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夢七雑録

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月見岡八幡と成子天神の富士塚

2016-09-18 19:50:54 | 富士塚めぐり

今回は、浅間塚に始まり月見岡八幡内の富士塚に受け継がれた上落合富士(落合富士)と、成子天神内に築かれた成子富士を取り上げる。何れも新宿区内の富士塚である。

(1)浅間塚

上の図は、江戸時代末期の落合村絵図の部分図で下方が南になっている。図の下に見える東西の道は現在の早稲田通りに相当し、この通り沿いに赤い丸で示したのが浅間宮(浅間神社)である。この図の北側には浅間宮の別当寺であった最勝寺が記されている。文政9年(1826)の上落合村の「村差出明細書上帳」によると、富士浅間宮は九尺・二間の拝殿のある社で、末社に小御嶽社、石尊社・大天狗小天狗があり、別当は最勝寺とし、勧請の年代は分からないと記している。また、山(浅間塚)の高さは2丈(6m)ほどで、頂上に十一面観世音の石像があり、樹木が茂っているとし、山は宝永年中に一夜にして生じたとの言い伝えがあったとする。浅間塚の築造に、村は関わりがなかったという事だろうか。

天保2年(1831)に浅間塚を訪ねた村尾嘉陵の紀行文によると、高さ二丈ばかりの塚の上に浅間大菩薩の石仏が立っていたとし、挿絵(上の図)を載せ、“出生大坂性海建”“元禄五年七月朔日”という銘文を記している。また、塚の周囲には杉が多く、塚の北には稲荷社、塚の前には浅間社の祠らしきものがあり、鳥居は草の中に倒れたままで、傍らに天和四年(1864)の石塔婆があったと記している。塚の上にあった石像は、別当寺であった最勝寺に移されているが、その像は嘉陵の図とは少し違っていて、右手に錫杖を左手に花瓶を持った十一面観音像であり、銘文には“浅間本地”も記されていた。しかし、簡略な図なので、この程度の違いはあり得るのだろう。浅間大神の本地は大日如来だが、時代と共に変化し、十一面観音を本地とする例もあるようである。そうだとすると、浅間塚としては、浅間大菩薩像が建てられた元禄5年(1692)に始まったという事になるのだろうか。

 

(2)月見岡八幡の富士塚

浅間神社があった位置は、現在の早稲田通りと山手通りの交差点近くに相当する。昭和2年、道路建設のため浅間神社は月見岡八幡に移されることになるが、これに伴い浅間塚は取り壊される。浅間神社周辺の地名が大塚であったことから、この地にあった古墳を利用して浅間塚が築かれたと考えられているが、取壊前の調査は行われなかったようである。月見岡八幡社の境内には新たな富士塚が築かれる事になるが、これを行ったのは月三惣元講という富士講で、富士山の黒ボク石を購入し、元の富士塚の石も使用して、講員の勤労奉仕によって富士塚を築いたという。西武新宿線の下落合駅から南に、八幡通りを先に進んだところにある八幡公園は、月見岡八幡の境内だった場所で、富士塚もこの付近に築かれたと思われる。

月見岡八幡は、昭和37年の下水処理場建設に伴って、八幡公園付近の旧地から現在地に遷座している。八幡公園沿いの道に入って進み、その先の角を右に少し行ったところが現在の月見岡八幡神社で、場所は少々分かりにくい。この神社では保育園を運営しているので、開園時は避けた方が良さそうである。八幡神社を参拝したあと、左奥に行くと浅間神社がある。

富士塚は浅間神社の裏手にあるが、今は樹木が茂って全体像が見えにくくなっている。旧地に築かれた富士塚に比べると小さくはなったらしいが、全体の形はあまり変わっていないようで、大天狗小天狗の石像も浅間塚から引き継いだものという。東京の富士塚年表では、上落合富士は昭和2年の築造になっているが、富士講によって新たに築かれた塚を富士塚と呼ぶという点から、昭和2年の築造と考えるからだろう。

 

