夢七雑録

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鈴木信太郎記念館と山崎家住宅

2018-10-31 19:13:54 | 東京の文化財

文化財ウイークが始まったのを機に、今まで入ったことのない、鈴木信太郎記念館と山崎家住宅主屋に行ってみた。

 (1)鈴木信太郎記念館(旧鈴木家住宅)

地下鉄丸ノ内線の新大塚駅で下車し、春日通りの交差点から南西方向に入って次の角を右に折れる。細い道を進んで行くと、右側に鈴木信太郎記念館(豊島区東池袋5-52-3)がある。この記念館は、日本のフランス文学の草分けであった東大名誉教授の鈴木信太郎の旧宅で、寄贈を受けた豊島区が調査を行って2012年に豊島区有形文化財(建造物)に指定、その後、改修整備を行って、2018年3月から鈴木信太郎記念館として公開している。入場無料で、休館日は月曜、第三日曜、祝日、年末年始ほか。

石段を上がると南向きの明るい庭がある。正面は玄関のある茶の間・ホール棟、その右側は書斎棟で、左側には座敷棟がある。鈴木家が神田佐久間町から当地に引っ越して来たのは1918年で、180坪ほどの土地に東西2棟の住宅が建っていたという。1921年には西側の住宅を取り壊して木造2階建て中廊下型建物を建てたが空襲で焼失。現在の座敷棟は、春日部にあった鈴木家の実家の書院部分を、戦後の1948年に移設したものである。

右側の書斎棟は蔵書を火災から守ることを目的に、1928年に建てた鉄筋コンクリートの耐火建築で、1931年に増築した鉄骨造の2階部分は戦災で焼失したが、1階部分は焼失を免れた。なお、1956年には2階部分を再増築している。

玄関を入るとホール内に鈴木信太郎教授の写真が待ち受けている。茶の間・ホール棟は終戦の翌年に建てられた15坪の建物で、玄関ホールと六畳茶の間、台所、便所、浴室が設けられていた。当時は下塗りの荒壁と下地のままの天井と床だったが、1956年に仕上げられている。玄関ホールには書斎棟2階に上がる階段があり、書斎棟との間には鉄製の扉がある。

座敷棟は桟瓦葺き切妻屋根の木造平屋建てで、違い棚と床の間のある8畳の書院座敷と、6畳の次の間があり、南側には掃き出し窓のある縁側を設けている。ほかに台所や便所があり、移築の際に茶の間ホール棟との間に内玄関が設けられている。座敷棟は大地主であった鈴木家が明治20年代に建てた書院造りによる近代和風建築である。

書斎棟の北側は廊下で、天井までの造り付け書棚が並んでいて、梯子が架けられている。書斎棟の北東側は蔵になっている。

書斎の窓はスチールサッシで鉄製のシャッター付、書斎への出入り口は鉄製の扉になっている。書斎の窓の上部には鈴木信太郎がデザインしたステンドグラスが5枚並んでいる。書斎内部には机と椅子、マントルピース、そして天井までの書棚が並んでいる。

 

(2)山崎家住宅主屋

鈴木信太郎記念館から春日通りに出て、書斎棟が建てられた頃に開園した大塚公園に立ち寄る。春日通りを進み不忍通りを横断する。お茶の水女子大を過ぎて、湯立坂への道に入り、重要文化財の旧磯野家住宅・通称銅御殿の門の前を右に行き、次の角を左折さらにその先を左に行くと、国登録有形文化財(建造物)の山崎家住宅主屋(文京区小石川5-19-29)が見えてくる。

山崎家住宅は、日本における地理学の開祖という東大教授山崎直方の住宅で、1917年の竣工という。通常は非公開だが、文化財ウイークの期間、日時をきめて特別公開されている。山崎家住宅は和式住宅の大半が取り壊されてしまったというが、2階建ての洋館と平屋の和式住宅の一部が現存している。

現在は東側が門になっているが、本来は西側が入口で、湯立坂の側から道が上がってきていたという。写真は玄関付近から洋館の2階を見上げたものである。洋館は応接室、執務室、書庫、客室からなる。

玄関は和風の意匠に加えて開き戸など洋風の意匠もあり、玄関の上部にはステンドグラスがはめ込まれている。玄関を入って、造り付け本棚が目を引く右手の部屋で説明を聞く。室内はまだ整理がされていないようで、建物にも補修の必要な部分があるらしい。

廊下の先にある和式住宅の座敷を見てから、玄関近くの階段で2階に上がる。階段の踊り場には見事なステンドグラスがある。

玄関の真上は喫煙室になっていてベンチも備えられている。ベランダ側にはステンドグラスがあり、天井にはイスラム風の飾りがある。周辺の建物は戦火で多くが焼失したというが、この建物は焼失を免れ、大正期の和様折衷の住宅建築の姿を今に残している。

