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義父葬送の日

(開式前の葬儀場)

今日は義父葬送の日、お天気は今日までは雨の心配は全く無い。9時に自宅を出棺のため、8時半には女房の実家に出向いた。その前に、先に出かけた女房から、20年前に亡くなった義母の写真がどこかにあるはずと、急に言ってくる。お義父さんに持たせたいという気持は解るが、探せと言われても途方にくれる。とりあえずは娘の描いた小さな絵が書棚にあったのでそれを持つ。昨日お通夜の後で、親類衆の何人かと自分のお遍路の本の話をした。何人かには進呈しようと思い、7冊ばかり「四国お遍路まんだら」を手提げに入れて家を出た。

旅装束への着替えは昨日午後終っているので、今朝は杖を入れ、娘の画いた義母の絵も入れたようだ。自宅を出棺、葬祭場に向かった。10時10分頃から葬儀場前に喪主と一緒に並び、10時20分には葬儀場に入った。十分間、故人の思い出の言葉が司会者から語られた。昨日から故人の思い出を家族より聞き取り、故人の一生を見事に言葉につむいでくれた。聞き取りを受けた女房たちも、チェックのために読まされただけで、涙が出たという。

葬儀が始まり弔辞が教職員関連団体から2つあり、孫からも2つあった。自分の娘二人もパートを変わりばんこに故人に語りかける弔辞を行なった。二人が声がそっくりで、切り替わりがはっきりとは解らなかった人が多かったのではなかろうか。人を感動させる前に彼女たちが感極まって、涙混じりの弔辞になった。

脇僧が6人で(合わせて7人の僧侶)鳴り物が賑やかな葬儀も終わり、火葬場への出棺となった。義弟の嫁さんが、義父が入院以来、回復を願って折り続けた、2000羽を越える千羽鶴が皆んなの手で棺に入れられた。女房が先ほど息子に買いに走らせたアンパンとタバコも入れられた。アンパンは晩年いつも買い置いていた好物であった。タバコは数年前までずうっと吸い続けて離せなかった。健康を気遣う義弟夫婦からは喫煙を止めるように言われ続けていたけれども、止められなかった。会場を飾られていたお花が千切られて、参列者の手で棺に納められた。花に埋まるようになった義父は心なしか照れているように見える。

ここで出棺まで30分ほど時間が空いてしまった。実はここに三日・七日の行を行なう予定にしていたが、まだ火葬が済まないのに、三日・七日はまずいだろうとの住職の話に、もっともだと感じて、火葬場から戻ってから行なうことになり、火葬の時間は変えられないから、時間が空いてしまうことになった。通常は近辺では火葬を済ませてから葬儀を行なうから、葬儀社も気付かなかったようだ。火葬を先に済ませれば、葬儀、三日・七日の行、精進落しまで、時間を置くことなくスムーズに行なわれる。

ようやく出棺。火葬場で炉に入るのを見届けて、遠方から来た兄たちは息子に送られて帰って行った。骨拾い、葬祭場に戻っての三日・七日の行、さらに精進落しと、たっぷり一日掛かった。この6日間の疲れがどっと出たようで、女房はそばでうたた寝が爆睡になっているようだ。
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気忙しい義父の通夜の一日

(義父の通夜会場)

