夢七雑録

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谷端川(千川上水長崎村分水)跡を歩く-1-

2018-05-24 19:10:33 | 千川上水

千川上水は、元禄9年(1696)に玉川上水から分水して巣鴨の元舛まで素掘で引いた水路で、元舛から先は樋で給水していた。宝永4年 (1707)以降は農業用水としての利用が許され、各地で分水が行われるようになり、上水(飲用水)としての利用が休止された後も農業用水として利用されていた。長崎村分水(四ケ村分水)は千川上水の分水のなかでは最も距離が長く、谷端川に千川上水から助水すると共に新たな水路も設けて、長崎村、池袋村、中丸村、金井窪村に農業用水を供給していた。谷端川は千川駅近くの粟島神社の池を水源として南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北に流れ、下板橋駅の北側を回り込んで南東に流れ、小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいた川だが、現在は全区間が暗渠になっている。なお、千川上水を千川用水と称し、長崎村分水のような分水を千川分水と称することもあった。

(注)千川上水については、当ブログでも“千川上水花めぐり”として記事を投稿している。

長崎村分水の分水地点は千川駅近くの要町3の交差点の位置にあったというが、今は交差点の西側に千川の跡が親水公園として残っているだけである。一方、谷端川の水源はこの交差点から500mほど南東にある粟島神社の弁天池で、明治42年の地図には、分水地点から田圃の中を粟島神社に向かって流れる水路と、その途中で水路を横切る一本の道が記されている。長崎村分水の一番目の橋は、この道の橋ということになるが、その橋は千川駅前郵便局の近くにあったと思われる。

新編武蔵風土記稿の長崎村の項に村民持ちの弁天社とあるのが現在の粟島神社に相当する。嘉永7年の地図には丸い弁天池が描かれ、池から流れ出る谷端川に合流する長崎村分水が描かれているが、付近には道が記されていないので、当時は野道しかなかったと思われる。明治42年の地図では粟島神社を横切る道が記されており、この道によって池が南側と北側に分かれていたようである。南側の池は形が変わったにせよ今も残っているが、神社裏手の駐車場の辺りにあったという北側の池はすでに消滅している。谷端川は長崎村分水と合流したあと南東に流れ、その先で東側と西側に分かれて流れていたが、大正時代になって耕地整理が進められると水路の整理も行われ、大正15年の地図では谷端川も一本の直線的な水路にまとめられて南に流れるように変えられている。

粟島神社から西部区民事務所の横を通って、谷端川の跡をたどってみる。先に進むと、道は右に折れるようになる。ここを左に行く道は江戸時代からの道に相当し、東側の大山道(長崎神社の横を通って北上し大山に向かう道)に出ていた。先に進んで次の角を左に行くと要小の南側に出るが、この道は谷端川から分水して東に流れる分水路の跡に相当している。この分水路は谷端川の上流部をショートカットするように造られているが、上流部と中流部以下に供給する水の量のバランスをとるのが目的だったのかも知れない。嘉永7年の地図によると大山道を横切って東に流れ、中丸村の手前で谷端川の本流に合流する水路が書かれているが、途中の大山道を横切るに当たって水路を掘り下げ、橋を架けて大山道を通していたと思われる。明治の地図には、分水路は途中までしか記されていないが、末端は幾つかの細流となって田圃を潤し谷端川本流に流れ込んでいたと思われる。この分水路は、大正時代の終わりに直線的な水路となり、日之出橋付近で谷端川の本流に合流するようになったが、今は姿を消してしまっている。この分水路跡をたどると、大山道を横切ってから坂を下り、要町通りを渡って、その先の斜め前方への道に続いている。

分水路跡の道を見送って、先に進むと千早フラワー公園に出る。ここで、園内に展示されている大江戸線の試験車両として使われたリニアモーターカーを見てから先に進む。千早フラワー公園の南側の四つ角を東西に走る道は江戸時代からの道に相当し、谷端川には橋がかかっていた。ここを先に進むと巣鴨信金のある四つ角に出るが、東と西に分かれて流れていた谷端川はこの付近で合流していた。

谷端川には幾つかの支流があるが、その一つ長崎公園に発する支流の跡をたどってみる。千早フラワー公園の南側の四つ角を右に行く。道はやや上がって観音堂を過ぎると、学習院大学職員宿舎跡に造られた長崎公園に出る。公園の角には湧水による洗い場があり小川が東に流れていたという。その水路跡をたどってみる。道を挟んで東側の児童遊園の北側の道を東に、道を横断してさらに先に進むと、右手に西向不動の祠がある。この場所にあった不動湯という公衆浴場は廃業してしまったが、その横を流れていた水路の跡は今も確認できる。ここを右に行き次の角を左に曲がって行くと、小公園に長崎アトリエ村の説明版が置かれている。先に進むと巣鴨信金のある四つ角に出るが、また谷端川跡に戻ってきたことになる。ここを右に進むが、少し先で長崎公園からの流れが谷端川に合流していた。

谷端川跡の道を南に進み次の信号を渡る。ここを東西に走る道は、多少道筋が変わってはいるが江戸時代からの道で、谷端川に橋が架かっていた。この道を右に少し行ったところに第六天の祠があり池もあったが、今は駐車場となり何も残っていない。信号を渡りサンロードの商店街を南に向かう。大正14年の地図を見ると、踏切の少し手前で谷端川を渡る道、現在のサミット通りに相当する道が新たに作られている。また、西から合流してくる水路も記されているが、この水路は後に無くなり、線路の側溝がその代わりとなる。この辺り、谷端川の暗渠化以前には、大雨のあと膝ぐらいまで冠水することもあった。踏切を渡り左斜め方向の道に入り左に行く。桜並木はこの道が谷端川の水路跡に相当する事を示している。川は山手通りの下を潜り、南からの小流を入れて東流し、その先で北に向きを変えて西武池袋線の線路を越えるが、道はここで行き止まりとなる。大正14年の地図には、長崎神社から南に目白通りに出る江戸時代からの道が記されているが、線路の南側で谷端川に架かる橋は、この道の橋だけであった。なお、この道は山手通りによって分断されたため今は存在しない。大正15年の地図を見ると、多くの道が設けられるようになり、谷端川を渡る橋も数多く架けられるようになった。


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