goo

地震災害の事、大覚寺村文書より(4) - 古文書に親しむ

(大代川に住み付くカルガモ家族、一家族なのか?)

午後、片雲さんご夫妻が来訪、パンジーの苗を届けて頂いた。夕方、まーくん一家が来て、夕食のカレーを食べて帰る。

(昨日の続き)
四国辺り、烈しき事、筆端に申し尽し難し。芸州並び四国辺りにて、人民、六畜の死傷、かつ破損の次第など、聞き及べる事もありといえども、未だ慥なる実言を聞かざる故、これを略す。
※ 筆端(ひったん)- 筆の先。
※ 六畜(ろくちく)- 六種の家畜。馬・牛・羊・犬・豕(いのこ)・鶏。


駿州豆州も地震強く家破損し、海辺は津波打ち寄せ、家流れ人死し。駿州沼津在、(沼津より一里半ばかり西北の小村)小林という所は、民家僅かに十八軒なりしが、この所地震にて、一村悉く地中に没入する事、四、五丈ばかりにて、人皆死亡せり。その中に只二、三人も、棟に上りて半死半生にて有りけるを、程へて近郷の人見付け、縄を下して漸くに助け揚げ、介抱しければ、辛労して助命したりとかや。
※ 辛労(しんろう)- つらい苦労をすること。大変な骨折りをすること。

凡そ今度の地震、北国辺と相州小田原より東方は、家居(いえい)破損し所、崩るゝまでには至らずと聞けり。

さてまた、東海道土山、水口、石辺(部)の三宿は、十一月十五日より三日三夜の間、迅雷鳴動する事甚しく、落ちる事、幾ばく所という事をしらず。鍋釜破れ砕け、孕婦(ようふ)は腹裂けて即死し、壮(さかん)なる者耳聾(つんぼ)、世人小児は足腰蹇(あしなえ)て、病を起こし死亡する者少からず。
※ 迅雷(じんらい)- 激しい雷鳴。

十七日に至りて、空晴れて日輪を拝して、諸人漸く安堵の思いをなす。十二月十一日、豆州辺り、又々地震し破損、死人、怪我人などあり。その年も暮れ果てゝ明くれば、安政二年乙卯(きのとう)正月廿五日夜、遠州、駿州、地震して、大井川の川辺なる東西の村々、家居、土蔵など破損したり。

予、この地震に逢いて後、地震を恐るゝ事甚し。譬えば、虎に逢いし者、虎の説話を聞きて恐るゝ事甚しきが如し。故に後世人々地震を忽(ゆるが)せに思わざらしめんが為に、古来よりの地震、及び今般の地震の次第までを、尋ね求め、聞き究めて、拙(つたな)き筆にて模写し畢んぬ。

すべて去年十一月四日の地震より、当年二月上旬まで、凡そ九十日ばかり、時々地動(ゆるが)しけれども、その後動揺鎮りて、天地の間に変事なく、天下泰平、国土安穏にして、これより万民喜悦の眉を開きけり。
   安政二乙卯、弥生穀旦
※ 穀旦(こくたん)- 吉日。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

地震災害の事、大覚寺村文書より(3) - 古文書に親しむ

(シャコバサボテンの花が咲いた)

昨日、駿河古文書会の会員、O氏より、「富士の人穴物語」について、28ヶ所に上る間違いの指摘を、一覧表で頂いた。

ブログを隅々まで読むだけでなく、ネットで原文を検索して見ながら、確認して頂いたようで、恐縮しながら、そのすべてを確認した。毎日、時間に追われながら解読していて、チェックが不十分で、コピペのミスだったり、ケアレスミスもあったが、判らないまま、無理やり言葉を当てはめていた所の指摘も多く、なるほどそう読むかと、嬉しくなった。

そういえば昨日の古文書会の講師が、判らないところがあると夢にまで見ると話していたのを思い出した。自分は夢に見ることはないが、判らなかったところが解明できると、爽快な気分になるのは同じだと思う。

さて、早速、指摘を受けた個所のほとんどについて、ブログの書き込みを直したことは言うまでもない。

午後、金谷宿大学、「古文書に親しむ」講座へ出席した。以下は本日勉強分で、先月、25日書き込みの続きである。

新庄村には津波打寄せんとするを見て、家内を少々片付けて遁れ出んとする時、納戸にて魚一疋拾い得て、不思儀の思いなしけるに、屋敷の中には数知らず魚集り居りし家有りしとなり。

