(120)華水橋
江戸川橋から船河原橋までの間、短い区間ながら歩くのは誠に煩わしい。車の多い道路の横を歩くのは煩わしいし、何となく汚れて見える川の横を歩くのも煩わしい。高速道路に蓋をされた下を歩くのは、もっと煩わしい。川沿いに歩けずに、橋を探しながら歩くのも煩わしいが、工事中のため大回りさせられるのは、さらに煩わしい。ともかく、我慢して歩く。次の橋は、「華水橋」。橋の名の由来は不明。最初の架橋は大正の頃だろう。前に来た時は、昔ながらの鋼橋だったが、今は軽やかなグレイの橋になっている。
(121)掃部(かもん)橋
次の橋は「掃部橋」。この辺りに、歌舞伎町付近に発する蟹川が流れ込んでいたらしいが、今は暗渠化されて、どこを流れているか分からなくなっている。前に来た時、「掃部橋」は古い緑色の鋼橋だったが、今は灰色のスマートな橋に変わっている。ただ、近辺の風景の中では、弱々しい橋にしか見えない。江戸時代、この橋は無名の橋だったが、吉岡掃部という紺屋に因んで「掃部橋」という俗称で呼ばれていた。今は、その俗称が橋の公式な名称となっている。それにしても、橋に名を残す吉岡掃部とは、どんな人物だったのだろう。
(122)古川橋
この橋は、古川町から小日向水道町に渡る橋ゆえ、「古川橋」と称し、また「そだ橋」という通称もあったという。将軍が鷹狩に行く時に渡っていた橋でもある。前に来た時は古い鋼板桁橋を渡ったが、現在は工事中で渡ることは出来ない。大回りして次の橋へ行く。
(123)石切橋
江戸時代、この辺りでは幅の広い橋であったので、「大橋」という名が付いていたが、通称では、近くに居た石工に因んで「石切橋」と呼んでいた。前に来た時は、まだ緑色の鋼橋のままであったが、今はグレイの軽やかな橋に切り替わっている。明治の中頃、この橋から隆慶橋まで桜が植えられ、花見客で賑わったらしいが、今、その面影はどこにも無い。
(124)西江戸川橋
明治になってから木橋を架けたのが「西江戸川橋」の始まりという。橋の名は、旧町名からだが、前田橋と呼ばれることもあったらしい。前に来た時は青色の鋼板桁橋であったが、今は桜色の軽快な橋になっている。この橋の近く、護岸の壁面に船運の浮き彫りがある。残念ながら、見づらい位置にあり、かなり汚れてもいる。どうせ金をかけるなら、橋に金をかけたらと思うのだが、多分、見解の相違があるのだろう。
(125)小桜橋
橋の名は、桜の名所だったことに因むのだろう。「小桜橋」が架けられたのは昭和の初めだが、大正の頃に架けられていた無名の橋が、その前身かも知れない。今は桜色の軽やかな橋だが、前に来た時は未だ工事中で、化粧途中の姿を見せていた。それから十数年経って、「華水橋」から「小桜橋」の間の六ヶ所のうち、五か所が完了。あとは、「古川橋」を残すだけだが、距離にして1kmほどの区間の改修に、かなりの時間を掛けたことになる。
(126)中之橋
前に来た時は新装の橋を渡ったが、今回、十数年ほど経過して少し大人びてきた橋を渡る。橋の名の由来は、江戸時代、「石切橋」と「龍慶橋」の間に、新たに架けられた橋だからという。明治のころ、この橋の付近は観桜の中心地として賑わっていたらしいが、今は何もない。
(127)新白鳥橋
「白鳥橋」のバイパスとして斜めに架けられた橋で、ただ車を通すためだけの、何の飾り気も無い橋である。上流側には、付けたしのような歩道がついている。
(128)白鳥橋
神田川が大きく屈曲していることから、大曲という地名が生じ、明治になって、ここに石造の大曲橋が架けられる。昭和に入って、この橋の後を継いだのが鋼板橋の「白鳥橋」で、今も、そのままらしい。橋の名の由来は、むかし、この辺りが白鳥池という大きな池であったからという。この池が埋め立てられたのは、明暦の大火のあとである。
(129)新隆慶橋
前に来た時には、未だ存在していなかった橋で、神田川では最も新しい橋になる。道幅が広いので、遠くから見ると、橋のようには見えない。
(130)隆慶橋
嘉稜紀行によると、三代将軍に仕えていた大橋龍慶が、その宅地に穴八幡を勧請して、替え地となった小日向に移り住んだことがあり、その住居に行くための橋が龍慶橋と呼ばれるようになったという。現在の橋は、前に来た時と変わらぬ鋼板の橋で、渡りたいと思う橋には程遠いが、この辺の雰囲気には合っているのだろう。ところで、この橋の東側に奇妙なタバコの広告塔があったように記憶しているのだが、今回は見当たらなかったような気がする。
(131)船河原橋
飯田橋の交差点の歩道橋に上がると、「船川原橋」と「飯田橋」が作る三角形の上を、車が往来しているのが見える。西側にあるのが「飯田橋」で、今は外堀の暗渠出口に架かっている。北側にある橋が「船河原橋」で、斜めに架けられている橋も一緒にして「船河原橋」と呼んでいる。現在の神田川は、L字型に曲がって東に流れているが、江戸時代は、外堀と直交しており、現在より上流に「船河原橋」が架けられ、「飯田橋」は架けられていなかった。橋の名の由来は、橋の下流が船溜まりになっていたからといい、また、落ちる水の音から「どんと橋」とも呼ばれていた。
