インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

ラッパー子息のEP盤大人気!(動画)

2017-01-23 17:00:35 | 音楽・スポーツほか娯楽


今月二十日に、ラッパー子息(芸名BIG DEAL)の初のEP盤(One Kid With A Dream)が発売されました。

これまで何度も紹介しているように息子(サミール<和名/理秀>28歳、日本国籍、訪日歴二度)は南インドのIT都市でコンピュータ技師の傍らラップ活動に従事しています。
インドでは五本の指に入るラッパーで、近年めきめきキャリアが伸びてきました。

テレビや雑誌、新聞にも何度も紹介され(今回のEP盤に関しての記事はこちら)、ボリウッド(西インドの商業都市ムンバイ<旧ボンベイ>を本拠地とするヒンディ映画界のことで、ハリウッドをもじってボリウッドと通称)映画のテーマソング、歯磨き粉の有名ブランド(Colgate)のコマーシャルにも出演、そしてこのたび念願の初のEP発売にこぎつけたものです。

発売して三日しかたっていないにもかかわらず、すでに視聴回数は10万に届く勢いで、ヒットの兆しを見せています。以下、どうぞ。
One Kid (Official Music Video) | One Kid With A Dream EP | Big Deal

ほんの数瞬なのですが、0:35辺りで私たち夫婦も登場(経営する宿HOTEL LOVE&LIFEのレセプション前)はじめ、当地プリーの鉄道駅や海、シンボルのヒンドゥ教寺院・ジャガンナートテンプル、35キロ離れたコナラークにある太陽神殿(13世紀のス―りやテンプル)、北東インドの避暑地ダージリンにある母校の寄宿舎(St.Paul's School)、ベースとしているバンガロール(ベンガルル)も背景に登場しますので、インドの一部をツアーしているような気にもなる、楽しい動画に仕上がっています。
なお、作詞(英語)作曲は本人で、コンセプトは、自身の生い立ちがテーマになっております。

いつもはウエスタン調のラップを得意とする息子も、今回のテーマがオートバイオグラフィーなだけにローカルテイストに仕上がっており、それがインド人に受けている理由のようです。これまで発表した中では視聴回数が短期で跳ね上がったという意味でも一番ポピュラー、ヒットの兆しを見せています。
以下、BIG DEAL初のEP宣伝動画、ぜひご視聴ください。
One Kid (Official Music Video) | One Kid With A Dream EP | Big Deal
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はまった昭和のドラマ(過ぎし日のセレナーデ動画)

2017-01-21 17:18:45 | 音楽・スポーツほか娯楽
昨夜、スマートフォンでユーチューブをチェックしていて、偶然次のドラマにぶつかった。
まずは、主題歌(韓国出身の歌手ヤン・スギョン、作詞作曲は荒木とよひさ&三木たかし)の流れるショート動画からどうぞ。
【HQ】 過ぎし日のセレナーデ (愛されてセレナーデ)

以下、3話分です。
見だしたら、結構はまってしまった。田村正和、高橋恵子の美男美女コンビだが、田村正和は渋いし、高橋恵子はきれいで見とれた。古谷一行も出演している。もう想像つくと思うが、二人のハンサム男性が美女の取り合いをするのである。単なる三角関係でなくて、波乱万丈の展開を見せる筋書き。超面白くて、続きを見たいと思ったが、これ以上は動画アップされておらず、残念。
ドラマ好きの人、一見の価値はあります。週末のお休みを利用して、ぜひ鑑賞いただきたい。
昭和ドラマ▼ 過ぎし日のセレナーデ02 03話C 低画質

ウイキを調べてみると、
『過ぎし日のセレナーデ』はフジテレビ系列で1989年10月19日 - 1990年3月22日に木曜劇場枠で放送されたテレビドラマ。大財閥の御曹司である海棠泰隆とその異母弟に当たる榊隆之の約半世紀にも及ぶ確執を描いた物語で、いきなり晩年(ラストシーン)から始まるという演出であった。善悪で割り切れない複雑な人間模様を描いた、この時代のドラマとしては大変珍しい作品である。第一回目はフラッシュバックから始まり、全編の予告編のような趣があったように感じる視聴者が多く話題になった。
前半では神戸市でロケが行われた。阪神・淡路大震災で全壊した神戸雅叙園ホテルや、中央卸売市場、兵庫駅、ポートアイランド、摩耶ケーブルと現在は廃業し廃墟となった摩耶観光ホテルも使われるなど、今となっては震災前の町の様子が分かる映像的価値のあるシーンも多い。
田村正和、古谷一行、高橋惠子、泉谷しげる、池上季実子、黒木瞳、薬丸裕英、野際陽子、山口智子、野村宏伸、渡辺満里奈、岡田眞澄らの豪華キャスト陣。

1989年10月スタートとあるので、私は既にインド移住していた頃、知らなかったのも無理はない。日本にまだいたら、絶対はまったと思う。高橋恵子、超きれいで目の保養になった。

以下、関連記事をどうぞ。
「過ぎし日のセレナーデ」とシューベルト
今見ても楽しめるドラマ『過ぎし日のセレナーデ』

やはりユーチューブはありがたい。昭和の貴重なドラマが一部とはいえ、海外在住者にも楽しめるのだから。ところで、私のように続きを見たくなってしまった方へ一言、ヤフー知恵袋によると、
残念ながら個人が番組から録画したビデオ・DVD等はヤフーオークションでは「出品禁止物」となっており、利用規約違反になってしまいます。当時、録画した人を粘り強く探して、借りて個人のみで視聴するか再放送(または、ビデオ・DVD化)の奇跡を待つしかないいと思います。
とのこと。

同じく、再放送についてのヤフー知恵袋から。
物語の前半は震災前の神戸で撮影されていることが再放送の障壁になっている気がします(倒壊・廃墟となった建物があるため)。フジテレビCSも開局当初から加入してますが、一度も再放送されていないと思います。
(数年前CSフジで再放送されたとの証言もあり)
著作権に問題ありとかで、DVD化もされていないらしく、気長に全編ユーチューブにアップされるのを待つしかなさそうだ。

ついでながら、昭和のドラマをもう二つご紹介。どちらもショート版だが、耳覚えのある美曲といい、ひとしお郷愁をそそられた。
まず、冬物語(1972年11月13日から1973年4月16日まで、日本テレビ系列の月曜スター劇場の枠で放送されたテレビドラマ。夫に先立たれた未亡人と、男性との恋愛物語)から。
冬物語
フォークローバースによるこの主題歌(作詞は阿久悠)、美しくてまだ覚えてる。原田芳雄好きだったけど、もういないんだな(2011年歿)。哀しい。浅丘ルリ子、きれい。

次は「二丁目三番地」(1971年1月2日から3月27日まで日本テレビ系列の『土曜グランド劇場(現・土曜ドラマ)』の枠で放送されたテレビドラマ。舞台の中心は東京・四谷の美容院。当時人気絶頂だった石坂浩二と浅丘ルリ子の初共演が話題になり、高視聴率を誇った。二人は、売れないテレビディレクターで妻の尻に敷かれる二枚目半キャラクターの夫(石坂浩二)と、やり手の美容院経営者である妻(浅丘ルリ子)を演じ、当時のウーマンリブを取り込み、弱い夫と強い妻の子育て奮闘記は多くの同世代の視聴者の共感を呼んだ)の主題歌。石坂浩二と浅丘ルリ子はこのドラマがきっかけで、結婚したんだっけ(後年離婚)。
「目覚めた時には晴れていた」赤い鳥(1971)作詞/阿久悠 作曲/坂田晃一)

続編「三丁目四番地」(1972年1月8日から4月8日まで)の主題歌(歌詞は石坂浩二、作曲者は「冬物語」と同じ坂田晃一のため両曲の出だしが似ているという人も)もいい。
さよならをするために ビリー・バンバン (1972)

なぜかアルフィーの坂崎さんが、ビリーバンバン(「さよならをするために」)と共演してます。
坂崎さんが司会者で、バンバンがゲスト出演したようだけど?
さよならをするために ビリーバンバン
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あるロックスターの独白(6)<最終編>

2017-01-17 18:44:56 | 私の作品(小説・ノンフィクション)
六.孤独

 華やかな虚業の裏の孤独はいっそう深くなった。もうこの穴を埋めてくれる女性はいない。音楽に命を賭けた俺は、芸術家の孤独と自由を愛する。家庭は持ちたくない。だから、深入りは避けるし、理沙子以上の女性が現れるはずはなかった。それにしても、禁断の恋とはなぜ、かくも甘美で狂おしいのだろう。前世で味をしめてしまった自分は現世においてもまた同じあやまちを繰り返してしまった。
 家族の愛に飢えている自分にとって、音楽だけが全て、高校時代から固い絆で結ばれた音楽仲間だけが信じられた。それに、ギターのエンジェル・ルカがいつもいっしょだ、決して俺の元を離れない、俺には守護天使がついているのだと、美能も言った。だから、自家製ギターがエンジェルをかたどったものになり、手離せないトレードマークなのだと。
 
 つまり、安心して安らいでいいのだろう。なのに、眠れない。緊張して体がこちこちになっている。そして、カンタレラの後遺症の左腕の痺れが俺を悩ませる。夜中にふっと目覚めて不安になる。いったん死の恐怖にとり憑かれると、そのまま眠れなくなる。バンドもあと十年がいいとこだろう。古希になったら、辞めざるをえないのではないか。ストーンズのように持ったとしても、せいぜい75までだろう。その間にメンバーが死なないとは限らない。一人抜けたら、もう続けられず、自然解散だろう。ソロ活動だって、いくつまで続けられるか。
 そんな恐怖が森々と深まる夜、俺は一番お気に入りのエンジェルギターを引き寄せる。弦をかき鳴らし、やがて疲れてギターを抱えながら浅いまどろみに落ちる。夢の中に、ギターから抜け出したエンジェル・ルカが舞い降り、輝かしい金色の羽を広げながら俺の孤独を優しく温かく懐かしげに包む。俺は深い安堵に満たされ、つかの間熟睡する。しかし、ひととき後にうたた寝から目覚めると、ルカはいない。ギターのボディに動かない意匠となって固い物体の羽を伸ばしている。夢の中の生きたルカの温かさ、懐かしさが蘇る。香ばしい羽の柔らかさ、頬を体を撫で包む羽毛の優しさ、ボディに触れると、羽はざらっとした感触で手にあたり、冷たい。それでも、エンジェルギターは常に俺のそばにいる。人間のように死んで裏切ったりしない。冷たい物体でもいい、自分のそばに永遠(とわ)にいてほしい。

