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夢七雑録

散歩、旅、紀行文、歴史 雑文 その他

庚申塚から新庚申塚へ

2010-12-15 20:06:31 | 都電荒川線に沿って

 庚申塚の停留所から旧中山道を巣鴨方向に歩き、交差点の角の猿田彦大神に行く。交差点から南に行く道は折戸通りで、江戸時代には大塚道と呼ばれていた道である。また、北へ行く道は栄和通りで、江戸時代は王子道と呼ばれていた。猿田彦大神の中に入ると、庚申塚が祀られているという祠がある。しかし内部を見る事は出来ないらしいので、少し頭を下げただけで外に出る。この交差点を過ぎて、巣鴨地蔵通り商店街を歩いて行くと、次第に人通りが多くなってくる。巣鴨駅近くの真性寺まで行き、修理を終えた地蔵尊を拝観したい気持ちは多少あるのだが、おばあちゃんの原宿にはあまり興味が無く、結局、商店街の中を歩くのは途中で止めにして、猿田彦大神のある交差点に戻る。江戸名所図会には庚申塚とその周辺が描かれているが、茶店が並んでおり、この辺りが当時から賑わっていた場所であったことがわかる。江戸名所図会には田畑の中を通る王子道も描かれているが、当時から人通りはあったようである。

 交差点から北へ、栄和通りを歩く。旧王子道である筈の栄和通りだが、すでに、昔の道らしい雰囲気は失われている。そのまま進むと白山通りに出る。信号が変わるのを待ちかねて、急いで向こう側に渡ると、すぐ左が都電の停留所・新庚申塚である。この停留所の開業は昭和12年頃である。庚申塚との間の距離は短いが、昭和になって白山通りが開通し、その上を市電が走るようになると、乗り換えのため、停留所の設置を要望する声が出たのかもしれない。

巣鴨新田から庚申塚へ

2010-12-10 20:54:36 | 都電荒川線に沿って

 次の停留所まで線路沿いには行けそうにないので、都電とは、しばし別れて明治通りの方向へと歩き、二又で右の道をとる。緩やかに上がって淑徳巣鴨高を過ぎると、ほどなく旧中山道に出る。この辺りの旧中山道には、野菜の種を売る店が多かったため、種屋街道と呼ばれていたといい、今もその一軒が残っている。ここを左に行くと明治通りに出るが、近くの千川上水公園は、千川上水の元枡となる溜池があった場所である。幕末、この溜池から滝野川に水を流すための堀割が掘られるということがあり、交差点の名前も堀割になっている。この交差点を越えて旧中山道を進むと板橋宿に出る。また、旧鎌倉街道の中道の東回りルートは、この交差点の近くを通り、王子の西側を通って赤羽方面に向かっていたとされる。

 今回は、旧中山道を右に行き、庚申塚の停留所に向かう。庚申塚の停留所は、明治44年に大塚・飛鳥山間が開通した時の開業である。この停留所は、多少レトロ風にリフォームされているらしいが、旧中山道・巣鴨地蔵通りに位置しているからなのだろう。ここには、ホームと直結している店もあるが、先を急ぐゆえ今回は立ち寄らない。


大塚駅前から巣鴨新田へ

2010-12-05 17:18:00 | 都電荒川線に沿って

 大塚駅南口から坂を上がり、駅西側の跨線橋・空蝉橋に行く。この橋から大塚駅方向を眺めると、向こうに東京スカイツリーが見える。しばらく眺めたあと橋を渡り、大塚駅北口に向かって坂を下る。大塚という地名は、本来、南側の台地の上にあった地名で、駅のある場所は、昔は巣鴨村に属していた。しかし、大塚駅がこの場所に設けられたため、現在は、駅の北側が北大塚、南側が南大塚という町名になっている。

 大塚の駅前は谷底のように見えるが、かつて、ここには谷端川が流れていて、都電もこの川を渡っていた。谷端川は、地下鉄千川駅近くの粟島神社弁天池を水源とし、千川上水を助水として南流し、西武池袋線椎名町駅の南側を回り込んでから北に向きを変え、東上線下板橋駅の北側を回り込み、大塚駅近くを通って、下流は小石川と名を変えて神田川に流れ込んでいたが、今では全区間が暗渠になっている。この地に鉄道の駅、大塚駅が開業したのは明治36年のことだが、明治44年になると、大塚駅北口に王子電気軌道の停留所が開業し、大正時代に入ると大塚駅南口に市電の停留所が設けられる。これにより交通も便利になった大塚駅周辺は次第に発展し、デパートもあれば花街もある、東京でも指折りの繁華街になっていく。区内最大の繁華街の地位を池袋に譲り渡すのは、戦後になってからである。

