yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「家康、江戸を建てる」は、関東には未来があると江戸入りした家康がいまの東京の基盤をつくる話

2019年03月09日 | 斜読

book482 家康、江戸を建てる 門井慶喜 祥伝社 2016     
 私は東京で生まれ育った。記憶では、小学校で太田道灌(1432-1486)が江戸城を築き、いまの東京の祖になったことを習った。
  太田道灌は当時の武蔵の守護代・扇谷上杉氏の武将で、知略に秀でていて人望が厚かったため、猜疑心が強過ぎた主君に暗殺されてしまう。
  関東に進出し相模を本拠とした北条早雲(1432-1519)も太田道灌に一目置いていた・・早雲、道灌の出会いは司馬遼太郎著book471「箱根の坂」参照・・。
  北条家は次第に勢力を伸ばし、3代氏康が武蔵を支配、4代氏政は父・氏康とともに相模、武蔵に加え、上野、下野、上総、下総、安房、常陸の関八州を支配する。江戸は寒村のままだったようだ。

 「第1話 流れを変える」は、1590年、北条家の居城である小田原城を望む石垣山で、豊臣秀吉徳川家康に北条家の所領である関東八ヵ国と家康の所領である駿河、遠江、三河、甲斐、信濃と交換しようと持ちかけるところから始まる。
  家康は家臣の猛反対を押し切り、P11関東には未来があると、江戸入りを決断する。江戸入りするも、太田道灌が築城した江戸城は田舎陣屋ほどに荒れていた。
  小高い本丸に上り、東と南の海、西の萱原を望みながら、家臣にP16ここを大坂にしたい、と話す。家康に江戸の地ならしを命じられた第1話の主役・伊奈忠次は、P25江戸を水浸しにする元凶は利根川と判断し、P33甲斐に赴任したとき見た聖牛を使う信玄堤の工法を用い、P26武蔵国で東に向きを変える工事に着手する。
  以下、江戸の発展とともに治水から利水に社会が変わる様子が伊奈親子をからめながら展開していく。

 第1話は2014年10-11月、第2話は同年12月、2015年1-2月、第3話は同年3-4月、第4話は同年5-7月、第5話は同年8-9月の初出で、家康が江戸を切り開き、日本の中心として発展していく基盤づくりという点では共通するが、それぞれは独立した話で1~5話の脈絡はない。
  強いていえば、1話の本丸からの眺めに対し、5話の終盤で家康と2代秀忠が江戸城天守に上り、1話から5話の話を引き継いで、神田をくずして海をうめたてた日比谷の地面、鋳貨工場から白黒のけむりを立ち上らせる日本橋の金座、銀座、本郷や愛宕下などの整然たる武家屋敷、はるばる七井から引いてきた上水道が外濠と立体交差ずる水道橋、そこを通って城内に引き込まれた清冽な水、北桔橋門のまわりの石垣積みなどを見回し、家康が胸がつまる思いがしたと述べて、1話~5話を総括している。

第2話 金貨を延べる」 家康はP81江戸を天下一の街にするためには独自の貨幣を持たねばならないと考えていたが、江戸には知識も人材も工場も無いため、江戸入りして3年目の1595年、秀吉が大判の金貨の鋳造を命じた彫金師・後藤長乗を招く。
  P85長乗は上方から職人を呼び、工場をつくる。大判鋳造のめどが立ったところで、江戸嫌いの長乗は第2話の主役・従者の橋本庄三郎を残し、帰洛する。
  庄三郎は優れた腕を持ちながら長く下積みだったため、金貨鋳造に本領を発揮する。P112秀吉が定めた天正大判の金の含有率は75%、家康・庄三郎の武蔵小判の金の含有率を85%にすれば、武蔵小判が値上がりすると確信する。
  話は紆余曲折するが、P173関ヶ原の戦い後、金位85%の家康・庄三郎の慶長小判が発行され、庄三郎は全国貨幣の支配者になり、息を引き取る。庄三郎の役宅と金貨鋳造所が金座、銀貨鋳造所が銀座と呼ばれた。

