インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

のんびりサンデー

2011-06-12 08:08:19 | 私・家族・我が安宿
今日はインドに戻ってきてから、初めてゆったりした日曜を送っている。
午後ひと雨来て、涼しくなってしのぎやすくなったことから、冷房のないリビングに座って長めにテレビを見たり、雨粒のちらつく浜に出たり、熱いお風呂にもゆっくり入った。

いよいよ当地プリーも雨季の気配。
今年は酷暑期日本に逃げたので、暑いなあと閉口したのはこの二週間だけ。
楽勝でにんまり。

昨夜はデリー在住のサントーシーさんや郷里の福井在住の芝居屋Hにもスカイプ、Hはスカイプのことは知らなかったらしく、インドと福井が一瞬にしてつながるのに心底驚いていた。時差が三時間半あるので、日本は真夜中の十二時、就寝時刻というので、15分しか話さなかったが、次回長話しようと約して切った。

実はマイクが壊れて、長いことスカイプしてなかったのだが、こっちに戻ってきたら、パソコンが壊れていたためついでに直してもらったのである。

実に便利な無料国際通話である。

これからフルに活用して、日本の友達と話したいな。

金曜ごとにお酒に付き合ってくれたボーイフレンド(単なる男友達)とも差し向かいで飲めないけど、あっちとこっちでワイン飲みながら、お話というのもいいな。ラストフライデーは彼のオフィスで酒盛りしたのだが、楽しかった。398円のスペイン産赤白ワインが、スーパーで買ったお寿司やサンドイッチ、スナック類をつまみに、三時間で空になったものだ。

保守的なインドには居酒屋文化がないので、飲むとしたら、もっぱらうちだが、それも息子が帰ってきたときとか限られており、普段は禁酒。別に飲んでもいいのだが、インドではストイックな私。その分、帰国すると、事あるごとに飲みに行くのだが、今回男友達に連れて行ってもらった白木屋は安くて、おつまみもおいしくてよかった。が、花金は八重洲界隈の二店は超満員、順番待ちである。立ち飲み屋さんにも連れて行ってもらったが、セロリの漬物がヘルシーでおいしかった。何せ、しょんべん横丁とか、ゴールデン街の世代である、立ち飲みも臆せず。さすがに狭い店内は男性だらけ、私は紅一点だったが。L字型のカウンターの折れた一番端が特等席でなかなか居心地よかった(難は背後に通用口があり、トイレへとつながっていることで、話題に熱中してる最中、ほかの客がすみませんと、後ろを通ること)。

と、まだ日本恋しさ抜けない私。
ああ、山谷が懐かしい。
隅田川べりの散歩に浅草周遊、楽しかったなあ。夕刻の河への散歩への帰途、格安イタめし・サイゼリアでよく赤ワインのグラス片手にミートドリア食べたっけ。南千住駅の反対側、北口(こっちのほうが実は表口、山谷の泪橋に出るには南口)ででっかい100円ショップ見つけたのはラストデー、ああ、そうと知ってたらもっとここで土産を物色したのにと、口惜しんだことといったら。
とにかく荷物の重量制限があるので、安くてももう買えず、目覚まし時計数個とチョコレートなど、軽量のものを若干買い足すだけに終わったのだ。
まあ、地理には大体慣れたので、次回のお楽しみだな。

突然ですが、ここでひとつお薦め情報。
もしあなたが山谷界隈を物見遊山で周遊する気があるなら、日比谷線の南千住駅の南口に下りて、歩道橋を上る手前にある喫茶店「ルビコン食堂」は超お薦めです。ルビコンの命名はかのルビコン(Rubicon)河から来ており、ここで簡略に説明すると、紀元前49年ローマ内戦においてユリウス・カエサルがルビコン河を渡ったとき「賽は投げられた」(Alea jacta est, アーレア・ヤクタ・エスト)と檄を発したとの有名な伝説があり、「ルビコン河を渡る」とは以後の運命を定め後戻りのできない重大な決断と行動をすることのたとえをいうのである。というわけで、まなじり決してあとには引けない覚悟で定年退職後、二人の男性が始めたお店なのであった。ちょうど開店日にあたっていたせいか、おいしいアメリカンコーヒーを淹れてくれたし、300円と安め。店内を飾る開店祝いの白蘭もきれいだった。小さなお店で、高架線の電車の音がちとうるさいけど、真心のこもった珈琲を淹れてくれるお店ですよー。行ってみて下さいねー!

何はともあれ、フルにエンジョイさせてもらったこのたびの単身帰国旅行であった。
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インドのピカソ死去

2011-06-12 07:09:58 | カルチャー(祭)・アート・本


インドのピカソとして名を馳せた現代絵画の巨匠、M.Fフセイン(Maqbool Fida Husain、1915-2011)氏がさる9日、亡命先のロンドンの病院で逝去した。死因は心不全で、享年95。最近メディアの取材に対し、インドへの望郷の念を語っていた矢先のことだった。

色鮮やかな抽象アートが特徴のイスラム教徒天才画家は、ヒンディ映画の看板書きから始まって、次第に頭角を現し、2008年の絵画オークションではその作品が160万ドル(約1億3000万円)の高値をつけるなど、インドの富裕層の間で特に人気が高かった。しかし、五年前ヒンドゥ女神のヌードを描いたことが右翼団体の怒りに触れて、国外に追われる羽目となった。近年は、カタール政府の申し出を受けて市民権を取得、ドバイと英国を行き来する亡命生活を続けていた。無類のダンディ家で通っていたが、裏腹に足元は常にはだしなのがトレードマークでもあった。

スタジオを持たず、ホテルの床やレストランの壁をキャンバス代わりに絵筆をふるうこともあった。テーマはマハトマ・ガンジーやマザーテレサの肖像画から始まって、マハーバラタ・ラーマーヤナの神話を題材としたもの、インドの街や田舎の生活と多岐に渡っていたが、とくに女性を描くことを好んだ。60000点もの自作を展示するための美術館を四軒造築、クラシックカーの収集家としても知られていた。巨万の富を築いたが、銀行通帳残金は常にゼロという、天才アーチストにありがちのエキセントリックな変り種でもあった。

フセイン氏は映画も何本か撮っており、理想の女神と仰いだ往年のトップヒロイン、マドゥリ・ディキシット(Maduri Dixit)主演の「ガジャ・ガミニ」(Gaja Gamini)はヒットしなかったものの、有名。マルチタレントの氏は写真家としても腕前を発揮した。

遺族は、国葬を示唆するインド政府をしりぞけて、英国でごく親しい参列者のみのこぢんまりとした葬儀を執り行った。遺体は英国最大の墓地に埋葬された。
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