 スターとして長年もてはやされてきた華やかさの裏に潜む、深い底なしの孤愁。
 若いとき乗り回したポルシェ、ロータス、ニューヨークやロンドンで買いあさった高価なギターの数々、ドン・ペリニョンはじめの高級洋酒の鯨飲、原宿、麻布、千駄ヶ谷、青山と最先端の街に部屋をいくつももち、四股も五股もかけていた放蕩三昧の日々、羽振りのいい有閑マダムのパトロンがつき、愛人の俺のみならず、メンバー全員に高級車をプレゼントさせるという無謀を強いたこともあった。文字通り転がる石、ローリングストーンだったのだ。部屋から部屋へ、ツアーからツアーへ、女から女へ、孤独から狂騒へと駈けずり巡った売れっ子ミュージシャンとしての酒と薔薇の日々、デカダンに溺れたピーク時代もいまとなってはみな虚しい。十万人コンサートに集ったファンの九割は去った。古いファンは一割余すのみ、総体的に見れば人気が衰えたわけでなく、ファンの顔ぶれが変わっただけだが、ふっとあの十万人はどこに消えたのだろうと思うことがある。1986年の東京ベイエリアでの初の十万人コンサート、舞台の上から見下ろした、巨大な波のようにうねる大群衆、ロックスターとしての頂点に達したと有頂天にさせるほどの最高潮の昂奮、十万もの動員数を結集した自分たちのパワーが誇らしかった、エベレストの頂点に上り詰めた思いだった。九年間売れずにライブハウス浪人時代を経ただけに、感動は大きかった。しかし、九万人はアルゴを卒業していった。結婚した人、海外に出た人、あるいは死んだ者もいるだろう。アルゴ卒業後の九万通りの人生、ファンも新陳代謝で動画を見てのヤング世代も増えているし、親子や姉妹、家族で見に来てくれる人も多い。親世代が子供に伝えていくことで、ファンの血脈が受け継がれるのだ。魔術のように消えた九万人はだから追わない。
 
 今も俺はスターだ。ひび割れた素顔を華麗な仮面で覆い隠して、今日もきらびやかな衣装でステージを踏む。手には死におびえる深夜大丈夫と慰めてくれた、一番お気に入りのエンジェル・ルカのギター、ボディの真ん中に赤いハートのシンボル、美しくカールしたこんじきの長髪を揺らしながら、弦を指輪で飾ったマニキュアの爪でイントロは優しく、さびに入って烈しく掻き鳴らす。まるで、女を抱いて愛撫しているような気になる。高嶺の花、手の届かないエンジェリックウーマン、天使の姿をとったライザ夫人、日本名は理沙子。
「ライザー」
 と声を限りに唄い呼んでギターをびんびん鳴らす。ギターで観客を撃つのだ。エンジェルギターは俺にとって、かけがえのない美しい武器だ。ファンはこの華麗な武器に酔い痴れ、一撃されて絶叫マシンと化す。劇薬を盛られたかのような屍(しかばね)が累々と目の下に横たわる。プレーヤーの俺もカンタレラを飲み干したかのように、ライヴの魔力に酔って、しびれて痙攣する。弦をつまびく手は高速度に転回し、アーミングを曲げてトレモロ振動させる。俺のシャウトと観客の叫喚がひとつに溶け合って、天にこだましとどろきわたる。俺の速弾きギターで殺られたファンは狂おしく身悶える。オルガスムスの一瞬、俺とファンが一体になる聖なる瞬間、男女交合仏のように絶頂で共に果て、昇天する。 
 
 絶え間ない喝采と耳をつんざく歓声、俺は年をとることを忘れたロックスターだ。
 ゴージャスな衣装でエレキを烈しくかき鳴らす表の顔の裏に、深い孤愁が隠されていることを、陶酔する観客は誰もが知らない。無我夢中のうちに幕は閉じる。
 俺は還暦を越してですら、ファンのイメージの中ではいまだに美少年の王子なのだ。ファンは貴公子ファッションに身を包んだ美貌のプリンスのイメージに酔う。俺はステージ上では、年齢を感じさせない華やかでゴージャスなヒーローなのだ。
 が、いったんステージから降りれば、夢は醒める。熱い名残りの夢を追うように、仲間との打ち上げ、どんちゃん騒ぎ、まだ興奮は尾を引いている。
 その余韻に気持ちよく酔いながら、タクシーに乗り込み、自宅にたどり着く。
 待つ人のない灯の点らない部屋に一歩足を踏み入れて、華やかさの裏返しのように孤独と虚しさがどっと押し寄せてくる。こんな夜は、ライザの、理沙子の温かい肌が欲しい。愛する女の皮膚に温めてもらいたい。エンジェル・ルカが生身の体で現れるのは、夢の中だけだ。
 そしてまた、不眠の夜が来る。
 高級マンションの天蓋付きベッドに寝転がりながら、コンサートの興奮で目は冴え返ったまま眠れず、今日も瞼の落ちない夜が過ぎていく。エンジェル・ルカがまた夢の中に降臨することをひそかに希って。子守唄は「I'M A KING BEE」、俺は王蜂と豪語する男のはすに構えた求愛ブルースだ(了)。


*アルフィー(リーダーの高見沢俊彦)をモデルにした習作ですが、あくまでフィクションで事実に反するところもあります。小説作品としてお読みいただければと思います。
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あるロックスターの独白(4・5)

2017-01-17 18:20:05 | 私の作品(小説・ノンフィクション)
四.コンサートの思い出

 全国ツアーを開始したのは1982年からで、今に至るまで開催した数々のコンサートにはそれぞれ忘れがたい思い出がある。83年はヒットがないにもかかわらず、ファンのサポートで日本武道館で大掛かりなコンサートを成し遂げ、成功を納めた。背景のセットは日本中の楽器店からかき集めたマーシャルアンプを積み重ねて築いたマーシャルウォール(壁)でこれもひときわ話題を呼んだ。「マリー・ルー」が売れ始めてはいたが、武道館以後本格的なヒットに結びついたのである。
 84年の横浜スタジアムでは雨に祟られ、滑って転んで俺の肋骨にひびが入るというとんだアクシデントに見舞われた。雨中をものともせずハードロックを演奏しているとき、天を蛍光に引き裂く稲妻が走り、ファンにずいぶんできすぎた演出、特効と思わせたのもまさしく怪我の功名だった。
 1986年催した東京ベイエリアコンサートは日本初の単独十万人と銘打った肝いりスーパーコンサートで、ファンの間ではいまだに伝説となっている。十三年かけて作曲した「ロックドリーム 竜巻」が当日初めて披露され、観客が一体となって最後のリフレイン部分を大合唱してくれたのも忘れられないメモリーになった。幅120メートル、高さ75メートルの巨大なセットは、10万人コンサートの名にふさわしい大掛かりな規模で、最後は高く聳える聖火台に三人が駆け上がって、ファンの熱狂に両腕を大きく掲げて応えた。最後部のファンにも見えるようにとの配慮から、高台がもうけられたのである。このとき俺が命名した東京ベイエリアというコンサート名から、後年ベイエリアが通称となったという意味でも、名付け親ともいえるアルゴなのだ。
 1987年の夏は静岡での野外コンサート、サンライズ・サンセットと銘打って、夕刻から夜明けまで一部から三部までロック、フォーク、ブルース、果ては演歌まで披露、間に一時間の休憩を挟みながら90曲歌い上げるという熱唱スペクタルだった。観客は六万名を越し、大成功を収めた。豪雨に祟られた前半だったが、三部に入るころには富士山が顔を出し、思い出深いアウトドアイベントとなった。最後は三人でステージを全力疾走、俺の靴が片方脱げるアクシデントにあわてふためいて取りに戻ったが、結局客席に投げてプレゼント、残り一方も脱いでファンにほうり投げ退場、ヘリコプターで飛び去って眼下を一面に埋め尽くす黒い巨塊がいっせいに手を振って見送ってくれるのに感激、野原で待機していた車に戻ったが、地が雨でびしょ濡れでソックスのみの俺は、車まで桜木におぶられて行ったのも、今となっては懐かしい思い出だ。桜木の友情をひしひしと感じたエピソードだった。そのときは、夜を徹してライヴをやり通したという満足感で、三人ともこれまで以上に固い絆で結ばれていたのだ。
 そして何より思い出深い夏のイベントが本2014年の四十周年記念コンサート、さいたまスーパーアリーナで二日間催したものだった。せり上がる円形センターステージ、メンバー三人のフライングも行われ、ドットイメージによる照明演出を花道にまで拡大する大がかりな規模となったもので、メモリアル・グッズは赤と白のサインライト、ヒット曲に合わせてファンが一斉に左右に振り動かす紅白の光の遊泳はただただ幻想的で美しかった。

 このように多いときで十万名もの動員数を誇る人気をこれまで保ってこれたのは、フォークとロックとバラードという三人三様の個性が際立った特異さと音楽ジャンルの多彩さ、声質の違うコーラスの美しさに、売れない頃勉強した話芸が役立って愉快なMCが受けていること、もちろん長年支えてくれているファンの力も大きいと思う。 
 以後成功街道驀進、振り返らずにトリオで走ってきた。
 
