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家康のグランドデザインと静岡(後)-小和田哲男氏講演より

(散歩道のクロタラリア・ネマキング)

今日は、南の海上を東へ進む台風14号の影響で、一日小雨が続き、北からの風で気温がぐっと下がり、秋も深まった頃の気温になった。

(昨日の続き)
家康のグランドデザイン、その3として、リサイクル社会の実現が挙げられる。家康自身、実践していたエピソードが伝わっている。医者の板坂卜斎が家康から拝領した朝鮮人参を、傍らにあった紙で包んで持ち帰ろうとしたところ、家康はそれを咎めて、自分の羽織に包んで持ち帰るように諭したこと(「徳川実紀」)や、使い古しの足袋を足袋箱に保存しておいて、後に再度吟味して使えるものを選んで使ったエピソード(「駿河土産」)などである。

この足袋箱の話は、確かに「駿河土産」に出て来るが、講師の話とは少しニュアンスが違っているように思う。(当ブログの6月12日参照)

家康の遺訓とも言える、徹底したリサイクル社会が江戸時代を通じて実現していた。その象徴として、鼠半切と呼ばれた再生紙(墨が混じってねずみ色になる)の大人気、古着屋の流行、糞尿を肥料とした近郊農業などを上げた。そんな影響は戦後まで残っていて、刃研ぎ、鋳掛屋、綿の打ち直し、瓶を持参して酒・醤油買いなどを紹介した。考えてみれば、子供の頃の記憶に、その何れもが残っている。我々の世代は、それらを知る最後の世代だろうと思う。

グランドデザイン、その4として、文治政治へのシフトが挙げられる。戦国の世から太平の世に移って、家康は信長、秀吉の失敗から学ぶことが多かった。武田が滅んで、信長は武田の遺臣を採用せずに、武田の領地に自分の家臣を送り統治させた。武田の遺臣たちは豪農を兼ねていたから、帰農していたところ、本能寺の変が起きて、彼らが一斉に蜂起し、統治していた信長の家臣たちを追い払ったという。

家康はその反省から、武田の遺臣を積極的に採用して、自分の家臣とした。その数、800人と言われている。信長の武田攻めで、多くの家臣たちが次々に離反して行く中に、土屋惣藏昌恒は、最後まで武田勝頼に付き従い、勝頼が天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、最後の奮戦をして討ち死にしたといわれる。家康はその遺児を探し出し、家臣として取り立てて、土屋氏はその後、上総久留里藩2万石の大名となったという。「忠臣の子は忠臣に成る」という考えでの取り立てであった。諌臣、忠臣を大事にするというのが、家康の考えであった。

この市民講座で、何度か顔を合わせる、古文書会の会員の人達5人で、終ってからコーヒーでも飲もうと、駅ビルに入った。土曜日の夕方で、喫茶店が込み合っていて、結局地下道を歩いて「蒼苑」まで行った。残暑の戻った中で、たくさん歩いたので、メニューを見て、全員かき氷を頼むことになった。変な爺さまたちである。この喫茶店は学生時代からあって、何度も利用したけれども、そのころとは名前も変わったのだろうか。
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