第3話 飲み水を引く」  泥湿地と遠浅の海で囲まれた江戸の発展には豊かな清水が必須である。江戸入りを前に、家康は第3話の主役の一人・武士ながら菓子づくりの得意な大久保藤五郎に江戸の水探しを命じる。
  P184江戸入りした家康は鷹狩りしながら地相を見極め、もう一人の主役となる地元の六次郎から七井の池を聞き、六次郎に江戸への上水工事を命じる。
  七井の池はその後井の頭と呼ばれ、上水が外濠を越えるための水道橋がのちに水道橋と呼ばれた。
  一方の藤五郎は、良質の水としてP202赤坂の溜池と神田明神山岸の細流を見つける。もちろんこれだけでは発展を続ける江戸を潤すことは出来ない。
  藤五郎、六次郎、3人目の主役の春日与右衛門が協力しながら、江戸の水道事業を完成させる。

第4話 石垣を積む」  主役は伊豆国堀河=現北川の石切・吾平で、徳川家康の代官頭・大久保長安から、江戸城築城の石の切り出しを命じられる。しばらくは吾平と伊豆の石切の話がが展開する。
  後半の主役は江戸城の伊達家担当普請場である大手門で石積みに力を発揮する喜三太で、江戸城の搦手となる北桔橋門の石垣の話が展開する。
  終盤、吾平の切り出した石が大手門枡形の鏡石に使われた話で第4話は終わる。・・現皇居の大手門あたり、北桔橋門あたりの石垣は何度か見たが、吾平、喜三多の努力があったことは説明坂にも記されておらず気づかなかった、次の機会に改めて見直したい。

第5話 天守を起こす」 第5話の主役は2代秀忠である。家康は藤堂高虎に江戸城の縄張を命じたが、秀忠が高虎に天守は不要と反論する。
  家康と秀忠の問答が続き、家康が秀忠に白い天守を造るよう厳命するが、真意を教えない。結果的に秀忠は家康の意を理解して天守を完成させるが、家康はさらなる深い意味を述懐する。

 残念ながら天守は明暦の火災で焼失してしまったから、家康と秀忠が天守から見下ろして感慨にふけった江戸の姿は皇居天守台から想像するしかないが、家康が不毛の土地に未来を構想した結果の東京の繁栄は目の当たりにすることはできる。

 言い換えれば、家康が関東に未来があると江戸入りを決断し、利根川の流れを変え、金座、銀座で貨幣を鋳造して経済の基盤をつくり、井の頭から上水道を引いた先見の明が江戸、そして東京を建てたのだから、改めて家康を見直した。「江戸を歩く」のが人気だそうだ。家康の決断、英知の再発見にまた江戸を歩こうと思った。(2019.2)