五.前世と現世の交錯する恋

 トレードマークのエンジェルギターはボディの部分が天使が羽を広げた恰好になっており、ずしりと重いが、日ごろ筋肉を鍛えているので、肩に吊るしての演奏もそれほど負担にならないはずだった。ところがここしばらく、左肩にしびれが走るようになり、ギターのストラップの重量が長年かかってきたせいとも思うが、じんと麻痺したような痛がゆさがとれない。医者に診てもらっても改善しないまま引きずっていた。 
 少し前に著名な霊能者、美能愛広がホストの前世やオーラを鑑定してくれる番組があり、それにゲストとして招かれたことがあったが、不眠症であることを見抜かれ、左腕の痺れは緊張感から出ているものと診断された。美能愛広は七十代半ばに達していたが、妖艶な美貌は衰えず、女装はしているがストレートの自分と違って、男色家だった。シャンソンやオペラ劇の大家で、昔割腹自殺した有名な作家の作品を演じて激賞されていた。霊感も強くミステリアスな雰囲気の漂う美能に比べれば、その方面で至って凡人である自分は緊張して鑑定結果を恐さ半分どきどき待っていたが、お堅い教師だった父との葛藤も指摘され、畏怖させられた。 
 父は五年前コンサート中に急逝したが、最後まで俺がけばけばしい女装をしてエレキを鳴らすミュージシャンとなったのを理解できなかったようだ。死ぬ何年か前に、おまえはどうしてそういう恰好をするんだと難詰されたことがあったが、話してもわかってもらえそうにないと決め込んでだんまりを通したものの、いまとなっては申し開きをしておくべきだったと思う。アーティストとしての美意識とロマン、それにショーを見に来てくれるお客さんの目を楽しませるマナーのひとつ、礼儀としてわきまえているという自分なりの哲学を打ち明けてもよかったのだ。が、いざ面と向かうと、苦手意識が先に立ち、どうせ肌が合わない父子だと諦め、あえて口をつぐむほうを選んだのだ。対する母は次男の俺に甘く、厳しい父と裏腹に何かとかばってくれたが、亭主関白の夫の前ではたてつくことは出来なかった。
 とにかく、同じ文学に発祥していながら、俺は音楽の作詞に行き、父は短歌や俳句を手慰みにひねっていたので、父子といえども、どこか異質というか、肌が合わないというか、そぐわなかったのだ。深く考えると悲しいので、あまり思いつめないようにしてきたが、父との葛藤は、死に目にあえなかっただけに、後々まで悔いとなって残った。
 わかり合えなかったのが残念で、それも美能に前世を告げられると、なんとなく納得がいった。ベニスの公爵の放蕩息子で、自殺未遂騒ぎを起こしたと宣告されたときは、なぜか妙に納得してしまった。イタリアに演奏旅行に行ったとき、ベニスでは不眠症のはずがなぜかぐっすりよく眠れて、いくつかの街角にデジャヴュー現象も覚えたからだ。中世の煉瓦壁の美しい洋館を見たとき、とても懐かしくてもう帰りたくない、このままとどまっていたいような妙な感傷にとり憑かれたものだった。

 番組が終わった後、美能に食い下がり、前世での自殺未遂の詳細を問いただしたところ、伯爵夫人との禁断の恋に破れ、カンタレラという劇薬を飲み干したと、オフレコで洩らされた。前に物の本で読んだことのある毒薬、近世イタリアの貴族ボルジア家が暗殺に用いたとされる雪のように白く快いほど甘美な粉薬であることを思い出し、ぞっとしながらも、その瞬間自分はなぜか舌に苦味がじわじわ湧き上げてくるような、確かな感触の名残りが蘇って震撼したものだ。
 伯爵夫人の生まれ変わりは、理沙子だったにちがいない。初めて逢ったのは二十五年前、ファンの一人として目の前に現れたが、不思議な気品と威厳を漂わせている三つ年上の成熟した美女に、俺はこれまでになかった強い吸引力で惹かれていくのを感じた。理沙子は既婚者で二児の母親だった。その事実を知って、俺は理沙子を自分のものにしたいという欲望をかろうじて抑制した。理沙子は資産家の夫を持っていたが、愛のない結婚生活であることを暗に洩らし、華やかな容貌の裏に孤独を隠し持っていた。
 それが俺の琴線に触れたのである。華麗な虚業の裏の深い孤独、俺は精神的孤独に弱く、独りになるのを恐れて女から女へ渡り歩き、若い頃は女性遍歴を重ねてきたが、三十代半ばに達して落ち着いてからは、独身主義者だけに女に縛られるのをよしとせず、むしろメンバーたちに寂しさを癒してもらうことが多かった。二人とも、ベニス時代の親友で、とくに坂田は聖職者だったらしく、俺の親身な相談者であったという。そういわれれば、行き詰っているときなど、よく坂田の一言で救われたものだ。

 ルックスのいいミュージシャンの常で、自ら体を投げ出す女性ファンが跡を絶たず、若いときは流されたが、今は節制していた。ファンにみだりに手を出すと厄介なことになるのは、経験上いやというほどわかっていたし、面倒事を引き起こしたくなかった。というわけで、周りが驚くほど浮いた噂に欠け、結婚のけの字も出ない品行法正?ぶりを通していたのである。ファンからはバロンのみならず、貴公子とか王子とかのニックネームでも呼ばれていて、美しく純潔な王子様というイメージが出来上がっており、なるたけその偶像を壊したくなかったのだ。
 だから、理沙子は唯一の例外だった。それでも、ファンの女性ということで警戒心が働き、手は出せなかった。お互い好感を持っていることはわかっていたが、既婚者でもあるし、プラトニックな関係を保つしかなかった。にもかかわらず、二人の親密度は水面下で進行し、手さえ握らない清い付き合いだったため、精神面ではなお狂おしく燃え上がるようだった。禁断の恋、頭の中だけで進行する烈しい恋は二年続いた。理沙子は俺の孤独をよく理解していた。俺のことをここまでわかってくれたのは家族でも、メンバーでもない、理沙子だけだった。俺にとってはいつしか、なくてはならぬ女となっていた。

 しかし、三年後に理沙子は事故死した。自殺ではないかとの疑念を捨てきれぬ、車での無謀極まりない激突死だった。もし抱いていたら、死ななかったのではないかとの強い悔いが湧きあげてきて、独りの部屋で正体もなく酔いつぶれた後号泣した。理沙子は、四十歳という年齢にも、焦りを覚えていたのかもしれない。俺が決して手を出さないのは若くない自分に魅力がないからだと、邪推していたとも考えられる。しかし、死の直前、俺たちは最初で最後の接吻を交わしていた。理沙子は、それ以上を求めたのだろうか。いくじなしの俺はついに、それを越える行為は出来なかった。まるであやまちを犯してしまったかのように、顔を背けて、愛しい人を邪険に押しのけてしまったのだ。欲望に抗しきれずにとっさに唇を奪ってしまったが、かぐわしい接吻にたがが一挙に外れそうになって、いけないと自制心を呼び戻したのだ。そして、悔やんで悔やみきれないことには、最愛の女をむざむざと死なせてしまったのである。理沙子にとっては、肉欲の火をつけられながら男が煮えきらず引いてしまったのは、屈辱以外の何物でもなかったのだろう。
 以来、女を愛せなくなった。理沙子は俺にとって、最初で最後の恋人、唯一無二の高嶺の花、マドンナだったのだ。きっと、ベニスの伯爵夫人の生まれ変わりだったのだろう。彼女への恋の忠誠を誓って、カンタレラを干すことさえいとわなかった過去世の自分、三曲目のヒットナンバー「いとしのライザ」は彼女を歌ったものだ。狩猟の帰途夜露に濡れた森を白馬で駆け抜けて、道に迷い行き会った謎めいた洋館のバルコニーに佇んでいた亜麻色の長い髪の美しい夫人、前世の記憶がきっと霊感によって蘇ったにちがいない。LISA,リサとも呼べる洋名は理沙子にも通じる、前世も現世も惹きつけられたたった一人の女性。この叙情的な作詞は哀愁に満ちたメロディとあいまって大ヒットしたものだった。
 ふと、左腕の痺れはカンタレラが回ったときの後遺症かもしれないと思い当たる。九死に一生を得た前世の俺だったがその後、魂が抜けたような廃人同然になって回復するまで長い歳月を要したというのだ。
につづく)
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あるロックスターの独白(2・3)