 

 

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東京の古民家めぐり・一之江名主屋敷(江戸川区)

2017-12-11 20:09:07 | 東京の文化財

瑞江駅で下車し、瑞江駅西通りを北に向かう。今回は高速道路の手前を左に入ったが、高速道路を潜って、その先の角を左に入る方が分かりやすいかも知れない。一之江名主屋敷は、いなげやの横を入ったところにあり、長屋門が入口になっている。この屋敷は一之江新田を開発し代々名主をつとめた田島家の屋敷で、敷地を含めて江戸時代の姿が保存されていることから、東京都の史跡に指定されており、江戸川区の景観重要建造物にも指定されている。入館料は100円で、月曜は休館日になっている。なお、田島家初代の田島図書は、堀田姓の武家であったが、関ケ原の戦いに敗れたあと当地の田島家に身を寄せ、この地域の開発に当たったと伝えられている。

長屋門は、武家奉公人が居住する長屋と一体になった武家屋敷の門で、江戸時代の初めには武士以外の者が建てる事は許されていなかった。その後、帰農した武士については特別に許されるようになり、やがて、名主や村役人、旧家なども長屋門を建てるようになった。一之江名主屋敷の長屋門は江戸時代後期に建てられたと推定されており、屋根は寄棟造りの茅葺であったが、現在は茅葺型の銅板葺きになっている。

長屋門をくぐると、その先に中庭をはさんで、寄棟造り茅葺屋根の東向き部分と、入母屋造り茅葺屋根の南向き部分を、L字型に組み合わせた曲り屋(中門造り)のような主屋がある。最初に建てられたのは、住まいとして使われていた東向きの部分で、直屋(すごや)と呼ばれる長方形の棟だけであったらしい。この棟には、安永3年(1774)の棟札があったと伝えられているが、それ以前にあった主屋の部材を利用した再建だったようである。

土間として使われている南向きの部分は、天保9年(1838)より前に増築されたと考えられている。この増築により主屋は、母屋と厩を一体化した南部の曲り屋のような形態になったが、田島家では直屋から直角に突き出した角屋(つのや)と考えていたようである。受付への入口は東側にあり、入ると土間になっている。手前の土間は農作業用として使用されドマと呼ばれていた場所で、大黒柱から先にはカマドのあるカッテ、その先は土間と板間があるダイドコロになっている。

田島家の屋敷は、名主としての接客の場と、日常生活の場に分かれている。生活の場は土間のほか、イタノマ、ナンド、ナカノマ、ホトケマから成る食い違い四間取りで、ナカノマ以外は板間になっている。写真は囲炉裏のあるイタノマで、その奥にナンドが見える。

接客の場は、ゲンカン、ツギノマ、オクザシキ、イリカワ、コザから成り、畳敷きである。写真は次の間(ツギノマ)から式台が設けられた玄関(ゲンカン)方向を見たもので、4畳の玄関には2畳の小座が付属している。外に見えているのは長屋門である。

8畳の次の間(ツギノマ)から、2畳の床の間が付いた8畳の奥座敷(オクザシキ)を見る。

上の写真は外縁(濡れ縁)と座敷の間の廊下、イリカワ(入側)で、畳敷きになっている。ここからは南側の庭が見えるようになっている。

外に出て、江戸末期の様子を復元したという池泉回遊式の南庭に行ってみる。池はそれほど大きくはないが、築山をつくり、州浜を設け、雪見灯籠や三重塔を置いている。

屋敷の北側と西側には、防風林として植えられたケヤキやムクノキなどが茂っている。林の中の道を歩いていくと、屋敷の北西側に屋敷神が祀られていた。

屋敷の西側と北側には堀がある。今は空堀になっているが、以前は水が溜まっていたらしい。一之江名主屋敷がある春江町は低湿地で、中世には集落も無かったようなので、江戸時代になって田島家が最初に屋敷を構えたのだろう。中世の土豪屋敷のように堀をめぐらした名主屋敷の例は他にもあるが、田島家としては何よりも水害対策として堀を掘り、堤を築く必要があったと思われる。堀が東側と南側にもあったかどうかは分からないが、今は東側の敷地内に内堀が造られていて、水が溜まっている。

北側の堀を渡ると、以前は無かった広場があり、展示棟が建てられていた。北側にあった公園を敷地内に取り込んだらしい。堀を渡り返し、屋敷畑を通り、長屋門へと急ぐ。明治24年に建てられた蔵は見ていないが、すでに日は傾いている。今回は割愛して外に出る。

 

東京9区文化財古民家めぐりの記事は、今回をもって一先ず終わりとするが、古民家は他にもあるので、折を見て取り上げたい。

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東京の古民家めぐり・旧大石家住宅(江東区)

