香ばしい匂いがぷうんと辺りに漂う。
「こりゃあ、まるでヤキトリですな」
 葉瀬が浮き浮きとはしゃいだ声で投げた。老婆は生焼けの肉を傍らの壺にとろりと渦巻く垂れに絡めると、再び炭火の上に戻し、くるくると串を回しながら手際よくあぶるように焼き上げる。
「食べてみませんか」
 葉瀬が水を向けると、男はあまり気乗りのしなさそうな面持ちで渋々頷いた。早速、焼き立ての香ばしい匂いを放っている羊肉にかぶりついた葉瀬は、
「うーん、こりゃぁうまい」
 多少大仰とも言える感嘆の声をあげた。間髪を入れず、傍らの男は、
「こりゃぁ辛い」
 と眉間に皺を寄せて放ち、乾いた笑いが弾けた。
「食べてみるかい」
 男が差し出した串を受け取った女は、程よくスパイスの効いた羊肉が口中で蕩け、胃の腑にじゅうっと染み通る食感に目を細めた。
 色のない夕暮れはまたたくまに過ぎて、濃い闇の帷が小さな町全体に被さった。瑠璃色の天空に雪山が宙吊りになっている。星明かりで雪渓がペイルブルーに燦めいた。
「もしよろしかったら、これから私の部屋に遊びにいらっしゃいませんか」

 葉瀬が滞在するホテルは二人の宿泊先からものの十分と離れておらず、まだ完成してまもない三階建てのモダンな建物だった。
 室内のインテリアは白と黒を基調にした洒落た仕様で、ペンキ塗立てであることを示すようにシンナーの刺激臭が充満していた。
「実は、お二人にこれを見て頂きたくて……」
 葉瀬は、造り付けのクロゼットの引き出しから、白いハンカチに包まれたものを大事そうに取り出した。手品よろしく、布の先端がひょいとつまみ上げられると、中から、拳大の灰白色の岩石が現れた。それは、葉脈の一筋一筋までもが見事に浮き出た銀杏の化石だった。
「これは素晴らしい、まるで一個の完成された芸術作品ですな」
 男は深々とした感嘆の息を洩らした後、子細げに点検し出したが、ふと危ぶむ目つきになって言った。
「税関で、引っ掛かりませんか」
「実は、私もそれを心配しておりましてね。いやぁ、お恥ずかしい話ですが、これは私の道楽の一種なんですよ」
「しかし、これは値打ちものですよ。どうです、あとで私にくれると言うなら、ひとつ税関をくぐり抜けるとっておきの秘訣をお授けしないとも限りませんが」
 冗談とも本気ともつかぬ口調で申し出る男に、葉瀬は弾けたように笑い出した。
「旅に出るたび、観光そっちのけで、こんなものばかり集めておりましてね」
 神妙な面持ちで男から化石を受け取った葉瀬は、女の眼前に差し出した。女は、この美しい石に秘められた葉瀬という男のロマンを思うと、胸が熱く逸るようだった。
 天窓に北斗七星が手を伸ばせば摑み取れそうな大粒の光彩に瞬いて、ひしゃくのうちに化石を掬い上げようとする。

 男はゴンパ巡りをした翌日から体調を崩し、ほとんどベッドに寝たきりになった。仰向けになったままむっつりと天井を睨みつける相棒の醸し出す鬱々とした空気に耐え難くなった女は、バザールに行くと断って部屋を出た。
 階下のロビーで、ばったり葉瀬と行き合った。
「やぁ、ちょうどよかった。夕食でもごいっしょしようかと思って……。あれ、彼は?」
「どうも気分が優れないらしいんです。本人は、高山病の一種だと言ってるんですけど……」
「そりゃぁ、いけないな。どうも、彼には、ここの風土そのものが体質に合ってないような気がするけど」
「ええ、あと刺激の強い食物は一切受け付けないんです」
「カレーが駄目となると、中華くらいしかないが……。ここのチャイニーズはなかなか、油っこいでしょう。ところで、あなたはこれからどちらへ」
「いえ、別にこれといったあてがあるわけではないのですが、町でもぶらぶらしてみようかと」
「もし、迷惑じゃなければ、ごいっしょして構いませんか」