2017-01-17 17:04:03 | 私の作品(小説・ノンフィクション)
二.ヒストリー

 俺は1954年生まれ、東京・山の手の厳格な家庭に育った。父は中学校の校長をしており、教育に厳しかった。書斎にはたくさんの本が並び、俺は小学生の頃から佐藤春夫の「田園の憂鬱」に、憂鬱という難しい漢字が読めないながらも目を通す早熟振りだった。一度恐る恐る、なんて読むのと父に質問したら、まだ子供のお前は知らなくていいことだと憮然と返された。しつけの厳しい家庭で窮屈に育った俺は、書物の影響で詩人になりたいとあこがれるようになったが、中学生になると、折柄のグループサウンズブームに感化され、八歳年上の兄がギターの弾き方を教えてくれたこともあって、音楽に夢中になった。小学生の頃からピアノを習わせられていたのだが、いやいやながらで練習もさぼることも多かったのになぜか、ギターにははまった。当時人気絶頂だったバンドグループの美男ヴォーカルの真似をし、学ランを裏返しに着てユニフォームのつもりで、アコギを一端に奏でヒット曲を歌い上げたりした。兄が優秀で次男の俺にも期待をかけていた父だけに、内心苦々しく思っていたようだったが、思春期の少年の一時的なはしかのようなものと観念したせいか成績が下がらない限り何も言わなかった。俺は厳格な父の陰に隠れて、こっそりと音楽への情熱を育てていった。エレキギターが欲しくてたまらなかったが、うちが買ってくれるはずもなく、友人宅で触らせてもらうのが精一杯だった。高校に上がり、ロック熱はいっそう昂まり、小遣いをためてついに念願のエレキギターを手に入れたときは有頂天で、天にも昇る心地だった。
 当時はやっていた海外のロックアーチスト、ディープ・パープルやレッド・ツエッペリンに入れ揚げて、「パープル・ジュニア」というバンドを同級生三人と結成し、文化祭で披露して女子生徒にきゃあきゃあ言われては悦に入っていた。ライバルに、「イリュージョン」というフォークグループがいて、ヴォーカルの桜木譲と張り合っていたのだ。桜木は歌がうまくて、圧倒的人気を誇っていた。その頃はフォークブームでロックは既に下火だったこともあり、次第に軍配は桜木のほうに上がっていき、面白くなかった。ルックスは自分のほうがダントツなのに、歌唱力で遥かに及ばないのが悔しかった。そうするうちに、別の高校でフォークグループを結成していた坂田と知り合い、うちに遊びに来るように言われ、いっしょにコーラスでハモったりしているうちに仲良くなった。落語好きで自らも弁が立つ坂田はマルチ楽器奏者でアコギのほか、ドラムやピアノ、十数種の楽器をこなす器用振りだった。ロック一本やりだった俺が、フォークの3フィンガーピッキングを教わったのも彼からである。

 高校卒業後は坂田と同じM学院大学に進んだが、ある日その坂田から、フォークコンテストで知り合った同じ大学の桜木とアルゴという名のフォークバンドを結成しプロデビュー間近なのだが、人員が一人足りないので参加しないかと誘われた。桜木とはくしくも高校でライバルバンドとして張り合っていたあの桜木譲で、同じ大学に進んだことはわかっていたが、没交渉だったのである。さすがに気兼ねし、躊躇したが、プロとして出れるという大きな魅力には打ち抗てなかった。案の定、桜木は後続参加した俺を見て、むっとしたようだった。「なんで、ロック狂のおまえがここに」と憮然と返すのに、「いやあ、坂田くんに参加しないかと誘われてね」と俺は口をもごもごさせて弁明、結局坂田の仲介で事なきを得たが、レコード会社との面談に際して俺を一目見た担当者が、「高沢君、いいルックスだねえ、よおし、ヴォーカルは君に決めた」と有無を言わさず宣告されたのには唖然とした。アコギ担当のつもりでいたのに、桜木を出し抜いてヴォーカルとは。ただでさえ、補欠参加で小さくなっていた俺は、後ろめたかった。桜木に悪いという罪悪感に苦しめられたが、意外にも彼は大人で、恨むこともなく黙ってベースギターの練習をし始め、俺をサポートしてくれた。俺はギター演奏にはそれなりの自信があったが、歌が苦手で、アコギを鳴らしながら歌うのに苦労した。
 ちなみに、グループ名のアルゴとは、ギリシア神話でイオールコスの英雄イアーソーンがコルキスの黄金の羊の毛皮を求める冒険のために建造された巨船の名前だったが、メンバー一同いまひとつぴんと来ないながらも、レコード会社の独断で従わざるをえなかったのだ(今になってみると、夢をテーマにした曲が多い俺たちのイメージにぴたりとはまっていたと思うばかりだ)。
 そして、1974年夏に「サマーレイン」でデビューしたわけだが、有名な作曲家が楽曲を提供した割にはたいして売れなかった。悪いことに、二曲目はもっと売れなかった。
 結局、そこに所属したのは五年間で、脱退を余儀なくされる。俺はオリジナル曲の必要性を感じていたので、当時売れていたフォークグループのシンガーソングライターに師事して作詞作曲の勉強をした。桜木や坂田も最初いっしょに学んでいたのだが、俺が一番資質があると見込まれ、以後独学の末アルゴの楽曲は俺一人が請け負うことになったのだった。
 そんなあるとき、知人の音楽関係者にアルゴってどちらかといえば、室内向けの音楽だよねえと揶揄されたのに内心むっとなって発奮、初代リーダーの坂田から二代目としてリーダーを受け継いだ俺は敢然と、それまでのフォーク路線からロック調に切り替えた。と同時に、これまでのアコギをエレキに持ち替えて、イメージチェンジ、派手な演出を狙った。芸能雑誌にお情けで載せてもらったグループの写真をしみじみ見て、あまりのだささと地味さにこれじゃあ売れんと納得、ファッションも目立つものに替えたのだ。
 そして、1979年オリジナル曲の「ラブリームーン」で再デビューしたが、気負った割にはたいして売れずがっくりした。とにかく食べていけないので、ライブハウスで定期的に演奏したり、売れてる歌手のバックバンドを務めたり、果てはコンサートの警備員までしてしのいだ不遇期であった。
 このころ、新宿や渋谷のライブハウスでは、客席総立ちで立ち見が出るほどの人気も博し始めていたのだが、なんといってもヒット曲がないのがつらかった。ステージを盛り上げる演出を三人で額つき合わせて相談、話芸の勉強もしたためコミカルなMCが受けて、ライブハウスの生演奏では歌や楽器だけでなく、コントも楽しい愉快なサービス精神旺盛なバンドとして認められていたのだった。

 待ちかねたヒット曲が出たのは1983年、年上のなぞめいた女性に焦がれる少年がテーマの洋画に触発されて作った「マリー・ルー」が予想外に当たったのである。あと一年がんばってだめだったら、ちょうど十年の切れ目だし解散しようかとの絶望感もメンバー間に漂い始めていたため、このヒットには間一髪で救われた。解散の話は出ていたものの、三人ともが音楽なしで生きられるはずもなく、アマチュアバンドとして細々やっていくしかないかとの暗黙の了解が出来上がっていただけに、十年目のヒット到来にはやっと幸運の女神が微笑んでくれたと狂喜した。リードヴォーカルはいうまでもなく桜木で、叙情的な歌を伸びやかな美声で歌い上げる歌唱と三人の声質の違うコーラス、ベースとアコギ、エレキの合奏も受けて、オリジナルコンフィデンスのベスト10に入り、三十万枚もの売り上げを記録した。次の「星夜のエクスプレス」は一転してリズミカルなロックアレンジ曲、一発屋で終わりたくないと渾身こめて勝負に出たのだが、三十万枚と売れてほっとしたものだ。以後、テレビの歌謡ヒット番組の常連となり、アルゴの名は巷間に知られるようになった。
 長い不遇期を終えて、やっと売れるバンドにのし上がったのである。

 以降は毎年シングルリリースし50作連続でオリコンのランキングトップ10に入り続ける偉業を成し遂げ、振り返らずにこの四十年、全国をライブ公演しつづけ、トリオで突っ走ってきた。異業種とのコラボも積極的に行い、CM曲やアニメのテーマ曲、TVドラマの主題歌、はては都市マラソンのイメージ曲まで手を広げ、バラエティ番組ではコントも披露、ラジオ番組も担当しているおかげで、人気を長年維持してきたといえる。
 俺のステージ衣装は次第にエスカレートして派手になっていき、デビュー当初の地味で個性に欠ける装いが嘘のように変わっていった。ステージ受けを狙った華やかなファッション、今の貴公子スタイル、いわば逆男装の麗人ともいうべきスタイルが確立し、それまで中途半端な長さだった髪を背に届くくらいに伸ばして茶や金、銀に染めてカール、すっぴんだったのを化粧もし、自らがデザインした裾を引きずる長いローブに白いフリルのブラウス、ネックレスや指輪、マニキュアなどのヴィジュアル系を定番化、ギターも変形に凝るようになり、海外に出たとき買いあさったおかげでコレクションが増え、ついに高じて自分でデザインまでするようになった。
 そうするうちに、ファンを喜ばせるトレードマークとなったのが、エンジェルをかたどった自家製ギターだった。今では高級ギターコレクションも五百本以上を誇り、シグネイチャー入りの自家デザインも多く、白・金・銀のエンジェルシリーズは特に有名で、ファンにもすっかりおなじみのものになった。
 ボディの部分がエンジェルが羽を広げた恰好になっており、重量もずしりと重いが、加圧トレーニングで日ごろ筋肉を鍛えているので、肩に吊るしての演奏もそれほど苦にならない。一ステージに7、8回ギターを取り替えるが、エンジェルはさておき、お気に入りは59年のヴィンテージ物、黒のレスポールで、コンサートの常のお供だった。
 俺の美意識とロマンにかなった華麗なファッションと、エンジェルはじめのデザインの凝った高級ギターはファンの目を楽しませ、アルゴの派手な演出に一役買っているというわけだ。

三.ソングライターの苦楽

 俺の作るオリジナル曲はファンの圧倒的な支持を誇り、そのおかげで50作連続でオリコンのトップ10に入り続けるという偉業を成し遂げられたわけだが、ジャンルは問わず、ロックからフォーク、バラード、果てはクラシック、演歌までと多岐にわたる。子供の頃から読書に親しんできたため、歌詞も易々と書けるように思われているが、実はメロディはわりとすんなりできるのに、言葉に詰まる口なのである。感性を研ぎ澄ますためとネタ探しに読書や映画、海外旅行と忙事を縫って精出すのだが、それでもいいフレーズが思い浮かばないときはうんうん頭をひねって悩む始末だ。当初、作れども作れどもヒットが出なかったときは、追い詰められてストレスから十二指腸潰瘍を患ったものだった。十曲レコード会社に持ち込んで全部だめと烙印押されたときは、深く落ち込んだ。絶望のどん底で、仲間の励ましがどれだけ救いになったかしれない。思い出すのもつらい、暗い不遇期だった。
 しかし、待ちに待ったヒットが出たときには、全てが一変した。実は作者としては「マリー・ルー」がヒットしたというのは意外で、えーっ、こんなのが売れるのという感じだったのだが、大体こちらがいけると予期したものはあまり売れず、予想だにしなかったB面の曲が売れたりするものなのだということは、その後ソングライター業に関わってゆく過程でわかったことだった。
 やっと作詞作曲家としても芽が出始め、ひいてはそれがアルゴの一メンバーとしてのヴォーカル兼エレキギタリストの成功にもつながり、以後はこれまでの苦労が嘘のように階段をのし上がっていった。ただ当初売れなかった時代のこと、初心を忘れずに着実に上昇、天狗にならないよう気をつけられたという意味では、九年間辛酸を嘗めた甲斐があったと思う。メンバー全員とも不遇期を経ていたため、大成功で頭にカーッと血が上ることはなかったのだ。売れっ子歌手のバックバンド時代、短期にのし上がった歌手がエベレストの頂上から落下するように一発やで終わる浮沈もわが目で目撃してきたのであった。