今夜は義父の通夜であった。朝から気忙しく、女房は準備に通夜会場の実家へ早々と出かけた。息子に運転させて、まず、伊勢と豊岡の兄たちの宿を予約してある島田のホテルに、予約の確認と代金の支払いに行く。帰路シャトレーゼに寄ってお茶菓子を買った。息子は女房に電話で呼ばれて通夜会場へ手伝いに行った。といっても、大方の会場準備は昨日済ませてある。12時前に、掛川のまーくん、あっくんとママが来た。パパは仕事で夜に合流するらしい。自分たちの分はお弁当を買ってきたという。女房が出掛けに、昼食は会場にサンドイッチが準備されると聞いていたので、留守番をまーくんママに任せて、会場の女房の実家へ行った。昼食後、豊岡の兄夫婦が車で着くので家へ戻った。1時半過ぎ豊岡の兄夫婦が着いた。しばらく義父のことなどお話をした。名古屋のかなくん一家がやってきて、一気にまーくんのボルテージが上り、例によって車を乗り回してサーキット状態と化した。三時になったので、まーくんのママに応対を頼み、少し早いけれどもムサシの散歩に出かけた。約40分掛かる。4時過ぎには伊勢の兄が金谷駅に着くので、息子が迎えに行った。かなくんの車がバックで玄関のたたきに落ちて、大泣きした。幸い玄関にはたくさんの靴が並びクッションになったようで、怪我は無いようで、その後元気を取り戻した。伊勢の兄が来て、4時半にはかなくん一家、まーくん一家と、息子が喪服に着替えて会場へ出かける。5時に豊岡兄夫婦、伊勢の兄と自分が喪服に着替え、戸締りをして会場に行く。会場にはすでに受付や交通整理に近所の人たちがスタンバイしていて、お参りの人が三々五々やって来る。お棺のそばの遺族席で、ひたすらお礼を言い、お辞儀をした。6時から住職のお経が始まり、すぐに焼香も始まる。けっこうお経が長くて、焼香の人が終ってもお経はなかなか終わりにならなかった。住職が帰られてから喪主である義弟がお礼の挨拶をした。お通夜の焼香が途絶える頃から、親戚衆には簡単な食事が出され、御酒も出た。自分もそこへ入りお酒抜きで食事を摂り歓談した。8時を過ぎると、親戚衆も明日を約束して、次々に家路に着いた。兄たちも宿泊先の島田のホテルに引き上げた。パパが合流したまーくん一家、名古屋のかなくん一家も引き上げた。まーくんだけが、はしゃぎすぎて爆睡したまま、車に乗せられた。かなくん一家は我が家へ泊る。9時を回って女房と家路に着いた。

今日という一日を、行を変えずに出来事を記してみた。気忙しさが伝わっただろうか。
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義父の広く多彩な趣味

(庭のニワゼキショウ)

先日、義父の旧宅に入る機会があった。

自分は結婚後、6年間、そこで暮らした。女房の実家で暮らす、言うなれば、「サザエさん」のマスオさんを6年間、演じたわけだが、この6年間は3人の幼児の子育て期間とも重なり、子育てで父親としては全く楽が出来たと、現在夫婦だけで子育てをする若夫婦を見るに付け感じる。しかしこれはまた別の話である。6年後に自分は自宅を新築し、家族で新居に移ってしまったので、その後の義父の後半生と、それほど寄り添って生活して来たわけではなかった。

義父は旧宅の隣りに義弟の建てた新居に移り、旧宅は物置状態になり、物でぎっしり埋まっていた。所構わずに置かれたために、足の踏み場もないくらいであった。義父は色々古いものを集めるのが趣味の一つであった。義父は「我が出会い」の中に書いている。

古い農機具が次第に失われつつあるのをなげき、小さな納屋を改造して、「ミニ資料館」と名付け、唐箕万ごく・鍬・脱穀機の手こき(マンガー)・足踏の脱穀機・電動の脱穀機・ハンタコロガシ等々を収納してあります。

今はミニ資料館は閉鎖されて、道具の数々が所狭しと積まれていた。パッと見て気付いたものでも、縄ない機や炭俵を編む道具なども見えた。その他、草創期の電化製品などもたくさんある。要らなくなったものを譲り受けたりしたのであろう。しかるべき資料館などで引き取って貰えれば、義父の意図が生かされることと思う。

同じく「我が出会い」によれば、
ついでに骨董にもこり、高札・薬研・軸物など購入して喜んでいます。これは少々金の掛かる仕事で仲々手に入れにくいやっかいなものです。数万円から拾数万円ぐらいが貧乏人にはせいぜいせきのやまです。

中で軸物の収集については、子供たちの目には、明らかにニセモノを買わされているのが明らかに見えるため、気のもめることであったのだが、義父はそういうこともひっくるめて楽しんでいたのだろうと、今は思う。それらが真贋の区別なくたくさん積まれている。

さらに「我が出会い」によれば、
年をとると次第に仏像に魅せられるようになってきた。自分でも仏像を彫ってみたくなり、お観音さま、お釈迦様の像をほり始めました。全部で十数体の仏像を彫刻しました。師についたわけではなく、自分で楽しんでいるぐらいのものでありました。

