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地震取調集 その2 - 古文書に親しむ

(散歩道のオニユリ)

午後、「古文書に親しむ」講座へ出席する。引き続き「地震取調集」を読む。地震発生の当日、体感した地震をストレートに表現しているようだ。揺れが83回あったことなど生々しい。読み下し文で示す。

一 当日より地震、間無くも続きて、一昼一夜の内に揺れること、その夜明方までに数えるに、調度八十三度揺れ申すなり、いずれも震れ初めには、震動、雷電いわんや天地を震(ふる)えせんと欲す、誠に人民の少しも休むる所なし、それより追日をその後揺れる事、数知れず漸々安政二乙の卯年三月頃、震れ止る事、静かなりけり

一 当村田所の事、一統田面は上下の別ちなく、中高中久保の場所数多く出来、荒れ落ち高阜と相成り、その頃しつけたる麦田畑とも、調度五月の代田を見るが如し、吹出し泥水澱み、上下へ流水にて、あきれ果てたる事なり
※ 高阜(こうふ)- 小高くなっている所。おか。

一 当郷の内、田圃なども所々荒地に成ること、場所により三四尺余または五六尺余も大砕(おおえ)み、埋まり落ち、およそ村中、家数百軒余も、大小とも相潰れに及び、ことごとく大破と相成るは、往古より古人に伝聞(でんもん)に承り、すなわち右躰の非常は、いかよう有るまじくやと、思わざる義なり、恐らくは我ら子孫永々の代、噺の種と称すべき恐怖たり、まことに以って前代見聞の教えに諭すべく、忘失しがたき次第なり、恐々ここに非常のあらまし書き誌すべきものなり

一 当所氏神は両社とも御別条無し、もっとも両社の御華表(とりい)大破、砕失に及び、東神主居宅は破落致し、並び当本山高岳寺は庫裏一ヶ所破落致し、末寺正泉寺本堂残らず大破に及び、その外の寺方は格別の事もこれ無き事

一 地震後御地頭様より御出役成られ、家地、荒地など御見分のゆえ、右に付、百姓難渋の由に付、潰れ家壱軒にて、御赦米玄壱斗七升ずつ下し置かれ、有り難く拝戴致し候
(続きは次月)
※ 玄 - 玄米。

高岳寺・正泉寺、両方とも旧大井川町に現存しているお寺である。そのことから、何処の誰が書いた「地震取調集」なのかはっきりしないけれども、大井川河口の東岸の町居住の人が書いたものと推測できる。駿河湾の海岸に沿った町で、海はほど近いから、津波の影響はどうであったのか、ここでは全くふれていない。津波については後述されるが、津波被害は無かったような書き振りである。海に向かって新田開発が進められた地区で、田圃からは液状化と思われる泥水が噴出し、田圃は凸凹になってしまった。
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