 俺がギターを奏でつつ作る旋律はバラード調の美曲に定評があるが、烈しいリズムのロックやしんみりしたフォークも不得手でない。歌謡曲っぽいのも作るし、ダンスミュージックも作曲しアルバムに収めたことがある。先に言ったようにメロディがすんなり先に出来るメロ先で曲はとっくに仕上がっているのに、いつまでたってもフレーズが浮かばず、いまだに産みの苦しみを嘗め続けているが、アルゴの楽曲の際立った特徴のひとつとして、テーマに「夢」が多いというのはファンには周知の事実だ。
 ほかにキーワードは恋、裏切り、友情、革命、孤独、自由、希望、闘い、道、罪、勇気、誇り、祈り、都会の街、車、星・雨・風・雲・空・四季・黄昏・暁などの自然と宇宙、ヨーロッパ&中東(エキゾチシズム)、ロマンと叙情あふれる物語性のある美しい言葉遣いに懲り、タイトルも洒落たものをと心がけている。俺の詞はまさに私小説ならず、私詞なのだ。たとえば、1980年のテレビドラマの主題歌だった「パントマイム劇」は、恋と裏切りを詠ったもので、親友に裏切られ恋人を寝取られた俺の痛い経験がベースになっている。
 「黄昏の哀愁」は異国の女性との別れを歌ったもので、キーワードは恋、別れ、黄昏、異国の街(ベルリン)、孤独、自由、希望など。やはり恋の別れを歌った「雨に消えた肖像」も気に入っており、「銀色に濡れる黄昏の街」という出足がロマンチックだ。「時は偶然という仮面を装いながら いくつもの想い出という荷を胸に 積み上げてゆくよう」というフレーズも思索的で好きだった。失恋ソングも多いのだが、夢をあきらめるな、果敢にチャレンジしろというような人生訓ソングも多い。あと、英語の多用。タイトルや、フレーズとフレーズの合間の呼びかけは英語になっているのがほとんどだが、これは大学が英文科出で英語がわりと得意だったことと、ロックのフレーズには英語がつきもの、英語が混じっていたほうがかっこいいからだ。
 「星夜のエクスプレス」は、星、恋、革命(レジスタンス)、「終局」は別れ、「バレンシアの夏」は、異国情緒あふれるスペイン娘との恋、「悲しきレクイエム」は18歳でバイク激突死した友への哀悼歌、「コンフィデンス」は夢をあきらめるなと生へのチャレンジをけしかける歌、 「ロックスター」はギターを捨てられぬミュージシャンとしての自分を歌ったもので、「華やかなスポットライトは この胸の孤独まで照らしはしないから」という本音が生きた歌だ。
 
 時にアイドル歌手に楽曲を提供することもあったが、ほとんどがアルゴのために書いたものだった。若い頃は食傷するほどラブソングも書き散らしたが、メッセージ性の強い歌が大事だということは作者として肝に銘じてきた。俺が書いた歌詞で癒されたと聞くと、冥利に尽きる。精神主義の俺はともすれば観念的、思索的、哲学風になることもあり、題も難解すぎてクレームをつけられることもあったが、ソングライターとして天才的かつ名曲の宝庫と専門家に褒められると、作詞には人一倍苦労しているだけに、努力が報われたようでうれしかった。
 努力の甲斐あってこの40年で350曲近い集大成、四十周年を記念して豪華装丁の歌謡全集とともに、携帯ペンレコーダー、本にあるどれでも好きな歌詞のタイトルをペンの頭でなぞるとサウンドが飛び出す仕組みになっており、これもファンにひとしお喜んでもらえたのだった。俺自身、分厚い全集をぱらぱらやりながら、これは俺が昔なりたかった詩人の出版するポエム総集のようなもんだなと思うと、感慨もひとしおだった。
4・5につづく)


*アルフィー(リーダーの高見沢俊彦)をモデルにしておりますが、事実と違うフィクション部分もまじえてありますので、ドキュメントタッチのバンド・サクセスストーリーという風に解釈していただけると、幸いです。
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あるロックスターの独白(1)<短編小説>

2017-01-17 16:14:39 | 私の作品(小説・ノンフィクション)

一.喝采

 俺は、1974年結成された音楽バンド、「アルゴ」の二代目リーダー、高沢俊哉、通称バロン(男爵)で、エレキギター担当だ。高校時代から固い結束で結ばれた残り二人のメンバーはチェリーことリードヴォーカル&ベース担当の桜木譲と、小柄で童顔のベイビーことアコースティックギター&ドラム担当の坂田幸四郎だ。といっても、ヴォーカルはチェリーだけでなく、俺やベイビーも二次的に務める。チェリーはバラード、俺はロック、坂田はフォーク中心で、つまりメンバー全員が歌えるバンドということになり、楽器にこだわりを持っている、ジャンルを問わない混成バンドなのだ。
 1974年フォークグループとしてプロデビューにこぎつけたものの、九年間は鳴かず飛ばずで、83年にやっとヒットが出て軌道に乗り出したが、それから解散することもなく延々四十年も続くなんて、いったい誰が想像したろう。
 そう、今日は俺たちの四十周年記念コンサート、輝かしい晴れ舞台なのだ。デビュー時二十歳の青二才だった三人がいまや、還暦に達しようとしている、長いようで短かった四十年、感慨深いものがある。振り返ればあっというまで、浦島太郎のように玉手箱を開けたらじいさんになっていたという不思議な感慨だが、今も全員音楽への情熱だけは廃れない。俺たち三人はまさに年を忘れたミュージシャン、ハートはいまだに夢見る若者、万年青年なのだ。ライブで観客を盛り上げるパワーとパッション、ベイビーなど、ニックネームどおり子供がそのままおじんになったような風采、一人妻帯者のチェリーは外見こそひげ面のおっさんだが、コントになると、元気に走り回って観客を笑わせる壺を心得ている。俺は年を取るごとに派手になり、ヴィジュアル系として巷間に知れ渡っていた。オーソドックスなスーツ姿の多いチェリーや、カジュアル系のベイビーに比べ、王朝スタイルのゴージャスなファッションで知られ、長いブロンド巻き毛に原色ガウン、首には薔薇のロザリオ、手には指輪とマニュキア、メーキャップを施し、一番際立つステージ衣装でファンの目を楽しませる。衣装替えで黒を主体としたシンプルなロックファッション、革のベスト&パンツやチェーンじゃらじゃらと一転してメタル系になることもあり、ヴィジュアル面ではほかの追随を許さないと自負する。ある意味、音楽同様マニアックといえるかもしれない。

 四十周年記念コンサートは、毎年定期的に開催している春・秋ツアーの、春フェスのスペシャル版から始まった。東京ドームに集った観客は五万五千名余、立ち見まで出て、この日のために手抜かりなく準備してきたリーダーの俺にとっては、ソロ活動も中止して打ち込んでいただけにファンの期待の大きさを目の当たりにして感無量だった。
 2014年4月1*日、アルゴの四十周年記念コンサートがついに、火蓋を切って下ろされた。これまで二千回以上ものライヴ演奏をこなしてきたベテラングループであったが、今日はスペクタクル、東京ドームをびっしり埋め尽くした大観衆を前に四十年の総結集ともいうべき実りを披露する晴れ舞台なのである。それだけに、背筋に戦慄が走りぞくぞくした。
 三階席の後方には、立ち見客がびっしり立錐の余地もないほど取り囲み、寸分の隙もなく埋め尽くされた客席は、ステージから見ると壮観で、ファンの熱気と興奮が手に取るように伝わってくる。記念コンサートのセットはゴージャスなベルサイユ宮殿、本物を模した壮麗なパレスが背景にそびえたち、ダイナマイトの炸裂とともに始まった幕開けソングは、俺の十八番ロック曲「ラナウエイ」、華々しいスタートに、大観衆がいっせいに立ち上がって、烈しいリズムに合わせて拳を振り上げた。ファンの熱狂はすさまじく、総立ちになって右拳を空中に突き出している。しょっぱなから大変な盛り上がりで、トレードマークの貴族ファッション、襟と裳裾に手の込んだ刺繍が施されためくるめく緋の繻子ローブ、中は白いフリルブラウスと黒の別珍パンツと華麗に着飾った俺はステージの端から端までブーツを鳴らして飛び回り、黒のレスポールギターを速弾きし、亜麻色の長い巻き毛を揺らしながらインカムマイクにシャウトした。汗がメーキャップした白顔を流れ、ラメがまつげにちかちか降りかかり、演奏熱も観客の熱気に押されて急激に昂まった。
 背後で、ベースをかき鳴らすチェリーこと桜木と、アコースティックギターのベイビーこと坂田がサポート、コーラス部分になると、三人の声質の違いが生きて会場一杯に美しく響き渡り、観客の熱狂はとどまるところを知らなかった。俺に比べると、比較的地味なステージ衣装の二人も、今日は気張っている。チェリーがスパンコール付きの黒の別珍タキシードスーツ、ベイビーはワインレッドにピンクのストライプ模様のあるコーデュロイスーツ姿だ。
 スポットライトに浮かび上がる晴れ舞台、生(なま)の迫力に酔いしれる観客の盛り上がりに支えられて第一幕は盛況のうちに終わった。休憩後の第二幕は、ファン待望のヒット曲「星夜のエクスプレス」から始まった。イントロをあらかじめ申し合わせたように三人でアカペラ合唱すると、耳をつんざくような大歓声があがった。それに勢いを得て、それぞれが持ち位置のスタンドマイク前に立ち、楽器の合奏とともに、メインボーカルのチェリーがよく伸びる美声を場内にとどろかせる。観客はそれに合わせたように青いペンライトを左右に動かし始めた。演出は大成功だった。メモリアルグッズとして入場時に全員に手渡したもので、「星夜のエクスプレス」披露時には、歌に合わせて左右に振ってくれるよう前もって指示していたのだ。
 ステージから見ると、まるで幻想的な蛍の光の総結集のようで鳥肌が立った。
 ミュージシャン冥利に尽きるとはまさしくこのことだろう。成功したロックスターであることをこのときほどよかったと思ったことはなかった。声を限りに自作の詞曲で訴えれば、ダイレクトに反応がかえってくるのだ。俺は元々詩人志望だったのだが、売れない詩集でどこまで読者にメッセージは届いたか。歌というメディアだけに、より受け入れられやすく、多いときで十万人規模の動員数を誇る超人気バンドにのし上がった今は、俺の創った詞は大勢の人に親しまれ、口ずさまれている、まさしくスターミュージシャンならではの醍醐味だった。

