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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

27.青森から田名部へ

2008-08-27 19:58:36 | 巡見使の旅
 江戸幕府が東北各地と北海道松前に派遣した巡見使の旅を、連載形式で投稿しておりますが、その旅も青森県に入り、野辺地、田名部を経て三戸に向います。

(109)享保2年7月16日(1717年8月22日)、晴。
 青森では善知鳥神社を参詣する。この神社に関連して、時の将軍吉宗が、善知鳥という鳥に興味を示したことから、享保5年に善知鳥を捕まえ献上したという(「青森県史」)。青森から野辺地までは奥州街道を通行する。野内の番所、龍の鼻、浦島太郎伝説の浦島森、ざる石(笊石浦)を通り、出湯のある浅虫で休憩。湯の島、裸島、鴎島、茂浦ケ島、二子島や焼山(恐山)を見ながら進み、土屋の番所を通って小湊に泊まる。行程は六里半ほど。

(110)同年7月17日。
 沼楯(沼館)に明神社ありと記す。狩場沢で休憩したあと。津軽采女の留番所、南部大膳亮留番所を通り、馬門を経て、野辺地に出て泊まる。行程は四里余であった。

(111)同年7月18日、晴。
 巡見使の覚書は、野辺地村の内、千引明神についてふれ、いしふみ(石文)にあった石の精が、つぼ(坪)の女の所へ通ったという伝承を紹介している。日記役の記録では横浜村に泊まった翌日の日付で、“一里半程大山村、地引大明神あり”としており、食い違いがあるが、「東遊雑記」に、“千引明神の社あり、尾山村というも・・”という記述があり、かつ“古よりの御巡見所なり”と記してるので、享保の巡見使も野辺地の南にある、尾山の千曳神社に立ち寄ったのであろう。なお、「東遊雑記」では、坪村の石を千人で引いたという伝承について述べ、日本中央と記した坪の石文はこの地に埋っていると主張している。この石文は昭和24年に発見されているが、その真偽については論議があるようである。さて、巡見使一行は野辺地で奥州街道から分かれ、海沿いの道を有戸まで行き休憩。ここに五色の浜石ありと記す。この日の宿泊地は、大阪や肥前から船が着くという横浜である。尾山に立ち寄ったとすれば、行程は九里半ほどになる。

(112)同年7月19日、晴。
 横浜を出て、檜木の八幡宮を参詣する。源義家が安倍貞任追討の後、この地を訪れて石に八幡の梵字を書いたという由緒があり、この浜は源氏の浦とも称されていたという。境川を渡り、中野沢で休憩。安渡の釜伏山(釜臥山)の峠に正一位大明神があり、麓に出湯ありと聞いている。この日は町田名部に泊まる。行程は六里半余であった。

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