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2018.8松本を歩く2 松本城縄張り・天守群

2019年03月06日 | 旅行

長野を歩く>  2018.8 松本を歩く2 松本城/縄張り・天守群

松本城は平城だが3重の堀と女鳥羽川で山城に匹敵する備え
 松本城の歴史をひもとく。戦国時代、信濃の守護小笠原氏が山城の早城を築き、支城として現松本城の場所に平城の深志城を造った。1550年、甲斐の武田信玄(1521-1573)が信濃に攻め込み、小笠原氏を追放して早城を破却、深志城を松本盆地の拠点とした。
 1582年、織田信長(1534-1582)は徳川家康(1543-1616)らとともに武田氏を滅亡させる。同年の本能寺の変後、徳川家康が甲斐、信濃を支配下に置き、配下の小笠原氏を回復させ、小笠原氏は深志城に入り松本城と改める。
 1590年、豊臣秀吉(1537-1598)は徳川家康らとともに小田原城後北条家を攻め落とす。秀吉は家康を後北条家領だった相模、武蔵、上野、下野、上総、下総、安房、常陸の関東八州に移封させ、代わって家康領だった駿河、遠江、三河、甲斐、信濃を支配する。小笠原氏は家康とともに関東に移ったため、松本城には秀吉配下の石川数正(1533-1593)が入る。
 なんと、この石川数正は家康が人質だった幼少のころから家康に仕えていた。家康は酒井忠次とともに数正を腹心の部下として信頼していたが、1585年、数正は突然として敵対していた豊臣秀吉に寝返ってしまった。理由は諸説ある。本能寺の変のように激しい性格の織田信長に明智光秀が反旗を翻す例もあるが、家康は温厚で、なかなか自分の判断をいわなかったらしい。家康のそんな煮え切らない性格に嫌気がさしたのか?。
 私は、秀吉が一国一城を餌に籠絡させたのではないかと思うが、確証はない。城主となった数正は松本城の大改修に着手する。これも想像だが、秀吉の天下とはいえ、家康は大勢力であり、いつ攻めてくるかも知れないと、城の防備を固めたのではないだろうか。子の康長も天守、乾小天守、渡櫓などを造営し、いまに残る形が完成した。
 数正が没し、秀吉も没し、家康の天下になった1613年、石川康長が家康により改易され、その後は小笠原家、戸田家、松平家、堀田家、水野家、戸田家などが城主となり、明治維新を迎えた。
 維新後、天守払い下げ・買い戻し、筑摩県庁として使用された二の丸御殿全焼などがあったが、近年、本丸の表門となる黒門枡形が復元、二の丸の東門となる太鼓門枡形が復元された。
 1936年、天守・乾小天守・渡櫓・辰巳附櫓・月見櫓の5棟が国宝に指定され、2006年に日本百名城に選ばれている。家康を裏切った石川数正だが、康長とともに国宝に値する松本城を造営したことは評価したい。

 松本城は平城の深志城が原型である。戦国時代に入り、信玄、信長、家康、秀吉がしのぎを削っていたし、数正はいつ家康が攻め込んでくるか内心は穏やかでは無かったはずだから、山城に匹敵する防御性を備えなければならないと考えたに違いない。
 パンフレットの縄張図を見ると(web転載、出典:日本百名城・小学館)、本丸を囲んで内堀、本丸をU字型で包み込む二の丸と外堀、本丸、二の丸を包み込む三の丸と総堀の構成で、さらに女鳥羽川が総堀の南側を東西に流れているから、4重の川と堀が山城の堅固さに匹敵する防御になっている。
 城の表門となる大手門は総堀の南中央に設けられ、枡形になっている。大手門の先の三の丸は十分な広さがあり、武家屋敷が建ち並んでいたようだ。総堀の東側の東門、北側の北門、北不明門、西側の西不明門はそれぞれ堀の外側に土塁を築いた馬出を設け、馬出の外側を半円の水堀で囲んでいる。
 馬出は攻撃力を高める仕掛けだから、水を活用した堀の防御力と馬出の攻撃力を備えた城、といえそうだ。
 先ほど歩いてきた女鳥羽川に架かる千歳橋を過ぎたあたりのクランク状の道路が、大手門枡形の名残になる。
 総堀は東側の一部を残し、ほとんどが埋められ、市街地になっている。外堀も東側を残し、大名町通りの西側は埋められていて、「おひさまセット」を食べたそば屋も埋められた外堀の上に建っていることになる(写真)。
 総堀、外堀の痕跡を表示してくれれば・・見落としたのかも知れないが・・、城の縄張、さらには攻防の仕掛けに親しくなる、と思う。