2017-12-07 18:20:31 | 東京の文化財

南砂町駅で下車し南砂三公園に出て北に向かう。公園内を通り抜け、南砂三公園入口の交差点で元八幡通りを渡り、先に進んでトピレックプラザのイオン館の横を通り、葛西橋通りを渡ると仙台堀公園の横に出る。この公園は大正から昭和にかけて開削された砂町運河の跡で、公園に入って北に行くとすぐ、園内に移築復元された旧大石家住宅があり、土日祝日に公開されている。上の写真は南東側から見た外観で、右側が正面にあたり土間の入口がある。建物の向きは、移築以前と同じ東向きになっている。

上の写真は南側から見た旧大石家住宅で、座敷が二間あり縁側がある。旧大石家住宅は寄棟造り茅葺屋根の木造平屋で、水害の際の避難場所として屋根裏を広く取っている。創建年代は、安政2年(1855)の大地震でも倒壊しなかったと伝えられている事や、屋根裏にあった御札から、19世紀半ばと推定されている。旧大石家住宅は、区内唯一の茅葺民家であり、江戸近郊農家の姿を今に残す貴重な存在であることから、江東区の有形文化財(建造物)に指定されている。

旧大石家住宅は北側をドマ(土間)とし、中央の板間を6畳のザシキと四畳半のチャノマに、南側の畳の部屋を8畳のオクと6畳のトコノマとする田の字型の間取りになっている。ザシキには囲炉裏が切られている。上の写真は土間から見たもので、手前が6畳のザシキ、向こう側は8畳のオクになっている。

江戸時代の南砂一帯は、江戸への野菜の供給地で促成栽培も行っていた。大石家でも野菜を栽培していたようだが、海も近いことから、半農半漁で生計を立てていたらしい。大石家は大正時代に海苔の養殖を始めており、土間などには日常使用していた道具のほかに、海苔養殖に必要だった道具も保存されている。

葛飾郡西葛飾領新田筋の八郎右衛門新田(現・江東区東砂8)は、深川村名主の深川八郎右衛門が開拓した土地で、村の北側を流れる境川から南に分かれる舟入川によって、耕地が東と西に分かれていた。明治の初め頃には、舟入川の両岸に50軒余りの民家が並んでいたが、大石家住宅はそのうちの一軒で、舟入川南端の堀留に近い東側にあった。その主屋は舟入川を背にして東向きに建てられ、その東側には畑があった。時が流れ、境川は清洲橋通りに変わり、舟入川も四十町通りとなって、昔の農家のまま残っていたのは大石家だけになっていた。そして、平成6年、大石家住宅は解体され、平成8年に仙台堀公園内に移築されている。

 

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東京の古民家めぐり・旧栗山家主屋(目黒区)

2017-12-03 11:41:59 | 東京の文化財

都立大学駅の南口を出て直ぐの角を東に向かい、坂を上がって先に進む。酉蓮社の先の角を左に行き、平町1の交差点で環七通りを渡ってやや下ると、すずめのお宿緑地公園が右手にある。目黒区指定の有形文化財(建造物)である旧栗山家主屋は、この公園の北側にある。

栗山家主屋の旧所在地は、旧・荏原郡世田谷領衾村谷畑(現・目黒区緑が丘)で、主屋のほかに長屋門もあったが、主屋だけが現在地に移築復元され、長屋門は解体保存されている。栗山家の主屋は安政4年(1857)に大改築した記録があり、建築様式の特徴から江戸時代中期の創建と推定されている。屋根は寄棟造りで本来は茅葺であったが、現在は防火の点から銅板葺きとしている。栗山家の先祖は吉良氏の家臣で、江戸時代は村役人を歴任していたということだが、新編武蔵風土記稿に記されている衾村の旧家に該当するのだろうか。

栗山家主屋の間取りは、ヒロマを中心に、東側にダイドコロ、西側にザシキ及びナンドを配置した広間型で、比較的古い形式になっている。ヒロマは板間で囲炉裏が切られている。写真は上から順に、ヒロマから南側の門の方を見たもの、囲炉裏から東側のダイドコロ(土間)の方を見たもの、囲炉裏から北側を見たものになっている。

栗山家主屋のザシキは西南側にあり、その北側は広いナンドになっている。建物の南側は日当たりが良いとまでは言えないが、竹林を抜けてきた光がザシキまでは届く。ヒロマの暗闇と、程々の明るさのザシキと、外界の翠と。その対比が面白く暫しの時を過ごす。

栗山家主屋の南側と西側は外縁になっている。西側の縁に出ると、もう、夕日が差し込んでいた。短い滞在時間だったが、そろそろ、帰途に就く時間である。

 