この木彫もずらりと並んでいる。決して上手な木彫ではないけれども、素朴な少しとぼけた味のある木彫だと思った。義父を知る人たちが、義父の思い出の作品として持ってくれるなら、それなりの価値はある。

まだまだ、義父の趣味の一端を紹介したに過ぎない。色々なことに興味を持ち、それぞれに手をつけてみないではいられない性格であった。義父の買ったものにワープロが4台も残っていると聞いた。ワープロも今では過去の遺物になってしまったが、義父の書き物は最後まで手書きであった。
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義父の人生をたどってみると

(土手のオオキンケイギク)

義父は、私の知る限り、70代後半に3冊の本を出版している。
     「私の生涯」  昭和63年6月発行
     「我が出会い」 平成元年7月発行
     「雑記帖」   平成2年11月発行
今、これらの本を手元に置いて、義父の97年の人生を思い返している。

義父は昭和47年3月に37年間の教員生活を終えた。それから既に37年経った。二つの年数を並べてみると、教員としての期間と同じだけの、教員以後の期間があったことが解る。しかし、それにも関わらず、義父は教員以後の期間も含めて、生涯、「教師」だったのだと思う。

いつまでも人を見下して教訓を垂れるというような性向がある、というのではない。そういう意味では真逆の人だったと思う。義父の内面の話である。いくつか逸話を述べてみる。

軽い脳梗塞が治癒して後、デイサービスに出るのを嫌がっていた。ところが、あるときから進んで行ってくれるようになった。周りの話によると、デイサービスに来ているお年寄りに、自分の教え子たちがいることが解ったためであるという。

最晩年に、看護師さんに「先生!」と呼ばれるとしゃっきりされる。だから、良く分かった看護師さんは名前ではなくて、「先生!」と呼ぶようにしていると聞いた。

今日も、教育長のMさんがお悔やみに見えて、Mさんが新任の頃、ちょうど教育委員会にいた義父に、大変世話になったという40数年前の話が出て、その後ほとんど接点が無かったにも関わらず、近年逢ったときに、手を握って親しく名前を呼ばれて話されたと思い出話をされた。

校長のOBたちで作っている会には、毎年出席していた。その間に、自分の後輩たちが先に亡くなっていき、出席者の大半が20歳も30歳も若い後輩たちになっても、なお出席を欠かさなかったという。出席出来なくなったのは身の始末に介助がいるようになった数年前からであった。

言うなれば、教師という特殊な社会に自らの身を置くときに、もっとも気持が安らぐ。そういう意味で、生涯、「教師」だったのだろうと思った。

義父は、教師としての37年間、秘めていた多彩な趣味が、教師を辞めてからの37年間に、百花繚乱の如く花開いた感がする。教師以前の旅行好き、放浪好きの性癖は一気に花開いた。自分が山登りに熱中するようになったのは義父との夏山登山がきっかけであった。海外にも度々行った。あまりあちこち行くので、今度はどこへ行ったのかを、届けられるお土産で知るようになった。(趣味については明日へ続く)
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「送り人」の現実-義父の湯灌と納棺

(蓮華寺池畔のツツジの崖-5月6日撮影)

97歳の義父は、一夜明けて98歳に直っていた。本人が97歳の誕生日以後は98歳と自称していたことを思い出し、数えで言えば98歳であり、1歳あるいは2歳加算して数えるのは珍しくないと聞いて、そう直した。これも親孝行の一つだろう。

葬儀社にて、湯灌をした後、納棺をしてくれると聞いて、午後見届けに出かけた。納棺師というのだろうか。黒いスーツの女性が二人来て、座敷にゆったりとしたバスタブ上のものを持ち込み、車からお湯を注入して、義父を隅々まで洗い清めてくれた。

自分は立ち会わなかったが、立ち会った女房の話ではバスタオルで肌を隠したまま、手を差し入れ隅々まで洗い、洗髪から髭剃りまでも行なってくれた。義父は最後の入浴に気持良さそうに見えたという。近年、自分で風呂に入れず、デイサービスで入浴させてもらっていたから、おそらく今日の湯灌もその延長だったのだろう。

湯灌後、下着をはかせ、ワイシャツ、背広にネクタイを着せてくれた。素人考えで、死後硬直のある中、どうやって着せるのだろうかと心配していた。聞けば、死後硬直は一日以上経つと解けて来る。だから、生前同様に着せることが出来るようだ。

