現在は日本和紡興行の敷地端にあるのだが、かつての海軍航空技術廠本庁舎に見つけた2つある防火水槽のうちの一つである。
何気なしに、池が設置されているようには見える。
小さいが、有事の時の防火のために造られたのであろう。
ここは海軍航空技術廠について述べていくべきなのだろうが、あまりに大きいので小出しにさせていただく。
防火水槽 → Map
現在は日本和紡興行の敷地端にあるのだが、かつての海軍航空技術廠本庁舎に見つけた2つある防火水槽のうちの一つである。
何気なしに、池が設置されているようには見える。
小さいが、有事の時の防火のために造られたのであろう。
ここは海軍航空技術廠について述べていくべきなのだろうが、あまりに大きいので小出しにさせていただく。
防火水槽 → Map
今は住宅地。
その中に自然にある感じの水槽である。
そう、ヨーロッパのラウンドアバウトのように。
この辺りにあっただろう寄宿舎は痕跡をとどめていない。
そして、この蓋をした水槽は現在は下水道関係に使われているとか・・・
水槽の位置 → Map
ここで触れておこう。
なかなか自己サイトの更新が進まないでいる。
そのうちの一つが戦跡調査である。
今日は横須賀市に残る戦跡を紹介する。
調査日は2019年6月2日だ。
海軍の技官寮通路門跡だが、残っている遺構の一つである。
このアングルが一番良く撮れた感じかな。 → Map
横須賀海軍飛行隊ができ、
さて、早くまとめないと記憶が怪しい今日この頃である。
さて。、仕事は終わった。
帰りたい。
でも、帰れない。
帰りの支度は終わっているのだが、ちょっとね。
ゆきたんくお仕事セット
まあ、様々なしがらみで優先順位は変わってくるよな。
うん、お互い様である。
あっ、こんなこと書いたらばちが当たるか…
ついに出たな。
上へ上へ広がるやつ。
しかし、この写真は夕方6時過ぎのものだというのに、まだ休む気がない積乱雲。
夏であり、気温の上昇を感じさせるのには十分なディティールである。
また、自分の部屋も余裕で30℃越えなのだろう。
このビニルハウスの中も暑そうだなぁ。
とにかくは夜はしっかりと睡眠時間を取らないと、あっという間に体調は崩れるな。
切通とは考えたね。
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれた自然の要塞である。
山はいちいち上るのが大変。
そこで切通にすれば交通の便も守備も兼ねることになる。
この朝夷奈切通は鎌倉と六浦を結ぶ重要な通りである。
たくさんある切通のなかで古道の趣を一番残しているという。
写真は、東端の入口近くのものである。
湿っている地面は、ずっと続いている。
女房を職場近くまで送る。
そのランドマークが松戸中央公園である。
ゆきたんくの好きな戦争遺跡、旧松戸工兵学校跡だ。
そこの紫陽花はいつもきれいな花をつける。
少し前にも投稿したが、今日は改めて目に飛び込んできたような新鮮さを紫陽花がくれたのだ。
これはもう写真を撮るしかない。
松戸中央公園は、季節によって紫陽花、銀杏、曼殊沙華と色合いを変えた演出をしてくれる公園である。
それを楽しむ余裕があることはいいことだね。
ゆきたんくが今の家に住んで30年になる。
5年目にリフォームをして、その時にクーラーも付け替えた。
そして、寿命がきたようであまり冷えなくなった。
これから暑くなるので、工事が混むだろうとかねてから連絡したあった業者との工事日が本日である。
室外機を取り外すときにひと騒ぎ起きた。
室外機の裏側にスズメバチが巣を作っていたのだ。
そして数匹飛び出すように飛んだ。
慌てて逃げる男3人(業者のかた2人、ゆきたんく1人)。
それから作業が終わるまでは、ゆきたんくは両手に蜂ジェット(蜂退治のスプレー)を持って臨戦態勢だ。
小1時間で作業が終わり、作動するクーラー。
気持ちよく冷える居間。
なんと25年ぶりの新型クーラー。
あたらしいおもちゃを手に入れたような喜びがあった。
さて、小さい頃のトラウマで犬が苦手なゆきたんく。
ついでに4つ足もだめなのだが、いやだめだったのだが女房と仁なの陰謀で20年に渡り猫を飼うことになった。
慣れてくるとかわいいもので、慣れたのは幸いであった。
今日も暑かった。
自家用車で通勤している。
帰宅時家の前の道路に生き物を発見。
良く見るとネコである。
ヘッドライトが当たっているのだが逃げない。
車庫入れした後、道路に戻るとまだネコ様はいた。
そして撮った写真がこれである。
まだ道路の表面は熱が残っている。
それでも気持ちが良いのだろうか。
座っている場所を離れない。
かつて写真のような毛並みのネコが我が家にもいた。
うん、懐かしい。
千葉県の偉人。
そう、「椿の海」の干拓に大きな影響を持った鉄牛という先人がいる。
「椿の海」今の千葉県東庄町、旭市、匝瑳市に江戸時代初期まで実際にあった湖である。
ここの治水を進めることで、椿の海を用水源とする農民からは反対された。
白井氏が開発に乗り出したが、予想以上の難工事で、資金繰りに困りおりてしまった。
その後再開発を幕府へ願い出るも許可はされなかった。
当時の江戸幕府アの老中稲葉正則が帰依していた黄檗宗僧侶の鉄牛に援助を求めた。
鉄牛の仲介で許可がおり、再度開発を進めた。
下流の村では反対も起こったが、人口が現像していた江戸の食糧事情もあれ、工事は続けられた。
以上wikiより。
鉄牛和尚の塔婆 → Map
鉄牛和尚の墓
ここ椿の海の近くにある福聚寺(ふくしゅうじ)にお墓がある。
鉄牛は、人々に乞われて椿海跡地近くに建てたのがその後、人々に乞われて椿海跡地近くに建てたのが福聚寺で、そこで一生を終えた。
この墓石は2m以上の高さがある。