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お袋は宗教的な人だった

(積雪の実家物干し台-昨日朝)

葬儀のあとの喪主挨拶で、次兄がお袋を宗教的な人だったと紹介していた。

母の実家のお寺は真言宗だったから、「南無大師遍照金剛」のお題目が口癖であった。戦争中、在郷軍人で警備に出て留守がちだったため、空襲警報の度に子供を連れて、町内の防空壕へ逃げた。警報だけで爆弾が落ちることはなくて、近所の人たちは段々避難しなくなっても、母だけは子供たちと避難したという。どんな思いだったのだろう。一家族だけ防空壕にいて、お袋は必死にお題目を唱えていたという。自分が生まれる前の話である。

戦後間もなく、次兄の手を引いて郊外の拝み屋さんへ何度も行ったという。記憶にはないが、自分も生まれていたから、お袋の背に負われていたのだろう。人生に迷うことがあると、拝み屋さんから託宣を得て、指針としていたようであった。次兄の話では炎天下に土手の土道を延々と歩いて、子供の足では随分と遠かったと記憶しているという。

新興宗教に救いを求めたのも、その一連の流れであったのだろう。さらには、その後は我が家の菩提寺の来迎寺へも、ことある毎に出入して、最晩年まで来迎寺の御詠歌グループの先達をやっていた。この御詠歌をお袋のお通夜で聞かせてもらったが、まるでキリスト教の賛美歌のように音楽的で、心を打たれた。思えば、実家で御詠歌を練習するお袋の声を何度も聞いていた。

お通夜の後で、住職は異例の挨拶をして、お袋の思い出を語ってくれた。父に代わって住職になったばかりの頃、ちゃんとお勤めが出来るかどうかと、厳しい目を向けられて恐かったこと、上手く勤められた後では優しい目があってほっとしたことなど、お袋の初めて知る姿であった。

戦前、戦後を通じて、社会的にも、個人的にも、厳しい時代が続いた。戦中は親父は何回か召集されて、お袋は一人で家族を守らねばならなかった。戦後は、親父の少ない給料で3人の男の子を大学へ出すために頑張った。悩みも多かったと思うが、お袋は自らの宗教心で乗り越えて行ったような気がする。

現代社会に生きる人々は、複雑な社会にあって、鬱に代表される様々な神経疾患を抱えている人が多い。戦中戦後にも、肉体的、精神的ストレスは現代と変わらなくあったと思う。人によっては現代人が抱えるストレスよりも大きかったかもしれない。しかし現代のように多くの神経疾患があったとは聞いていない。想像するに、神や仏にすがる信仰心がストレスから身を守るよすがになっていたのではなかろうか。

科学の発達で、その知識が現代人の信仰心を妨げている。信仰心を持ちにくい世の中になってしまった。現代人のやわい神経は裸でストレスにさらされている。また不容易に信仰心を求めると、そこにはオカルト教団や霊感商法の類いが口を開けて待っている。
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