最後に背広姿の義父がお披露目された。とても97歳の老人の顔とは思えない若々しい顔になった。見慣れた義父よりも30歳も若く見えて、違う人のようであった。義父は、やはり、最後まで先生であった。背広にネクタイ姿が良く似合う。見ている前で、手を組ませてくれたが、顔にはお化粧が施してあるから気付かなかったけれども、指にはすでに白蝋化が始まっているように見えた。

協力して納棺し、ドライアイスを入れて、このまま3日ほど置くことになる。ドライアイスの入れ替えには毎日来てくれるという。最後に、こんなお姿でよいでしょうかと再度確認して、納棺師の女性たちは帰って行った。

自分も夕方には帰り、その後女房も帰ってきた。女房は、納棺したときは良かったけれども、帰る時に皆んなでもう一度見てみると、印象が変わってしまい、早速、納棺師に連絡してもらったと話す。やはり、湯灌前の顔が、年相応の見慣れたおじいちゃんらしくてよかったともいう。遺族の心は揺れ動く。納棺師もなかなか難しい大変な職業であると思った。「送り人」の映画を見たとき、こんな職業が本当にあるのかと思って見ていたが、その実態をこの目で見て、感慨の深いものがあった。
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女房の父、KS氏、97歳で永眠す

(庭に咲いた唯一のバラ)

今朝、会社にいると、女房から義父が危篤だからすぐに病院に行って欲しいと電話があった。自分も今病院に向かうと言う。一度自宅へ寄り、作業着を着替えて、病院へ車で向かう途中に再び電話があり、涙声で、もう亡くなったので、自宅へ連れて帰るから、義弟の家へ行って義弟の嫁さんを手伝って欲しいという。一人では受け入れの準備も大変だから。解ったと、国道1号線の谷稲葉ICを降りたところでUターンして、義弟の家へ向かった。

実は、義父は三日ほど前に発熱して、心肺機能が落ち、もう近いかもしれないと、半ば覚悟していた。昨日の日曜日には、女房が付き添っている病院へ、長男と次女を連れて逢いに行った。酸素マスクを当てて、やや早い呼吸を懸命にしながら、眠っているのか、呼びかける声にはほとんど応答が出来なかった。心拍、呼吸、血圧などの状態を表示するパネルには安定した数値が表示されていた。数値が一定以下へ下がるとアラームが鳴り、看護師の所まで通報が行くのであろう。義父は、心臓が強いので、まだ今日明日ということではないと思われた。

義弟たちは97歳という高齢もあり、身体を切り刻んでの延命措置は断っていた。自然な形で送って上げたいという。長年病院に勤めていて、無用な延命措置が本人も家族も苦しめるだけである実態を目にして来たのであろう。一度延命措置をすると、簡単に外すことが出来ない。死亡診断書に死因は「心不全、脳梗塞」とあった。老衰という死因はないのだろう。97歳、義父は尊厳をもって十分に天寿を全うしたといえる。

今日からしばらく、非日常の世界に入る。最初に義父を迎える部屋を準備した。仏壇のある和室で、通夜もここで行うという。お昼過ぎに義父が運ばれてきた。葬儀社の人が西を枕に寝かせて、ドライアイスを載せ、掛け布団をかけて整えてくれた。苦しんだ様子が全くない、きれいな寝姿だった。

次々に聞きつけて、親戚衆がお悔やみに駆けつけ、義父の顔を拝み、生前の思い出などを語って帰って行く。

義弟が葬儀社と打ち合わせるのに立ち会っているうちに、お寺の住職が来て、枕経を上げてくれた。その後、北枕に変えた。

友引も挟まったりして、御通夜は4日後の20日、御葬式は21日と決まった。今はドライアイスを効かせるので、1週間ぐらいは大丈夫と葬儀社の話であった。但し、一日過ぎたら棺に納めるという。そうすることで、ドライアイスの冷気が棺の内部を冷やして保てるのだという。

夜には掛川のまーくん一家が4人が、ひい爺いじにお別れに来て、幼児二人に少し日常が垣間見えた。このように、葬送の一日目は終った。くたくたになったようで、自宅に帰ると女房は早々に休んだ。
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「多文化の集う地域から対話を」-市民講座