大天守+辰巳附櫓+月見櫓+乾小天守+渡櫓
 外堀を渡った先にプレファブの小屋があり、ボランティアガイドと書かれていた。声を掛けると、1時間ほどのガイドを引き受けてくれた。
 松本城攻防戦をイメージすると、女鳥羽川の千歳橋を渡り、南の大手門枡形を破り、総堀を渡って三の丸に進撃、三の丸で待ち構える城兵を突破して東側外堀の太鼓門を目指す。外堀を渡り、太鼓門枡形を切り抜けて二の丸に進撃し、南に回って黒門枡形で城兵を倒し、本丸に突入となる。南の総堀+大手門枡形→三の丸→東の外堀+太鼓門枡形→二の丸→南の内堀+黒門枡形→本丸と、山城に劣らぬ防御の堅さが想像できる。

 攻防戦を頭の隅に置きながら、ガイドの案内で内堀を西に歩く。天守群(写真)は高さ29.4m五重6階の大天守を中心に、向かって右=東の高さ14.7m辰巳附櫓、その東に高さ11.1mの月見櫓(次頁写真右端)、前掲写真左=西に高さ16.8mの乾小天守、大天守と乾天守をつなぐ高さ12.0mの渡櫓の5棟の複合連結式で構成されている。
 本丸からも天守群を見ることができるが、内堀の西側は内堀に天守群が映り写真映えがするので、見学者に撮影を勧めているそうだ。
 確かに、内堀、雁行する石垣、大天守を中心とした天守群の壮観さは見応えがある(写真)。群を抜く大天守と横に伸びる辰巳附櫓、乾小天守の高さ、幅のプロポーションも良い。黒瓦、黒板壁が外観を引き締め、入母屋屋根、千鳥破風、唐破風、石垣からせり出した石落とし、矢狭間・鉄砲狭間が外観に変化をつくっている。
 外観は秀逸で国宝にふさわしいし、同時に実戦に備えた堅固さもうかがえる。豊臣秀吉は徳川家康監視網の一つとして松本城を位置づけ、かつての家康の重鎮だった石川数正を城主にしたのだろうが、石川数正は裏切った家康への恐れも加わり、壮麗さよりも堅固さを重視したのではないだろうか。

 前掲写真左端に内堀に架かった朱塗りの橋が写っている。天守群北西に石垣を切り落としただけの埋門が設けられていて、埋門に朱塗りの橋が架けられ、埋橋と呼ばれている。本丸危うしのときの非常用避難路のようだ。
 二の丸公園を戻り、二の丸東側の御殿跡に向かう。かつて建坪およそ600坪≒約2000㎡の御殿が建っていた。明治維新後の1871年、信濃あたりは筑摩県となり、松本城御殿が1872年から筑摩県庁舎として使われたが、1867年に全焼してしまう。
 同年、筑摩県は長野県に統合され、御殿跡はそのまま放置された。2000㎡の御殿は想像がつかないが、江戸時代、松本が信州最大の商業都市として栄え、長野県の統合されたあとも商業の中心地だったから、松本城6~8万石の経済は安定していたようだ。 (2019.3)

 

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「俳句入門・再入門」第1章初級編で俳句の基礎を復習、第2章上級編を参考に句作り挑戦中

2019年03月03日 | 斜読

book481 俳句入門・再入門 安部元気・辻桃子 創元社 2005 

 2018年11月に大学卒50年全学同期会が母校の会館で開かれた。50年ぶりの顔合わせもあり、息災を祝いながら大いに杯を交わした。
 全学同期会閉会後、学科別のクラス会が続いた。クラス会はほぼ毎年開かれているが地方からの久方ぶりの参加者もいて、こちらでも息災を祝い大いに杯を交わした。席替えを何度かしているうちに、向かいがK氏、右がU氏となった。