(3)成子天神の富士塚

神田川に架かる淀橋から成子坂を上がって成子天神に行く。神社は高層の住宅棟などに囲まれる事にはなったが、社殿のほか境内が再整備されて見違えるようになっている。参拝を終えて左手奥にある成子富士を見に行く。大正9年、境内の天神山を崩して富士塚が築かれる。築いたのは丸藤成子講という富士講で、江戸で最初に富士講による富士塚を築いた高田藤四郎を開祖とする丸藤講の枝講に当たる。富士塚の高さは12m、直径は30m余り。新宿区では最大の富士塚で、元の姿が残されている事から区登録の史跡になっている。なお、登録文化財は指定文化財ほど厳格ではなく、多少の改修は許されているらしい。この富士塚は境内の再整備に合わせて整備が行われたようで、以前は富士塚の各所に置かれていた七福神も今は天神社境内に移されて、本来の富士塚の姿を取り戻している。

富士塚の北側に浅間神社が祀られ、以前は山頂にあった木花咲耶姫命の像も置かれている。登路は左へやや上がり右に折れ曲がるようにして頂上に達する。途中、小さな祠があるが小御岳だろうか。今は植物が繁茂して道が少し分かりにくいが、足元に注意し、手すりも利用して上がれば、奥宮のある頂上に無事到達できるだろう。現在は周囲をビルに囲まれて遠方の眺めは無いが、昔は富士も遥拝できたかも知れない。帰りは頂上から草を踏み分けて南に下り、七福神に心もち頭を下げてから帰途につく。

<参考資料>「新宿区の民俗3、4」「新宿区文化財総合調査報告書4」「嘉陵紀行」

 

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駒込富士と元富士

2016-09-02 20:40:06 | 富士塚めぐり

(1)駒込富士神社

駒込駅から本郷通りを南に少々歩いて駒込富士神社に行く。山開きの日には露店が並び賑わいを見せる神社だが、普段の日は静かに参詣できる神社でもある。富士神社は塚の上に鎮座している。現在は塚の全体像がつかみにくくなっているが、明治時代の絵からは黒ボク石を積んだ富士塚らしい姿が見てとれる。塚は東西45m、南北40m、高さ5.5m。全体の形状から前方後円墳とする説があり、これに従えば、富士神社は円墳上に鎮座している事になる。塚には石碑が並べられているが、加賀鳶など火消の碑が多いのがここの特徴だろうか。

石段手前の左側に下浅間神社がある。富士山の麓にある本宮を表している神社と思われるが、今日は扉も閉じられて、ひっそりとしている。そっと頭を下げてから、男坂と思われる急な石段を登る。他の富士塚に見られるような、つづら折りの道ではないが、その代わりに緩やかな女坂が右側にあるので、帰りに利用することにしたい。

石段を上がると、富士神社の拝殿がある。拝礼を済ませてから周囲を見回す。眺めはあまり良くない。頂上はおおむね平坦で、10m余×20m余といったところ。この塚が円墳であったとすると、その上部を平らにならしたようにも見える。

頂上部から一段下りると、方墳に相当する平坦地に出る。左側にある曽我御霊社の祠は歌舞伎の関係者が寄進したものだが、右側にある祠は神社の名が読めない。ただ、鳥居に同行とあるのは講の意味なので、丸瀧講が寄進した鳥居である事は分かる。ここを右に行くと女坂の下りとなるが、左側に丸瀧講による小御嶽社の石碑がある。丸瀧講は駒込、根津、谷中、白山等のほか埼玉県にも勢力があった富士講である。

女坂を下って塚の裾に沿って右に行くと、御胎内らしきものがあった。小御嶽社と御胎内の位置は、富士講の人たちが利用した吉田口から見た配置になっている。

 

(2)江戸時代の駒込富士

「江戸名所図会」は、駒込の富士浅間社(駒込富士神社)について寛永年中(1624-1643)に加賀藩邸内から当地に遷座したとする。また、6月朔日の例祭は、前夜から参詣者が多く、土産に麦藁蛇などを売ると書いている。「新編武蔵風土記稿」によると、天正元年(1573)、本郷に富士浅間社を勧請したが、寛永6年(1629)に、当地に移ったとする。同書は、下浅間社について、芦高(愛鷹)と飼犬(犬飼)の2神が相殿と記しているが、愛鷹と犬飼は、かぐや姫を育てた老夫婦の事なので、かぐや姫伝説を取り入れた富士縁起をとなえる修験道の影響があったと思われる。駒込の富士浅間社は、江戸時代の後半に流行した富士講と、中世からの修験道の流れとが、共存していたのかも知れない。