 

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東京の古民家めぐり・次太夫堀公園民家園(世田谷区)

2017-11-30 19:32:16 | 東京の文化財

成城学園前駅を南口に出て南に向かう。成城二の交差点を過ぎて右側の歩道を歩き、明正公園の中を通り抜け、成城三丁目緑地に沿って坂を下り、世田谷通りを渡る。喜多見大橋で野川を渡り、その先を右に入ると次大夫堀公園に出る。ここを左に入り、次大夫堀公園民家園の案内板を確認して、正門から民家園に入る。

この民家園では、江戸後期から明治にかけての農村風景を再現することを目的とし、その中核となる名主屋敷を、旧安藤家住宅主屋と旧秋山家住宅土蔵とで構成している。世田谷区指定有形文化財(建造物)の旧安藤家住宅主屋の旧地は、旧・多摩郡世田谷領大蔵村本村(現・世田谷区大蔵5)で、西方には永安寺、北側は氷川神社、南側は次大夫堀に面していた。創建年代は、安藤家が大蔵村の名主を勤めるようになった天保5年(1834)以降で、建物は順次整備されていったようである。民家園に移築された現在の建物は、明治28年に建てられた内倉も含めて、安藤家が繁栄していた明治中頃の姿に復元されているという。安藤家住宅主屋の屋根は寄棟造り茅葺で、現在は葺き替え工事が行われていたが、建物の裏側から内部に入ることは出来た。

安藤家住宅主屋は一部2階付平屋で、名主としての公務の場と生活の場を兼ねた八つ間取りの大形民家になっている。主屋の東側部分は名主役宅として使用され、玄関、仏間のほか、役人などの接客に使われた八畳の上座敷と十二畳の座敷、名主の執務室であった十畳があり、何れも畳敷きで役宅ならではの造作になっている。

一方、西側は安藤家の日常生活の場所であり、ドマ(土間)、囲炉裏を設けた板間のダイドコロ、ヒロマ、寝室として使われたナンドで構成されている。

世田谷区の有形文化財(建造物)に指定されている旧秋山家住宅土蔵は、旧・荏原郡世田谷領深沢村(現・世田谷区深沢6)にあった秋山家の、敷地内の土蔵のうち穀倉として使われていた一棟を民家園に移築したもので、茅葺屋根で漆喰塗りの初期の姿に復元されている。祈祷札墨書銘に文政13年(1830)とある事から江戸時代後期の創建と推定されている。

民家園には、昔の村で使われていた消防小屋と火の見櫓が再現されている。櫓の半鐘は宇奈根で使われていたものという。

世田谷区の有形文化財(建造物)に指定されている旧加藤家住宅主屋を見に行く。加藤家住宅は、旧・多摩郡世田谷領喜多見村(現・世田谷区喜多見7)にあった一般的な農家住宅で、間取りは田の字型とも呼ばれる整形四ツ間取り、屋根は茅葺になっている。この住宅は安政2年(1855)以前に建てられたと考えられているが、明治になって養蚕を始めた事などにより改修が行われ、ミソベヤも増築されている。

上の写真は、手前がヒロマで、畳をあげると炉が切られた板間になるらしい。その向こうが床の間を備えた上座敷、オクになっている。ヒロマの右側には囲炉裏のあるカッテがあり、オクの右側は寝室として使われていたヘヤになっている。

民家園では藍染も行っているらしく、土間には道具も置かれている。旧加藤家主屋の周囲を見て回ると井戸があり、屋敷神も再現されていた。

世田谷区の有形民俗文化財に指定されている旧・城田家住宅主屋を見に行く。城田家住宅があった場所は、旧・多摩郡世田谷領喜多見村本村(現・世田谷区喜多見4)で、次大夫堀公園の南にある知行院の斜め向かいにあった。知行院の東側には江戸から稲毛・登戸に向かう街道が通っていた。また、知行院の前の道は品川と府中を結ぶ道で、青梅から筏で多摩川を下ってきた筏師が帰りに使用したことから筏道とよばれていた。城田家があった場所は、喜多見村で最も賑やかな場所であったらしい。

城田家主屋の創建年代は弘化3年(1846)以前と考えられているが、当初から農家と酒屋を兼ねた建物であったらしい。城田家の間取りは、ザシキ、ナンド、ヒロマ、カッテから構成される食い違い四ツ間取りになっているが、ダイドコロを板間として張り出し、ドマを店として使うほか、せがい造りにより軒先を深く出して中二階を設けている。その部屋で、筏道を帰って来た筏師たちのために飲食を提供していたのだろう。