掛塚湊は家の破損も夥しく、広さ四、五尺、五、六尺ばかりに裂けたる地
より、泥吹き出でし所、数多ありて、今もなお、その所々に小橋を渡して往来す。また家居二丈ばかりも地中へ没入したれども、家は破損も
なく、人も無難なるもあり。また地動くに随い、堤の杭抜けて、逆に打ち込みたる如く、自ら打ち会う事五、六本なり。

掛川、袋井は残り少なに家倒れ、両宿ともに火難起りて、過半焼失し、何
れも死人、数百人なり。

志州、勢州、五畿内などの諸国は、その年、六月十四日の夜にも大地震して、家の破損夥しく、なおこの度、四日の地震に家破損し、田畑多く荒れ、同五日の地震津波打ち寄りて、人死し、家流れぬ。殊に志州鳥羽は大抵残りなく、過半家流れ、大船、小船皆悉く砕け散りて、死する者一万人。摂州大坂も同じく、大船、小船にても壱人も助かる者なく、あるは家の破損にて死し、又は裂けたる地中に入りて死し、すべて、二万余人、怪我人は幾万人という事、挙げて数え難し。
※ 志州(ししゅう)- 志摩(しま)国の別名。

京都、伏見、奈良辺りは、さまでに烈しからず。稀には破損もありといえども、死人、怪我人、かつてなし。芸州最も甚しく、地震の強盛なるを、相撲に取り組む時、大関とも謂(いい)つべしと言えり。
※ 芸州(げいしゅう)- 安芸(あき)国の別名。
※ つべし - きっと~する。

(明日へ続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(19) 仁田四郎、娑婆に帰る (終り)

(静岡中央図書館から見える富士山)

午後、駿河古文書会に出席する。ふと、静岡中央図書館から富士山が見えるのではないかと思い、会の前に館内を探した所、2階の一ヶ所から見えることを確認した。

「富士の人穴物語」の解読を続ける。今日で読み終える。

また釈迦如来もこの事を悲しみ、八宗九宗、八万諸行を作り給うなり。早や後生を願いて、仏、菩薩の仏心に成れと教え給うは、この地獄の不便(ふびん)さの余りなり。もしまた己れが心、己れと責め、地獄極楽無しと云う者、人道地獄なり。必ず地獄は知れぬなり。仏、菩薩と成る事は地獄をば離れがたし。この道理を知れば、急ぎて後生の志し有るべし。
※ 八宗 -(仏)平安時代までに日本に伝わった仏教の八つの宗派。俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の南都六宗に天台・真言を加えたもの。
※ 九宗 -(仏)八宗に浄土または禅を加えた九宗。


この娑婆を長きものと思えば愚かなり。芭蕉の風に破れぬ内と知るべし。また稲妻や打火、風の前の灯火、草の葉の露、また灯すより消し安し。夕べに物を云い翌(あくるひ)に死する命なり。今日は人の上、翌(あく)るは身の上、無常の迎いにて死すと云う便り、今に知れず。
※ 芭蕉の風に破れぬ内 - 芭蕉の葉は葉脈に沿って裂けやすいため、短い期間の譬え。
※ 打火(うちび)- 火打ち石で打ち出す火。切り火。


娑婆にて能きと云わるゝ人、この世より生き仏なり。悪しきと云わるゝ人、目の前の鬼なり。我も人も替らぬ人と思へ。因果にて善悪の境界を暮すと思ふべし。それ故、先の世を思い、因果の道理を考え、能々後生願うべし。

仁田へ、娑婆に帰り、この事を能くも/\語り聞くに、然れども、汝三十一より前には、たとえ頼家が偽(いつわ)れども語るな。もし語ると汝も、また頼家も命を取るべし。いざや早々日本へ帰るなり、と岩屋の内にて、この双紙と諸共に御暇を下さりける。

仁田四郎忠綱、十七日と申すに、鎌倉へ月夜を待つ心持ちにて、漸々と江嶋弁天の御穴にこそ、出でにける。急ぎて頼家公の御所へ参り、この由、申し上げけるに、鎌倉殿御歓び限りなし。諸大名達も仁田を見て、優曇華の花の咲きしに異ならず。皆々一統、残らず御歓ぶ。
※ 優曇華(うどんげ)- インドの想像上の植物。三千年に一度花が咲くと言われ、極めてまれなことの譬え。