 K氏は俳句歴が長い。U氏はK氏に誘われだいぶ前から俳句を交換していて、二人が俳句談義になった。K氏の所属してる俳句会では連歌を楽しんでいるそうで、連歌は参加者が多い方が盛り上がるからと、私も誘われた。飲み過ぎると記憶があいまいになる。定かな返事をした覚えはないが、ほどなくK氏から連歌を添付したメイルが届いた。続けて、連歌の基本的なルールと近作の俳句が届いた。さらにU氏から連歌の解釈と、近作の俳句が届いた。たたみかけるように、K氏から俳句会の名前、第1回投句日、兼題が届いた。

 兼題って何だ?、連歌ってどういう仕組みだ?、季語は?、などなど壁にぶつかった。テレビ番組のプレバド・俳句編は何度か見たことがあったが、気を入れ直し、梅沢富美男氏らの俳句や夏井先生の手直し、注意をメモし始めた。
 俳句は学校で習っただけだから、知識不足でにっちもさっちもいかない。名画、名曲鑑賞と同じように習うより慣れろと考え、図書館で名句集を借りた。しかし、基本が分からないと名句の解説に理解が追いつかない。
 初歩から学ぶことにして、「俳句入門・再入門」を読んだ。この本は、第1章 一から始める初級編、第2章 力をつける上達編、第3章 俳句を楽しむ実践編  の構成で、見開き2ページごとに俳句作りの要点がまとめられていて、分かりやすかった。
 「はじめに」で、約束事は五七五の定型と季語の二つだけ、正岡子規、高浜虚子らの句を例に名句はやさしいと解説してあり、なんとかついていけそうと安心した。

 本文は質問に答える形になっていて、第1章は35の初歩的なことがらを①音を五七五にする、②表記のルール、③季語を使う、④切れ字を知るに分けて、解説している。たとえば①音を五七五にするQ1拗音、促音の数え方で、「キャ」は一音に数え、②表記のルールQ8 拗音・促音の書き方で、芭蕉の「梅が香にのつと日の出る山路かな」を例に「のっと」を「のつと」と表記するなど、基本の基本が解説される。長く俳句から離れていると、こうした基本も忘れてしまっていたから、初級編は基本を思い出させてくれた。

 Q4漢字の読み方では、高浜虚子「流れ行く大根の葉の早さかな」では大根をだいこんと読むが、一茶「大根引き大根で道を教へけり」では大根をだいこと読むなど、五七五におさめる読み方を紹介している。Q16新かなと旧かなによれば、俳句では前述一茶の「・・教へけり」のように旧かながよく使われるが、どちらかに決めれば新かなでも旧かなでも構わないそうだ。

 ③季語を使うQ19季語の働きで、季語の持つイメージを活かして読み手の想像力を広げさせると諭し、Q20季語を使いこなすポイントで、季語の持つイメージを「本意」と呼び、季語の持っている歴史的な背景や文学的な伝統をイメージさせ、あるいはQ21季語を使いこなすポイント2で、正岡子規「夕立や砂に突き立つ松青葉」のように季語の夕立から松葉をたたき落とす雨脚を想像させる句を目指せと語る。Q24季語のおぼえ方で、季語は本題が6000を越えていて、傍題を含めると数倍になるそうで、とてもおぼえきれない。そこで日々の暮らしのなかで実感のある季語を使いこなしていると、自然に季語が身についてくると安心させてくれる。

 ④切れ字を知るQ30切れ字「や」の働きで、芭蕉「荒海や佐渡に横たふ天の川」の「や」が上五と中七下五のあいだに置かれることで、感動、詠嘆が強調されると語る。Q29には切れ字が紹介され、Q32では切れ字「けり」、Q34で切れ字「かな」の例をあげている。

 以上の第1章は復習編だったから、なるほどなるほど読み終えた。第2章は上達編になる。①季語を生かして使う、②切れ字を使いこなす、③さまざまな技法を使う、④なにを詠むかを考える、と俳句の作り方が具体的に語られていく。①季語ではQ36本意、Q37~Q39即き過ぎ、Q40取り合わせ、②切れ字ではQ41~Q43で上五、下五、③技法Q47~Q50では擬音語、擬態語、Q53~Q55でリフレイン、④なにを詠むかQ58~Q62で写生句を紹介し、Q67~Q70で写生句のポイントを語っている。
 第3章実践編では、①句会、②吟行を勧めている。