民家園の正門近くに、世田谷区の有形文化財(建造物)に指定されている旧谷岡家表門がある。旧・荏原郡世田谷領深沢村(現・世田谷区深沢5)にあった、谷岡家の表門を民家園に移築したもので、柱の墨書銘から天保9年(1838)に再建されていることが分かっている。この門は平屋建ての寄棟造り茅葺の建物で、正面に向かって右側をドジ(土間)と呼んで納屋として使い、左側の板間の方をクラ(倉)と呼んで穀倉として使用していた。もともと、ドジとクラは別の棟であったが、天保9年に、この二つの棟の間に門扉を設けて長屋門の形にしたということらしい。

民家園の正門を出て、次大夫堀の水路跡に再現された水路を渡る。江戸時代の初め、和泉で多摩川から取水し、六郷35ケ村に農業用水を供給する六郷用水がつくられたが、幕府の代官として工事を指揮した小泉次大夫に因んで、上流部では次大夫堀と呼ばれていた。次大夫堀は、安藤家、加藤家、浦野家の住宅の近くを流れていたが、今や次大夫堀も消滅してしまい、水路跡に昔をしのぶだけになっている。 

 

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東京の古民家めぐり・岡本公園民家園(世田谷区)

2017-11-25 17:14:20 | 東京の文化財

二子玉川駅から西に行き、二子玉川商店街に出て北へ向かい、NTT瀬田前の交差点を左折して丸子川に沿って西に行く。下山橋を過ぎ谷戸川の合流点を経て、岡本静嘉堂緑地の下を川沿いに進むと岡本公園に出る。公園内の民家園に入るとすぐ、旧長崎家住宅の前に出る。

世田谷区指定有形文化財(建造物)の旧長崎家住宅主屋は、世田谷区瀬田2にあった寄棟造り茅葺の民家を移築したもので、創建は18世紀末頃と考えられている。当初は広間型の間取りであったと推定されるが、間取りは時代と共に変化していったようである。現在の旧長崎家住宅主屋は、江戸時代後期から明治初め頃の四ツ間取りで、濡れ縁の無い形に復元されている。

正面右側の入口から入るとダイドコロと呼ばれている土間になる。土間の隅には大ガマとヘッツイが置かれている。土間は広く農作業にも使われていただろう。

土間から室内を見る。手前の部屋はザシキ(座敷)で神棚が見える。写真にはないが、ザシキの右手はチャノマと呼ばれる板間で、今も囲炉裏で火が焚かれている。ザシキの向こうに見える部屋は、床の間がある上座敷でデイと呼ばれていた。その裏手はナンドになっている。

旧長崎家住宅主屋は、農家として機能していた頃の姿を再現しているが、南側にある畑もその一助になっている。民家園では様々な年中行事が行われているようだが、古民家をただ保存するだけではなく、昔の暮らしぶりも含めて伝えていこうとしているらしい。

畑の傍にある旧浦野家住宅土蔵は、世田谷区喜多見7から移設した土蔵で、世田谷区の有形民俗文化財に指定されている。土蔵は総2階建てで外壁は漆喰仕上げ、屋根は切妻造りで桟瓦葺になっている。建築年代は江戸時代末期と推定され、当初は穀蔵であったが、菜種油の商いを始めたことから油屋の蔵として使われていたという。

旧長崎家住宅主屋の裏手に行くと、世田谷区桜から移設したという旧横尾家住宅腕木門があった。大正13年に建てられたという門をくぐり、岡本八幡の参道に出て、それから、丸子川沿いに下山橋まで行く。名園跡に建てられたパークコート周辺の遊歩道を南に行き、次の角を左に行き、「きしべの路」の標識を見て右に入り、谷川(やがわ)跡の遊歩道を歩いて、玉電砧線の軌道跡を二子玉川駅へと向かう。

 

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東京の古民家めぐり・杉並区立郷土博物館

2017-11-22 18:11:53 | 東京の文化財

東京の古民家めぐりの対象で、杉並区の有形文化財(建造物)に指定されている、旧井口家住宅長屋門と旧篠崎家住宅主屋は、杉並区立郷土博物館内に移築されている。永福町駅から歩く場合は、駅からやや西にある荒玉水道道路を北に向かい、方南通りを渡って進み、郷土博物館入口の交差点から案内表示に従い左前方に行く道をたどると、博物館の門として使用されている旧井口家住宅長屋門の前に出る。帰りは郷土博物館入口の交差点に戻り、荒玉水道道路を横切って東に進み、和田堀公園済美山運動場の横を通り、坂を横切って先に進み、方南通りに出て左に行けば方南町駅に出られる。