 メインロードの一角に立つヒルトップ・レストランは四方ガラス張りの展望の効く人気処で、晴れた日には、神々の山々の稜線がライラック色の上空に流麗なシルエットを描いて一大パノラマを展開した。
「突然ですが、実は私、明日の飛行機で発つことになりましてね」
「まぁ、随分急なお話ですのね」
 女はさすがに目を見張る。
「まさか、切符が取れるとは思ってもみなかったのですが、ホテルの支配人が伝で動いてくれましてね、おかげで、あとひとつどこか回れそうです」
「もうお土産はお買いになりましたの」
「ええ、祭のとき、僧が被るというエキゾチックな面を幾つか……」
「ご家族には……」
「ええ、まぁ、ぼちぼちと……」
「この辺りは、宝石が安く手に入りますわ」
「いやぁ、旅に出るたび、そんなものばかりで……。土産にはいつも頭を悩ませますよ」     「とても家族想いでいらっしゃる」
「いやいや、これでも結構我儘でしてね。結婚してまもない頃、台湾で日本人学校の教師をやらないかという話が舞い込んできたんですが、身重のかみさんほったらかして行きましたもんね。放浪癖があるんですよ。家内もよくこれまで辛抱して付いてきてくれたものよと頭が下がります」
「葉瀬さんが放浪癖というのは当たりませんわ。ちゃんと社会的責任は果たし、守るべき義務は守ってらっしゃるんですもの」
「捨て身の覚悟がないんですよ。そこへいくと、あの方はすごい」
 日が落ちて、テーブルの燭台に火が点った。サフラン色の炎が揺らめいて、紫紺の窓ガラスに淡い陰影を投げかける。
「私には、あなたのような女性が何故、あの方に惹かれるのか、わかるような気がするんです。あの方は、なんて言ったらいいのだろう。私のような凡人と違って、ぎりぎり極限のところで生きている人ですから。絶えず、自らを通俗の外に置こうとする試み、それが血の滲むような苦悩と孤独を伴うものであろうとも……」
「才能は認めますわ。でも、あの人には、そう、人間として必要な何かが絶対的に欠けているんです」
「いずれにしろ、いっしょに付いていく女性は難儀でしょう」
「旅をやめろ、とおっしゃるの」
「私にそんな資格はありません。あなたは強い女(ひと)だ。あなたと関り合うことによって傷を負うのはむしろ、男の方かもしれない。あなたのイノセンスはそのことに気づいてすらいないようだが……。あなたは実に不思議な女性だ。男に媚を売ることを心得ながら、男にはそれが媚と見えず、無邪気な少女のしぐさに映る。イノセンスの背後には、恐るべき魔性すら秘められて……あなたはその残虐な武器をちらつかせながら、蜜を漁る蝶のように花から花へと渡り歩くのでしょう」
 女は、葉瀬にそんな持って回った言い方をしてもらいたくなかった。もっと直截に、男とこのまま旅を続けていいものかどうかに答えてもらいたかっ た。
「これを、受け取っていただけますか」
 葉瀬が差し出した掌に、剥き出しの化石が貼り付いて光っていた。女の問いかけは封じられた。葉瀬は今確かに、ここを去っていこうとしている。間違ってうっかり足を踏み入れてしまった異端の領域に背を向けて、平凡な日常、秩序の内へと回帰しようとしていた。

 土地の人々は今日も変わりなく、人懐っこい笑顔で、ジュレ、ジュレと挨拶の言葉をかけてくる。バスがゆるゆると山道を下り始める。男はシートに凭れかかったまま目を閉じている。
「所詮、下界にしか住めぬ男だよ」
 浮腫んだ唇から誰にともない呟きが洩れる。車窓に断崖が迫る。直角に削ぎ落とされた絶壁は天を突き上げ、ゴシック寺院のように聳えている。岩肌にくり貫かれた丸い洞(ほら)に、人間技とは思われぬ不可思議な信仰の力に支えられて、赤と白とグレーの仏塔三基が祀られていた。
 宗教とはつくづく不思議なものだと述懐した葉瀬の声が突如、鼓膜に蘇る。ポケットの化石がずしりと重みを伝え、掌をしんしんとざらついた感触で刺してくる。傍らで苦しげな寝息を立て始めた男の顔にだぶって、葉瀬が緩やかに呼びかけてくるようだ。
「あの断層の具合からすると、ここは古代、海だったようですね」
 岩肌にうっすら浮き出た淡い紫と代赭の縞模様がゆらゆらと靡く。バスは太古の海の底をゆるゆると泳ぎながら、ふと女は、ここでアンモナイトの化石が見つかったかもしれないと、葉瀬にやみくもに告げてやりたいような衝動に駆られた。

につづく)
ジャンル:
小説
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