風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

赤い実をたべた

2021年02月01日 | 「新エッセイ集2021」

 

いつも散歩をする近くの自然公園に、赤い実がたわわに生っているところがあり、そばを通るたびに気になっている。
小豆粒くらいの大きさで、枝には小さな棘がある。名前はわからない。だいぶ以前にブログのコメントで教えてもらったことがあるが、忘れてしまった。
よく熟した赤い色で美味しそうだが、食べられるかどうかは分からない。

子どもの頃、山に入って採って食べた赤い実は、ほのかな酸味があった。あれも何という木の実だったのか、名前は知らない。
食べられるものはなんでも食べた。その習性で、赤い実を見ると食べられそうな気がしてしまう。
今でも舌に残っているそれらの味覚は、山の味であり、ふたたび味わうことのできない懐かしい味だ。だがもしかしたら、記憶の中だけで美味しさが残っているだけで、いま口にしたら不味くて食べられないものかもしれない。

   赤い鳥 小鳥
   なぜなぜ 赤い
   赤い実を 食べた

これは北原白秋が作った童謡だったと思うが、赤い実を食べて赤くなった鳥はなんという鳥だったのだろうか。赤い色をした鳥など、身近なところではあまり見かけない。
北原白秋の赤い鳥の歌が気になったので、ちょこっとウィキペディアをのぞいてみた。
赤い鳥といえば、かつて赤い鳥運動というのがあり、児童文学者の鈴木三重吉が『赤い鳥』という雑誌を創刊し、小川未明や坪田譲治などの文学者が、童話や童謡を発表したひとつの文学潮流があったという。
創刊には北原白秋や芥川龍之介などの賛同もあり、児童文学の芸術的評価を高めたといわれている、と。
そんなところから、赤い鳥の言葉やイメージが広がったのかもしれない。

赤い鳥は赤い実を食べ、白い鳥は白い実を食べ、青い鳥は青い実を食べたと、ただそれだけの歌詞だ。赤い木の実の名前はすぐに忘れても、赤い鳥の歌は単純だから忘れない。
かつて山を駆けまわり、赤い実を啄ばんでいた腕白たちの背中には、小さな赤い翼がくっついていたかもしれない。
そんな赤い鳥が飛びまわる空や山は、今よりもずっと近いところにあったが、おいしい食べ物は乏しくて、赤い実だけが豊かにあったのだ。その赤い実をいっぱい食べたけど、だれも赤い鳥にはならなかった。

 



雑誌『赤い鳥』創刊号表紙
(Wikipediaより)