夢七雑録

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板橋七福神

2012-01-02 10:54:35 | 七福神めぐり

 板橋七福神の一枚刷りの説明(「光明」第六十二号より)には、彫金こと田中金太郎という彫師が、昭和11年に白木造りの七福神を彫り、板橋区南町の西光院に奉納したこと、その後、この七福神は近隣の真言宗豊山派の寺に一体づつ分けられた事が記されている。この七体の七福神を巡拝するのが、板橋七福神ということになる。対象となる寺院は板橋区と練馬区にまたがって各地に点在しており、歩くだけなら半日で回れないこともないが、七福神めぐりとしては距離が長いので、ウオーキングの積りで回った方がよさそうである。七福神像の御開帳は元旦から7日までだが、今回は、御開帳の期間外であっても楽しめるよう、江戸時代の道の探訪を兼ねた、寺院めぐりウオーキングコースとして考えてみた。

(1)西光院(板橋区南町31-1)

 板橋七福神には、決められた参拝順序が無いので、今回は、発端となった西光院から始めることにした。最寄駅は東上線の大山駅か、有楽町線の千川駅である。千川駅からだと、2番出口を出て、つるかめランド(ジョナサン)の角を曲がり、東に向かって20分ほど歩けば西光院に達する。寺の創建は江戸時代初期とされ、本尊は阿弥陀如来。七福神は大黒天を祭っている。現在の住所は、板橋区南町だが、江戸時代は豊島郡中丸村に属していた。
 西光院を出て左に行き、南町の交差点を渡って直進。川越街道を渡って最初の角を右に行き、高速道路の下の山手通りを渡る。その先、暗渠化された谷端(ヤバタ)川の上に作られた緑道に出る。橋の名は中丸橋である。西光院から中丸橋までの道は、御府内沿革図附図にも記載されている江戸時代からの道であり、谷端川までは中丸村の範囲になっていた。谷端川は、千川駅近くの淡島神社の弁天池を水源とし、千川上水からの助水を受けて南に流れ、椎名町駅の南側を回り込んで北に流れ、その後、下板橋駅の北側を回り込んで大塚駅方面に流れ、下流は水道橋駅付近で神田川に流れ込む川である。谷端川沿いには、大正時代に入っても田圃が残っていたが、昭和に入ると次第に、宅地化・都市化が進むことになった。
 谷端川を渡ると、現在の池袋本町、江戸時代の池袋村となる。渡ってすぐ、細い道に突き当たる。池袋村絵図にも記された江戸時代からの道で、右にいくと重林寺に出る。左に行くとすぐ、子育地蔵の祠がある。雑司ヶ谷と小石川の分岐点にあった地蔵を再建したものという。祠の横の細い道に入ると、少し先で、緩やかな坂の途中に出る。今は何の変哲もない道だが、江戸時代から、中山道や川越街道に出る便道としてよく利用された道であり、伊能忠敬の江戸府内図に記載されている道でもある。この道を右に行くと、雑司ヶ谷への道と、現・春日通りの道筋を通る小石川への道に分かれる。今回は、この道を左に行くが、少し先で再び谷端川跡の緑道に出る。橋の名は西前橋である。
 西前橋を渡った先は、現在の大山金井町、江戸時代の金井窪村となる。東上線の踏切を渡り、子易神社、宗仙寺を過ぎると、間もなく高速道路下の四ツ又の交差点に出る。ここは、江戸時代から、川越街道(旧)と交差する四つ角だった場所である。ここを左に行くと川越街道(旧)の上板橋宿に出る。今回は右に行き現在の中山道に出る。少し先に板橋郵便局があるが、その手前を右斜め前方に入る道は、千川上水の流路跡である。

 (2)観明寺(板橋区板橋3-25-1)

  板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿に分かれている。日本橋に近いのは平尾宿で、宿場町はJR板橋駅近くから始まっていたが、今は現・中山道によって分断されている。板橋郵便局の先で現中山道を渡り、左の板橋宿に入って、少し先の観明寺に行く。寺は室町時代初めの創建と伝えられる。本尊は正観音。七福神は恵比寿を祭る。観明寺の門は、近くにあった加賀藩下屋敷の通用門を移築したものという。下板橋宿絵図を見ると、平尾宿と仲宿の裏手、石神井川沿いの土地を加賀藩下屋敷が占有していたのが分かる。広さは22万坪。石神井川も屋敷内を流れていた。
 観明寺を出て先に進むと、王子新道の表示がある四つ角に出る。右に行く道が、明治になって開かれた王子新道で、左の道は、小石川や雑司ヶ谷から池袋、金井窪を経て、四ツ又を直進してきた道である。

(3)文殊院(板橋区仲宿28-5)