仁田四郎、君の御前に畏まり、人穴の次第を申し上ぐべしと存じ候に、大菩薩の御法度蒙り申し上げ難し由、申すにて、鎌倉殿仰せけるは、如何に仁田、神妙なり。さてまた岩屋の内、如何なる不思議有る。とく/\語れと仰せける。仁田思うさま、様子を申せば、大菩薩の御法度蒙るなり。申さねば君の御前云えぬなりと、兎角申す事、跡先なり。しかしながら、たとえ大菩薩の御法度蒙り、この命取るゝとも是非なし。申し上ぐべしと思い切りて、さてさて岩屋の内、不思議なる事様々と、一々次第に申しける。

岩屋の事、申すも果てぬに、空より雷電の如く呼ばわりけるは、我れ今、自らが惣係り詰めて蹴り殺すなり。同頼家も命を取るべしと呼ばわりたり。鳴り静まりてぞ、失いけるは恐しかりける次第なり。鎌倉中の諸大名、この事、骨髄に徹し給う。

この草紙聞く人、富士浅間様を一度拝すべし。この草紙読む人、聞く人、後生大事と知るべし。少しも疑い有れば、大菩薩の御罪蒙るなり。この事、有り難く思わば、富士浅間大菩薩と八返唱え、この草紙を読むべし。又々信心して聞くべし。この草紙、正治元年四月三日、鎌倉二代目の大将軍、源頼家公の御前より、諸人の御岩見のため、御弘め下さる。疎かに思うべからず。駿河国富士人穴草紙、くだんの如し。


以上で、富士の人穴物語を終る。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(18) 仁田四郎、極楽を見る

(四国52番太山寺極楽絵図)

今朝、当地にも雪が積もった。と行ってもうっすらと白くなった程度で、目を覚ました時には、日向の雪は消えていた。裏の畑は日陰のため、昼頃にも雪が残っていた。


(裏の畑の今朝の積雪)

午後、掛川図書館の文学講座に出席する。「浜松における井上靖」という演題であった。少年期の井上靖の様子が知れて興味深かった。

「富士の人穴物語」の解読を続ける。

さてまた、いざや九品の浄土、蓮台、花の台(うてな)、極楽世界を見せんとて、御供申すに、こゝに小金の橋あり。この橋は善人の極楽浄土へ参る橋なり。燈明輝きて、光明四方へ離れ、うんまん遠ければ、香薫、金銀の砂、珊瑚琥珀の法殿、迦陵頻伽の天人舞い下り、花降りかゝれば、廿五菩薩、音楽の御声、面白き事、言葉に述べ難し。
※ 九品の浄土(くほんのじょうど)- 極楽浄土。往生する者に九種の差異があるところからいう。
※ 迦陵頻伽(かりょうびんが)- 極楽浄土にいるという想像上の鳥。美声によって法を説くとされ、人頭・鳥身の姿で表される。


またこの仏の御住家、諸仏の御住家、阿弥陀の御住家、釈迦の御住所、薬師の住所、勢至、観音、地蔵、その外、諸仏、菩薩の住家残り無く拝せたり。これまた汝が不便(ふびん)なりとて、ここに住家は叶わぬ事なり。いざや本途に帰さんとて、弥(いよいよ)念頃に仰せける。さてまたこの双紙を渡し給うなり。
※ 本途(ほんと)- 本来の道。本来のありかた。
※ 双紙(そうし)-「絵草紙」「草双紙」などの略。


汝に拝せける地獄、極楽、自ら双紙に書きて取らするなり。これを起りの、眼に納め、三十一才と云う年、伊豆の山にて日本へ弘むべし。地獄、極楽と有りと云えど、終に見たる者なしと云う者に、この双紙を見さすべし。また仁田へ娑婆にて能く語れ。

地獄の数が一百三十六地獄有り。それに閻魔大法王、九垩神、五道の冥感、皆々仏の化身なり。無間地獄、叫喚地獄、阿鼻地獄、大叫喚地獄、等活地獄、みょうかつ地獄、紅蓮地獄、大紅蓮地獄、釼の山と云うなり。また極楽は九品の浄土、釈迦如来の浄土と云うなり。獄卒の数が八万四千あり。中にも思(おぼ)しき鬼は、牛頭、馬頭、おんづ、めづ、五色の鬼、阿房羅刹なり。
※ 九垩神(きゅうあくしん)- 意味不明。「垩」は「白亜」で白土の意。(例、白亜の殿堂)
※ 冥感(みょうかん)-(仏)知らないうちに神仏が感応して加護や利益を授けること。冥応。