 

(3)駒込富士の始まり

「安政年代駒込富士神社周辺之図」によると、当地は昔、古塚だった所で、土地の人が富士塚と呼んでいたため、この辺一帯は富士塚村と呼ばれていたという。また、塚の上に延文2年(1357)の青石の板碑があったとする(延文5年とする説もあり)。「新編常陸国誌」は富士塚の項に、蜷川家の天正の年代記に、“文明13年(1481)、諸郷に富士塚を置く”と見えると記す。これは武蔵の国についての事なので、中世の武蔵には各地に富士塚があったという事を示している。板碑が富士信仰に関わるものがどうかは不明だが、当地が富士山を遥拝するための富士塚だった可能性が無いとは言えない。 

 

(4)駒込富士は富士塚か否か

富士塚は、富士講徒が人力や土石や資金を出し合って築造したものをいい、自然の山あるいは古墳の上に浅間神社を祀ったものは富士塚とは言わない(富士信仰と富士講)。ただし、古墳を改造して塚としたものは富士塚とみなしている。富士講とは富士信仰の講社(団体)の事だが、国史大辞典では富士山信仰を背景に江戸時代に成立した民衆宗教の一派とし、角行を開祖と称し村上派と身禄派に分かれて発展したとする。駒込富士は既存の古墳の上に神社を祀る形であり、富士講徒が築いた塚ではないので、富士塚には該当しないという事にはなるのだが、中世から存在した富士信仰に関わる塚は、富士塚と呼ばれて来た経緯もあるので、広義の富士塚と考えても良さそうに思うのだが。

 

(5)本郷元富士

駒込富士の前身である本郷の富士社については、当ブログの江戸名所記のうち、駒込村富士社の項でも扱っており、山の上の大木のもとに6月1日に大雪が降り、近くに寄ると祟りがあるので、小社を造って富士権現を勧請したという説を紹介している。新編武蔵風土記稿は、霊夢により本郷の古塚を掘ったところ剣などが出てきたので富士浅間社を勧請したとする。ただし、勧請の年代については諸説ある。駒込に遷座した年代についても諸説あるが、遷座後も富士社の祠は加賀藩邸内に残っていたらしく、参詣の人があったという。この祠は、元富士として現在に引き継がれており、その場所は、本郷三丁目の交差点から春日通りを湯島天神方面に少し行った左側にある。

 

<参考資料>「富士塚考」「富士塚考続」「東京名所図会・本郷区之部」「富士信仰と富士講」「新編武蔵風土記稿・豊島郡」「江戸名所記」「江戸名所図会」「新編常陸国誌」

 

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高田富士と池袋富士塚

2016-07-27 21:17:21 | 富士塚めぐり

(1)富士信仰と富士塚

日本古来の山岳宗教が仏教などの影響を受けて大系化された宗教を修験道と称し、その修行者を修験者または山伏と呼ぶ。富士信仰は古くからあったと考えられるが、中世になると、平安末期に富士に登頂した末代上人を開祖とし富士山南麓の村山を拠点とする村山修験によって、修験道を中心とした富士信仰が広まる。富士塚を築いて富士浅間社を勧請する事も行われるようになり、15世紀終りには各地に富士塚が置かれるようになったという。江戸時代の初め、修験者であった長谷川角行は教義を整え信者の組織化をはかって富士講の開祖となる。その後、角行の後継者は正統派を任ずる村上派と身禄派に分派するが、庶民に受け入れやすい教えを説く身禄派がやがて勢力を拡大し、高田富士を嚆矢として多くの富士塚を築くようになる。一般に富士塚と言えば、このような、身禄の流れをくむ富士講によって築かれた富士塚のことを指すようである。

 