 王子新道の四つ角を過ぎて仲宿を歩いていくと、右手に遍照寺がある。左手には乗蓮寺という格式のある寺があったが、今は赤塚に移転して東京大仏で知られる寺になっている。下板橋宿絵図には乗蓮寺の北側を西に入る道が記されている。この道は旧川越街道に出ていたが今は途中で切れている。さらに進んで板橋宿の本陣があったというライフの横を入ると、本陣飯田家の菩提寺であった文殊院に出る。本尊は文殊菩薩。七福神は毘沙門天を祭る。文殊院の前の道は、お成り道と呼ばれており、将軍が鷹狩をする際に通ったとされているが、「いたばしの古道」には、大蛇がうなり声をあげたので「うなり橋」と呼んだという説も紹介されている。
 文殊院から戻って旧中山道を越え西に行き、現中山道を渡ると、右手に氷川神社がある。その前の道、豊島病院通りを西へ進む。この道は、下板橋宿絵図にも記載された江戸時代からの道である。この絵図には、下板橋宿の手前に設けた千川上水の洗堰から、使用しない水(悪水)を石神井川に落とす水路が記されており、西に行く道はその上を渡るようになっていたが、今は、この水路も暗渠化されている。下板橋宿(板橋宿)から西に行くと上板橋村に出る。ここからは、明治13年の迅速測図や明治以降の村絵図などをもとに、江戸時代の道を探しながら先に進む。

(4)長命寺(板橋区東山町48-5)

 豊島病院通りを先に進み、豊島病院の前を過ぎ、東上線のガードをくぐる。その先、仲町の交差点に出たら、ここを左に行く。この道は、一説に鎌倉街道の西回りの中道とされる道であり、そのまま進むと現川越街道に出る。ここは、旧川越街道と現川越街道との接点となる場所である。また、清戸道すなわち現在の目白通りから、椎名町駅近くの長崎神社の横を通って北上する江戸時代からの道も、この辺りで旧川越街道に合流していた。今回はショートカットして、轡神社角を右に行く。突き当たった先は、旧川越街道の上板橋宿である。
 上板橋宿は川越街道の一番目の宿場で、江戸に近い側から、下宿、中宿、上宿に分かれていた。宿場の規模が小さかったので、本陣などは置かず名主宅がその代わりをつとめていたという。今は宿場の雰囲気こそ無いが、どこか懐かしい商店街が続く道である。途中の稲荷社に掲示されている上板橋宿の略図からすると、稲荷社の辺りが中宿で、中板橋駅入口の交差点から先が上宿であったらしい。上宿の道は緩やかな下りとなって石神井川に出るが、その途中、左に入る道は薬師道と呼ばれ、新井薬師への参詣道である。石神井川に架かる下頭橋を渡ると道は二つに分かれる。旧川越街道は、左側の道である。この道をたどると交通量の多い交差点に出る。川越街道と環七通りを渡り、交差点の角の長命寺に行く。
 長命寺の創建は江戸時代前期。江戸時代は上板橋村に属していた。寺の周辺は豊島氏庶流という板橋氏の居城跡の候補地ともいう。七福神は福禄寿を祭っている。なお、上板橋宿絵図によると、下頭橋と長命寺の間で旧川越街道は用水路を渡っていた。この用水路は、あげ堀と呼ばれていた水路で、上板橋宿絵図には石神井川に戻されるまでの水路が記載されているが、今は、この水路も暗渠になっている。

(5)安養院(板橋区東新町2-30-23)

 長命寺を出て川越街道を左に行き、最初の角を左に入る道は、迅速測図に記載された旧道で、おそらく江戸時代からの道と思われる。この道は、上板橋小を過ぎ、二つ目の四つ角を左に折れ、次の角を右に折れて、突き当って左に行けば安養院に出られる道だが、分かりにくいので、今回は、長命寺を出て環七を右に少し歩き、右斜め方向に入る道を選ぶ。この道は、明治34年の上板橋村略図に記載されている道で、氷川神社の前を通って安養院の前に出る道である。安養院は鎌倉中期の創建とされ、本尊は阿弥陀如来。江戸時代は上板橋村に属していた。七福神は弁財天を祭る。
 迅速測図や上板橋村略図には、あげ堀の水路も記載されている。詳細は「練馬の歴史と文化財」の田柄用水の記事に譲るが、あげ堀というのは、石神井川から取水して水位を上げた用水のことで、現・光が丘方面から流れてきた田柄川の下流と安養院付近で交差し、氷川神社の前を通って長命寺方向に流れていた。この用水は灌漑用で、安養院の南側の石神井川沿いは水田が続く土地であったが、今は様変わりしている。
 安養院を出て石神井川を台橋で渡る。次の信号で、左前方に行く道を上がり、環七通りを渡る。その先、左前方に行く道を上がって下ると整肢療護園の信号に出る。台橋からここまでの道は、明治以前の道とは異なる道である。ここから先の道は大谷道と呼ばれ、川越街道の間道として江戸時代から利用されていた道であったらしい。

(6)西光寺(板橋区大谷口2-8-7)