娑婆にて機嫌よく後生願う者、早や極楽の仏の帳面の内なり。また悪心の者、明け暮れ喧嘩口論して腹立てる者、地獄の罪人の帳に記すなり。娑婆にて心の後生、慈悲有る人、この事にて福貴なり。悪事災難なし、また明け暮れ悪心の者、今生は貧なり。病の難尽きぬなり。
※ 今生(こんじょう)- この世。この世に生きている間。

娑婆にて人を打擲するは修羅道なり。我も喰わず、人にもくれぬは餓鬼道なり。また親兄弟と夫婦事する者は畜生道なり。この娑婆は六道地獄の内なり。人道地獄なり。この身も身より、餓鬼、畜生、修羅道へ落ちるなり。それゆえ、上人、知識、尊位、尊官の人々、後生大事と願うべし。
※ 知識(ちしき)-(仏)仏法を説いて導く指導者。善知識。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(17) 仁田四郎、年忌、法事の功徳を聞く

(日曜日の山芋会に出たヤマメ)

渓流釣りが趣味のSさんから、山芋会に頂いたヤマメ。さらに、イワナなど、この倍くらいあり、から揚げにして食べた。御馳走さまでした。

北海道東海上にある948hPaの低気圧で強風が吹きまくり、日本列島には一級の寒波が襲来している。当地を除いて、全国各地、大雪のニュースが流れている。夕方のムサシの散歩で、風花が舞っていた。明朝は雪化粧と云う事はないであろうが。

「富士の人穴物語」も今日を含めて残り三回となった。

人が亡くなると、49日まで7日毎の法要が7回続き、さらに100日、一周忌、三回忌と続けられる。閻魔の庁にて、亡者を六道のどこへやるのか、地獄なのか極楽なのか、この10回の法要は、十王がそれぞれ行う審理の日程と重なっている。追加審理の三回を加えて十三王とする場合もあるが、七回忌、十三回忌、三十三回忌の法要と重なる。つまり、これらの法要は亡者の審理を少しでも甘くするための、娑婆からのメッセージである。「富士の人穴物語」では、それらの法要が亡者の審理に大変影響を与えると強調している。

また九将神の手前を見るに、死にたる者の跡々を、能々弔(とむら)うべしと、必ず七日/\を待ち給うなり。また百ヶ日を能く弔うべし。また先の一周忌を弔うべし。待ち給うなり。若し弔わなければ、地獄道に極(き)まるなり。

鬼ども云うを聞けば、何時まで待たせ候と呼ばわる。十王達、罪人を不便(ふびん)と思し召し、七年忌を待ち給う。鬼どもにも待てと仰せける。それにても年忌、法事無き時は、十三年忌を待ち給うなり。それにても問い弔い無き時は、是非なく鬼どもに渡し給うなり。この時、罪人手を合わせ、御助け給えと歎くなり。作りたる罪なれば、その科の次第/\に引き分け、地獄は落ちるなりと。
※ 問い弔い(といとむらい)- 追善を営むこと。冥福を祈ること。

浅間大菩薩仰せけるは、如何に仁田能く聞け、仏事、法事をするにも、心麁末(そまつ)、損徳(得)考えてしては、娑婆の義理ばかりにて、この方へ更に届かぬなり。損徳を構わず、我身のため、子孫のため、またまた後生のためとて、心能く弔らわば、亡者罪障消滅とて、亡者の罪軽くなり、仏果に至りて、極楽往生疑いなし。
※ 罪障(ざいしょう)-(仏)往生・成仏の妨げとなる悪い行為。
※ 仏果(ぶっか)-(仏)仏道修行の結果として得られる、成仏という結果。


また娑婆にて志し、仏事、法事をすれば、それを分かちて、亡者達外に罪薄くなり。六道四生皆々法事を請け、歓び給うなり。別けて、四十九日が大事なり。法事無き時は四十九の節々に釘を打つなり。四十九日を問いければ、四十九観の仏、歓び給うなり。
※ 六道四生(ろくどうししょう)-(仏)六道における四種の生まれ方。すなわち胎生・卵生・湿生・化生をいう。