(講師、宇都宮裕章静大准教授)

今年で三年目の、静岡大学・読売新聞連続市民講座の第1回に参加した。テーマは、「環境」、「食と健康」と続いて、今年は「地域から広がる可能性」で、どんな切り口になるのか、楽しみではあるが、場合によれば興味を失ってしまうかもしれない。その1回目のテーマは「多文化の集う地域から対話を」で、講師は静岡大学教育学部准教授の宇都宮裕章氏である。

日本はかつては単一民族、単一文化で、以心伝心の通じる国であった。だから演題のようなことが課題になることはほとんどなかった。しかし昨今、世界的な規模で生じている大量人口移動時代、多文化との共生が必須といわれ、その居場所として「地域」が大切になってきている。

何の話かと、初めは理解しないで聞いていたが、要するには外国人労働者が激増していて、町が彼らを受け入れ、共に生きていくためには対話が必要だという話なのだ。それを、外国人労働者、ブラジル人などと具体的に言わない(言えない)から、話が遠くなる。実はそのことに話が随分進んでからようやく気が付いた。これって、受講者が鈍いということなのだろうか。このような講演の進め方も以心伝心的な日本人同士のやり方だと苦笑した。

言葉がなければ対話が出来ない訳ではない。笑顔、握手といった、異なった人に「よりそう」ことから対話が始まる。次に、実際の対話によって異なった人に「つながる」。さらに、異なった人と新しいものを生み出す「ひびきあう」のが対話の最終的な目的である。

その実践で、全く知らない隣の人と幾つかのゲームをやった。ある単語をその単語を使わずに相手に伝え、相手は思いついたその単語を答え、合えば正解、どこかで聞いたようなゲーム。また、三桁の数字を一方が決め、それを知らない片方が任意に三桁の数字をいう。合っている桁はアクセントを付けて答え、これを繰り返せば、未知の三桁の数字にたどり着くというゲームなど。

隣りの人は知らないおじさんだったが、ゲームをする間にけっこう打ち解けて、禁じられた余分な言葉まで出てしまう。ゲームの後、講師の話で、ゲームそのものよりも、それが引き金になって、意図しない会話が始まっていく。どうやらそちらの方がゲームの目的のようであった。乗せられて、知らない隣りの人と、こんな風に対話が出来てしまった。30分前までは考えもしなかった事態であった。

但し、こんなテーマの講演が出来るのは、単一民族、単一文化で来た日本だからであろう。ごく最近、小国綾子著「アメリカなう。」という本を読んだ。アメリカのワシントンD.C.駐在の夫について、アメリカに在住する女性の、現代アメリカ事情の本である。その中で学校の様子が書かれていたが、他民族国家のアメリカでは、幼くしてプレゼンテーションが日課になっていて、如何に自分の意思を言葉で伝えるかを実践しているという。こういう国ではこのような講演は意味をなさないのであろう。
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熊野三所権現寄附断り状-駿河古文書会

(庭にクレマチスが咲いた)

昨日取り上げた寄附の奉願の文書に対して、丁重にお断りした文書である。読み下した文で示す。

その地、北安東村において、熊野三所権現社頭の儀は、当家先祖右近殿、造営致され候由緒を以って、これまで御取繕いの節、度々この方へ御沙汰これ有り、既に文化七年、御下りの節、寸志の寄付として、金拾両相備え申され、右金子を以って、少々御取繕いもこれ有り候えども、相保ち申さず、いよいよ破損数多(あまた)に相成るに付、止むを得られず、尚又、この度御願のため御下り、何とぞ相保ち候ため、本社屋根銅瓦に葺き、その外、石鳥井、石垣に致されたく、依って修覆料寄附の儀、御願書を以って、委曲仰せ聞かされ候えども、かねても申し入れ候通り、従来不如意の勝手向きに候のところ、去る戌年、先ず甲斐殿病身に付、隠居いたされ、それについては当代引受け、引続き家督などの式万端、大造(たいそう)の物入りこれ有り、当代に至り候ても何かと物入り少からず、その上当時国主より物成り減少申し付けられ、いよいよ以って難渋の暮し向きに付、厳しく倹約相凌がれ候時体にこれ有り、往々のところ、甚だ不安の事に御座候

ついてはすべて寺社方かようの筋、一圓相断り申され候に付、この度御願の趣、相調い難く、甚だ以って気の毒筋にはこれ有り候えども、よんどころ無く御断りに及び申し候、然しながら遠路御下り、御礼守など御差し出しの事ゆえ、寸志の為、御初穂金五両相備えられ、御自分へ祝儀として金子弐百疋並び御土産物遠路御持ち届け御差し出し候に付、金壱両、外に金子千疋路用として相贈られ候、かつ従者へ鳥目壱貫文相贈り申し候、

はたまた前文の趣に付、後年とても右など御願い筋の儀、承り上げ候すべ叶い申さず、必々、遠路御下り候の儀は御無用の事に候、当巨細、尾野政介、口上に申し述ぶべく候 以上
   文政四年三月   脇本武兵衛
             鈴木清太夫
 駿州安部郡北安東村
   中村志摩殿


言い訳がたくさん書かれているが、結局は手元不如意である。浅野甲斐守は代々芸州浅野家の家老であった。江戸開府前の慶長の頃には、神社を造営出来るほど財力があったが、平和な江戸時代を迎えて急速に疲弊して行った。

武勲を立てるチャンスもなくなり、役人となったけれども、そんなに仕事があるわけがない。決まりきった給金を米で貰うが、供揃えなどの格式は問われるから、それだけではとても足りなくなってしまう。これは幕府の政策であった。平和になった時代に、武士が力を付けると余計な騒ぎを起こしかねないから、参勤交代や各種公共工事を各藩に強いて、財力を貯えないように仕向ける政策が取られた。

その結果、江戸時代は権力を持つ武士に財力がなく、財力は権力を持たない商人に集るという、世界に類例のない社会が実現した。江戸時代260年間に、この社会構造ゆえに、日本独自の様々な文化が発展した。
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再び、熊野大権現社修復料奉願 - 駿河古文書会

(現在の熊野神社社殿)

本日、駿河古文書会へ出席した。今回は3月29日の書き込み、「熊野大権現社修復料奉願」の続きの文書である。前回は明和元年(1764)の文書であったが、今回は文政四年(1821)の文書で、前回からは60年近く経っている。文面を見ていくと、文化七年(1810)にも同様のお願いをしていることがわかる。

古文書を見ていくと、特に公文書は今までの経緯が詳しく述べられているものが多い。それだけにけっこう長い文書になるけれども、今までにいきさつを承知していない人が見ても解るように、厭わずに書いている。それらの文書を連続して読む我々は、何度も同じ話が出てくるので、少しうんざりするけれども、解読するには筋が解っている分、楽に解読出来る。

     書付を以って願い上げ奉り候覚え
一 駿州安部郡熊野三社大権現社頭の儀は、慶長年中、御先祖浅野右近尉忠吉様、御建立遊ばさせられ、当社御造営以来、代々の神主、怠慢無く御祈祷修行仕り、殿様御武運御長久、御子孫御繁栄を祈り奉り、次いでは御家臣のかたがた、御武運長久御子孫繁昌を祈り奉り、この外、他事これ無く候

しかるところ、社頭年歴経ち候えば、追々大破に及び、修復の儀、自力に及び難く、氏子どもへも種々相頼み候えども、氏子と申し候ても、皆貧窮の士民などのみを以って御座候えば、助成仕り候儀も相成り難く、これにより漸く雨漏などの場所ばかり塞ぎ候のみにて、差し置き申し候えば、追々破損数多(あまた)出来仕り、往々社頭も如何相成り申すべく候や、何とも歎かわしき儀、神慮の程も怖ろしく存じ奉り候

これにより、去る文化七午年三月、当御舘様へ参上仕り願い上げ奉り候旨趣は当社修復、往々年数も相保ち候ために候えば、本社瓦葺並び石鳥居、石垣など、仰せ付けられ下し置かれ候様、願い上げ奉り候ところ、その節は殿様江戸表、御在住遊ばさせられ候に付、なおまた追って御沙汰も成し下され候趣、仰せ渡され、御暇(おいとま)仰せ付けられ候

