風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

つぶやきの梅雨

2018年06月09日 | 「日記2018」

 

けさ
ホトトギスの声を聞いた
テッペン カケタカ

そうか カケタカ
その空の欠けたところから
もうすぐ雨粒がこぼれてくるんだろうな


きょう6月の
雨がいっぱい降った

きっと地球が
いっぱい汚れていたんだろうな

 

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6月の風

2018年06月05日 | 「新エッセイ集2018」

 

いまは6月の風が吹いている。
空がどんなに晴れ渡っていても、風はすこし湿っている。

そんな6月。
空には太陽があった。
雲があった。
そして月があり、星があった。
ときには羽をひろげた鳥や虫たちが、空に溶け込むように飛翔していた。
ぼくは中学生だった。

あるとき、雲の存在が急に近くなった。
毎日きまった時間に空を見上げ、雲の様子をじっと見つめた。
雲の形と色を、灰色のクレパスでノートに写した。
写してみると、それは雲ではなかった。
雲は手に取ることも確かめることもできない。正確に写しとったつもりでも、ノートの雲はまるで別物だった。とても雲には見えなかった。
刻々と姿を変えていく雲に、ぼくは追いつくことができない。目には見えないものが雲を動かしているのだった。
ものの本当の姿を捉えようとすることは、とても難しいことだと知った。

その頃のぼくは、特定の女の子を好きになることがあった。
ときどき頭の芯や胸の奥が熱くなって、とりとめもなく膨らんでくるものを、吐き出したり吸い込んだりする。それは忙しげな呼吸のようなものだった。
音にも言葉にもならない、自分でも捉えがたい想いが動いているのだった。そんな曖昧な心の衝動を表すことや、それを相手に伝えることなど、ぼくにはまだできなかった。

なにかが、ぼくの体の中を渦巻き吹き抜けていく。それは甘い薫りをはこんでくる、初夏の風みたいなものだったかもしれない。
そんな時はハーモニカを吹いた。
ハーモニカは、吐く息と吸う息の呼吸が音になる楽器だ。
呼吸は、まだ言葉にならない胸の中の想いのようなものだった。ハーモニカに息の風を吹き込んでいると、いつしかもっと大きな風につつまれている。呼吸と風が一体になって、みえない想いが音になって広がっていくのだった。

そのとき体の中を、快い風が吹き抜けていく。
その風がどこから吹いてくるのかわからなかったけれど、風もまた呼吸をしているようだった。どこかで甘い果実を齧ってきた、風の息だった。
6月は、さまざまな樹木にさまざまな実が熟していく季節でもあったのだ。
いくつものため息のあとに、大きく息を吸う。
この6月の朝の、風がふたたび果実のように甘くなった。

 

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クモの糸

2018年06月01日 | 「新エッセイ集2018」

 

ネット上では、言葉(文字)なしでは何も始まらない。
ブログに文章を書き、投稿サイトに短文を発表したりしているぼくの生活は、かなりの部分をネット上の言葉(フォント)に依存していることになる。
そこでは、こちらの意向はもちろん言葉で伝えるわけだが、相手や、その他不特定の人たちの思考や気持(最近では写真でも)も、言葉だけで推量しなければならない。相手の言葉の過剰だと思われる部分はすこし引いてみたり、解かりにくい部分は自分なりに解釈しながら、できるだけ真実と思われる部分を受取るようにしている。

それがメールの交換であっても、サイト上のコメントのやりとりであっても、いくどか言葉を交流するうちに、たとえ言葉だけであっても、相手の心の核心に触れたとおもえる瞬間はあるもので、そのようなことを繰り返すうちに、相手との繋がりも深くなっていくように感じる。
それは友だちのような、あるいは友だちに近い快い接触であり、そのような状態は、あるていど信頼関係が保たれているということではないだろうか。

会ったことがなくても、声を聞いたことがなくても、送られてくる言葉(文字)だけでも、人と人は十分に心の交流は可能だと思われる。
と同時に、言霊ともいわれる言葉には、魂が宿ったり宿らなかったりもするから、自分では気付かずに相手を傷つけていたり、また相手のそっけない言葉に気持が沈んでしまうこともある。ときには炎上などということもあるのは、言葉だけの交流の難しさだろうか。
でも、こういったことは電波上だけのことではなく、家庭や職場での日常生活でもしばしば起こることではある。

ところで、ネットというのは網のことだが、World Wide WebのWebは蜘蛛の巣のことらしい。いまやケータイやパソコンを使うことが日常化しているわれわれの生活は、世界中に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣の中を、右往左往しているようなものかもしれない。
ネット上では、地球の裏側の知らない人とも、この蜘蛛の糸で繋がっている。モニター相手でバーチャルの海を泳いでいるような心細さも、世界のどこかに繋がっている糸があると思うだけで心強くなれたりもして、ある種の連帯感を味わうことができる。

いわゆるSNSといわれるものでは、友だちの輪のようなものがいくつもできていて、さらに輪と輪が繋がったりもして、今までなかったような、ネット上の親密な交流が活発に行われているという。
各自が自分の日記や身辺雑記、写真などを公開し、お互いに頻繁にコメントし合って、励ましたり慰めたりしながら親密度を深めていく。日常生活のプライベートな部分で触れ合っていくわけだから、お互いに許し合った濃密な関係が生まれてくるものなのかもしれない。

網の目のように様々な言葉が行き交って、温かい言葉などにも浸れれば、サンルームのように居心地がいい場所にもなるだろう。なかには、一日中入りびたりというネット人もいるらしいから、SNSというものには、それだけ人を魅了するものがあるのだろう。
細くて切れやすい蜘蛛の糸だが、一方では太くて丈夫な糸にもなり、ときには血の通った糸にもなるようだ。
電波で張り巡らされた蜘蛛の糸を手繰りながら、ぼくは拙いブログでちまちまと発信を続けているが、ぼくの糸は、まだまだ細くて切れやすい蜘蛛の糸である。

 

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