江戸川橋から船河原橋までの間、短い区間ながら歩くのは誠に煩わしい。車の多い道路の横を歩くのは煩わしいし、何となく汚れて見える川の横を歩くのも煩わしい。高速道路に蓋をされた下を歩くのは、もっと煩わしい。川沿いに歩けずに、橋を探しながら歩くのも煩わしいが、工事中のため大回りさせられるのは、さらに煩わしい。ともかく、我慢して歩く。次の橋は、「華水橋」。橋の名の由来は不明。最初の架橋は大正の頃だろう。前に来た時は、昔ながらの鋼橋だったが、今は軽やかなグレイの橋になっている。
(121)掃部(かもん)橋
次の橋は「掃部橋」。この辺りに、歌舞伎町付近に発する蟹川が流れ込んでいたらしいが、今は暗渠化されて、どこを流れているか分からなくなっている。前に来た時、「掃部橋」は古い緑色の鋼橋だったが、今は灰色のスマートな橋に変わっている。ただ、近辺の風景の中では、弱々しい橋にしか見えない。江戸時代、この橋は無名の橋だったが、吉岡掃部という紺屋に因んで「掃部橋」という俗称で呼ばれていた。今は、その俗称が橋の公式な名称となっている。それにしても、橋に名を残す吉岡掃部とは、どんな人物だったのだろう。
(122)古川橋
この橋は、古川町から小日向水道町に渡る橋ゆえ、「古川橋」と称し、また「そだ橋」という通称もあったという。将軍が鷹狩に行く時に渡っていた橋でもある。前に来た時は古い鋼板桁橋を渡ったが、現在は工事中で渡ることは出来ない。大回りして次の橋へ行く。
(123)石切橋
江戸時代、この辺りでは幅の広い橋であったので、「大橋」という名が付いていたが、通称では、近くに居た石工に因んで「石切橋」と呼んでいた。前に来た時は、まだ緑色の鋼橋のままであったが、今はグレイの軽やかな橋に切り替わっている。明治の中頃、この橋から隆慶橋まで桜が植えられ、花見客で賑わったらしいが、今、その面影はどこにも無い。
(124)西江戸川橋
明治になってから木橋を架けたのが「西江戸川橋」の始まりという。橋の名は、旧町名からだが、前田橋と呼ばれることもあったらしい。前に来た時は青色の鋼板桁橋であったが、今は桜色の軽快な橋になっている。この橋の近く、護岸の壁面に船運の浮き彫りがある。残念ながら、見づらい位置にあり、かなり汚れてもいる。どうせ金をかけるなら、橋に金をかけたらと思うのだが、多分、見解の相違があるのだろう。
(125)小桜橋
橋の名は、桜の名所だったことに因むのだろう。「小桜橋」が架けられたのは昭和の初めだが、大正の頃に架けられていた無名の橋が、その前身かも知れない。今は桜色の軽やかな橋だが、前に来た時は未だ工事中で、化粧途中の姿を見せていた。それから十数年経って、「華水橋」から「小桜橋」の間の六ヶ所のうち、五か所が完了。あとは、「古川橋」を残すだけだが、距離にして1kmほどの区間の改修に、かなりの時間を掛けたことになる。
(126)中之橋
前に来た時は新装の橋を渡ったが、今回、十数年ほど経過して少し大人びてきた橋を渡る。橋の名の由来は、江戸時代、「石切橋」と「龍慶橋」の間に、新たに架けられた橋だからという。明治のころ、この橋の付近は観桜の中心地として賑わっていたらしいが、今は何もない。
(127)新白鳥橋
「白鳥橋」のバイパスとして斜めに架けられた橋で、ただ車を通すためだけの、何の飾り気も無い橋である。上流側には、付けたしのような歩道がついている。
(128)白鳥橋
神田川が大きく屈曲していることから、大曲という地名が生じ、明治になって、ここに石造の大曲橋が架けられる。昭和に入って、この橋の後を継いだのが鋼板橋の「白鳥橋」で、今も、そのままらしい。橋の名の由来は、むかし、この辺りが白鳥池という大きな池であったからという。この池が埋め立てられたのは、明暦の大火のあとである。
(129)新隆慶橋
前に来た時には、未だ存在していなかった橋で、神田川では最も新しい橋になる。道幅が広いので、遠くから見ると、橋のようには見えない。
(130)隆慶橋
嘉稜紀行によると、三代将軍に仕えていた大橋龍慶が、その宅地に穴八幡を勧請して、替え地となった小日向に移り住んだことがあり、その住居に行くための橋が龍慶橋と呼ばれるようになったという。現在の橋は、前に来た時と変わらぬ鋼板の橋で、渡りたいと思う橋には程遠いが、この辺の雰囲気には合っているのだろう。ところで、この橋の東側に奇妙なタバコの広告塔があったように記憶しているのだが、今回は見当たらなかったような気がする。
(131)船河原橋
飯田橋の交差点の歩道橋に上がると、「船川原橋」と「飯田橋」が作る三角形の上を、車が往来しているのが見える。西側にあるのが「飯田橋」で、今は外堀の暗渠出口に架かっている。北側にある橋が「船河原橋」で、斜めに架けられている橋も一緒にして「船河原橋」と呼んでいる。現在の神田川は、L字型に曲がって東に流れているが、江戸時代は、外堀と直交しており、現在より上流に「船河原橋」が架けられ、「飯田橋」は架けられていなかった。橋の名の由来は、橋の下流が船溜まりになっていたからといい、また、落ちる水の音から「どんと橋」とも呼ばれていた。