井口家住宅長屋門をくぐり背面から門を眺める。井口家は寛文10年(1670)頃に大宮前新田の開発名主になったとされ、代々名主をつとめた家柄であった。井口家がこの長屋門を建てたのは文化文政年間(1804~1829)頃と考えられている。杉並区宮前5にあった長屋門は昭和49年に杉並区へ寄贈され、その後、解体調査を経て現在地に移築され、当初の姿に復元されたが、防火の点から茅葺だった屋根は銅板葺きになっている。長屋門の両側は年貢米を一時保管する板張りの蔵屋と、物置として使われた土間の納屋であったが、明治時代には蚕室として使われ、昭和になると居室と物置に使われていた。

博物館内を見て回ってから、屋外展示の場所に行くと、旧篠崎家住宅の座敷がある側が最初に見えてくる。現在の旧篠崎家住宅は、下井草中瀬(現・下井草5)にあった平均的な農家建築を移築し、当初の姿に復元したもので、屋根は寄棟造りの茅葺であったが、防火の点から銅板を被せている。

旧篠崎家住宅の正面を眺める。この建物の創建は寛政年間(1789-1800)という。この地域には江戸時代から杉が多く植林されていた事もあり、篠崎家住宅の柱材はすべて杉材を使用している。この住宅の間取りは三つ間取り広間型とよばれる古い形式である。

大戸から入ると、ダイドコロと呼ばれていた土間で、大ガマ、ヘッツイが置かれている。土間は広くとられており、土間で農作業を行うこともあったようだ。

上の写真で、手前の板間はカッテ、その向こうの囲炉裏のある板間がヒロマと呼ばれていた。ヒロマの左奥に見えるのはデエと呼ばれる座敷で床の間があり、右奥はナンドと呼ばれ寝室として使われていた。この間取りは、時代と共に四つ間に変わっていったようである。

 

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東京の古民家めぐり・旧内田家住宅(練馬区)

2017-11-19 11:29:27 | 東京の文化財

東京の古民家めぐりを兼ねて、ねりまの散歩道の「石神井公園コース」を歩いてみた。起点は石神井公園駅。駅の東側から石神井池までの道路が工事中のため、ほかの道を通って石神井池に行き、紅葉を眺めながら池の南側に沿って歩く。

野外ステージの横を上がり、南側の道を右に行き左に折れて、突き当りを左に、フェンスに沿って右に行き、池淵史跡公園の東側の入口から中に入る。園内には東京の古民家めぐりの対象の一つであり、練馬区指定有形文化財になっている旧内田家住宅(上の写真)がある。

旧内田家住宅は生垣で囲まれていて南側と北側に出入口がある。写真は旧内田家の外観で、上から順に、南側の入口前から見た正面と、南東側からのもの、南西側からのもの、北東から見た背面になっている。旧内田家住宅は明治20年代初め、練馬区中村に建てられた茅葺寄棟造りの古民家で、平成22年に現在地に移築復元されている。この建物には北西側に張り出した部分があるが、このような造りを角屋(ツノヤ)造りというらしい。

内田家の間取りは時代と共に変化していたようだが、現在の建物は戦前の状態に復元したもので、土間が縮小され板間が拡張されている。写真は庭の側から撮ったもので、手前が前座敷、その奥が広い板間になっている。

写真は庭の側から撮っているが、手前が下座敷、奥が上座敷になっている。創建時の姿とあまり変わっていないのかも知れない。上座敷には床の間が設けられている。床の間の壁が青色なのが印象的で、横には付書院もある。床脇は天袋、地袋、違い棚のある本格的なもので、欄間も凝った造りになっている。座敷の間の敷居は取り外しが可能で、個々の座敷としても使えるが、大広間としても使えるようになっているらしい。

旧内田家の板間には囲炉裏が設けられている。その向こうには奥座敷が見えている。その右手、奥座敷の裏側には寝室があるが、公開されていないようだ。

旧内田家の土間にはカマドが置かれている。土間はあまり広くない。この建物では、裏口を出たところに井戸を設けている。

池淵史跡公園内を少し歩き、旧内田家住宅を西側から眺めたあと、ふるさと文化館に入る。その後、井草通りを渡って三宝寺池に行く。

三宝寺池の東側にも池があり、小橋が架かっている。オオバンが1羽、歩道を横切って急ぎ足でやってくる。池から池へと移動する途中らしい。三宝寺池の畔から橋を眺め、それから橋を渡りながら池を眺める。ふと、翡翠色の煌めきが池の面をすべってゆくことに気付く。カワセミも今日はこの辺りを餌場に決めているらしい。

橋を渡って石神井城址に沿って少し上がり、それから、氷川神社の参道を歩き、途中で振り返って一礼したあと、また先へと歩く。突き当たって右へ次の角を左に行くと上御成橋に出る。散歩道のコースでは、ここから石神井川沿いに下流に向かって行くことになっているが、今は上御成橋と蛍橋の間が河川改修工事中で残念ながら通れない。工事完了までは旧早稲田通りを通るのが正解だろう。

