風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

16歳の日記より(5)図書館

2021年03月01日 | 「新エッセイ集2021」

 

自転車を道端に停めて石段を数段のぼる。
背中から射してくる冬の日差しが、石段の垂直部分を照らしている。そこにこびりついた枯れた苔を、撫でるように僕の影が動いていく。自分の影を見ることなんてめったにないことだ。その影の速さに合わせて動悸が早くなっていく。
登りきったところに、民家を改造したような小さな市立の図書館がある。建て付けのあまりよくないガラス戸を開けると、おがくずストーブの焦げた臭いと熱気が充満している。完全に燃えきっていない木くずの煙が、目や鼻腔の粘膜の弱い部分を刺激してくる。鼻みずをすすりながら熱気と興奮で、次第に顔ばかりが熱くなってくる。
僕にとって、この小さな図書館は、日常生活以外の未知の外界とつながっている唯一の場所であり、同時に自分自身の内界への入口でもあるかもしれない。
借りていた本を受付のおばさんに返却し、本棚にならんだ色んな本の背表紙を目で追っていく。
僕は高校生になるまで「少年クラブ」以外の本など読んだことがない。文学の知識や興味などまったくなかった。せいぜい山川惣治や馬場のぼるの世界に居た。それが福永武彦の本を読んでから、純文学というものがあることを知った。そのような本をさがす喜びを知った。いまはまだ、タイトルから受ける直感で本を選んでいるけれど。
ここでは知らない本との初対面の緊張感がある。ページを繰る手のひらは汗ばみ、指先は興奮で微かに震えている。焦げたおがくずの臭いが本のページからも湧き上がってくるようで、活字の奥にある世界との不思議な一体感に包まれる。
図書館の本は、ケースが汚れていたり角も潰れていたりする。そのことも心地がいいと感じるようになった。本当のものや真実のものというのは、汚れていたり壊れかけていたりするものなのかもしれない。いまの僕も汚れているのかもしれない。壊れているのかもしれない。
きょうは昭和文学全集の堀辰雄集と志賀直哉集を借りた。どちらもはじめて読む。もっと汚れたものや壊れたものと出会いたい。体じゅうが熱くなって図書館の外に出る。