また仰せける。仁田能く聞けよ。それぞれ善根すれば、女房腹立て、倶々地獄に導くなり。かようなるもの、早く火の車にて迎え取るなり。一人志し無き者あれば、皆々それに引かれるなり。能々心得べし。女、酷う信なきは、縁に付き、男の心傾き安し。悪事を進める女房、仏法の敵なり。早や捨つべし。進めて功徳、倶に成仏して、一つ蓮の後生、先生なり。この事を娑婆に帰りて、能々語り聞かせよ、と大菩薩、仁田に仰せられける。
※ 先生(せんじょう)- 前世。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(16) 仁田四郎、畜生道、修羅道、閻魔の庁を見る

(四国52番太山寺の「閻魔の庁」絵図)

朝からの雨が上がって、今夜は強風が吹きまくっている。また日本海側は大雪で、当地は空っ風、寒くなりそうである。

「富士の人穴物語」の解読を続ける。

また先を見るに、顔ばかり人のごとくにて、五体は馬牛の姿なり。これは娑婆にて、親また兄弟とちなみの念頃せし者なり。または伯父、叔母、姪。甥などと心を掛け、さては尊き出家を落ちたる者、皆々畜生道へ落るの苦を請けるなり。よくよく娑婆にてこれを語れ、と仰せける。
※ 部(ぶ)- 全体をいくつかに分けたそれぞれの部分。

また先方を見るに、黒煙さつ/\と燃え立ち、火事のごとし。その中に、大勢の声して。弓矢、鉄砲、太刀、長刀の音、夥しく、この内で切りつまろつゝ、追いつ追われつ、様々と泣き悲しむなり。あれは修羅の巷(ちまた)とて、修羅道地獄なり。あのごとく二千歳がほど責めるなり。必ず剣難を払うべし、と大菩薩仰せける。
※ 切りつまろつゝ - 慣用句としては「こけつまろびつ」がある。意味は似たようなものか?

先々、一百三十六地獄をば残らず見たり。これから閻魔の庁躰を見るべし。仁田趣(赴)け、と仰せける。御供申し行くかと思えば、程無く閻魔の庁に着きける。凡そ百間ばかりの赤金の大門あり。その内に大王の御殿あり。
※ 赤金(あかがね)- 銅の別称。

さてまた、次に十王有様、仕置く如くの冥官立つなり。さてまた九上申御筆取りの役なり。黒金小金の帳面に付け給うなり。皆々冥官立ちて、一間づゝも御坐の内におわしますなり。善根をば小金の帳に付け、常張の鏡に向わせける。七才よりなしたる罪科、あり/\と見えたり。
※ 有様(ありさま)- 物事の状態。ありよう。
※ 冥官(みょうかん)- 地獄の閻魔の庁にいる役人。
※ 常張の鏡(じょうはりのかがみ)-(仏)地獄の閻魔の庁にあって、死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡。浄玻璃の鏡。


明らかなる事、悪を只今するは、今年罪人多く有りける。鬼ども待ち受けて、罪人渡し給え/\とて、わん/\と吼えるなり。罪人ども頭を付け申す様、我ら娑婆にて一心に諸仏を御頼み申しました。我らをば助け給えと申す。十王仰せけるは、はかなき者どもかな。何とて娑婆にて後生の事、仏の事忘れしぞや。地獄とて外には更になきものぞ。ただ己れが心で己れを責めるなり。我身、我と火の車に乗る事を知らぬ、はかなさよ、と十王仰せけるなり。罪人も先ず当る身の程、悲しみ泣きたまうなり。またわれは何とて、跡弔(とぶら)う子の一人も持たざるとて、鬼ども早や引き立て行くなり。

その鬼どもを見るに、めんずおんつ阿房羅刹、めづおづ、赤鬼、黒鬼、青鬼、色々の鬼ども、罪人を十王より請け取り、仁田が見廻りし地獄へ引き立て行くなり。その地獄にて、切苛むもあり、臼に入れ搗くもあり、釜に入れ煎るもあり、火の穽(あな)に入るもあり、鉄炮、鉾などにて責めるもあり、釼にて指し貫くもあり、色々様々の地獄へ落されて責めるゝなり。
※ めんずおんつ -(「めづおづ」とともに、)雌雄。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(15) 仁田四郎、餓鬼道、畜生道を見る

(かなや会館脇の見事な紅葉/土曜日)

「富士の人穴物語」の解読を続ける。

またここ見るに、手足を斧まさかりにて、伐り落して責らるゝ所あり。これは用にもたゝぬ、木芽の枝葉を伐る者どもなり。または、万(よろず)のものゝ命を取り、朝夕殺生ばかり好むものなり、と仰せける。またこの苦を受く事、五十歳が程なり。