 観客とプレーヤーが一体になってステージを盛り上げる興奮、最高潮の渦に体がかーっと熱くなって、ギターをかき鳴らす指にいっそうの力がこもる。ファンが賞賛する白魚の手にはどくろのペイント刺青、デザインの凝った指輪の数々、俺は衣装替えしており、黄金(こがね)色の繻子ガウンに赤や青の大輪の薔薇がきらびやかに浮き出たゴージャスなもの、この日のために自らデザインし、特別にあつらえた衣装だった。長い裾を床に引きずり回しながら転回、これも黒のレスポールから持ち替えた金色(こんじき)のエンジェルギターのネックを持ち上げ、パワフルかつ大胆に動き回る。日ごろから加圧トレーニングで鍛えてあり、重い楽器を提げて烈しく動き回るのも苦にならない。エンジェルが羽根を広げた形のシグネイチャー入りギターは十キロ近くもあったが、軽々とした身のこなしで速弾きしつつ飛び回れるのだ。あたかも自分でない力が乗り移っているかのようで、それはまさしく天使の浮揚力というべきものだったかしれない。
 その後、一人ずつがファンからの最大リクエストに応えて持ち歌を披露、まずチェリーが「コンフィデンス」を惚れ惚れするような美声で歌い上げ、ベイビーが「孤高のミュージシャン」をしんみりとしたフォーク調で酔わせた後、俺のロック番になって、それまで静まりかえって傾聴していた客席が一転して大歓声の渦に沸き返った。烈しいリズムの「ドリームパッション」にプレーヤーとリスナーの興奮がまたひとつに溶け合って盛り上がる。歌の途中で故意に口をつぐんで、客席に歌うようあおらせ、耳を澄ますしぐさをすると、アカペラの大合唱が客席から響き渡り、盛り上がったところでまた俺がマイクに向かって歌いだす。その間、端から端までステージを動き回り、合間にギターのソロ演奏、声を精一杯張り上げる。
 神がかりのパフォーマンス、まさしく神が乗り移っているとしかいいようがなかった。妥協はない、完全燃焼目指して、弾ける。それがスターミュージシャンとしての使命だ。観客を喜ばせるために徹底したエンタテイメント精神を発揮する。そんなプレーヤーの必死さ、崖っぷちに立ったぎりぎりのパフォーマンス、もうこれ以上出せないという限界まで踏ん張った演技が、ファンにも伝わるのだろう、観客は渾身のプレーヤーに渾身で応えてくれ、非日常の空間が湧出する。ロックスターが客とともに創り上げる一回性のステージ、舞台の上と下の興奮がひとつに溶け合って、歓喜の渦はらせん状に旋回しながらこんじきのオーラとなってどこまでも空高く舞いあがるようだった。至上の交歓、これこそが大きなステージで演じるミュージシャンのみが味わえる最高の醍醐味だった。

 俺は、歌唱力ではチェリーに及ばないが、観客を乗せるステージパフォーマンスには自信があった。それも、売れないライブハウス時代に培ったもので、盛り上げるにはどうすればよいか演奏後常に考え、戦術を練ったことによる。思えば、今あるアルゴの成功は、三人で相談し合いながら、よりよいステージにするための戦略を練り上げていったことの努力によるのかもしれない。アルゴのMCの巧みさも、観客を楽しませるための話芸の勉強をしたからだ。元々ベイビーは落語好きでDJとしても人気を誇っていたし、左党のチェリーもアルコールネタなど受けて、コミカルなキャラクターだった。
 だから、ファンはバラエティに富んだ歌と楽器合奏、ゴージャスな衣装のみならず、合間に披露されるコントも楽しめ、ここまでサービス精神旺盛なエンタテイメントぶりを提供できるのはアルゴをおいてほかにないとリーダーの俺はひそかに自負していた。
 しかも、歌は全て俺のオリジナル、この40年で350曲近い集大成、四十周年を記念して豪華装丁の歌謡全集とともに、携帯ペンレコーダー、本にあるどれでも好きな歌詞のタイトルをペンの頭でなぞるとサウンドが飛び出す仕組みになっており、これもファンにひとしお喜んでもらえそうだった。
 しょっぱなの四十周年記念コンサート、春のスペシャル版は大成功に終わった。昂奮が頂点に達して狂熱の渦中叫ぶファンのアンコール声が鳴り止まず、予定の三時間をゆうに一時間超過して六曲も披露、この日くしくも還暦を迎えた俺はステージ上でサプライズパーティー、七段の大バースデーケーキで祝ってもらうおまけまでついた。客席のハッピー・バースデー・トゥ・ユーの大合唱で祝福され、涙ぐみそうになるほど感激し、仲間から生涯リーダーの称号を授けられたのだ。

 引き続き七月には埼玉スーパーアリーナでの夏のイベント、十月に武道館での秋フェス、年末に再び東京ドームと催したが、どれも四十周年記念と銘打っただけあって大入り満員、武道館では歌舞伎よろしく、三人が宙に舞ってファンの度肝を抜かせた。ドライアイスの煙、ダイナマイト、花火、聖火台とアルゴのセットはスケールが大きく凝っていて、青く照らされた背景に白い点が一面に浮き上がる、満天の星空を模した最新鋭ドットライトは際立った。
 すべての記念コンサートを終えたとき、俺たち三人は六本木で盛大な打ち上げをやった。ドンペリニョンの鯨飲、いまだ演奏の熱気と興奮の余韻が名残る体で高級酒に気持ちよく酔う、このライヴ後のお祭り騒ぎの楽しさはステージミュージシャンにしかわからない醍醐味だろう。燃焼しつくしたという爽快感、高級シャンペンがいつも以上にうまい。ライヴの魔力、生(なま)の迫力に取り憑かれたアルゴ全員は、四十周年コンサートの大成功という熟成した実りに満足して、お互いをよくやったと褒め称えたいような感傷に溺れた。完全燃焼、という言葉が再び俺の脳裏に浮かんだ。
 そもそもアルゴが今現在の、十万人動員数を誇る最長経歴バンドに成長したまでの軌跡が、コンサートの余韻と甘酸っぱい気泡酒の酔いが絡み合って心地よく酩酊した脳裏に蘇る。
2・3につづく)


*昨年六月、アルフィー(リーダーの高見沢俊彦)をモデルに書いた習作です(実際にアルフィーのコンサートに行く五ヶ月ほど前)。コンサートの雰囲気は、未体験だったため動画を見て想像して描きました。拙い作品ですが、お楽しみくださいますように(文学的価値云々よりも、気軽な読み物として目をお通しいただけると幸いです)。

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冬日再到来(写真)

2017-01-16 19:37:57 | 私の作品(小説・ノンフィクション)
この一週間ほど気温が下がって、寒い。といっても、当地は最低でも9度くらいはあるのだけど。一時期暖冬かというくらい、厚着だと汗ばんだので、また冬がぶり返したようである。北西インドの山間地はマイナス13度という厳寒地もあるらしい。当オディッシャ州も奥地は2、3度と最低気温は東京並みだ。

インドというと、年がら年中暑いと思われるかもしれないが、首都のデリーなど、この時季は東京と殆ど変わらない温度である。

一昨日日の落ちた浜に出たら、ローカル民が焚き火をして暖をとっていたほどだ。


本日はサンセットタイムに出たが、うしおの後退した、波打ち際が広範囲に現れた浜に、橙色の斜陽が濡れた砂面にこんじきの帯を流し、美しかった。冬は夕日がひときわ壮麗な季節でもあるのだ。


ひたひたのうしおに浸される波打ち際に亀の死骸が打ち上げられ、野良犬やカラスが群がっていた。


はるばる南米から産卵にやってくるオリーヴリドレーという絶滅品種の亀である。四月ごろまで、奥地の手付かずの浜、ガイルマタビーチに居座るが、漁船の網に引っ掛かって死骸が打ち上げられることはまれでないのである。当地の浜でもよく見かける。

去年からばたばたとあわただしかったが、年が明けて中旬になってやっと正月らしいのんびり気分を味わってる。お風呂に入っているとき、スマートフォンで聴いたジャズのBGMを最後に掲げておこう。
Soft Jazz Sexy Instrumental Relaxation Saxophone Music 2013 Collection