 大塚駅の北口で、都電の線路と分かれ、緩やかに曲がりながら上って行く折戸通りを歩く。折戸通りの名は中山道から折れて入る道ということで名付けられたそうだが、江戸時代からあった大塚から庚申塚に向かう道でもある。この道を巣鴨新田入口の信号のところで左折し、巣鴨新田の停留所に出て踏切を渡る。この停留所は、明治44年に大塚・飛鳥山間が開通した時の開業で、当時は変電所や車庫も併設されていたという。また、王子電気軌道の本社もここにあった。


向原から大塚駅前へ

2010-12-01 22:48:08 | 都電荒川線に沿って

 向原の停留所から、交通量の多い春日通りを渡る。春日通りは、江戸時代から、中山道に代わる板橋宿へのルートとして良く利用された道筋だが、向原から大塚駅に至る一帯は何も無い場所で、ここが市街地へと変わるのは、大正時代以降のことである。

 都電は大塚駅に向かって長い坂を下っていく。線路に沿って下り、右側の桜並木のある道路に入り、次の角を左に折れて天祖神社に行く。江戸時代には巣鴨村の鎮守で神明宮と呼ばれていた神社だが、江戸名所図会では、十羅刹女堂として取り上げている。なお、同書には、この地にあった鬼子母神像が盗賊に盗まれて雑司ヶ谷に移されたという説が載せられているが、疑問符付きの説のようである。

 天祖神社の参道を下って行くと大塚駅の南口に出る。都電は駅前広場を回り込むようにして大塚駅ガード下の停留所に向かっている。大塚駅前の停留所は、明治44年に飛鳥山・大塚間が開通した際の開業で、当時の停留所名は大塚であった。大正14年、路線は大塚から鬼子母神まで延長されるが、大塚駅付近の軌道が急なカーブで危険であったため、飛鳥山から鬼子母神までの直通運転は認められず、乗客は下車して乗り換えていたという。直通運転が可能になったのは、昭和3年になってからである。


東池袋四丁目から向原へ

2010-11-27 12:21:54 | 都電荒川線に沿って

 東池袋四丁目の停留所から東に行き、信号のある角を左に入ると、十字路があり、二つの踏切がⅤ字状に設けられている。旧・水久保の停留所があったのは、この辺りである。踏切を渡らずに進めば、昭和の雰囲気を持つ商店街が続いているが、今回は、電車が通り過ぎるのを待って、左の方の踏切を渡る。そのまま道なりに進んで、突き当たりを右に行き交差点に出る。左側はサンシャインシティ、右側は造幣局東京支局である。サンシャインシティの場所は東京拘置所の跡地で、北側隅の東池袋中央公園には碑が置かれている。昭和46年に東京拘置所は小菅に移転し、その跡地にサンシャインシティが建設されることになるが、これが池袋を副都心へと変貌させる契機になっている。今回は、サンシャインシティを省略して先に行く。

 交差点を右に折れて、新東京タワー(東京スカイツリー)の候補地の一つでもあった、造幣局の敷地に沿って進み、東側の角を曲がる。造幣局は予約すれば見学可能だが、今回は通りすぎるだけである。造幣局の東側は低い土地になっている。ここを、かつて、水窪川という小川が流れていた。この川は、東池袋一丁目一帯の水を集め、サンシャインシティとグリーン大通りの間を流れ、旧・水久保停留所の手前で左に折れ、造幣局の下で電車の線路の下を潜って東流し、春日通りと豊島が岡の間の谷を下り、音羽通りに沿って流れて、神田川に流れ込んでいたが、現在は全区間暗渠になっている。造幣局を過ぎて北に行き春日通りに出る。ここを右に行けば、向原の停留所である。この停留所は、大塚から鬼子母神前まで延長された大正14年の開業である。


都電雑司ヶ谷から東池袋四丁目へ

2010-11-23 10:33:26 | 都電荒川線に沿って

 都電雑司ヶ谷の停留所の近くに蔵がポツンと残されている。今は奇妙な風景になってしまったが、昔は普通の家並みの中に蔵も溶け込んでいたのだろう。現在は、都内で蔵を見かける事も少なくなったが、都電荒川線の沿線には、まだまだ蔵のある家が残っているそうで、確か、鬼子母神の近辺にも蔵のある家が残っていたと思う。蔵はそのくらいにして、東通りという道を明治通りに向かって歩く。この道は、江戸時代に御鷹部屋から板橋道に出る道に相当している。この道を行くと、法明寺と墓地の間を抜ける小道が左手にある。ここを右に折れ、サンシャイン60に向かって歩き、江戸時代からあった本立寺の先を左に折れる。その先の南池袋公園(現在は工事中)の手前を右に行き、グリーン大通りを渡る。渡った先の角をサンシャイン方面に入った所は明治天皇御野立所跡(現在は工事中)である。グリーン大通りを左に行けば池袋駅の東口だが、今回は右に行き都電の停留所に向かう。

