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嘉永七寅年十一月四日地震日記 その2 - 古文書に親しむ

(大代川のカワウの番い-去年の番いと同じなのだろうか)

昨日午後、「古文書に親しむ」に出席した。先月に続いて「地震日記」である。

五日六日時々震れ居り申し候、死失人凡そ左の通り
  上小路九郎兵衛娘一人 女    
  市兵衛妻一人 女        
  十五の清左衛門壱人 男  これは病中の由   
  近文妻一人     女     
  佐塚弐人 男女
  不二より娘一人 女    これは相良の人別
  上湯日村伊左衛門母一人 女  
〆て七人、内六人、内男二人女四人、宿内人別なり、右の外、怪我人いまだ相知らず


金谷宿の地震による死者は8人、その内、上湯日村の人別が1名、相良の人別が1名、したがって宿内人別では6人である。

   拝借奉る金子の事
一 金五拾両也
右者金谷宿同河原町家並、昨四日朝大地震にて皆潰れ相成り、難渋至極仕り候につき、宿内手広の場所、取払い小屋掛け仕り度、右手当金拝借願い上げ奉り候ところ、書面の通り御貸し渡し成し下され、有難き仕合せ存じ奉り候、これにより拝借手形差し上げ奉り候ところ、件の如し
 寅十一月五日       金谷河原町      惣右衛門
              金谷宿        問屋 六郎
  島田御役所


島田御役所から金子拝借手形である。4日にあった地震に、5日の日にはお金が出ている。東海道の宿場で、重要な場所とは言え、この速さには舌を巻く。現代のように通信手段もない時代、現地の裁量の範囲が大きかったのであろう。さらに、17日には金谷宿と金谷河原町に合わせて八百両が貸し出されている。このスピード感は現代のお役所も見習うべきであろう。

五日夕方
 太田様御領分、上湯日村組頭八郎一、同久兵衛
 右村百姓伊左衛門母、
 右母十五軒多吉、軒に押され死におり候に付、申し出で候、五日夕方に右死骸、七日昼後龍雲寺まで引き取り
七日天晴れ
 早朝一度大震れ
十一月十五日昼後本宅へ移る
 同 十六日夕方雨降る
 同 十七日夕、江戸金五郎様来たる
 同 十七日
 友沢様御出役、金五百両金谷宿、金三百両同河原町へ拝借仰せ付けられ候


   *    *    *    *    *    *    *

午後11時を廻った時間に、電話が鳴った。高齢の年寄りを抱えていると、時ならぬ電話に緊張が走る。予感したのか、女房が電話に出るようにいうので、受話機を上げた。兄貴が出て、お袋がほんの今亡くなったという。いつかはこの時が来ると覚悟はあった。昼間デーサービスに行っていて、少し遅くなって9時頃に夕飯を食べていた。急に調子が悪くなって、主治医に来てもらったところ、11時過ぎの臨終であった。享年102歳、一世紀を越えて随分頑張って長生きをしてくれた。大往生である。長寿はそれだけで生きている人に勇気を与えてくれる。お袋は102歳でまだ元気で、と何人の人に自慢したことであろう。最後まで看取ってくれた兄貴夫婦には、どれだけ感謝しても仕切れないほどお世話を掛けた。ありがとうございました。

さて、明日からしばらく、ブログが続けられるかどうか、今のところ判らない。
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