石神井小前の交差点で井草通りを渡り、JAの先を右に折れると石神井川に出る。左に行き茜歩道橋で石神井川の下流方向を眺める。この先は川沿いに歩けるようになっている。

山下橋の交差点を渡り、和田前歩道橋から下流を眺める。今回は右岸を歩くが、左岸を歩いても良く、水面近くに下りて歩いても良い。平成みあい橋を渡り長光寺橋公園を通り抜ければ笹目通りで、ここを北に向かうのがコースになっている。

笹目通りを北に向かい西武池袋線のガードをくぐる。病院に沿って進み、その先を左に行くと長命寺がある。長命寺を過ぎて西に向かい、今も残る畑を横目に、急ぎ足で石神井公園駅を目指す。

 

 

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東京の古民家めぐり・旧田中家住宅と旧粕谷家住宅(板橋区)

2017-11-14 21:31:10 | 東京の文化財

下赤塚駅を起点に、東京9区文化財古民家めぐりの対象である旧田中家住宅と旧粕谷家住宅めぐりをかね、いたばし文化財2017ふれあいウイークの赤塚地区コースを歩いてみた。下赤塚駅の北口から赤塚中央通りを北に向かうと、やがて道は下りとなり前谷津川跡の緑道を横切る。左に行く大堂への道を見送り、坂を上がって松月院前の交差点で松月院通りを渡り、怪談乳房榎の舞台にもなった松月院に立ち寄る。

松月院から北へ、急な坂を下る。今回は、東京大仏の乗蓮寺や赤塚植物園はパスし、不動の滝は音だけを聞き、美術館入口の交差点を過ぎ、赤塚溜池公園は素通りして板橋区立郷土資料館に向かう。明治時代に建てられ、昭和49年に移築された、板橋遊郭の新藤楼の玄関を見てから入館する。郷土資料館は入場無料。月休み。開催中の企画展「いたばし教育ヒストリー」を一通り見てから、屋外展示になっている旧田中家住宅を見に行く。

旧田中家住宅は、徳丸5丁目にあった建物の寄贈を受け、昭和47年に郷土資料館内へ移築したもので、板橋区の登録有形文化財になっている。建築時期は江戸時代後期か明治の初めと考えられ、以後も改築を重ねていたようだが、現在の建物は部分的に当初の様式に復元しているという。屋根は茅葺の寄棟造りで、葺き替えを行ったこともあるらしい。

右手の出入口から入ると土間で、奥にはカマドがある。上の写真は土間から表座敷とその向こうの奥座敷を見たものになる。旧田中家住宅は、デイ(表座敷)、ザシキ(奥座敷)、囲炉裏のあるオカッテ(勝手)、ヘヤ(納戸)からなる田の字型の四間取りで、関東地方では多くの農家に見られる建築様式らしい。ところで、田中家住宅があった場所は、江戸時代、豊島郡峡田領徳丸本村に属していた。寛文10年に徳丸村が徳丸本村、徳丸脇村、四ツ葉村に分かれるが、そのうち家の数が最も多かったのが徳丸本村であった。新編武蔵風土記稿によると、村では溜池を設けて耕植をしていたようだが、村絵図を見ると田は北側の低地にあり、前谷津川の谷を挟む台地は畑になっていた。徳丸本村の農家では水稲耕作を行うほか、畑では大根など根菜類を栽培し、沢庵漬けなどを生産していたらしい。

旧田中家住宅の前に、昭和47年に蓮根の中村家から寄贈された切妻瓦葺の納屋があり、また、昭和48年に大門の須田家から寄贈された井戸小屋もあった。旧田中家住宅とは場所も違い時代も異なるのだろうが、違和感もなく一つに収まって見える。

美術館入口の交差点まで戻って左に折れ、坂を上がる。新大宮バイパスを横断し、竹の子公園を過ぎると、左側に下赤塚村の鎮守であった赤塚諏訪神社がある。この神社と徳丸北野神社の神事「田遊び」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

赤塚諏訪神社から南に行くと道は左右に分かれる。もともとは、向こうに見える浅間神社の鳥居まで赤塚諏訪神社の参道が伸びていたのだろうが、今は入れないようなので右に行き、新大宮バイパス沿いの道を南に進み、途中の通路を左に入って浅間神社に行く。この神社の後ろには、明治5年以前に築造された区登録記念物(史跡)の富士塚がある。

新大宮バイパスに沿って先に進み、新四葉の交差点を左に行く。次の交差点を左に入ったところに四ツ葉村の鎮守だった四葉稲荷神社がある。この交差点を南に行き次の交差点を左に折れる。この道は松月院通りの続きの道で、江戸時代の道に相当している。