 整肢療護園の信号から先、坂を下る。今は田圃も小川も姿を消しているが、付近一帯は昭和30年代頃まで田圃だった場所で、えんが堀と呼ばれる水路が石神井川に流れ込んでいた。えんが堀というのは妙な名だが、「いたばしの地名」には、小河川を表す江川から来たとする説と、排水路(悪水路)の呼び名という説が紹介されている。個人的には排水路説を支持するが、この種の地名の由来は判然としない事が多いようである。なお、地形的にみれば、板橋七福神の能満寺の近くから流れてきた自然河川が、そのまま石神井川に流れ込んでいたのが本来の姿で、後に灌漑用水路または排水路として下流部を整備したのが、えんが堀と思われる。
 さて、道を先に進むと上り坂となる。その手前に、北豊島郡誌記載の向原の溜池を水源とする小川が流れていたらしいが、今はその姿を見る事が出来ない。道を先に進み、坂を上がると西光寺の看板がある。入口を示す矢印に従って右に折れ、次の角を左に曲がって、西光寺の門前に出る。西光寺の本尊は正観音。江戸時代、寺は上板橋村に属していた。七福神は布袋尊である。
 西光寺の門前の道を南へ歩いて行くと、大谷口給水所前のT字路からくる道に出るが、今回は少し寄り道をする。西光寺裏手の大谷道、今の大谷口中央通りに出て、大谷口給水所前のT字路に出る。目の前には、大谷口水道タンク跡に建てられた給水所の塔が聳えている。T字路のすぐ先を左に入り、大谷口上町公園に行く。公園の西側は深い谷になっている。上板橋村略図には、この谷底にあったとされる池が記され、この池からの流れが、向原の溜池からの流れと合流して石神井川に流れ込む水路が記載されている。この池は、北豊島郡誌に記載されている大谷口の溜池と思われる。池の広さは1396坪あったという。上板橋村略図には、大谷口上町公園の横を通る道も記載されている。この道は、上板橋宿の上宿から来る薬師道であろう。なお、T字路から大谷道を東に行くと川越街道(旧)に出る。その先に続く道は、下板橋宿の乗蓮寺の横に出る道であったが、今は、都養育園付近で道が途切れてしまっている。

(7)能満寺(練馬区旭丘2-15-3)

 大谷口給水所前のT字路から南に行く。この道筋は、鎌倉街道の中道に相当するという説もあり、東側には旧道と思われる道が一部残っている。先に進むと右側の土地が低くなっている事に気付く。向原の溜池は道の右側の谷底にあったらしい。さらに進むと七差路に出る。そのまま進めば、千川駅からも近い要町三の交差点に出る。その先を直進する道は、千川上水路跡に沿って西武池袋線を越え、中野通りにつながって新井薬師方面に向かう道である。今回は、七差路で右に行く道を進む。この道は迅速測図に記載されている道であり、おそらく江戸時代からの道と思われる。少し先で広い道(441号)を渡って直進し、豊島高を過ぎると、道は下りとなる。下りきった辺りは、昭和30年頃まで水田地帯だった場所である。ここを流れていたのは、能満寺近くを流れていた小川と、現・千早高付近を源流とし千川上水の築樋と立体交差していた小川とが合流した川であったと思われる。大正6年の上板橋村略図によると、この川は北に流れて、北豊島郡誌に小竹の溜池として記されている、江古田駅北口の浅間神社の裏手にあった御手洗池から流れ出た小川を合わせ、さらに、武蔵野病院近くにあったと思われる毛呂の池からの小川も合わせ、北流して石神井川に落ちていた。その下流が、えんが堀である。
 道を先に進み、坂を上って旭丘中の角を左に入ると能満寺の横に出る。さらに進んで右に折れると、能満寺の入口がある。その参道は、近辺が農村だった頃の懐かしい雰囲気を残している。能満寺は江戸時代の初めの創建と伝えられる。夏に雪が降って景色が良いことから堂宇を建てたという由緒から、夏雪山の山号を持つ。本尊は不動明王。七福神は寿老人を祭る。能満寺は、多摩郡江古田村の住人により開発されたことから江古田新田と呼ばれていた地域にあり、江戸時代は、長命寺、安養院、西光寺とともに上板橋村に属していた。その後、能満寺は板橋区に属するようになるが、板橋区と練馬区が分かれたため、現在の所在地は練馬区になっている。
   
 能満寺の近辺は昭和30年頃まで水田があった場所である。湧水がどの程度あったかは分からないが、千川上水からの分水もあったらしく、南側の千川上水跡から区境に沿って分水路の跡と思われるものが確認されているという。この分水は明治16年頃の千川上水路図には記載されていないが、少なくとも西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が開業した大正4年以前に分水されたと思われる。千川上水が西武池袋線の線路を越える場所からも分水があったとされるが、もともと踏切の辺りが湧水地であった可能性もある。なお、明治以降も千川家による水路の見回りは行われており、水利組合も結成されていたようなのので、勝手に分水したわけではないのだろう。
 能満寺の最寄り駅は西武池袋線の江古田駅である。能満寺を出て右に行き、変電所の前を右に折れ、旭丘小を過ぎ、日大芸術学部の裏手を歩いていけば、江古田駅に出られる。今回のコースは、今でこそ緑の少ないルートになっているが、昭和30年代までは、田畑があちこちに残り、小川も流れている、緑豊な郊外の道を歩くコースであったろう。


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