(138)万世橋

江戸時代、現在の「万世橋」の西側に神田見附があり、筋違い門と筋違い橋があった。明治になると、門と橋は壊され、上流に石橋の万代橋が架けられる。その後、道路が変更になると、万代橋は廃止となり、その上流に万世橋が架けられるが、のちに「昌平橋」に改称する。一方、現在の「万世橋」付近には、私設の昌平橋が架けられていたが、昭和になって、現在位置に「万世橋」が架けられると、私設の昌平橋は廃止される。というわけで、ややこしい話の続きが終わったところで、神田川の南側を歩き、次の橋へ。
(139)神田ふれあい橋
山手線のガードを潜ってすぐ、細い道を入ると人道橋の「神田ふれあい橋」に出る。新幹線を上野まで延ばす際の工事用橋だったものを、地元の要望を入れて残した橋なのだそうだ。橋から戻り、柳森神社の狐と狸にちょいと頭を下げ、柳原土手だった頃を想像しながら、柳並木の道を歩く。ビルに邪魔されて、神田川を眺められないのは残念だが。
(140)和泉橋
江戸時代から、ここに橋があり、橋の北側にあった藤堂和泉守屋敷に因んで、「和泉橋」と呼ばれていた。橋の北側に行くと秋葉原駅だが、秋葉原駅が貨物専用の駅だった頃、駅に隣接して貨物を扱う船溜まりがあり、そこへの運河が、橋の上流側に造られていたという。橋の北側には、運河の跡もあるらしいが、今回はパスして、川の南側の道を先へ進む。
(141)美倉橋
江戸時代は、柳原新し橋と呼ばれていたが、明治以降は「美倉橋」と称するようになる。この辺りは三か所の蔵地があったことから、三蔵地と呼ばれていたが、後に、神田美倉町となり、この地名から橋の名が出たというわけだ。蔵を意識したデザインのトイレが橋際にあるが、間違える人は多分居ないのだろう。橋から戻って、次の橋へ行く。
(142)左衛門橋
明治になって架けられた橋で、当時は有料の私設の橋であった。「左衛門橋」の名の由来だが、橋の北側にあった酒井左衛門の屋敷から、左衛門河岸の名が生まれ、それが橋の名になったらしい。橋は渡らず、川の南側の道を、半ば目をつむりながら歩いて行く。
(143)浅草橋

江戸時代、ここに浅草見附があり、神田川には欄干宝珠付きの「浅草橋」が架かり、奥州街道が通っていた。明治になると、枡形櫓付きの見附は壊され、その石材で「浅草橋」は石橋に変わる。その後、鉄橋となり、さらに現在の橋となる。川の中を見ると屋形船が数多く停泊している。そんな様子を見ながら、ここからは神田川の左岸を歩く。
(144)柳橋

次は、神田川最下流の橋で、江戸時代は川口出口の橋と呼ばれていたが、後に「柳橋」と称するようになったという。橋の名の由来は、近くにあった矢の倉が柳に転じたという説と、柳原土手に由来するという説があるが、実は、薬研堀にあった橋が元の柳橋で、神田川の橋は新しい柳橋だという話もある。現在の橋は、小振りながら落ち着きがあり、柳も植えられていて、神田川を締めくくるに相応しい橋になっている。この先で、神田川は隅田川に流れ込み、25Kmの川路はめでたく終わりを告げることになるのだが、それでは物足りないと言うので、両国橋を渡って対岸から「柳橋」を眺めることになった。これで御終いかと思ったら、また柳橋まで戻ると言う。よくは分からぬが、言われた通りに戻る。どうやら、船宿で何か買う積りらしい。
外で待つ間、退屈なので、階段を下りて水面を眺めていると、何か大きな黒い影が泳いでいるのに気が付いた。なんだろうと思って身を乗り出した途端、足を滑らせて、川に落ちた。犬かきは得意な筈だったのだが、慌てたのだろう、したたか水を飲んだ。その時、少し薄れかけた意識の片隅で、女の子の声を聞いたように思った。
「ママ、見て、見て、ほら、犬が溺れてるゥ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おもとは居ないか。もとはいぬか」「いえ、今朝がた犬になりました」
(完)
【参考資料】今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
東京新聞社会部「神田川」、朝日新聞社会部「神田川」、坂田正二「江戸東京の神田川」、岩垣顕「神田川遡上」、神田川ネットワーク「神田川再発見」、石川悌二「東京の橋」、塩見鮮一郎「江戸の城と川」、芳賀善次郎「旧鎌倉街道探索の旅・中道編」、「三鷹市史」、「杉並区史」、鎌田達也「井の頭線沿線の一世紀」、「杉並の古道」、「杉並の地名」、「中野区史」、「地図で見る新宿区の移り変わり」、「落合の歴史」、「私たちの下落合」、「豊島区地域図」「東京都市地図」、「江戸情報地図」、「江戸切絵図集成」、ホームページ、その他。