この所を先行きて見ければ、草堂に餓鬼ども集り、腹は太皷のごとく、首は糸より細し。頭は茶碗のごとく、泣かれとすれど、声も出ず。喰い物も前に有れども、火焔燃え上りて喰えず。飢え渇えて餓鬼の苦しみ、目も当てられず。直れ極楽なり。これこそ餓鬼道なり。娑婆にて財宝を持ちながら、利銭の事ばかり思い、喰い物も有りながら喰わず。人にも猶々くれず。物毎に賤しくくれたる者なり。人は福貴の家にあらば、人にも物を施し、情けをかけ、善根に申すに及ばず、慈悲第一として、福貴なるものより、貧なるもの罪軽し。仁田、娑婆にて能々語れと仰せける。

またここに罪人の口に米を含ませ、その口を縫い塞ぐ。鼻の穴より米をこぼして、涙苦しむなり。これは人の米を盗み、我が身ばかり、妻子などにもくれたる者なり。鼻の穴より出るを見るに、皆黒金の丸色なり。人は仮初めにも心曲るは成仏する事なし、と大菩薩仰せける。

またここを見れば罪人の口を引き捌(さば)き、両の腹に長さ八寸ばかりの釘を打ちて責めるなり。これは人と頷(うなづ)き合い、人の悪事を云い散らし、人の中を悪口したる科なり。人はただ我よし人よしと心得、我れ、人、違(たが)わぬものと知るべし。人の悪事、必ず/\云うべからず。罪深きものと知るべし、とぞ浅間仰せける。

又向う見れば、畜生道とて、罪深き人、色々の畜生となり落つるなり。牛馬や色々獣、鳥、虫となり、迷い行くなり。またこの所行きて見れば、罪人に重き荷を付けて、高さ十二町ばかりの釼の山へ、登れ/\と責めるなり。登らんとすれども、手足末々に切られて登れず。これは、怨みも無き人をかどわかして、人買いに売る、人商いをしたる者なり。幾千万となく、人の論々に憂目を見たるなり。必ず人商いすべからず、と仰せける。

また先を見るに、罪人の腰より下は血汐になり、腰を釘にて打たれ、前より胴腹を釼にて切り落すなり。これも女なり。娑婆にて男の家に入るべしと思い、憶い人なりと胎し子を下し捨てたる女、この苦患を請けるなり。子を下す医者も七口の釜あり。この女、一万三千年が間、責めらるゝ。産ざる子を孕む事なけれ、とぞ大菩薩仰せける。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(14) 仁田四郎、地獄の責めを見る(六)

(山芋を男衆で摺る)

午後、近所の山芋会で五和会館に行く。会費2000円で、もう10数年続いている。夜8時前には帰宅し、選挙速報を見る。

(以下は、昨日に予定稿として書いた。修正の要は全くない。)
今日は衆院選挙日で、一般の予想通り、自民党の圧倒的勝利に終わった。選挙中、アベノミクスに野党の批判が集中したが、それなら何が出来たのか。選挙民を説得できる対案は、結局出なかった。結果は見えていたと思う。

「富士の人穴物語」の解読を続ける。

また先を見れば、十二一重を着たる女、岩の上に立ちながら、腹をば鬼犬取り巻きて、喰い捌(やぶ)り/\するなり。骨ばかり罷り、涙叫ぶなり。これ娑婆にて君傾城の流を立て、万里を貪り惑わさば、僧、法印を落ち迷わせて、顔を晒し、人によく思わせんと思いたるなり。必ず君傾城立つ事なかれ。罪深いものなり、と浅間仰せける。
※ 君傾城(きみけいせい)- 遊女。遊君。
※ 法印(ほういん)- 中世以降、僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。
※ 艱(かん)- 難しくて動きがとれないこと。難儀。


また先へ行きて見れば、顔ばかり火焔の燃えるおきの中へ差入れて、焼け焙るゝなり。これ娑婆にて飯を盛る時、人が来れば、人が来ると思う限りの内へ、顔を入れ持てなす。出し役と思いし女房なり。かようの苦を請けるなり。喰い物喰わせずとも、人の来る時は茶も湯で呑ませ、愛敬あるものなり、と仰せける。
※ おき(熾)- おきび(熾火)。火勢が盛んで赤く熱した炭火。おこし火。
※ 愛敬(あいぎょう)- 相手への優しい思いやりがあること。


