リフォームについて、問題が発生しましたので、収束を迎えるまでリフォームネタは封印することにしました。
今までの投稿記事も草稿の状態で保存しています。
また、公開できる日を楽しみにしております。
リフォームについて、問題が発生しましたので、収束を迎えるまでリフォームネタは封印することにしました。
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明の十三陵は北京の天寿山にある明代の皇帝、后妃の陵墓郡で13代の皇帝の陵墓がある。
このうち定陵は発掘されて、内部は地下宮殿として公開され中に入ることができる。

定陵の中
昔、陸海軍が作った地下壕に造りが似ている。
この形が丈夫だということの裏づけだろう。
部屋の仕切りにある通路はアーチ型に造られ、要石も乗ったしっかりしたものである。
造られた当時からこのようだったのか、発掘後なのか分からないが、高度な技術である。
李氏朝鮮時代の歴代王と王妃の位牌を祀った神宮が宗廟(チョンミョ)だ。

正殿
朝鮮王朝が漢城(現在のソウル)に遷都した年の12月着工で10ヶ月かかって完成した。
その際、開城(高麗の首都)から太祖から4代祖である穆祖(モッジョ)・翼祖(イッジョ)・度祖(ドジョ)・桓祖(ファンジョ)の位牌を宗廟へ移し、安置した。
宗廟に祀る位牌は増えていき、現在では
①正殿の19室に、太祖から純宗(スンジョン・李朝第27代王で李朝最後の王、1874~1926、在位1907~1910)までの48位の位牌が
②永寧殿の16室に太祖の4代祖である穆祖から桓祖など主に死後称号を贈られた王と王妃を中心とした32位の位牌を
③正殿の庭前にある功臣堂(コンシンダン)には李氏朝鮮時代の功臣83位の位牌がそれぞれ祀られている。
初めてイギリスへ行ったのが2003年。
熱波で気温が38度(少し南のフランスでは気温が40度になり老人が1万人くらい亡くなった。)まで上がり、フウフウいいながら観光したのだ。
ウォーター・ルー駅から、ウェストミンスターへ歩き、ぜいぜいいっている時に目に飛び込んできたのがビッグ・ベン。
その先にいくと、黒いいかつい顔をしたおじ様の像が目に入った。

第二次世界大戦中のイギリス首相チャーチル
ずいぶんとガタイの良いおじ様だと思っていたが、帰国して調べるまではチャーチル氏だとは知らなかった。
再開したのは、それから4年経ったインドネシアでのことだった。
義兄が仕事の関係でジャカルタに住んでいるのだが、そのジャカルタの旧名称をバタビア(その前はジャヤカルタ、ジャガトラ)という。
急にバタビアがで出てきて何だと思われるだろう。
インドネシアでの1週間、義兄はいろいろなところに連れていってくれた。
車で飛行機で、合計移動距離は2000kmを越えたのではないだろうか。
そしてジャカルタ北部のいくつかある博物館を案内したくれた時に、
「○○君(ゆきたんくの本名)、レストラン行かない?」
「近くにカフェ・バタビアってあるんだけれども・・・」

カフェ・バタビア
1600年代のオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地になったのが、この地である。
このカフェ・バタビアで食事をし、コーラを飲んでゆっくりとした。
店内にはたくさんの写真が飾られている。
その中に白黒の一枚に目がとまった。
写っていたのはウィンストン・チャーチル氏だった。
あのガタイ良し、真っ黒象の本人だ。
第二次世界大戦でイギリスを勝利に導いたが、落選のため勝利を首相として味わうことがてきなかったチャーチル氏。
その一方で多くの手記をてがけ、ノーベル文学賞を受賞した。
2011年にイギリス旅行が決まった時には、チャーチル氏生誕の場所ブレナム宮殿に行くことを予定した。
しかし、そのブレナム宮殿が世界遺産だとは知らなかったゆきたんくである。
ブレナム宮殿を、正門から広角でねらった。
年末であり、予定通りの見学ができなかったが、この写真を撮ったとで満足だった。
その時に泊まったB&Bの名前が The Duke Of Marlborough(ザ・デューク・オブ・マールバラ…マールバラ公爵)というプレナム宮殿から3km離れたところだった。
マールバラ公爵とはウィンストン・チャーチルの先祖である。
旅の予定では、あまり時間を割けなかったので、ブレナム宮殿には少し触れただけだが、満足した。

