東京都の歴史と文化の散歩道のうち「千住コース」は、「下谷縁日散歩(上野駅~鷲神社)」、「たけくらべ千住の大橋散歩(鷲神社~北千住駅)」から成る。距離は7.8kmである。
(1)下谷縁日散歩

谷中コースの、下町風俗資料館近くの標識Aは、千住コースの起点でもあるのだが、千住コースだけを歩くのであれば、上野駅が起点という事になるのだろう。上野駅の不忍口を出て左へ行き上野駅正面を過ぎる。今は少々影が薄くなっているが、ここが上野駅の玄関口という事になる。その先、JRの敷地に沿って北に向かう道を入谷口通りと言うらしいが、この道の左側の歩道を歩いていくと、歴史と文化の散歩道の案内板がひっそりと置かれている。その内容は、ルート図、上野駅の歴史についての説明、明治時代の上野駅の絵である。案内板の少し先には、上野駅の入谷口があるが、出入りする人は多くなさそうである。ここを過ぎてから、右側の歩道に移って先に進み、信号の一つ手前の角を、標識Cにより右に折れると、正面にスカイツリーが見えてくる。この道を進んで昭和通りを渡り、その先の信号を渡った左側に、道路に挟まれた北上野児童遊園があり、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、今は枠だけになっている。児童遊園東側の清洲橋通りを渡って、直進する言問コースと分かれ、左に折れて、清洲橋通りの右側の歩道を北に向かう。

清洲橋通りは、少し先で昭和通りに合流し、言問通りとの交差点に出る。7月の朝顔市の時は、この交差点の西側には出店が並び、周辺一帯が大混雑する。言問通りを渡って昭和通りを進み、二つ目の信号を右に入る。先に進んで国際通りを渡ると鷲神社の前に出る。毎年、酉の市の時は熊手を売る店が並び、境内は人で埋め尽くされるが、今は、がらんとして拍子抜けするぐらいである。なお、鷲神社は、浅草名所七福神の寿老人も祭っている。
(2)たけくらべ千住の大橋散歩

鷲神社の前を北に少し行くと、右斜め前方に入る道がある。この道に入り、次の角を左折すると、下谷七福神の飛不動がある。飛不動の前を北に向かって進み、信号を右折して次の角を左折すると、その先に一葉記念館がある。時間があれば寄りたいところだが、今回はパスして、記念館の前の道を北に進み、左に折れて飛不動の前の道に戻る。この道を北に進むと、下谷七福神の寿永寺に出る。この道をさらに進むと、明治通りに出る。渡れば、三ノ輪駅の入口がある。

三ノ輪駅入口から北に行き、次の角を標識Cに従って右に折れる。道は分かりにくいが、投げ込み寺とも呼ばれた浄閑寺の前を通る道がルートである。ここから、左側の歩道を東に向かって歩いていくと、昔の奥州街道(日光街道)、吉野通りに出る。ここを標識Cにより左折し、その先の跨線橋を渡る。橋を下りた左側には小塚原の処刑場跡があり、常磐線のガードをくぐった先には回向院がある。先に進んで、南千住七の信号で左に折れる。ここからは右側の歩道を歩き、日光街道を渡って、その先の千住間道を進むと、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、奥州街道と千住宿の説明、江戸名所図会による千住大橋の図である。当初の千住宿は現・北千住駅近くにあったが、次第に拡張され、後には千住大橋の南側も千住宿に組み入れられるようになったという。

千住間道を西に進むと、荒川総合スポーツセンターに出るので、ここを右に折れる。この辺りは、明治時代に千住製絨所という官営工場があり、戦後には大毎オリオンズの本拠地・東京スタジアムがあった場所でもある。先に進み、次の角を野球場に沿って右に折れ、道なりに左折し、さらに右に折れる。スーパーの横に千住製絨所の煉瓦塀の一部が今も残っている。その先の左側には荒川ふるさと文化館があり、ここも入ってみたいところだが今回はパスして、その先の素盞雄神社に寄ってから日光街道に出る。

左側の歩道で日光街道を進み、千住大橋で隅田川を渡る。橋を渡った先の左側に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、広重の「名所江戸百景・千住乃大はし」の図、蕪村の「奥の細道図屏風」の部分図、千住大橋の説明である。蕪村の図は、芭蕉の「奥の細道」を蕪村が書写し俳画を加えた屏風で、案内板には、「月日は百代の過客にして・・」に始まる序章と旅立が取り上げられている。案内板の文章は読みにくいが、8行目は「草の戸も住替る代ぞひなの家」、また、その先の○の後は「いく春や鳥啼魚の目ハ泪」と思われる。

先に進んで、次の信号で現・日光街道を渡ると、千住宿奥の細道プチテラスがあるが、プチテラスの前の道が旧街道である。この道を進み京成本線のガードをくぐって千住河原町を歩く。ここには千住宿歴史プチテラスがある。この辺り、元やっちゃ場(青果市場)の表示も目につく。もとは堤防であった墨堤通りを渡り、江戸時代には掃部宿と呼ばれていた千住仲町を進むと、東京芸術センターの前を通る道路に出る。この道路は、江戸時代に水路だったところで、その南側には一里塚や高札場があった。この水路を小橋で渡った先が当初からの千住宿(本宿)で、橋の近くには問屋場や貫目改所が置かれていた。ここから先、今は千住本町センター商店街になっている旧街道を進むと、駅前通りに出る。標識Bにより駅前通りを右に行くと、このコースの終点、北千住駅となる。
(注)当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」に下谷七福神の記事あり。
(1)下谷縁日散歩