また次に見れば、女の髪の毛百丈ばかり延び上り、髪のうち火焔とさつ/\燃え上り、娑婆が人の髪の毛の長き浦山、我が髪を撫でさすり、それに罪作りものなり、これもこれ、罪深いものと知るべし、と仰せける。

また先を見れば、これも女の髪、頭へ、上にて釘と成る。透間なく立つなり。痛や/\と叫ぶなり。これは我が髪の毛落ちるを悲しみ、そればかりに罪作りたる女なり。嗜むものと大菩薩仰せける。ここも過ぎ行きて見れば、子の一人も持たざる女は、不生女(うまずめ)とて、烙(やく)まで、竹の根を掘る指も無くて、山芋を掘らするなり。これは子供のかわゆい事を知らず、人の子に荒く当り、人の子を貰い育立てながら、その子を憎み、うまい物も我ばかり喰い、終りは申し次ぐ子の一人もなく、野辺の送り淋しく、茶湯香花、年季問うものなし。の恩を思い、子孫大事と思うべし、と浅間大菩薩仰せけるなり。
※ 嗜む(たしなむ)- 自分のおこないに気をつける。つつしむ。
※ 茶湯(ちゃとう)- 仏前・霊前に供える湯茶。また、湯茶を供えること。
※ 香花(こうばな)- 仏前に供える香と花。こうげ。
※ 釈(しゃく)-釈迦(しゃか)のこと。


また少し先を見れば、罪人を黒金の串を差いて、焙る事限りなし。これは親にてもなき人に、育立られ、その恩を送らずして、我壱人にて育立ちし様に思い、その親を捨てたる者、死なばあの如くの苦を請け、焼き焙り人となりたる。いよいよ肉を焼かれるなり。尋ねても養ひ親の恩送るべし、と大菩薩仰せける。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(13) 仁田四郎、地獄の責めを見る(五)

(「駿遠~」の会場、かなや会館)

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席した。テーマは「桶狭間の戦いと長篠の戦い」サブテーマとして、「諏訪原城と高天神城をめぐる戦乱」であった。最近「高天神記」をこのブログ上で読んだばかりで、頷きながら聞いた。江戸時代に書かれた多くのものは、多かれ少なかれ、最終勝者の徳川史観を基に書かれている。徳川史観を外して、純粋に戦乱の時代を眺めて見たらどんな風に見えるのか。講師に意図は興味深かったが、問題を十分に掘り下げるには、もうしばらく掛かるのであろう。

「富士の人穴物語」の解読を続ける。

またここも過ぎ行きて見るに、罪人の口を縫い塞ぎて、また引き裂き/\するなり。また脇より血汐の熱き湯を汲み入れるなり。御湯(みゆ)を呑もうとすれば、鬼ども鉄棒にて打擲、責めるなり。これは娑婆にて酒を呑み過ぎし。大事を忘れ、また酒を好みて、酒の上で物事悪くしたる者どもなり。とかく大酒、すべからず。悪く振る舞いすべからず。後生の障りとなり。罪深き事、あの如しと仰せける。

また先を見れは、罪人の両の目を、錐にて押し貫き、苛(さいな)まれる事、幾千万と限りなし。これは娑婆にて、人の目を闇(くら)まし、悪き物を売り付け、人の物を盗み隠し、空事ばかり言いし者なり。御題目や御念仏の一返も申すものは、三界の罪を憾(うら)み作りて、作る罪は逃れ難し。経の一字なりとも読みて、僅かの罪を逃れべしとぞ、浅間仰せける。
※ 三界(さんがい)-(仏)一切の衆生が生死流転する迷いの世界。

また向うを見れば、血の池なり。逆さに虚空に上り、また落ちるを見るに、皆々若き女なり。あれは子を産むとて死にたる女なり。宛(さながら)朝に念仏題目も唱えられず、思いを残し死せし科(とが)なり。これは観音経提婆品にて、七枚塔婆を立て供養すべし。この苦しみを逃れるなり、と仰せける。
※ 提婆品(たいばほん)- 提婆達多品。法華経二十八品中の第一二品。悪人成仏・女人成仏などを説く。

またまた女の月の障り有るとき、腹をあぶるべからず。三宝を汚し、荒神仏を汚せば、この世にては崇りをなし、死しては無間地獄に落ちるなり。よくよく心得べし、と大菩薩仰せける。