江戸時代、現在の「万世橋」の西側に神田見附があり、筋違い門と筋違い橋があった。明治になると、門と橋は壊され、上流に石橋の万代橋が架けられる。その後、道路が変更になると、万代橋は廃止となり、その上流に万世橋が架けられるが、のちに「昌平橋」に改称する。一方、現在の「万世橋」付近には、私設の昌平橋が架けられていたが、昭和になって、現在位置に「万世橋」が架けられると、私設の昌平橋は廃止される。というわけで、ややこしい話の続きが終わったところで、神田川の南側を歩き、次の橋へ。
(139)神田ふれあい橋
山手線のガードを潜ってすぐ、細い道を入ると人道橋の「神田ふれあい橋」に出る。新幹線を上野まで延ばす際の工事用橋だったものを、地元の要望を入れて残した橋なのだそうだ。橋から戻り、柳森神社の狐と狸にちょいと頭を下げ、柳原土手だった頃を想像しながら、柳並木の道を歩く。ビルに邪魔されて、神田川を眺められないのは残念だが。
(140)和泉橋
江戸時代から、ここに橋があり、橋の北側にあった藤堂和泉守屋敷に因んで、「和泉橋」と呼ばれていた。橋の北側に行くと秋葉原駅だが、秋葉原駅が貨物専用の駅だった頃、駅に隣接して貨物を扱う船溜まりがあり、そこへの運河が、橋の上流側に造られていたという。橋の北側には、運河の跡もあるらしいが、今回はパスして、川の南側の道を先へ進む。
(141)美倉橋
江戸時代は、柳原新し橋と呼ばれていたが、明治以降は「美倉橋」と称するようになる。この辺りは三か所の蔵地があったことから、三蔵地と呼ばれていたが、後に、神田美倉町となり、この地名から橋の名が出たというわけだ。蔵を意識したデザインのトイレが橋際にあるが、間違える人は多分居ないのだろう。橋から戻って、次の橋へ行く。
(142)左衛門橋
明治になって架けられた橋で、当時は有料の私設の橋であった。「左衛門橋」の名の由来だが、橋の北側にあった酒井左衛門の屋敷から、左衛門河岸の名が生まれ、それが橋の名になったらしい。橋は渡らず、川の南側の道を、半ば目をつむりながら歩いて行く。
(143)浅草橋

江戸時代、ここに浅草見附があり、神田川には欄干宝珠付きの「浅草橋」が架かり、奥州街道が通っていた。明治になると、枡形櫓付きの見附は壊され、その石材で「浅草橋」は石橋に変わる。その後、鉄橋となり、さらに現在の橋となる。川の中を見ると屋形船が数多く停泊している。そんな様子を見ながら、ここからは神田川の左岸を歩く。
(144)柳橋

次は、神田川最下流の橋で、江戸時代は川口出口の橋と呼ばれていたが、後に「柳橋」と称するようになったという。橋の名の由来は、近くにあった矢の倉が柳に転じたという説と、柳原土手に由来するという説があるが、実は、薬研堀にあった橋が元の柳橋で、神田川の橋は新しい柳橋だという話もある。現在の橋は、小振りながら落ち着きがあり、柳も植えられていて、神田川を締めくくるに相応しい橋になっている。この先で、神田川は隅田川に流れ込み、25Kmの川路はめでたく終わりを告げることになるのだが、それでは物足りないと言うので、両国橋を渡って対岸から「柳橋」を眺めることになった。これで御終いかと思ったら、また柳橋まで戻ると言う。よくは分からぬが、言われた通りに戻る。どうやら、船宿で何か買う積りらしい。
外で待つ間、退屈なので、階段を下りて水面を眺めていると、何か大きな黒い影が泳いでいるのに気が付いた。なんだろうと思って身を乗り出した途端、足を滑らせて、川に落ちた。犬かきは得意な筈だったのだが、慌てたのだろう、したたか水を飲んだ。その時、少し薄れかけた意識の片隅で、女の子の声を聞いたように思った。
「ママ、見て、見て、ほら、犬が溺れてるゥ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「おもとは居ないか。もとはいぬか」「いえ、今朝がた犬になりました」
(完)
【参考資料】今回の連載にあたっては、次の資料を参考とさせていただきました。
東京新聞社会部「神田川」、朝日新聞社会部「神田川」、坂田正二「江戸東京の神田川」、岩垣顕「神田川遡上」、神田川ネットワーク「神田川再発見」、石川悌二「東京の橋」、塩見鮮一郎「江戸の城と川」、芳賀善次郎「旧鎌倉街道探索の旅・中道編」、「三鷹市史」、「杉並区史」、鎌田達也「井の頭線沿線の一世紀」、「杉並の古道」、「杉並の地名」、「中野区史」、「地図で見る新宿区の移り変わり」、「落合の歴史」、「私たちの下落合」、「豊島区地域図」「東京都市地図」、「江戸情報地図」、「江戸切絵図集成」、ホームページ、その他。
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