谷中コースの、下町風俗資料館近くの標識Aは、千住コースの起点でもあるのだが、千住コースだけを歩くのであれば、上野駅が起点という事になるのだろう。上野駅の不忍口を出て左へ行き上野駅正面を過ぎる。今は少々影が薄くなっているが、ここが上野駅の玄関口という事になる。その先、JRの敷地に沿って北に向かう道を入谷口通りと言うらしいが、この道の左側の歩道を歩いていくと、歴史と文化の散歩道の案内板がひっそりと置かれている。その内容は、ルート図、上野駅の歴史についての説明、明治時代の上野駅の絵である。案内板の少し先には、上野駅の入谷口があるが、出入りする人は多くなさそうである。ここを過ぎてから、右側の歩道に移って先に進み、信号の一つ手前の角を、標識Cにより右に折れると、正面にスカイツリーが見えてくる。この道を進んで昭和通りを渡り、その先の信号を渡った左側に、道路に挟まれた北上野児童遊園があり、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれているが、今は枠だけになっている。児童遊園東側の清洲橋通りを渡って、直進する言問コースと分かれ、左に折れて、清洲橋通りの右側の歩道を北に向かう。

清洲橋通りは、少し先で昭和通りに合流し、言問通りとの交差点に出る。7月の朝顔市の時は、この交差点の西側には出店が並び、周辺一帯が大混雑する。言問通りを渡って昭和通りを進み、二つ目の信号を右に入る。先に進んで国際通りを渡ると鷲神社の前に出る。毎年、酉の市の時は熊手を売る店が並び、境内は人で埋め尽くされるが、今は、がらんとして拍子抜けするぐらいである。なお、鷲神社は、浅草名所七福神の寿老人も祭っている。
(2)たけくらべ千住の大橋散歩

鷲神社の前を北に少し行くと、右斜め前方に入る道がある。この道に入り、次の角を左折すると、下谷七福神の飛不動がある。飛不動の前を北に向かって進み、信号を右折して次の角を左折すると、その先に一葉記念館がある。時間があれば寄りたいところだが、今回はパスして、記念館の前の道を北に進み、左に折れて飛不動の前の道に戻る。この道を北に進むと、下谷七福神の寿永寺に出る。この道をさらに進むと、明治通りに出る。渡れば、三ノ輪駅の入口がある。

三ノ輪駅入口から北に行き、次の角を標識Cに従って右に折れる。道は分かりにくいが、投げ込み寺とも呼ばれた浄閑寺の前を通る道がルートである。ここから、左側の歩道を東に向かって歩いていくと、昔の奥州街道(日光街道)、吉野通りに出る。ここを標識Cにより左折し、その先の跨線橋を渡る。橋を下りた左側には小塚原の処刑場跡があり、常磐線のガードをくぐった先には回向院がある。先に進んで、南千住七の信号で左に折れる。ここからは右側の歩道を歩き、日光街道を渡って、その先の千住間道を進むと、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、ルート図、奥州街道と千住宿の説明、江戸名所図会による千住大橋の図である。当初の千住宿は現・北千住駅近くにあったが、次第に拡張され、後には千住大橋の南側も千住宿に組み入れられるようになったという。

千住間道を西に進むと、荒川総合スポーツセンターに出るので、ここを右に折れる。この辺りは、明治時代に千住製絨所という官営工場があり、戦後には大毎オリオンズの本拠地・東京スタジアムがあった場所でもある。先に進み、次の角を野球場に沿って右に折れ、道なりに左折し、さらに右に折れる。スーパーの横に千住製絨所の煉瓦塀の一部が今も残っている。その先の左側には荒川ふるさと文化館があり、ここも入ってみたいところだが今回はパスして、その先の素盞雄神社に寄ってから日光街道に出る。

左側の歩道で日光街道を進み、千住大橋で隅田川を渡る。橋を渡った先の左側に、歴史と文化の散歩道の案内板が置かれている。その内容は、広重の「名所江戸百景・千住乃大はし」の図、蕪村の「奥の細道図屏風」の部分図、千住大橋の説明である。蕪村の図は、芭蕉の「奥の細道」を蕪村が書写し俳画を加えた屏風で、案内板には、「月日は百代の過客にして・・」に始まる序章と旅立が取り上げられている。案内板の文章は読みにくいが、8行目は「草の戸も住替る代ぞひなの家」、また、その先の○の後は「いく春や鳥啼魚の目ハ泪」と思われる。

先に進んで、次の信号で現・日光街道を渡ると、千住宿奥の細道プチテラスがあるが、プチテラスの前の道が旧街道である。この道を進み京成本線のガードをくぐって千住河原町を歩く。ここには千住宿歴史プチテラスがある。この辺り、元やっちゃ場(青果市場)の表示も目につく。もとは堤防であった墨堤通りを渡り、江戸時代には掃部宿と呼ばれていた千住仲町を進むと、東京芸術センターの前を通る道路に出る。この道路は、江戸時代に水路だったところで、その南側には一里塚や高札場があった。この水路を小橋で渡った先が当初からの千住宿(本宿)で、橋の近くには問屋場や貫目改所が置かれていた。ここから先、今は千住本町センター商店街になっている旧街道を進むと、駅前通りに出る。標識Bにより駅前通りを右に行くと、このコースの終点、北千住駅となる。
(注)当ブログのカテゴリー「社寺巡拝」に下谷七福神の記事あり。