夢七雑録

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気ままに亀戸散歩(3)

2010-03-22 10:07:54 | あの町この町

 写真は、西側の松本橋から横十間川の向こうの亀島橋を眺めたもので、遊歩道の工事が行われていた頃のものである。現在は亀島橋からさき旧中川合流点まで、竪川は暗渠化され竪川河川敷公園として公開されている。竪川の護岸には、護岸ギャラリーという名で、画家や美大生、生徒、それに一般参加の作品を含む壁画が描かれている。その壁画も年を経るにつれ色も褪せ、壁面にはひび割れが生じ、草が生え木の枝も伸びて、当初の姿を著しく損じているようにも見える。確かに、制作者にとっては、作品を完成した時が最良の状態で、後は退化していくだけなのかも知れないが、受け手にとっては、必ずしも、古いものが悪いという訳ではない。時には、壁面の傷や草や木と、本来の壁画との取り合わせが面白く感じられたりもする。劣化もまた美なりというわけだ。

 少し前のことになるが、完成する前の竪川河川敷公園を歩いていたことがある。当時は丸八通りから東側は未完成で、竪川の水面が顔を覗かせており、川の北側は開発事業が進行中で、造成地の中に由緒ありげな塚が一つ取り残されていた。近づいてみると、塚の場所にあった社殿は既に仮宮に移されていて、参詣者のための仮の道が作られていた。それが、亀戸の浅間神社で、古墳時代の遺跡の上に富士塚が作られ、その上に社殿が建てられたということであった。仮宮をそっと拝んでから北に行き、京葉道路を渡って、さらに北に行き、途中で西に向かった。すると、広い道路にぶつかった。こんな所にこんな道路があるとは知らなかったが、構わずに、その道路を渡った。しばらく歩いたところで、見たような場所に出た。周りを見回してみると、塚があった。一瞬ぎょっとした。浅間神社の塚だったのだ。慌てて北へ行き、京葉道路を渡ろうとしたが、そこで、無限ループに陥りそうな気がして、踏みとどまった。実は、北へ行く積りで北西に行き、西に行く積りで南西に行き、京葉道路をそれと気付かずに渡って、元の場所に戻っただけの事だったのだが、その時は、浅間神社の塚に招き寄せられたような気がした。それから暫くして、この塚を発掘したところ、下から古い塚が現れたという記事を新聞で読んだ。多分、土地の造成工事により塚が消滅してしまうため、事前に発掘したのだろうと、その時は考えていた。

 今回、暫くぶりにこの地に来てみると、浅間神社は現在地に移されていて、富士塚であり浅間神社本殿跡地でもある場所が、整備されて残されていた。この辺りは、オトタチバナヒメの笄が漂着した浮洲で、笄を埋めて祠を立てたという、笄塚の伝承が残っている。この笄塚の上に創立されたのが浅間神社で、その時期は室町時代か近世初期という。笄塚の上に富士塚を築き、その上に浅間神社を建てたということであろうか。明治になると、現在の富士塚が築かれ、浅間神社も改築されている。発掘によって出現した古い塚は、もとの富士塚だということだが、笄を納めた塚がどうなってしまったのかは分からない。なお、ヤマトタケルとオトタチバナヒメについての伝承は、ここだけではなく、近くの北十間川沿いの吾嬬神社や、品川の寄木神社、それに、走水や木更津の周辺にも残っている。


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