松月院通りを東に向かい、紅梅小前の交差点の先を左に入り、次の角を右に行くと安楽寺に出る。ここを過ぎ、突き当りを左に、次の角を右に入ると古民家めぐりの対象になっている旧粕谷家住宅に出る。この建物がまだ住居として使われていた頃、公開日に見に行ったことがある。上の写真はその時のもので、建物の内部は改装されていたが、外観は寄棟造り茅葺の古民家の姿をとどめていた。粕谷家住宅は徳丸脇村の名主であった粕谷浅右衛門が隠居した時に建てたもので、位置は現在まで変わっていないという。享保8年(1723)の墨書銘が見つかっている事から、建築年の分かる民家としては、都内最古と考えられている。

この建物は、“粕谷尹久子家住宅”として平成15年に板橋区の有形文化財(建造物)に指定されているが、平成19年に板橋区に寄贈されたこと、粕谷家が“東の隠居”と呼ばれていたこと、また、屋敷の庭が家屋と一体化していることから、“旧粕谷家(東の隠居)住宅・付宅地”に名称変更されている。現在、旧粕谷住宅は復元工事が進行中のため、外からそっと眺めるにとどめ、松月院通りに戻る。

松月院通りを東に向かい、徳丸7の交差点を右に折れ、「田遊び」神事の北野神社沿いに上がり、境内に沿って右に折れると左側に郷土芸能伝承館がある。赤塚地区コースはこれにて終りとなる。郷土芸能伝承館の南側の道を西に下って次の信号を左折すると徳丸通りとなり、前谷津川の谷の上を越えて、坂を上がって南に進めば東武練馬駅に出られるが、今回は徳丸7の交差点に戻って北に進み、高島平駅を目指す。

 

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東京の古民家めぐり・旧松澤家住宅(北区)

2017-11-08 19:24:18 | 東京の文化財

北区の赤羽自然観察公園にある旧松澤家住宅は、北区指定有形文化財(建造物)であり、東京9区文化財古民家めぐりの対象の一つになっている。赤羽自然観察公園へは赤羽駅から弁天通りを進み、あかいとり幼稚園入口のバス停の先の信号を案内板により右に入り、左、右、左と進んでいけば公園の東口に出る。赤羽自然観察公園の西口へは、赤羽駅からのバスもある。赤羽自然観察公園は通年公開だが、夜間は閉鎖されている。

東口から入るとすぐ稲田があり、その向こうに浮間から移築された旧松澤家住宅が見える。旧松澤家住宅は弘化元年(1844)の創建と伝わる。新編武蔵風土記稿によると、足立郡平柳領浮間村は、荒川沿いのため洪水被害があり、畑しか作れない村だったという。一方、川向こうの茅野を御用地と称し、野銭を納めていたとあるので、茅を主な産業にしていたらしい。

移築以前の松澤家住宅はトタン葺きの屋根であったが、その下には茅葺の屋根が残っていた。この住宅が調査され建物全体が解体されて部材が保存されたのは平成9年のことである。平成15年になって、旧松澤家住宅の主屋と倉屋の移築が始まり、幕末から明治初期の間取りが復元される。さらに、詰所と防火施設を設置して、北区ふるさと農家体験館として開館したのは平成17年のことである。松澤家は浮間の大規模農家で、明治時代には農業のほか養蚕も行っていたという。また、農耕用と運搬用に馬を数匹飼っており、幕末か明治の初めには、ウマヤが増築されている。

旧松澤家住宅は何度か増改築が行われたと考えられているが、創建時から、食い違い四間取り形式であったと推定されている。上の写真はドマから見たもので、右側の手前の部屋がザシキ、その向こうがオクザシキになる。左側の板の間はオクノマで、その先がナンドになっていた。浮間ではドマで煮炊きを行っていたので、オクノマに囲炉裏は無かった。

主屋の裏手に倉屋があった。倉屋は主屋より古く、納屋として使われていた。現在、倉屋では旧松澤家住宅の復元についての展示が行われている。倉屋には舟も展示されているが、洪水の時の移動手段として舟を用意しておく事があったらしい。浮間地域は荒川の洪水に度々みまわれたため、周囲より高く土を盛った水塚と呼ぶ地盤の上に家を建てており、移築以前の松澤家住宅も水塚の上に建っていた。それでも床上浸水になる事もあり、その時は屋根裏を避難場所にしていたという。

赤羽自然観察公園には湧水があり、自然保護区域も設けられている。園内の植栽は北区固有の種を用い、郷土の自然を育てているという。古民家とともに、その周辺環境も昔の姿のように保存されるのだろう。旧松澤家住宅を見終わったあと、周辺を散策し、それから赤羽駅へと戻る。

 

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