 この辺りは江戸時代に御鷹方組屋敷があったところで、六郷社の森という小高い丘であったという。六郷社の森は後に根津嘉一郎氏の所有となり、根津山と呼ばれるようになるが、その範囲は現在の南池袋公園から御野立所を含むグリーン大通り周辺一帯であった。昭和7年頃、この土地の開発が始まり根津山を分断する道路が作られ、昭和14年には護国寺から池袋駅前まで市電が延長される。これが後の都電17系統で、その経路は池袋駅前―護国寺―大塚仲町―春日町―神保町―八重洲口―数寄屋橋であった。根津山は、昭和20年4月にアメリカが行った城北地区大空襲の際の避難場所で、犠牲者の仮埋葬地でもあったが、今は、その形を留めていない。

 都道音羽池袋線を東に行き、都電の車庫跡であるバスの操車場を過ぎると、都電の停留所・東池袋四丁目に出る。三ノ輪橋方面のホームは道路の向こう側である。大正14年に鬼子母神まで電車が延長された際、今の停留所より北にずれた場所に停留所が設けられている。当時の停留所名は地名に由来する水久保であったが、その後、日之出町二丁目に変更され、さらに、昭和40年代に現在の停留所名になっている。都電はここから次の停留所に向かって、家と家の間をすり抜けるように走っていく。


鬼子母神前から都電雑司ヶ谷へ

2010-11-17 20:27:58 | 都電荒川線に沿って

 鬼子母神前(きしぼじんまえ)の停留所から、鬼子母神(きしもじん)に行く。江戸の代表的行楽地の一つであった鬼子母神の門前町は、料亭や茶店が軒を並べていたといわれるが、今は、昔ほどの繁盛ぶりは見られない。停留所から少し先、右側に鬼子母神の参道がある。直進する道は、江戸時代に板橋道と呼ばれていた道である。参道は欅並木の道で、途中には観光情報の提供などを行う雑司ヶ谷案内処がオープンしている。この裏手には手塚治虫が住んでいた並木ハウスもある。

 参道の突き当たりを左に行くと、正面に鬼子母神堂が見える。鬼の字は、正確には上の点が無い字である。左手の武芳稲荷の鳥居の横には、元禄時代に始まる川口屋を継承した駄菓子屋が今も健在である。なお、鬼子母神の名物であった、すすき細工のミミズクは、作っていた店が残念ながら閉店になってしまったが、幸いにして保存会の手で今後も作り続けられるということである。鬼子母神堂を出て法明寺に行く。花見の頃なら絵になる風景の寺である。寺の南側の道は、池袋駅西口にあった丸池を水源として、江戸川橋近くで神田川に流れ込んでいた弦巻川という小川の跡である。この道を東に行き、東京音大を過ぎた少し先が、鎌倉橋の跡という。旧鎌倉街道中道の東回りルートは、この鎌倉橋を渡って、東京音大の敷地内を通りサンサヤインシティ方向に向かっていたとされるが、その道筋は既に失われている。弦巻川跡の道を先に進むと大鳥神社があり、その少し先に都電の踏切がある。そのまま進む道は弦巻通りである。踏切を渡って直進し、道が少し右に曲がる所で、左に折れて道なりに行くと、宝城寺と清立院の下の四つ角に出る。正面の登り坂は斎場に出る道である。右の坂は御岳坂で、この坂を上がり雑司ヶ谷霊園の外周を通って行くと都道音羽池袋線の小篠坂に出る。ここでは、四つ角を左に行き、都電荒川線では唯一のガードの下を潜る。

