風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

名もない花よりも

2019年06月01日 | 「新エッセイ集2019」
近くの公園で、黄色い花が咲き誇っている。
以前は名前があったが、いまはない。
といっても、それはぼくだけの認識にすぎないのだが。

その花には名札があった。そして名前があった。たしか、ギリシャ神話の女神のような名前だった。誰かのいたずらで、いつのまにか名札がなくなってしまった。
あまりに長い名前だったので、ぼくは覚えることができなかった。だから、名札がなくなると同時に、名前もなくなってしまったのだった。
もちろん、花は名前があろうがなかろうが関係なく咲いている。ぼくだけが名前を亡失して、ぼくのなかで、その花の存在をあやふやにしているにすぎない。

名前といえば、ぼくにはネットで使う名前がある。
日常生活では通用しない名前だが、ネットでは、その名前がないとぼくは存在しないことになる。
いや、名前があるだけでは駄目なのだ。なんらかの言葉を発信しないかぎり、誰も立ち止まってはくれない。言葉を発したときにだけ、ぼくの名前は存在し、それに付随して、たぶん、ぼくも存在していることになる。

言葉というものが、どれだけのことを伝えることができるものか、ぼくにはよく分からない。だけどネットでは、言葉以外にコミュニケートする手段がないと思い込んでいる。
もちろんイラストや写真、スタンプでも伝達はできる。言葉の不十分な部分を視覚的に補うことはできるだろう。だがそれは、単なる情報になりがちだ。私的な意思や感情を伝えるのはかなり難しい。言葉の直接性には及ばない。

ぼくの場合、詩と散文で言葉を発信してきた。
かつては詩のほうが多かった。だが最近は、ほとんど散文での表現になっている。
詩と散文、このふたつにどんな違いがあるのか、ずっと考えている。考えているばかりで、まだはっきりとは分からない。
旅の記録を書いても詩になってしまう時期もあった。いまは詩を書きたいと思っても、散文になってしまう。

詩モードと散文モードというものがあって、その切替えのスイッチが、うまく作動できていないのかもしれない。
詩も散文も言葉を介在する。しかし、言葉を超えたところに詩は存在し、言葉に留めたところに散文は存在する。そんな気がしている。
名もない花を、名もないままに見る。咲いているものを咲いているままに見る。花のこころを受けて、情感のスイッチが切り替わるとき、そこからどんな言葉を拾いだしたらいいのか迷う。

ぼくの名前は花よりも軽い。黙って咲いていることはできない。
ひたすら名前を発信し、言葉を発信しなければ、ぼくの存在はどこにもない。ネットは夜の闇のようなものだ。蛍のように、光を放ったときだけ存在する。
ただ咲いている、名もない花に及ばない。 


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