ザ・デューク・オブ・マールバラ
美しい。
これだけでコメントを終わらせてもいい。

美しい。白鷺城
城としての機能満載の姫路城。
その美しさとは裏腹に、ゴルゴ13でも天守閣にはたどり着けないだろう。
もっとも現代では戦闘機があるけれどね。
そま前の時代までは、この姫路城が最強かもしれないと思う造りになっている。

三の丸から見た天守閣だ。
1回も闘いを経験していない城。
兵器の発達により、城郭の必要もなくなり、取り壊しの危機にもあった姫路城。
陸軍省第4局長代理中村重遠大佐は名城は後世のために残すべしと陸軍卿山県有朋を説得し陸軍の金で修理し現在に至っている。
第二次世界大戦時の歴史を記す戦争遺跡がどんどん取り壊しになっているのとは対照的である。
そして日本の誇る世界遺産の一つになった。
悩んでいる。
私は日本人として、こんな考えを持っていいのか・・・
原子爆弾投下により広島ではたくさんの方が亡くなった。
その事実のモニュメントとして原爆ドームがある。
正式名称は広島産業奨励館。
原爆投下当時、その中でも働いていた人がいた。
原爆ドームの全景写真は良く見る。
初めて見た時には、その姿に感動さえ覚えた。
モニュメントとしての役割は大きい。

ドーム中央部の屋内部分
ドームを見ているうちに、内部はどのようになっているのか興味持った。
中をいじったのかどうかは知らない。
瓦礫の山とまではいかないが、瓦礫だらけである。
原爆の爆発とともに館内にいた人たちは全員即死したと解説板には書いてあった。
建物そのものよりも、それに関わっていた人たちの状況に目を向けることは今までは少なかった。
もっとも資料としては、ケロイドなどの傷病については紹介されている。
この写真を見て、不意打ちをくらったように亡くなった方々の思いに触れてみたい。
悩んでいるのは、「二度と過ちは繰り返しませんから」にである。
戦争そのものを肯定も否定もしない。
昔は国益を考えて、戦争を起した。
第二次世界大戦と教わった侵略戦争は、大東亜共栄圏を守るため、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、日本の構想であるという話もある。
であれば、国益だけを考えた侵略戦争ではなかったはずである。
侵略戦争と定義するのであれば「二度と過ちは繰り返しませんから」と言うべきである。
ただ、原爆に関しては、日本が戦争をしたのが原因ととらえるよりも原爆を落とした側が考えることだと思うのである。
戦争により核(だけではないが)を用いることで尊い人命を損なうことは今後はないと思っている。
ヒロシマが最初でナガサキが最後を信じたい。
正しい歴史教育が行われていないという話を聞く。
日本は事実を元に、誰が正しいのか誰が間違っているのか検証をし続けなければならないと思う。
原爆ドームが世界遺産として残された意味はそこにあるのだと思いたい。
なんだか知らないが、いつの間にか名前を知っていた遺跡。
ストーンヘンジ。
およそ4500年~4000年前の先史時代に建てられた遺構である。

ストーンヘンジ全景。手前にあるのはスローターストーン(虐殺の石)
夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。

ヒールストーン
当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。

一目瞭然ねデコッてますね。
日本ではあまり感情移入できない問題がある。
宗教観である。
先日はインドネシアのボロブドゥール寺院郡の記事を書いた。
ボロブドゥールは大乗仏教の象徴でもあった。
ジャワの王家の実権がシヴァ信仰を奉ずるヒンドゥー教に写った時、
ロロ・ジョングランを始めとするプランバナン寺院郡ができた。

ロロ・ジョングラン

寺院郡
どこかで見たことがある建築物だと思っていた。
ゆきたんくはまだ行ったことはないが、マレーシアのペトロナスタワーが宗教的な意味合いを持った意匠ということを聞いたことがあった。
確かに似ている。この真偽は分からないが、プランバナンと非常によく似ているのである。
写真を借りた。

ペトロナスタワー
さて、新しいシリーズです。
旅シリーズで取り上げたものを再利用するためです。
その第1弾はインドネシアのボロブドゥール。
インドネシアは世界最大のイスラム教徒のいる国である。
大乗仏教の最盛期に作られたのが、このボロブドゥールである。