 江戸時代、法明寺から護国寺の裏門に出る道があったが、法明寺からガード下を通って御岳坂を上がる道は、この道に相当している。法明寺の前を流れていた弦巻川は、江戸時代から明治の終わり頃まで、現在の大鳥神社の辺りから少し北に向かったあと、この道に沿って流れ、宝城寺や清立院の下、台地の裾を南に流れていた。江戸名所図会には、宝城寺や清立寺とともに、その下を流れる弦巻川と石橋も描かれている。御岳坂の下にあった石橋を木村橋といい、本納寺を経て鬼子母神に向かう参道が通っていたが、現在は弦巻川も暗渠化され石橋も消滅している。大正時代になると弦巻川の流路が変わり、大鳥神社の辺りから直接、宝城寺に向かって流れるようになる。大正14年に大塚から鬼子母神まで延長された時の電車の軌道も、この流路を渡っていたと思われる。その位置は、現在の大鳥神社先の踏切より少し北側の位置であったと考えられる。昭和7年に弦巻川は暗渠化されるが、その記念碑の一つが大鳥神社境内に残されている。暗渠化の際、蛇行部分を直線化するなどの流路の変更はあっただろうが、電車が弦巻川を渡る場所はほぼ同じ位置のままと思われるので、現在の弦巻通りは、弦巻川の右側に作られた道という事になる。

 ガードを潜って、都電に沿って進むと都電雑司ヶ谷の停留所に出る。この停留所は、大正14年に大塚から鬼子母神前まで延長された時の開業で、停留所名は「雑司ヶ谷」であったが、副都心線の雑司ヶ谷駅が開業し、連絡駅が都電の鬼子母神前になったことから、現在は「都電雑司ヶ谷」に変更されている。停留所の東側は江戸時代に御鷹部屋のあったところで、今は雑司ヶ谷霊園になっている。周辺は閑静な場所であったが、現在は、目白通りからグリーン大通りに抜ける道路の拡幅工事が進行中で、完成すれば、近辺の雰囲気が一変するかも知れない。


学習院下から鬼子母神前へ

2010-11-14 14:04:25 | 都電荒川線に沿って

 学習院下の停留所から都電の線路に沿って明治通りを上がる。少し行くと、昭和7年に竣工し翌年に開通した立体交差橋・千登世橋に出る。その東側は千登世小橋で、都電はその下を潜っている。千登世橋の付近は、南から谷が入り込む地形になっていて、その谷合を通る道が江戸時代にも存在していたようだが、台地の近くでは急傾斜であったと思われる。明治通りを開設するに際し、清戸道(現・目白通り)と平面交差する案も検討されたが、傾斜が急すぎる等の理由から取りやめとなり、切通しを掘って明治通りを緩傾斜とし、千登世橋を架け清戸道と立体交差させる事にしたという。なお、現在の千登世小橋は、千登世橋を架橋する際に架けられたものである。

 千登世橋に上り目白通りに出る。橋の上の記念碑の横から南側を暫く眺めたあと、西側の信号を渡って北側の歩道を歩き、今度は千登世小橋から北の方を眺める。坂を上がった電車が、ちょうど今、鬼子母神前の停留所に到着したばかりのようである。都電沿いには道路工事が進められていて、その横を通って行くこともできそうだが、今回は目白通りを東に次の信号まで行く。南から上ってくる坂は宿坂である。ここを北に入り商店街を抜け、鬼子母神前の停留所に出る。南の方を見ると、都電がS字カーブを描きながら、千登世小橋の下を潜って行くのが見える。鬼子母神前と面影橋間の電車は、明治通りに先だって昭和3年に開通しているが、傾斜を緩やかにするため、切通しを堀って、清戸道(現・目白通り)の下を潜るようにしたのだろう。

 江戸時代、江戸川橋から目白坂を上り練馬方面に向かう道(現・目白通り)と、宿坂を上がって鬼子母神方面に向かう旧鎌倉街道とが交差する付近を高田四谷町と呼び町屋が並んでいた。当時は、物見遊山を兼ねた多くの参詣客が、この町並みを通って鬼子母神に向かっていたのだろう。参詣客にとって交通の便が格段に良くなったのは、王子電気軌道が大塚から延長されて鬼子母神近くに停留所が設けられた、大正14年になってからである。現在は、地下鉄副都心線・雑司ヶ谷駅が開業し、鬼子母神の最寄り駅になっており、また、都電の鬼子母神前の乗換駅にもなっている。


面影橋から学習院下へ

2010-11-11 20:10:18 | 都電荒川線に沿って

 神田川を面影橋で渡ってすぐ右手、オリジン電気の門前に山吹の里の碑がある。石碑は墓石を再利用したものらしい。山吹の里が何処かについては諸説あるが、太田道灌が蓑を所望したところ山吹を渡されたという話自体が伝説の域を出ないので、まともに議論するような事ではなさそうだ。なお、面影橋のすぐ先は砂利場と呼ばれた砂利採取場だったようだが、今は跡かたも無い。