またここに罪人を大雪隠所へ縛縲にて打ち込みける。冰(こおり)のきらめく池なり。荒けし冷たしと悲しむなり。これは人の(汚れにて三文字読めず)てはぎ取る人に難義を掛しものなり。この苦を請ける事、五十からが程なり。
※ 縛縲(ばくるい)- 捕縛のための縄。

またこの所に美しき尼法眼どもあり。腰骨に釘を打ち、目鼻を血を流し、おめき悲しむなり。これは若き時、鼻の先の思案にて、法眼と成り、後に後悔して男を持ち、また子を持ちたる尼なり。法眼とならば心の堅め肝要なりと仰せけるなり。またうしとらを見るに、是も腰骨釘を打れるなり。これは娑婆にて定める男より外に男を持ち、その男の数に釘を打れるなり。かりそめにも大事なり。能くこれを語れと大菩薩仰せける。
※ おめき(喚き)- 大声で叫ぶこと。わめき。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

富士の人穴物語(12) 仁田四郎、地獄の責めを見る(四)

(庭のサザンカの花)

「富士の人穴物語」の解読を続ける。

また先へ行(めぐ)るれば、舌を二尋(ふたひろ)ばかり抜き出して、歎き叫ぶ罪人あり。是は娑婆に有りし時の人が地獄の事を語れば、地獄は有るやら無いやら、見て来る者もなしと、色々大事のことを云い乱し、疑ぐり深き者なり。人がよき事を云わば尋ねて聞き、悪事を云わば耳を塞ぎて聞くべからず、と浅間仰せける。

急ぎてここへ行(めぐ)りて見れば、衣を綏(ひも)に巻き、無間の鐘の端を這い廻る法師あり。既に踏みはずして落るも有り。これは娑婆にて身を悪く持ち、田畑ども作らず、または博奕を数寄(すき)、親の命は終りて後、坊主と成り、仮名の壱つも知らずして、もの知り顔をして仏法に入るとも、海の魚の海に住みながら、汐の差引を知らぬごとくなり。人目をくらまし、当座の事ばかりにて、後生の事を夢々知らず。ものごと胡乱にて、我ままに振るまい、部屋坊を持ちては奢りなどして、あちこちと彷徨いし坊主なりとぞ仰せける。
※ 無間の鐘(むげんのかね)- 静岡県、佐夜の中山にあった曹洞宗の観音寺の鐘。この鐘をつくと現世では金持ちになるが、来世で無間地獄に落ちるという。
※ 胡乱(うろん)- 確かでないこと。真実かどうか疑わしいこと。また、そのさま。


また傍らを見るに、瓔珞、花錺りの籏をさゝせて、吹く風にひらめかし、隅々に鈴を連ねし玉輿に乗りて、女房通りける。天女たち、各様凝らして連らなり、極楽へ赴くなり。
※ 瓔珞(ようらく)- 珠玉を連ねた首飾りや腕輪。
※ 各様(かくよう)- それぞれに違ったようすであること。さまざま。


仁田四郎、ここを尋ね申すに、あれは常陸と奥州の境、岩城の藁田郡植田村と云う所の、さる者の女房なり。福貴の家に生れても終に奢らず、貧しきなる人を忘れず、中にも五賦まで持ち、三宝を常に信心に、心に慈悲を第一とするなり。寒(ごごえ)る者には衣装を着せ、空腹ものには喰物を取って、仏の御前に香を盛り、花をさゝげ、念仏題目を大切に念じ、法事供養に施行を引き、後生を大事と思いし女なり。今生の節は一日/\と過し語りしなり。長き後の世の罪を知るべし、今の先立ちを見て、我が心を悟れ。夢のまた夢事に露の命なるぞ、と大菩薩仰せける。

ここも過ぎ行きて見れば、美しき色衣を着たる坊主どもを、鬼ども四方八方へ引き張り、火に焙(あぶ)る所あり。これは娑婆にてよき位の坊主なり。よき寺を持ちて、人の志を受けて、仏に頂奉を致し、ただ人の志無しとばかり云う。御経、陀羅尼も読まず、人の志厚く請けしものなり。俗には奢りたる坊主、死ねば焼きて油を取るなり。能々人々に語り聞かせよと大菩薩仰せける。
※ 陀羅尼(だらに)- 梵文を翻訳しないままで唱えるもので、不思議な力をもつものと信じられる比較的長文の呪文。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »