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いじめ自殺の報道

(いじめ自殺の言葉が紙面におどる)

この頃、ニュースでいじめが原因の子供の自殺が頻繁に報道されている。今までのいじめ自殺との違いは、本人がいじめを受けたとの遺書を残していることである。マスコミは誰がいじめたのか、いじめの犯人探しと責任の所在の報道を、これでもかと行っている。先生までいじめに加わっていたとの報道に、ただ驚きあきれるばかりである。しかし、一方で何かおかしいと感じている。

40年前、中学の同じクラスの男子が自殺した。遺書は無く、原因はわからなかった。父兄は子供の自殺を恥じた。発表は遊んでいての事故だったとされた。生徒たちは何かうそっぽいと感じていた。弔辞で悩みがあるならどうして一言相談してくれなかったか、というような内容を読んだ覚えがある。教師は自分の出来ることがあったのではないかと、かなり悩み苦しんだ。(これは何年かして本人から聞いた)もちろん大きく報道されることもなかった。昔の子供の自殺はそんなものだった。

今のいじめ自殺は遺書にいじめられたこと、その相手の名前まで書き記している。マスコミはその相手を徹底糾弾の構えである。自殺、遺書ということで皆んなよくよくのことと考えるのであろう。一方的にいじめた側を糾弾する。中には目には目を、いじめにはいじめを、と言ってはばからないニュースコメンテイターもいる。いじめた側の言い分は取材が出来ないのか、全く報道されることはない。

もっと冷静に事態を考える必要があると思う。いじめは良くないことは誰も判っている。しかし、テレビでは特定のタレントをいじめて楽しむバラエティが幾つもある。いじめられキャラを本人が承知の上でのいじめだから、その世界で問題が起こることはないが、それをまねて遊びとして学校で起きたらどうなるか。限度を知らないから、冗談で笑って済むことと、やってはならない領域の判断が、子供たちに出来ないのではなかろうか。

学校では、死ぬということがどういうことなのか、もっと真剣に教えるべきであろう。昔は無かったバーチャルな世界で、親指一本で死が実現し、リセットすればいつでも生き返ってくる。今の子供たちは死をそんなものとしてしか理解していないのではないか。戦後は人の死こそ身近でなくなったが、自分の子供の頃は、昆虫採集や身近な自然の中で、生き物の死の一部始終を現実の問題として体験できた。

子供を自殺させてしまった責任は、その第一は一番身近にいる親にあると思う。ところが自殺した子の親の発言を聞いていると、いじめた相手への非難は聞こえるが、自分たち親の責任への言及が聞こえないのは不思議である。

このように大げさな騒ぎが続けば、死ぬことを何とも思っていない子供たちは、憎い相手を糾弾する手段に自殺と遺書を利用することさえ起るかもしれない。
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