その節、御初穂として金拾両、私儀へ金弐百疋、帰路小払い用として金千疋、頂戴仕り、その外従者までも御目録頂戴仕り、有り難き仕合わせに存じ奉り、帰路の後、右頂戴仕り候金子を以って少々取繕いも仕り候えども、大方の取繕いに御座候えば、かつて相保ち申さず、いよいよ破損数多に相成り、年数を経候事に御座候えば、一通りの取繕いのみにては、とても保ち難き儀と存じ奉り候

これにより止むを得ざる事に候えば、なおまたこの度御願いのため参上仕り、その外右鳥居、石垣など仕りたく存じ奉り候あいだ、右修復料御寄附仰せ付けさせられ下し置かれ候様、願い上げ奉り候、願いの通り仰せ付けられ下し置かれ候わば、有り難き仕合わせに存じ奉り、なおもって御武運御長久、御子孫御繁栄の御祈祷、精誠をぬきんじ、常々怠慢無く修め奉るべく候、何卒以って御執り成し、願いの通り仰せ付けさせられ下し置かれ候様、幾重にも願い上げ奉り候
              駿州安部郡北安東村
                熊野三社大権現神主
                    中村志摩
  文政四巳年三月
  浅野甲斐守様
    御役人衆中様


かつて、御先祖が建立に力を尽くしてくれた縁で、社殿が壊れてくる度に、寄附のお願いをしているのであるが、当の浅野甲斐守の方が、昔のような力を失い、手元不如意で、申し越しに困惑している。その書状が次に続く。
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「大井川」で町興し案

(散歩道のマツヨイグサ、5月6日撮影)

「大井川」を島田市統合のシンボル、町興しの起爆剤にしようと、昨日書き込んだ。それでは具体的にどんなことが考えられるのか。私案の一部を書いてみたい。

行政が町興しを考えるときに、何が大切かというと、地域住民をどれだけその気にさせて、巻き込んでいけるかということであろう。「大井川」はそのための動機付けであり、大義名分になることを、実例で説明してみよう。

島田市では、大井川鉄道の新金谷駅構内に、市の予算を付けて、転車台を作り、その完成を祝って、今年秋にSLフェスタの開催を計画している。この計画については、大井川鉄道という一民間企業に、予算を付けることに市民の間には賛否両論があり、SLフェスタも市民の盛り上がりがなければ、寂しいものになってしまう。もし、島田市のシンボルに「大井川」が掲げられていれば、転車台も大義名分が立ち、SLフェスタも、大井川を利用した森林開発、電源開発と、大井川鉄道敷設の歴史などの発掘、啓蒙で裏打ちがされて、市民を巻き込むことも出来るように思う。

また島田市では、大井川河川敷のマラソンコースを使って、今年も「しまだ大井川マラソンinリバティ」を実施する予定であるという。評価の高いマラソンだと聞くが、これも「大井川」町興しの一環と考えることで、走る参加者だけでなくて、応援での参加者を含めて、さらに盛り上がった大会に出来ると思う。

このように、現在考えられているイベントでも、そのほとんどが「大井川」に絡んだものになりそうである。

当然、「大井川」に因んでイベントの私案もいくつかある。例えば、島田市に本社のある大井神社は、大井川流域を中心に広がっている、ローカルな水の神様である。村の小さな神社まで含めて75社あるといわれている。この75社の神社を地図で明らかにして、神社参拝ラリーをやって見てはどうだろう。年間通して継続して、達成した人には記念品を出す。こういうイベントで島田市民は市内で有りながら、足も踏み入れたことのない集落に足を運ぶことになり、地元の人たちとの交流も出来る。地元の人たちは、地域に伝わる伝説や逸話などを、神社の境内に手作りの立て札などで紹介してもらう。

この大井神社参拝ラリーは、近いうちに自分で勝手に始めて、このブログで紹介するようになると思う。

いくつか、考えていることはある。大井川は「鵜山七曲り」といわれるように、大きく蛇行して流れている。日本国内でもこれだけの規模の川の蛇行が見られる川は珍しいと思う。この蛇行は空から眺めると一番良く分かるが、流域の山からも見ることが出来るはずである。いわば「鵜山七曲り」ビューポイントを探して、山を歩くというのも面白いと思う。

自分の趣味の世界に入ってしまったが、「大井川」をテーマに考えていけば、多くの町興しのテーマを思いつくことが出来る。
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