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「ベルサイユのばら」とアルフィー(動画)

2017-01-14 18:13:02 | 音楽・スポーツほか娯楽
七十年代一世を風靡した少女漫画「ベルサイユのばら」については、私と世代を前後する方なら、いうまでもなくご存じだろう。以下ご存じない方のために、ウイキから一部引用させていただくと。

『ベルサイユのばら』は池田理代子による漫画作品で、通称「ベルばら」。フランス革命前から革命前期を舞台に、男装の麗人オスカルとフランス王妃マリー・アントワネットらの人生を描く、史実を基にしたフィクション作品。ベルサイユとはヴェルサイユ宮殿のこと。1972年21号から1973年まで『週刊マーガレット』(集英社)にて連載。フランス・ブルボン朝後期、ルイ15世末期からフランス革命でのアントワネット処刑までを描いている。前半はオスカルとアントワネットの2人を中心に描き、中盤以降はオスカルを主人公として、フランス革命に至る悲劇を描いた。
宝塚歌劇団による舞台化の大成功が作品のヒットに拍車をかけ、テレビアニメ、劇場版アニメなどが制作されて社会現象化した。オーストリアの作家・シュテファン・ツヴァイクの小説『マリー・アントワネット』に感銘を受けた池田が、同小説を参考にして描いた作品。作中で描かれたオスカルのフランス衛兵隊ベルサイユ常駐部隊長時代の軍服は、フランス革命期のものではなく、より豪華絢爛なナポレオン帝政期のものを基にしたとされている。…以下略


昨夜、アルフィーの音楽をチェックしていたら、画面がまさにその往時の人気アニメになっており、歌詞が絶妙にマッチしている貴重な動画を見つけたので、ご紹介したい。
ベルサイユのばら with THE ALFEE

アルフィーがドラマやアニメの主題歌を作詞作曲、吹き込んでいることはよくあるので、Nouvelle Vague(新しい波という意味、1998年発売)というこの曲(歌詞はこちら)も一瞬、「ベルサイユのばら」のテーマソングかと錯覚したほどだ。
奇しくもフランス革命をテーマとした歌詞で、ストリングスをとりいれたスケールの大きなナンバー、高見沢さんがフランスの革命戦士となって歌い上げる名曲は古館氏の番組「ヨーロッパサッカー特集」でも採り上げられたという。

それにしても、ファンというのはすごい。ここまで往年の人気漫画と歌をマッチさせてしまう玄人はだしの編集をやってのけるのだから。
高見沢さんのオリジナル曲はレジスタンス、自由がテーマの一環でもあり、主題がフランス革命とたまたま一致したこともあって、どおりで違和感なくはまるわけだが、私はこの動画を見る前から、高見沢さんの華麗な王朝風衣装と長いブロンド巻き毛スタイルに、かのオスカル様に通じるイメージを見ていた。
フェミニンなステージ衣装だが、中味は硬骨漢、アンドレの部分も持つ高見沢さん、両性具有的ゴージャスさが、男装の麗人・オスカルに通じる魅力だ。
もしかして、高見沢さんもベルばらファンだったのかも。私と同世代だし、漫画は見ているはずだ。やはり、ベルばらとたかみーのイメージは重なり合うんだなと再認識、改めて70年代初期に空前絶後のブームを巻き起こした、少女物にしては珍しい華麗な歴史絵巻漫画についても、調べてみた。
なんと、日本だけでなく、フランス始めのヨーロッパでも超人気、向こうでは「Lady Oscar」で知られ、映画にもなっていることに驚かされた。以下、どうぞ。
Lady Oscar le film:- Partie 1

シリーズ(8まで)になっているので、興味のある方は同ページの右端の画面一覧から引き続きご覧ください。
コメントには、オスカル演じる女優がフェミニンすぎるとあるが、私はそう思わない。結構イメージどおりでびっくりした。このブロンド巻き毛、やっぱりオスカルだよなあ。

☆一口メモ池田理代子wikiより一部引用)
1967年に『バラ屋敷の少女』でデビュー。
1972年に『週刊マーガレット』にて連載を開始した『ベルサイユのばら』が空前のヒット。石膏デッサンや油絵など本格的な絵の勉強をしながら連載を続けた。執筆のきっかけとなったのは、高校2年生の夏に読んだツヴァイクの『マリー・アントワネット』で彼女の魅力を知り、書きたいと思っていたことにある。多忙のため大学に戻れず、入学から7年で中退を余儀なくされたが、2年間連載された同作品で少女漫画家としての人気は不動のものとなった。1975年からは『オルフェウスの窓』の連載を開始。1980年、同作品で第9回日本漫画家協会賞優秀賞受賞。1984年に、不倫相手の松谷蒼一郎との会話のテープを報道社に送り付け、スキャンダルに。この不倫スキャンダルは、当時週刊誌やテレビで大々的に取り上げられる。
40歳から更年期障害に悩まされ、残りの人生について考える機会が増えた池田は、音楽への道に進むかどうか5年間の思案の後、45歳で音大受験を決意。1995年、東京音楽大学声楽科に入学。同年、当時日本銀行の考査局長で現大和総研副理事長の賀来景英と再々婚し話題となった。1998年にはNHK「課外授業 ようこそ先輩」に出演し、母校の大阪市立新庄小学校にて聖徳太子をテーマに授業を行った。1999年に大学卒業。以降、コンサート出演や講演などの活動を行う。2005年には、世界初録音9曲を含むマリー・アントワネット作曲の歌曲12曲を歌ったCDを発売した。また、同年より『朝日新聞』土曜日朝刊別冊「be on sunday・エンターテインメント」4コマ漫画と、コラム『ベルばらKids』を連載する。
2009年3月11日、フランス政府から、多くの日本人が『ベルサイユのばら』を通じ、フランスの歴史、言葉、食文化などに関心を持ったとし、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章が授与された。
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無人島に女一人男31人(書評)

2017-01-13 18:42:18 | カルチャー(祭)・アート・本
しばらく音楽の話題が続いたので、本道に戻って文学のトピック、日本から持ち帰った文庫の書評を試みたい。

「東京島」(新潮文庫/桐野夏生・2010年、谷崎潤一郎賞)。私より三歳年上の金沢出身直木賞作家の作品を読むのは、「ナニカアル」(島清恋愛文学賞、読売文学賞受賞)に続いて二度目だが、前著の林芙美子をモデルにした作品のほうが力がこもっていてよかった。
「東京島」は無人島に四十代の女主人公が夫とともに流れ着き、その後若い男性一団が漂流してくるという筋書きだが、実際にあった出来事(アナタハンの女王事件、戦中から戦後にかけて(1945ー1950年)、太平洋マリアナ諸島に位置する小島・アナタハンに日本人の女が1人と男が32人取り残されてしまった。軍に救助されるまでの6年間、女をめぐっての殺人や行方不明者が相次いだ事件。関連記事はこちら)がヒントになったことは間違いない。

初めて純文学雑誌に連載した小説だったらしいが、かなり通俗でブラックユーモアというか、ナンセンス物、ただし筆力はあるストーリーテラーなので、タイムパスにはいい。エンタテイメントとして読むには面白いかもしれない。私は彼女のペンネームの下の名前(大庭みな子の小説のヒロイン名からとったらしい)が好きで、金沢出身だし、ずっと気になっていた作家ではあったのだが、読み出したのは最近である。近年は純文学分野にもトライしているようで、確かに筆力のある作家ではある。

「核の信託」(アジア文化社/五十嵐勉、2016年)。昨年十二月文芸思潮誌編集室(九品仏)をお訪ねしたとき、劇化されたDVDとともにご贈呈いただいた単行本だが、第二次世界大戦中の日本への原爆投下に至るまでの米側の手に汗握る臨場のドラマが展開され、一都市が破壊される威力の新型爆弾、B29二千機が落とすのと同様の破壊力を持つ恐ろしい原爆の使用についての人道的な見地から、発明した科学者たちが懊悩する場面が赤裸々に描かれ、ドラマチックな展開の戯曲である。
核を国連の手にゆだねる建白書をルーズベルト大統領に提出する科学者連の良心と、対する第三次世界大戦をそそのかし、世界制覇のためにも無警告で原爆を投下せよと強要する財閥執事サンギエの悪意が拮抗、ラストは国連委託を決めたルーズベルトをサンギエが銃殺する波乱万丈の大団円で締めくくられる。フィクションだが、歴史的事実を踏まえたドキュメントタッチで、全編緊迫感に満ちている。
芝居の方も原作者の意図をよく汲み取って大熱演、いい仕上がりになっていた。さすが、五十嵐勉という感じで、戯曲にも才能があられるのに感服した。

「うわさの神仏ー日本闇世界めぐり」(集英社文庫/加門七海<ホラー/伝奇小説家でもある>。2001年)。寺社巡り、オカルト大好きの“神仏ゴシップ芸能記者”を自称する著者だけあって、ともすれば難解な説明に終わりがちな神仏の世界をわかりやすく説いている。私も神社仏閣巡りは好きなほうだが(ずいぶんお守りがたまってしまった。ご朱印というのも九品仏の浄真寺で初めて入手<参拝したという印の捺印が押された薄紙。有料>。下の写真参照)、神社用語とか、諸仏像のユーモラスな解説とか、陰陽道などなど、学ばせてもらった。ただ難解さを避けるためか、歴史的事実を省いている箇所がいくつもあり、そこを踏み込んでさらにわかりやすく説明してもらえればもっとよかったと思う。
仏様にもイケメンがいるという発想は愉快。美形の神様、確かにいるよなあ。あと、神社にたたりがあるって話はわが経験からも納得できた(昔ののろいの五寸釘人形を打ち込んだ大木のある神社が金沢のマンションの近くにある)。ちなみに。著者は幽霊が見える霊体質の持ち主だそうだが、成仏させることは出来ないらしい。