その先、左手に高田村の鎮守である氷川神社がある。また、道の右側にある南蔵院は、怪談乳房榎の舞台となった寺であり、南蔵院で龍の絵を描いていた絵師の菱川重信が、妻の情夫であった浪人に蛍狩りに誘いだされて殺されるという筋立てになっている。江戸時代、氷川神社の北側から南蔵院の前へ流れる用水があり、この用水に架かっていた橋を姿見の橋と呼んでいた。昔、この辺りは池のようになっていて、架かっていた橋の上から、池に姿を映したという事があり、これが姿見橋の名の由来だというのである。ただし、これには異説もあって、姿見の橋は面影橋の別称だともいう。面影橋には、於戸姫の悲話伝説などもあるが、遥か昔の橋の名の由来など、詮索しても仕方のない事かも知れない。江戸時代、南蔵院の北側にも橋があり、道が右に折れ曲がる場所にあったので右橋と呼ばれていた。今は、姿見の橋や右橋、それに用水も失われてしまったが、道は昔のように折れ曲がったままである。

 道を先に進むと宿坂の下に出る。面影橋を渡って宿坂を上がる道は、旧鎌倉街道の中道で奥州への街道筋にあたり、関所も設けられていたという。右に入る道は、幕府の祈願所で、明治になって移転してきた根性院への参道である。根性院には田安家の下屋敷から受け継いだ池が戦前まであったらしいが、今は宅地になっている。宿坂の左手は金乗院で、境内には戦後に目白坂から移された目白不動の堂がある。寺内には丸橋忠弥の墓所があるが、後の世に建てられた墓のようだ。金乗院から西に行く道は江戸時代からあり、台地の裾を通って落合の薬王院に通じていた。この道を行き、大正時代に作られた急坂、のぞき坂を横に見て先に進めば、学習院下の停留所に出る。

 江戸時代から明治にかけて、金乗院から薬王院に通じる道の南側は田圃が広がっていた。大正時代になると田地にも人家が建ち始め、昭和に入ると市街地が田地を浸食するようになる。昭和3年、神田川に鉄橋が架けられ、鬼子母神前から面影橋まで王子電気軌道が延長される。学習院下の停留所も、この時に設けられている。やがて、王子電気軌道の鉄橋の隣に高戸橋が架けられ、昭和7年に明治通りが開かれる。当時、高戸橋近くの低地には大小の工場が進出しており、人口も過密であったという。昭和17年、王子電気軌道は市電に統合され翌年には都電と改称する。戦後、高戸橋の手前から左に分かれる軌道が作られ、高田馬場駅前に出る都電15系統の電車が通るようになるが、この系統も昭和43年には廃止され、軌道も撤去されている。


早稲田から面影橋へ

2010-11-07 17:12:20 | 都電荒川線に沿って

 早稲田の停留所から西に行き、清水家下屋敷跡の甘泉園公園に入る。その名は、お茶に適した水が湧いていたことに由来するという。園内はさほど広くないが、手入れの行き届いた庭園で、入園は無料である。

 甘泉園公園の上の水稲荷に行く。この稲荷は高田稲荷と称していたが、境内の湧水が眼病に効くと評判になったため水稲荷と呼ばれるようになったという。もともと、この稲荷は、別当寺であった宝泉寺の北側、冨塚という古墳の跡(現在は早稲田大学構内)に鎮座していたのだが、土地交換によって現在地に移転したという事である。水稲荷の裏手にあった江戸最古の富士塚も、土地交換にともない、現在の境内に移されているという話だが、通常は入れないという事なので場所を探すのは諦め、流鏑馬の会場にもなった南側の参道を歩く。ここには、高田馬場の敵討で有名な堀部安兵衛の顕彰碑が建っている。高田馬場の跡地は、早稲田通りと、その一本北側の茶屋町通りの間にあたり、高田馬場の名は越後高田藩主の生母の遊楽地を馬場としたことから出たらしい。

 茶屋町通りを西に行くと、突き当たりの手前に、北に下る坂がある。旧鎌倉街道とされる古道である。江戸名所図会にも描かれている七面明神を祀る亮朝院の前を通って坂を下っていくと、新目白通りに出る。面影橋の停留所はすぐそこである。江戸から明治にかけて、早稲田と面影橋の間は田地であったが、大正に入ると人家が少しずつ建てられるようになる。昭和3年に鬼子母神から面影橋まで王子電気軌道が延長された頃には、市街地化がかなり進んでいたようで、面影橋から早稲田まで軌道を延長するにあたっては、立ち退きが必要になったかも知れない。昭和58年に新目白通りが開かれてからは、荒川線の電車は道路の中央を走るようになるが、それまでは、人家のすぐ裏手を電車が走り抜けるような状態であったらしい。