(2)高田富士

高田の植木職人で、登拝経験の豊富な大先達でもあった藤四郎は、身禄の弟子でもあり、身禄の遺文を受けて、富士山の東にあたる江戸の水稲荷境内に、富士山を写した東身禄山、すなわち、世に高田の富士山と呼ばれた富士塚を築いた。富士塚の高さは3丈余(約10m)、富塚という古墳の上に築いたと言われている。江古田の富士塚は古墳の南側を崩して積み上げたとする説があり、これと同じ方法がとられたとすれば、富塚の一部を残して積み上げ、踏み固めを行って、富士の溶岩である黒ボク石で覆ったと思われる。富士山を遠くで眺めれば秀麗な姿をしているが、実際に登ってみれば岩だらけである。大先達として、黒ボク石は現実の富士の姿を現すために必要であったと思われるが、軽量で運びやすいという利点もあった。黒ボク石は、桂川・相模川を経て海路により江戸に運ばれたようである。藤四郎が築いた高田富士は江戸で評判を呼んだらしく、江戸名図会にも取り上げられている。なお、江戸名所図会では、高田富士の完成を安永9年としているが、現在では安永8年(1779)完成が定説のようになっている。

もともとの高田富士は、宝泉寺の北側に位置する水稲荷の境内にあった。水稲荷は、早稲田大学との土地交換により昭和38年には現在地に移転したが、高田富士については解体反対運動があって遅れ、昭和41年になってようやく水稲荷境内の現在地に移転した。移設された高田富士が旧来の姿をどこまで残しているかは不明だが、富塚については高田富士と分離されて水稲荷の社殿裏手に移されている。高田富士は通常非公開で、海の日とその前日(今年は7月17.18日)に行われる高田富士祭りの時だけ公開されている。

富士祭りは夕方からの方が賑やからしく、昼間は人も少ない。入口に置かれている資料などを見てから少し下ると浅間神社に出る。その横から登山路が始まり、ジグザクに坂を上がれば、さほど急なところも無く頂上に達する。周囲は木が茂って眺めは得られない。頂上に祀られている奥宮を拝礼し、鐘を叩いてから別の道で下りると、大先達の藤四郎が船津胎内を発見したことに因む胎内が設えられている。富士塚の麓をたどって浅間神社に戻ると、誰が叩いているのか鐘の音が聞こえてきた。その音を聞きながら外に出た。

 

(3)池袋富士塚

明治時代、修験道による富士信仰は衰退するが、それぞれの土地に根付いた民間信仰としての富士講は昭和の頃まで存続し、富士塚の築造も行われていた。池袋氷川神社(豊島区池袋本町3-14)の境内にある池袋富士塚については、次のような話が伝えられている。池袋講の先達の家には小さな富士塚があったが、世に出すようにという夢のお告げがあった。そこで講の人たちとも相談し、氷川神社内に富士塚の築造を始めたという。明治45年のことである。池袋富士塚は、高さ5m、東西13m、南北18m。セメントを使って黒ボク石を積み上げている。登山路は電光形で、平成9年に改修されて歩きやすくなっている。この富士塚には、奥宮、小御嶽社、烏帽子岩、経ケ岳、題目碑、合目石、講碑、角行像、天狗像、胎内なども設けられており、数少ない富士塚のひとつとして、平成10年に豊島区の史跡に指定されている。富士講はすでに無いが、7月1日には氷川神社によるお山開きが行われ、通常は非公開の富士塚も公開されている。

<参考資料>「ご近所富士山の謎」「富士塚考」「豊島区の富士講と富士塚」「新宿区史跡散歩」「豊島区史跡散歩」「江戸名所図会」

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下谷坂本・江古田・長崎の富士塚をめぐる

2016-07-15 19:26:53 | 富士塚めぐり

2013年7月に投稿した富士山世界遺産登録記念という記事のうち、富士塚に関する記事を分離し、追加修正を行ったうえで、改めて富士塚めぐりとして投稿することとした。

 

(1)富士塚めぐり

 富士山には、一度だけ登ったことがある。何十年も前のことだが、その日の登山道は大渋滞で、寒い中を延々と待たされ、途中の山小屋もぎゅうぎゅう詰め、身動きも出来ぬまま一晩を過ごし、翌日は何も見えぬ霧の中をひたすら登り、何とか登頂の目的は果たせたものの、頭痛に悩まされ、早々に山を下りたことを覚えている。それ以来、富士山は眺める山で、登る山ではないと思ってきたのだが、今にして思えば、もう一度ぐらいは登った方が良かったのかも知れない。富士山の登山客は、世界遺産に登録されたこともあって、今後も増加していくのだろう。今となっては、その登山客の一人にはなれそうにないが、その代わりとして、富士山に行けない人のために造られ、富士山に登ったのと同じ御利益があるという富士塚に登ってみることにした。