右は浄真寺のご朱印で寺名と日付の墨字入りで九体の阿弥陀仏の判が
捺されている。左は足腰にいい仏足のストラップお守り。


「寺泊・わが風車」(新潮文庫/水上勉、1984年)。表題作の短編が川端康成賞を受賞しただけあって、秀逸。すずりを洗って出直したいと考えている私にとって、これくらいの枚数の短編なら体力のない今でも、少しずつ書いていけばなんとかなるかもとの希望も植えつけさせてくれた(もちろん、筆力ではとうてい及ばぬにしろ)。私淑する水上勉は、同郷の福井県出身である(若狭)。過去社会派ミステリー作家を気取ったこともあったが、「飢餓海峡」(往時ベストセラーになった)は上だけ読んで、下巻は読む気がしなかった。やっぱり純文学作品が光る。三十枚の短さで人間がよく描けており、自然描写ひとつとっても、観察眼が鋭く、良質の叙情に満ち溢れ、さすがとうならせられる。

☆一口メモ(アナタハンの女王事件=wikiより一部引用)
日本の信託統治領であったサイパン島から北方約117キロに位置するアナタハン島は、東西の長さ約9キロ・幅3.7キロの小島で、最高点は海抜788メートルというなだらかな小島であった。この島に派遣された32人の男と1人の女「比嘉和子」と共同生活していくうちに、男性達がその女性を巡って争うようになり、男性がが々に行方不明になったり殺害されたりした。
第二次世界大戦末期に、南洋興発株式会社社員の妻である比嘉和子、同社社員の男性上司、帝国陸海軍の軍人・軍属31人の計32人(日本人)は、この島に派遣され全南洋開発からの物資を受けつつ自給自足の生活を共同で送っていた。しかし、そのうち全員が1人の女性を巡って争うようになり、1945年8月の終戦までに行方不明者が2人出た。
この島に残留する日本人がいることを知ったアメリカ軍は、終戦後に拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島の日本人は信じず島を離れようとしなかった。
1946年8月、彼らは島内に墜落したアメリカ軍のボーイングB-29の残骸を発見し、残骸の中から発見された4丁の拳銃を組み変え、2丁の拳銃が作られた。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。
この後、1950年6月、アメリカ船の救出によって女性が脱出し、翌1951年6月には生き残った男性19人も救出された。この時点までにで死亡した男性は行方不明を含め13人にのぼった。
一連の怪事件がその後大々的に報道され、日本国内で「アナタハンブーム」となり、女性のブロマイドが売れた。男を惑わす女として報道され、大衆の好奇の目に晒され、映画化もされた。


*おまけ。「舟を編む」(光文社文庫/三浦しをん、2015年)。2011年単行本刊行、2012年本屋大賞を受賞し話題になった作品ゆえ、既読の方もあろう。元編集者の私には、言葉の大海を泳ぎきる辞書編集部の縁の下の力持ち的奮闘が、読み応えがあった。綿密な調査取材がされた傑作。2006年に直木賞を受賞した「まほろ駅前多田便利軒」は感心しなかったが、こちらは超面白かった。持ち帰った中では水上勉に次ぐ次点、だったので、末尾に付記させていただいた。以下、ウイキから一部引用。
女性ファッション雑誌『CLASSY.』に、2009年11月号から2011年7月号にかけて連載され、2011年9月16日に光文社より単行本が刊行された。2012年、本屋大賞を受賞。
「玄武書房」に勤める変人編集部員・馬締光也が、新しく刊行する辞書『大渡海』の編纂メンバーとして辞書編集部に迎えられ、個性豊かな編纂者たちが辞書の世界に没頭していく姿を描いた作品。「辞書は言葉の海を渡る舟、編集者はその海を渡る舟を編んでいく」という意味でこの書名が付いている。執筆にあたって、岩波書店および小学館の辞書編集部の取材を行なっている。
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狂気と美のピアノソロ(YOSHIKI動画)

2017-01-11 16:52:46 | 音楽・スポーツほか娯楽
このところ音楽のテーマが続くが、興味のない方はご容赦いただきたい。
すでにX JAPANについては紹介したが、私自身視聴してはまってしまったリーダーのYOSHIKIのピアノソロ動画をいくつかアップしたい。
神ってる名演奏をどうぞ!

X Japan: Yoshiki Piano Solo ( Alive / Swan Lake / Es Dur No Piano Sen ) 1992
一部トレッドヘアにした長髪に、黒のレースのカフスが瀟洒なブルーのロングコートが幻想的。おなじみの「白鳥の湖」だが、終盤の真紅のスポットライトを浴びての狂気じみた変調、それまでの旋律を壊すかのような、不協和音演奏が背筋がぞくぞくするほどすごい。鳥肌が立つ神がかり的プレー。全身で表現するヴィジュアル系ピアニストの真骨頂。

V2 ''Yoshiki piano solo''.
導入部はバラード調の美曲をドラマチックに演奏、中盤でトルコ行進曲と軽快に変調、終盤はおなじみの不協和音演奏、上半身をたたきつけるように、掌で鍵盤をたたき、とり憑かれた巫女のように締めくくる。

天皇陛下御即位10年奉祝曲 "Anniversary" YOSHIKI(X JAPAN)
さすがに、天皇陛下ご即位十周年記念の奉祝曲では、長い巻き毛、どぎつい化粧という定番スタイルでいくわけにもいかないだろう。オーソドックスなピアノ演奏だが、美しい旋律に聞きほれる。皇后陛下ご自身がピアノを演奏なさるのだが、どう思われただろう。天皇陛下と終始にこやかに微笑まれながら、ご鑑賞なさっているお姿からもご満悦のご様子が。

X Japan - Yoshiki's Piano Solo
ブロンドボブに黒のシースルーブラウス、悲壮感のあるメロディをドラマチックに演奏、終盤で狂気じみた盛り上がりを見せ、粛々と終わる。

Forever Love Yoshki ピアノ演奏に涙
亡きメンバー、Hideへのレクイエム、在りし日のHide、彼にとって母親のような存在だったという包容力があって優しかった故人を偲んでの涙が美しい。

作業用にも使えそうな美しく哀愁のこもった旋律、ピアノ好きな私にとっても、うっとり聞きほれる名曲ばかりだ。
素人目からはプロのピアニストとしても立てそうに思うが、彼の腕前はどの程度のレベル?という疑問に代わって答えてくれた、YAHOO知恵袋から引用して締めくくりたい。

▽X JAPANのYOSHIKIのピアノの技術はどのくらいですか?
日本でトップレベルですか?
また世界でトップレベルですか?
盲目のピアニストの人が出た大会にYOSHIKIが出たとすると何位くらいですか?


ベストアンサーに選ばれた回答
ショパンのエチュード全曲弾けるらしいね。
普通にうまいです。
でも、日本・世界でトップレベルだったら、とっくにプロのピアニストなっているでしょう。
バンクライバーン国際コンクールで1位だった辻井さんでも、ショパンピアノ国際コンクールでは本選には進めませんでした。原智恵子、中村紘子、小山実稚恵、横山幸雄でさえも優勝まではいってません。
一流のピアニストでも難しいコンクールに、YOSHIKIは通用しないでしょう。

<別の回答>
専門家から言わせると「トップレベル」ではないみたいですね
YOSHIKIの魅力はピアノ・ドラムの技術ではなく
美しい作曲・カリスマ性・美貌ですね^^

▽よくx japanのヨシキのドラムやピアノは上手くみえるけど
上手くみえるだけで実はヘタクソだと知恵袋の書き込みでもよく目にしますが、
実際のところヨシキはどれくらいヘタクソなんですか?


アンチが何を言おうがX JAPANが神なのは揺るぎない事実
魂のドラムミングをする圧倒的カリスマ・YOSHIKI様一人で他のバンドを根底から超越する存在感がある
さらに亡き渡辺英樹も高いギターテクニックとカリスマがあるし、超絶ハイトーンヴォーカルToshIはもはやジャンル・・・ いや、人間という壁を越えた凄まじい顎だろ
しかもスティーヴ・ヴァイをも上回る日本トップクラスの技術をもつ職人PATAとバンドのサウンドを支えるイケメン・HEATH、スギちゃんまでいるんだぞ?
メンバーから考えても日本トップどころか世界と張り合えるわ
その上あの天才作曲家であるYOSHIKI様の曲まで武器
にしてる
彼の曲を聴いてしまったら他の音楽を聴く気が失せるくらいの魅力がある
だいたい今の邦楽は魂の欠片も感じられない糞バンドばっかりだろ
さすがにここまで絶対的で孤高の存在だと嫉妬してしまうやつもいるだろうしアンチはほとんどがそういうやつら
もっと素直に音に耳を傾けて欲しい そしてライブ見てみろよ
いかにX JAPANが他のバンドをぶっちぎりに超越した神かわかるぞ? 無謀とか創造見てみ?本気で神だから
まさかあのクラシックやプログレをも呑み込んだYOSHIKI様の半生そのものであるStab Me In The Backを演奏するとは信者の俺様でも思わなかったけどな
相変わらずピアノソロは狂気に満ちてたわ
それに紅<くれない>(著者注.動画はこちら)聴いたらいくらアンチでもX JAPANを認めざるを得ないだろう
こんなにすげぇやつらが世界を獲れないとか本気で思っちゃってるやついるの?
もう少し音楽聴いたほうがいいんじゃない?


*おまけ。「徹子の部屋」からショート版インタビュー動画。
YOSHIKI 徹子の部屋
ドラムの速打ち、1分間に800回は離れ業。全身運動でのめり込んで過労に倒れる顛末、事後2,3キロ痩せるというプレー秘話、やっぱりミュージシャンて、並大抵でないパワーがいるなあ。
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