 まだまだ句会、吟行の域ではないが、ときどき基礎編を思いだし、上級編を参考にしながら、一人句会、一人吟行に挑戦している。どこまで続くか、K氏・U氏の句会に付いていけるか?。まずは楽しく、日常を素直に詠むを目指している。(2019.2)

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酢は代謝効果、血液サラサラ効果、疲労回復など健康効果が高い、梅干し・梅肉エキス+黒酢で元気力

2019年03月01日 | よしなしごと

梅干しを食べなくなった→梅肉エキス+大さじ1~2杯の黒酢で元気力

 寿司、酢の物など、.酢を使った食材は好物だった。寿司はいまや世界共通の食材として知られている。人気の理由はネタもさることながら、酢飯の食感の良さと酢の健康効果であろう。私は、いつのころからか、酢をかけて食べるのが習慣になった。テレビの健康番組やwebの健康情報でも酢が推奨されている。酢について、知識を整理した。

梅干し&日の丸弁当
 さかのぼって、私の小学校は東京都大森にあった。余談だが、60数年前、京浜急行線に学校裏という駅があり、その学校が母校だった・・いまは学校裏という駅名は無くなり、母校も名称が変わった・・昭和はますます遠くなっている・・。
 小学校入学間もなくは、講堂は空襲?で屋根が落ちていて立ち入り禁止、校舎も一部が改築中で、午前組と午後組に分かれての授業だった。
 校舎が完成しても給食室が間に合わず、しばらくは弁当持参だった。弁当にはいつも殺菌効果の高い梅干しが入っていた。梅干しの回りは味がしみこんでご飯がおいしかった。
 「ご飯の真ん中に赤い梅干し」の構図は日の丸に見えることから、日の丸弁当と呼ばれた。ほとんどの子どもが梅干し弁当だった。

 小学校の給食が始まり、中学、工高、大学へと進学し、弁当を持たない日が増えたが、遠出のときのおにぎりとか、たまの弁当には必ず梅干しつきだった。
 結婚後も、弁当を持っていくときはカミさんが手づくりの梅干しを入れてくれた。
 梅干しに殺菌効果のほかに、クエン酸、リンゴ酸、コハク酸、酒石酸などの有機酸、タンパク質、カルシウム、カリウム、リン、鉄などのミネラル(無機質)、ビタミンA・B1・B2・Cなどが豊富に含まれているといわれる。そうした効果があるから、古来より梅干しが使われたのであろう。

梅干しに代わり梅肉エキス
 しかし、勤め出すと会議・会合、委員会・研究会、調査・研究などの出張が多く、梅干しの入った弁当を食べる機会は極端に減った。仕事疲れで?体調を崩すことも多くなった。
 あるときからカミさんの勧めで梅干しの代わりに、朝食前に梅肉エキスを飲み始めた。梅肉エキスは、梅の実の絞り汁を加熱してペースト状にした食材である。
 主成分のクエン酸のほかにリンゴ酸、コハク酸、カテキン酸、ピクリン酸などの有機酸が豊富であり、リン、鉄、カルシウム、マグネシウムなどのミネラルも含んでいる。名前の通り、梅干しのエキスである。