ストゥーバ。卒塔婆の語源。
真上から見ると日本の寺に飾られている曼荼羅(マンダラ)と同様な配置を示す。
6層の方形壇の上に3層の円形壇、その上には大ストゥーバと呼ばれる仏塔がある。

大ストゥーバを背に、ゆきたんくと長男のおーちゃん
それぞれのストゥーバの中には仏像が一体ずつ入っている。
大ストゥーバの中は大日如来様がいらっしゃるのか思いきや、何もおかず大乗仏教の真髄である「空」を表現しているとも言われている。
(2007年にボロブドゥールを訪れた時に聞いたのは、ボロブドゥールの麓に博物館があり、その中に安置されているということだ。)

ボロブドゥール全景
最南端、最北端と姑息なネタを振り回すゆきたんくである。
次のネタは赤道がらみ・・・
ゆきたんくはインドネシアへの旅で、初めて南半球に行くことになる。
当然赤道越えをすることになるので、赤道の写真を撮ろうと思った。
まあ、それは子どもの頃の思い込みで赤道は読んで字の通り赤い道(笑)
地球上に赤い道があのだと思っていた。
実際にはそんなものはないので、赤道を越える辺りで写真を撮っただけである。

インドネシアはカリマンタン島上空。黒い線が赤道である。
飛行機嫌いだったゆきたんくが、飛行機に乗る時の楽しみの一つが上写真の位置情報である。
映画なんて見ないのである。機体画像の中央が黒い線に差し掛かった、シャッターのタイミングだ。

多分(こんな表現はあまり良くない)、これが赤道上空だ。
赤道上空という思いで見ると、今までに見たことのないような雲の感じがする。
まぁ、あちこちの雲を見比べて検証した訳ではないので、感じたままでいいと思う。
初めてのことは、何か新鮮であるし旅行の中にサブテーマがいくつかあると楽しくなる。
赤道越えは、その一つでありました。
さて、昨日は最南端。
今日は最北端でいく。

飛行機のモニターで見た地球
イギリスに向かう途中、の像の景色を撮った。
緯度が一番高そうなのは、「Навсегда здесь」とロシア語で書いて・・
日本語では「ここに永遠に」だ。

この時間帯、日本では夕暮れ時だ。
景色がしっかりと写っていないけれど、紛れもなく、ゆきたんくの人生最北端である。
安易なネタですみません。
今の時点である。
世界中を旅行している方には、なんてことない出来事である。
まして、南極に到達した方々には到底かなわない・・・
ゆきたんくの人生地球最南端は、インドネシアのジョグジャカルタからジャカルタに戻る時の機上のことである。
アジスジプト国際空港を飛び立って20分。
窓の外に見えたのはインド洋である。

生まれて初めて見るインド洋だ。
眼下には海岸線が見え、そこに打ち寄せる波が白くなっていた。
動きがやけにゆっくりとしているのに違和感を感じるが、実際には大きな波なのであろう。
上空からの景色はミニチュアなので、錯覚をしているのである。
ゆきたんくの人生最南端のお話でした。
ゆきたんくが、飛行機に乗り「雲の上にいるんだなぁ」と実感した初めての写真である。
飛行機は雲の上を飛ぶのは当たり前のことなのに、それを実感したとはどういうことか。

雲の影
写真はロシア上空だ。
ふんわりと浮いている雲の影が地表に落ちている。
雲と地表の距離はかなりのものである。
いつも下から見上げている雲の、さらに上にいるという感覚をはっきり自覚したのは初めてだった。
宇宙旅行。
子どもの頃に、「大人になる頃には、宇宙旅行ができるようになっているんだなぁ」
なんて思っていた。
10歳の時に大阪で万国博覧会があって、15年後にはリニアモーターカーが走り、東京・大阪間を1時間で結ぶ。
なんて話が、40年経った今も実現していない。
まあ、宇宙旅行は自分が生きている間には、できないだろう。
実現も難しいだろうし、実現しても費用がどれだけかかるのか・・・
で、インドネシアに行く時の写真から1枚。
題名は「宇宙旅行…地球上空」

こんな感じかなぁ・・・