 富士塚は富士山を摸して築造された塚で、江戸中期以降、庶民の富士山信仰が盛んになるにつれ、江戸を中心に富士講が結成され、高田に築かれた富士塚を初めとして数多くの富士塚が築造されたが、今も原形を保つ富士塚は多くはない。富士塚は富士山と同様に旧6月1日(現在は7月1日)を山開きとするが、現在は講も少なくなり、行事も昔のようには行われなくなっている。都内の富士塚では三カ所が、信仰に関わる国指定の重要有形民俗文化財として指定されているが、まずは、この三カ所から富士塚めぐりを始めたい。

 

(2)下谷坂本の富士塚

小野照崎神社の境内にある富士塚は国指定の重要有形民俗文化財の一つで、文政11年(1828)の築造とされ、高さ5m直径16m、塚全体を富士山の溶岩がおおっている。東北側は一部欠損しているが、正面は完全な形で残っており、万延元年の石門、天保7年の神猿、文政11年の石灯籠のほか、合目の石、役行者像や藤原角行像がある。この富士塚は通常は公開されず、山開きの6月30日と7月1日に限って登ることが出来る。登山門から入って、足元に注意しつつ岩を手掛かりに登る。頭上には提灯が並び、石造物には、しめ縄が付けられている。ジグザグの登山路をたどれば、あっという間に頂上に着いてしまうが、少しは達成感もある。帰りは浅間神社のお祓いを受けることも出来る。 

 

(3)江古田の富士塚

江古田富士塚は、西武池袋線江古田駅北口すぐの浅間神社(茅原浅間神社)の拝殿裏手にある。築造は天保10年(1839)とも文化年間(1804-1817)ともいう。この地にあった古墳を崩して築いたとする説もある。この富士塚の北から東側の低地は、石神井川支流エンガ堀の源流部の一つで、小竹の溜池と呼ぶ池があったという。江古田富士塚は富士山の溶岩でおおわれており、高さは約8m、直径は約30m、富士塚としては比較的規模が大きく、国指定の重要有形民俗文化財になっている。狭いがしっかりした、つづら折りの道を上ると、頂上に鳥居があり、天保10年に造られた唐破風屋根の石祠が置かれている。このほか、経ケ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑、大天狗・小天狗・神猿の石像、元治2年の講碑などもある。頂上一帯は樹林の中にあり、現在は眺めが得られない。この富士塚は正月三日と、山開きの7月1日、それと9月の祭礼の日の年に3回公開されている。浅間神社の参道は西武池袋線により分断されてしまったが、もともとは、農産物の江戸への輸送路であった清戸道(現在の千川通り)につながっていた。

 

(4)長崎富士塚

 長崎富士塚(高松富士)は文久2年(1862)の築造とされ、高さは約8m、直径は約21mで、全体が富士の溶岩でおおわれている。この富士塚には、頂上の石祠のほか、太郎坊大権現碑・亀岩八大龍王神碑・月三講の講碑・同行碑・登山道の合目石・手水鉢など文久2年築造当時に造立されたものも多く残存し、文久3年の永田講の講碑など他の講碑も建てられており、創建時の原型を良く保っていることから、国の重要有形民俗文化財に指定されている。富士塚は富士山の遥拝所でもあるが、昭和30年頃までは、この富士塚から富士山を望む事が出来たという。現在、この富士塚は山開きの2日間だけ公開されている。今年は7月2日と3日に公開され、麓の浅間神社では獅子舞も奉納されていた。この富士塚の西側の道は、清戸道(現在の目白通り)から分岐して長崎神社の横を通り板橋に通じる江戸時代からの道である。

 

<参考資料>「重要有形民俗文化財・詳細解説」「ご近所富士山の謎」「台東区史跡散歩」「練馬区史跡散歩」「豊島区史跡散歩」「練馬区の富士塚」

 

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