 その後、梅肉エキスを毎朝、小さじに少々=2~3gを目安に麦茶に溶かして飲んでいる。旅行に出るときは、梅肉エキスを粒状に加工した梅丹を持参し、飲んでいる。

さらに黒酢を摂取
 定年後はほとんど家での食事になり、たまにカミさん手づくり梅干しを食べることもなくはないが、梅干しの摂取量が少なくなった。梅肉エキスは毎朝飲んでいるが、加えて酢を積極的にとるようにした。
 酢の物、寿司などとは違った、酢を使わない食材に酢をかけて食べている。
 酢とは、穀物や果実を酵母によってアルコール発酵させた醸造酒を、酢酸によって酢酸発酵させて作る。主成分の酢酸は3~5%ぐらいだそうだが、酢酸以外に乳酸、コハク酸、リンゴ酸、クエン酸、アミノ酸などを含む。
 米を原料とする米酢、玄米を原料とする玄米酢、ブドウを原料としたバルサミコ酢、リンゴから作るリンゴ酢、米酢や玄米酢などを長期間熟成させた黒酢など、原料、製法で特徴的な酢も作られている。
 我が家では、国産の純玄米黒酢を使っている。純玄米黒酢にはアミノ酸を始めクエン酸、コハク酸やビタミン、ミネラルが米酢よりも多いそうだ。

酢の代表的な効用
効用1 代謝効果  酢酸が脂肪の蓄積を抑える、クエン酸が脂肪をエネルギーに変化させる、アミノ酸が脂肪の燃焼を促す
効用2 血液サラサラ効果  酢酸が血管を拡張させ、血液サラサラの元となる一酸化窒素NOをつくり出す酵素eNOSを活性化させる
効用3 疲労回復  アミノ酸とクエン酸が筋肉中の活力源であるグリコーゲンを増やし、疲労回復のスピードを速めてくれる
効用4 血糖値の上昇を抑える  胃から腸への消化の流れがゆっくりになるため、食後に急激に上がる血糖を抑えてくれる
効用5 血圧の上昇を抑え、血圧を下げる  酢酸が代謝されるとアデノシンが作られる、アデノシンには血管を広げる作用をすることから血液がスムーズに流れ、血圧上昇を抑え、血圧が下がりやすくなる
効用6 抗菌作用  酢には細菌の繁殖を抑える働きがある
効用7 腸内環境を整える  酢酸は腸内の悪玉菌の増殖を抑える働きがあり、便秘対策にも効果が期待される

酢の摂取量は大さじ1~2杯=20~30ml、私の酢食
朝食前  梅肉エキスを小さじ少々=2~3gを麦茶に溶かして一杯
朝食   ①ダイコンおろしに酢をたっぷりとかける・・ちなみに我が家のダイコンおろしは、チリメンひとつかみ+食べる小魚ひとつかみ+鰹節ひとつかみを加える
②納豆に酢を少々かける・・ちなみに我が家の納豆にはチリメン+すりごまを加える、酢をかけると醤油の量を減らせる=減塩、ナットウキナーゼは夜に効果が高いので、納豆50gのうち朝は15g少々を食べ、残り30g少々は夕食に食べる
③野菜=キャベツか白菜には酢をたっぷりかけて食べる、酢だけでも味は良い
④焼き魚にも酢をたっぷりかけて食べる・・醤油をかけなくてもおいしい
⑤ご飯に酢を一掛けして食べる・・ご飯は95g前後を目安
昼食  ①野菜=酢で味付けしたキャベツか白菜を食べる
②焼き魚のときは酢をたっぷりかける
③ご飯に一掛けして食べる・・ご飯は95g前後を目安に、酢をかけると海苔だけでも食べられる
夕食  ①黒酢味または三杯酢味のもずく+めかぶ+チリメンを朝の残り30g少々の納豆に加えてよく混ぜて食べる、ビールと相性が良い、お酒を飲むときはご飯を食べない
②野菜=酢で味付けしたキャベツか白菜を食べる
③焼き魚のときは酢をたっぷりかける 

 これで大さじ1~2杯=30g以上の酢をとっていると思う。毎食のおかずは変化するし、外食もあるから酢の摂取は変動するが、酢を使うと食材の味がまろやかになり、確実に塩分が抑えられる。加えて体調を整え健康が増進される。
 皆さんにも酢をお勧めしたい。

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